第4回「喰うに困る」

photo 「手に職をつけよし」と子どもの頃から言われてました。「見た目もようないし、肥えてるし、成績も悪いし、友達もいてへん。性格もひねくれてる。あんたみたいな子は水商売も無理やさかい、将来、喰うに困らんように手に職をつけるしかあらへん!」と聞かされ聞かされ育ったのが儂(わし)です。
 こういうことを書くと、ヒドイご両親ね! かわいそう! みたいな反応が返ってきて戸惑います。自分的には親の愛情そのものは実感していたので傷つくことはなかったんですよ。
 ちなみにガッコでは真剣にイジメられてて、そっちは普通にキツかったです。やっぱり背景にこちらへの好意があるかないかでダメージは異なりますね。まあ、儂の親のバーバル・アブユースも褒められたこっちゃないんですが。彼らの愛情が歪んでいなかったのはラッキーでした。

 ともあれ儂はわりと素直に「手に職をつけよし」を有り難きご指導ご鞭撻として受け取ってました。自分でも、まあ、そうやろなと考えてましたし。教科書的に正しくは「手に職をつけよし」に至る原因であるところの「肥えてる」とか「成績が悪い」とかを改善することではありましょう。そやけど、前向きに頑張ったところで、そいつが【無駄な努力】にならないという保証はどこにもない。
 相手に愛情や責任がある人間はリスクを回避する方法に活路を見出すもんです。「アホはアホなりに」つまりは「身の丈に合うた」ほどほどの幸せに満足すべき、みたいなメンタリティを京都人は持っています。それゆえに、すでに存在してしまっている欠点の克服に時間を浪費するより、ゼロから技能を磨いてゆくことを推奨されるんです。マイナスからよりはリスクが少ないでしょ?

 さて、ほどほどの幸せに至るポイントは、前述したように喰うに困らないことです。喰うに困らなければ、あとは他人様の迷惑にならんようにさえ生きてゆけば充分に幸福を感じることができる(そして、その最上の――ローリスクの――方法論が手の職である)。大事な京都的哲学のひとつです。
 儂が人に輪をかけて喰いしん坊なのは、たぶんこの哲学が染みついているからでしょう。ともかく喰うに困んのがめっちゃ怖い。おそらく趣味である保存食作りの根源にあるのは、この喰うに困る恐怖症ではないかと自己分析してます。
 ちなみに儂にとって喰うに困っていない状態というのは、それこそ、そこそこのスタンダードを意味します。餓死せえへんかったらええちゅうのとは違うんです。年中あるようなもんだけで腹をふくらませるのは厭。女房を質に入れて初鰹が食べたいなんてちーとも思いませんけど魚でも野菜でも季節のもんを季節のうちに忘れんように戴きたい。

 小池さんみたいにインスタントラーメンが食べたくて食べるならいいけど、ラーメン屋に行けなくて代償として即席麺を啜るのは駄目。なぜなら、それは喰うに困っている情けないシチュエーションやからです。なんとかせにゃならん。

 お茶漬けなんかでも、そうですね。毎日が永谷園では淋しい。どぼ漬け(京都語で糠漬けのこと)は自分で仕込めば安上がりだし、料理する時間に不自由しても床に突っ込んでおけば勝手に育ってくれるのが有り難い。出汁をとったあとの昆布を四角うに切って、これまた出汁をとったあとの鰹節やお雑魚と一緒に冷凍庫のタッパーに貯めてゆき、いっぱいになったらお醤油と味醂で炊いて佃煮にしてました。
 あとは梅干、香こう、そして余裕があれば京都は『鳴海屋』の「ぶぶあられ」と『田中長』の奈良漬。こういうのんをお手塩皿や豆皿にちまちま載せ、おままごとみたいにしてかっこむお茶漬けは、喰うに困っていたときの救済食やった。鮭とかタラコとか高級食材はいらんのです。

 あ、でも、お茶はお煎茶でチンチロリンが好きなので、『柳桜園』さんの熱湯玉露の「並」をもっぱら愛用してました。夏場は三煎目の急須に水を満たして冷蔵庫で一晩じんわり抽出させたやつを、さっと洗った残り飯にぶっかける冷やし茶漬けもイケます。ちょっと生姜搾った胡瓜のどぼ漬けがよう合います。
 あ、過去形で書いたけど、もちろん、いまもしょっちゅう茶漬けはやってますよ。ぜんぜん飽きない。ナンボ食べても飽きない。きっと死ぬまで飽きない。たぶん根が貧乏性で、おまけに余程やない限り「喰うに困った!」と切羽詰れない暢気な性格なんやろね。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。