特別編 取材方法は「飲む」と「食う」で、二十八年。
俺が東山七条のお好み焼き屋「吉野」に通い始めたのは中学生の頃だ。ミーツ・リージョナルだったか前身のシティマニュアルという雑誌だったかに「吉野」を紹介したのは二十数年前だった。取材か何だかわからない感じでカメラマンのハリー中西とスジ焼を食いビールを飲み写真を撮っていた。吉野のお母さんは「イノウエくん、恥ずかしいやんかそんなん、もうええさかい早よ食べなー」と言っていた。
多分「吉野」が撮影されたのは初めてだったと思う。俺はその当時、自分でも街の情報誌を作っていたけれど、店のことを書くのではなく街で起こっている変なことや変な人ばかりを書いていた情報誌だった。店のことは本誌ではほとんど書かなかった。そのかわり店は行きたおしていた。
塩小路のタカバシの第一旭に初めて行ったのは18か19の時。木屋町の京都観光ビルの中にあった「シャナナ」という日米新旧のロックンロールとおでんとカラオケがなぜかあったバーのようなスナックのような店のマスターの憲さんに夜明けに連れて行ってもらった。食べた瞬間、心から感動したのを今もハッキリと憶えている。それから鬼のように通い続けている。今では俺が行くと厨房から「おっ!バッキーまいど!」と声がかかりバラネギの特製が何も言わないでも出てくる。
そのタカバシの向かいのマンボ焼の「山本」を日本で初めて取材したのはミーツ・リージョナルの「関西風味」という別冊だった。例によってハリー中西と行くとご主人が「わしとこ写真とってどないすんねん」と俺にぼやいていた。「あんなおやっさん、俺がいつも食うてるもんを写真撮らしてもうて、うまいいうて書かせてもらいますねん」と言いながらいつものように食っていた。
千本の焼肉「江畑」も二十年ほど前に俺とハリーのコンビで取材しながら食うて飲みまくった。親父さんが「おーかまへんかまへんなんぼでも食いや、酒もいつものように飲んだらええ」と言ってくれてフラフラになるまで飲んでいた。で、帰り道にどこかのバーに寄って「ハリーはええのー、あとは現像やろー、俺は損や。2、3日したらまた原稿書かなあかん、昼に書かれへんし夜一回損するんや」と俺はいつも嘆いていた。
俺には街の店こそが世界だった
ハリーとは二十歳前の頃、同じバーでよく顔を合わせた。そのうちに話すようになりツイストを踊るようになりそれからの付き合いだ。ふたりで気が遠くなるほど恐ろしいくらい飲んだ。また様々なところで飲んできた。京都下町大阪下町神戸港町。ほとんど観光客や日本人などいないニューヨークのナイトクラブ巡り、毛沢東の使っていた別荘、パリのレストランやナイトクラブ、ハワイ島のトライアスロン・ワールドチャンピオンシップ、サンフランシスコの漁港のバー、道頓堀の「バーウイスキー」ではマスターの小野寺さんから俺ら二人の仕事の気配が素晴らしいとまるで忍術使いのように褒めてもらったこともある。神戸の「バー・ローハイド」でもマスターの山本さんに「二人は仕事早いねー早く飲みたいからやなー、アッハッハー」と星を付けてもらった。
先代のマスターの頃の寺町「サンボア」を取材する時、ここだけは正体を知られたくなかったのでハリーが写真だけを撮って俺はいつも外で待っていた。店の話を聞かない変な取材の仕方やなといつも思われていただろう。まあたぶん俺のことや外にいて入ってこない理由など全部わかってはったと思う。先代のマスターからしたら小僧まるだし丸裸なんやから。
そんな風にして俺は飲んで食うてのたうち回りながら取材はしてきた。しかしそれは取材だったのか。仕事だったのか。俺の場合はそのどちらでもなかった。俺は街の店こそが世界だった。今もそうだ。街の店がなくなったら俺には世界がない。
2009年05月18日 15:57
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