第1回 色即是喰

photo 「喰う」という言葉が好きです。
 もう、好きすぎて【ku:】という発音記号で表されるオンが入った言葉はみんな頭のなかで【喰】の字に変換されてしてまう。「喰うポン券」とか「喰う也上人」とか「喰う龍城」とか。

 なんで好きかといわれたら、そらもう喰うことが好きやからですわ。捻りがのうてすんません。
あんね、喰ういう字は【食】に【口】がくっついてるでしょ。食べるゆうたら口からに決まってんのに、なんで余分が必要なのか? ゆうたら、ようするに、がっついてるわけやないですかね? それしかないでしょう。まあ、世の中には二口女たらいう妖怪もいてるらしいけど、けっこう珍しいもんちゃいますか。儂(わし)は見たことないもん。

 やっぱりこの【喰】への愛着は「がっつく」感じに親しみが湧くからやと思います。人間らしい欲求の発露がかいらしいゆうか。いじましいて、いじらしい。子供のころ食事のたんび母親に〝食べさせん子ぉみたいや〟と叱られてましたけど、きっと一生、食べさせん子のままな気がします。
 ゆうても儂は何でもカンでも搔っ込め!搔っ込め! と主張したいわけではありません。ましてや腹がふくれれば、それでいいと考えてるのでも。「がつがつ」とか「がっつり」と「がっつく」は儂のなかでは似て非なるもんです。

 たとえば儂、ちまちました小賢しい料理出すような店は堪忍してほしいけど、普通に割烹とかフレンチとかも行きますもん。ほんで、そういうとこでは味覚そのものをゆっくり楽しみたいし、器も盛り付けも香りも余さず満喫したい。微妙なテクスチュアを口内から喉の奥まで使って堪能したい。食の快楽にとことん貪欲になって罪悪感すら覚えたい! それが食べさせん子の本懐でしょう。
 しかし、そういった場にもがっつく悦びはしっかりあります。また、料理人も、その愉悦をちゃんと知ってて、どっかにそれを潜ませていたりする。というか、そういう作り手が儂は好き。
 遠火でしっかり火を通した鮎を頭からかぶりついたり、殻に残った蟹の身をせせこましくせせったり、田螺をちまちまちまちまほじくり返したりしているとき、ああ、いま儂はがっついてるなあ……と情熱の砂嵐めいた恍惚に胸が熱くなります。

 鴨のロースト、仔羊のアントルコート、骨の周りの残った肉を手掴みでしがっているとき。フィンガーボウルで濯(ゆす)ぐ前に親指から小指まで順番についた脂を舐めていゆくとき。皿に残ったソースを猫が舐めたようにパンできれいに拭いさるとき。ミシュランの星がついてるような店でも、そういう恍惚は存外とあるもんなんやけど、なんや妙に畏(かしこ)まってしまう人が多いのはなんでなんでしょうね。
 はっきり言うて、ジローが握らはった寿司を箸で食べるより、摘んで喰うスシローの寿司のが儂は美味いと思ったりします。それくらい、がっつきファクターは料理の旨みを増してくれる。五感で味わうゆう表現があるけど、これはそれを越えたとこを刺激する佚楽(いつらく)やないかなー。

 もちろん普段の食生活においても食べるんやのうて喰うシチュエーションはいくらでもあります。儂はときたま家ごはんのときでも、おむすびを結ぶことがありますけど、それなんかも「がっつく」がしたいから。少人数でも予め取り分けてあるより大皿から銘々に移していただくのんが好きなんも同じ理由。パスタなんかも必ずそう。
がっつき食の代表にピザがありますけど、こないだ窯焼きのピッツァリアで、喰う悦びと性的オーガズムへ至るプロセスの類似について儂はつらつら検証しておりました。あれやね。似てるどころやないね。同じもんやね。『恋人たちの予感』とか『トム・ジョーンズの華麗な冒険』とか昔から食事シーンはセックスのメタファーに使われてきたのも当たり前。

 色即是喰。喰即是色。――とは、このこと。さすがお釈迦さん、よう解ったはる。
 尤もこの場合の【色】とは、色事、色気の【色】やのうて、この世に存在する形あるものすべてを表した概念。つまり、全宇宙一切合切の本質は即ち【喰】やと。ならば【喰】は万物の姿そのものや。と、そんなようなことを説いたはるわけやね。なんや根本的に、儂、間違えてる気もするけど、まあよろし。

 そんなわけで、こんな感じでいきますけど、これからこの食べさせん子のコラムを、どうぞよろしゅう。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。