第9回「毒を喰らわば皿まで」

photo 京都で生まれ育ってロンドンに住んでますもんで、書く本はやっぱり京都とロンドンの本が多いです。成り立ちも性質もぜんぜん違う二都ですが、書くスタンスはおんなじですわ。ええこともわるいことも、綺麗なもんも汚いもんも、明るい場所も暗い場所も等しい視線で眺めて書く。それが儂(わし)の立ち位置です。
 光あれば陰ありの喩えやおへんけど、どっちかだけなんてあり得へんわけで、また、どっちもないと魅力的とは言い難いんやないでしょうか。これは都市だけやのうて人とかも同じ。裏表のない人間に興味はありません。喰いもんかて同じですわ。アクやクセや苦さが喰いもんの味に深さを与え、甘味や甜味、旨味をより引き立てるわけですから。

 ところがね、そうやって酸いも甘いも、辛いも苦いもしょっぱいも混ぜ混ぜに書いて、どれもが京都ですよ、ロンドンですよ、おもろいでしょ? てやっててもリアクションはまったく異るんですわ。存外、京都のイケズや恐ろしさにはみなさん耐性があるゆうか、一緒になって笑ろてくれはったりするんですけど、これがロンドンになるとすごい拒否反応が返ってくることがしばしば。
 「ワタシの夢を壊さないでッ!」みたいな人が多{お}い多{お}い。なんででしょうね。
 儂がロンドンに馴染んだ理由の最たるもんのひとつに英国人の性格があります。この人ら京都人にそんくりなんやもん。とゆーか、へたしたら今日びの京都人より京都人らしいキャラがようさん住んだはりますえ。皮肉屋で反体制で、言葉と態度と感情がばらんばらんで、もちろんイケズ。超イケズ。

 そういえば京都人と英国人の共通項に無類の駄洒落――Pun――好きというのもありました。関西人は総じて素人でも話が面白いですし、オチをつけたがります。が、彼らの駄洒落は、そういうのんとは、ちょっと意味が異なります。あんね、あの人らは人を笑かそとしてしょーもない駄洒落を連発するわけやないんですよ。話し言葉にリズムをつけるためにやってるんですわ。イギリス英語は、そらそらもー京都人の口語にそっくり。シェイクスピアなんか読んでもパンだらけやしね。
てなこと言うても、沙翁が英国人やゆうだけで英国本のメインストリーム読者は否定したがる。ただの駄洒落やのに深遠なる意味を発見してしもたりする。もー、わけわかりまへんわ。やっぱしロンドンはガイコクやからでしょうかね。ガイジンの日本に対するサムライ幻想とかと似たような美しい誤解がまだ根強くはびこってんにゃと思います。
 また、えらいえらいナントカ先生とかカントカ先生が、そういう美しい誤解を助長するようなことを書き散らさはるさかい、儂みたいな三文もの書きがなんぼリアルを綴ってみても「嘘ばっかし!」となってまうんでっしゃろね。まあ、よろしおすけど。

 そやけど、やっぱりヒトコト言わせてもらいたい。一事が万事で苦い現実から目を背けんようにしなはれや。そやないとほんまに美味しい人生を喰いそびれてまいまっせ。
 儂が必要以上に「綺麗な嘘」を憎むんは胡瓜のせいです。
 子供の頃から胡瓜が大好きで、胡瓜もみ、とりわけ京都人が好むところの「鱧きゅう」(鱧の照り焼きを刻んだんと和えたやつ)には目がありませんでした。ところがいつの間にか、ふと気がつくと昔ほど美味しゅうのうなってるんですよね。これが。なんでやろと考えてみすと、すぐに思い当たりました。胡瓜が〝美味しくなってしもてる〟からなんです。
 以前の曲がりくねってて、握るとトゲトゲが痛うて、生で齧ると舌がちょっと痺れるようなアクがあって、塩で揉んでも顎が疲れそうな歯ごたえ残り、噛むうちに奥から甘みがじんわり顔をだす、強烈に青臭い、あの胡瓜。あれやないとアカンかったんです。

 鱧という素材に真っ向からぶつかって負けへん個性が昔の胡瓜にはありました。ところが嫌われそうな【負】の性質をみーんな取り除いて美味しくしてしもた結果、料理したときに腑抜けみたいになってしまう、すかたんみたいなもんに変わり果ててしもた。これは大衆が「綺麗な嘘」を欲しがった挙句の悲劇やないでしょうか。儂と河童の胡瓜を返せ!

 毒を喰らわば皿までやないですが、都市も人も食も、いたずらに旨さだけを求めるんやのうて内在する毒まで味わいたいもんです。洛中が現代の胡瓜みたいになってしまわんよう儂は京都の本を書いています。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。