2010年12月10日 17:32 江弘毅「新・街場の大阪論」
北摂や阪神間に住む「大阪人」の「大阪人」意識の何でそうなるかについて、以前書いたもの。
昨日アップしたコラムの補足ということで、さらに2本アップします。
地元意識が移住した「大阪人」
7月26日付
親の代、祖父の代まで大阪に住んでいたが、西宮や芦屋、東灘区といった阪神間で生まれてそこに住んでいる。そういう30、40代が回りに多い。
彼らは甲子園や摂津本山に実家があったりするが、結婚をしてそこを出て、たとえば六甲アイランドとかの同じ阪神間に夫婦、あるいは一人または二人の子どもと住んでいたりする。彼らに共通する意識は、「大阪人」でありかつ「阪神間の住民」といった、なかなか複雑なものがある。
そんなのは大正時代や昭和一ケタ頃からの大阪の旦那衆のパターンと同じじゃないか、今さら...、というふうにも取られがちだが、別に彼らは昔でいうところの船場商人のぼんぼんとかではないし、大阪といっても工場や商店が建ち並ぶ下町や堺や八尾などの府下がルーツであることも多い。
彼らの勤務地や仕事場はほとんど大阪市内、それも御堂筋線や堺筋線、四つ橋線の梅田から難波の間であり、会社帰りに立ち寄るエリアもキタやミナミが馴染みで、あるいは淀屋橋や江戸堀あたりのシブい酒場にやたら詳しかったりする。
休日と深夜以外は大阪にいる。それならいっそのこと、このところ増えてきた北区や西区のタワーマンションあたりにどうして住まないのか、などと思うのだが全くそういう気がないらしい。家賃や購入物件が高い、ということもあるのだが、それはまったく違うとのことだ。
大阪は大都市である。その都会の街中では、仕事以外はあくまでも匿名で自分の存在の軽さを楽しみながら過ごすことが可能である。グルメガイドを見ながらあっちこっちと食べ歩いたり、流行軸に乗ってあの店この店とショッピングしたりが自由自在だ。
しかしながら、彼らは違っていて、食事するにも服を買うにも行きつけの馴染みの店に通っている。むしろ都会の中では実名的な存在で、どんどんその街で知り合いを増やして街のコミュニティの一員として入っていくような感すらある。
これは逆ではないかと思うのだが、大阪市内では自分という「顔」に軸足を置いた地縁的な存在で、実際住んでいる阪神間では匿名的なのである。どちらに地元意識があるのか、というともちろん前者で、だから自分は「大阪人」なのだと思っているのだ。
よく言われることだが、大阪の街や店は京都と違って、一見さんでも馴染みのように扱ってくれる。カウンターに座れば、どこから来たのだと尋ねられたり、今日のうまいものを店主が薦めてくれたりするのが大阪だ。そういう「大阪人」が店側にいて、客側も実際に馴染みになり地元意識が生まれる。店も客もそんな「大阪人」であり、聞けばお互いに「阪神間の住民」であったりする。だから大阪という街場は面白い。
知り合いばかりでみんないい人おもろいヤツ
8月2日付
前週も書いた、街場の「大阪人」たちの地元感覚について。
それは現代の大都会的感覚の匿名的で軽やかな存在ではなくて、むしろ「顔と顔」に担保された実名的なコミュニティ性をよしとするということであったが、その根底には「知り合いばかりで、みんな良い人おもろいヤツ」の関係性をどんどん広げていこうという、大阪人特有の理想のコミュニティ観がある。
しかし実際は、仕事はもちろん遊びでも必ずそうは言ってられないのが現実で、逆に「知り合いばかりでみんなイヤな人」という可能性もあって、そうなればもうその街から逃げ出すか、ひきこもるしかない。
吉本新喜劇を観ていて、なるほどうまいなと思うのは、前者と後者の場面がまるでスイッチを切り替えるがごとく入れ替わることだ。まあそれらは笑ったり泣いたりの芝居の世界での極端な物語ではあるが、勝ち逃げや一人勝ち総取りが賞賛されるような時代、そしてコンビニやファーストフードのように、人が顔を合わさなくても回るシステムが敷衍されるなかでは、「知り合いばかりで、みんな良い人おもろいヤツ」の実現はおろか、「知り合い」を増やしていくことについてもなかなか困難なことである。
京都の花街でよく言及される「一見さんお断り」社会は、「知り合いばかりで、みんな良い人限定」でやっていく関係性だが、実は完全に閉じてはいない(でないと店は潰れてしまう)。
しかしそこには、誰かに連れてられてあるいは紹介があってその店に行くという第一歩、すなわち始めからその店と「知り合い」になるという前提がある。
しかしそのような人づきあいの関係性の濃密さが、時には鬱陶しい。
そういうことを街場の大阪人は知り抜いている節があるのではないか。
うどん屋とか食堂、立ち飲み屋や串カツ屋といった街場の気軽な店は、もちろん「一見お断り」ではない。けれども「馴染み」感覚というのはどこでもあって、店でのやり取りを見ていると、ああこの人は毎日のように来ている客だとか、多分近所の人だとか、いろんなことが垣間見える。
こちらもその店に長く通っていて、顔を知ってる仲であるのだが、いわば「いつまでも一見の延長線上にある」ような関係なので、それ以上のことまでには発展しない。
「一見でも馴染み客のように扱ってくれる」というのが大阪の店の良さだということの裏腹には、こういった都会人としての大阪流コミュニケーションの熟練があるのではないか。
「入りやすく出やすい店」だが、それでも「馴染み感覚」がある。
その微妙なコミュニケーション作法が、「知り合いばかりで、みんな良い人おもろいヤツ」の理想の上で、「知り合い」をどんどん増やしていく。それが大阪の商売繁昌というものの本質なのだろう。
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