第15回「喰い違い/喰い合わせ」

photo 細々としょうもない趣味がいっぱいある儂(わし)ですが、そのひとつに「栓」があります。栓ゆうだけでは、なんのことやらワケわかりまへんよって、ちょっと説明させてもらいますね。
 あんね、骨董ゆうほど大したもんやおへんけど、まあ、古い器や皿小鉢のたぐいが好きですねわ。たいがいは料理を盛るためのもんですけど、たまーに徳利やらデカンタやらフラスコやらに手を出さんこともありません。とくに丹波焼きのもんは、よろしな。たいして酒も呑まんのに、ついつい気に入ると買うてしまいます。ただ水差しにしてるだけでも、なんや醍醐味になるような気がしてええもんでっせ。
 むろん丹波に限らず、現代作家もんもあれば、北欧や旧東欧のガラスもんとかにも好きなんがあります。ヴィクトリア時代の濃い群青色したボトルとかもたまりまへん。とりわけ毒薬の容器やったもんとか、わくわくしてまいます。あと、エンボスで農園や牧場の名前が捺された昔の牛乳瓶とかね。お国柄の違いが愉しいて形もユーモラスでよろしな。
 ほんでね、そういうもんを買ったあと、もうひとつ待ち受けてる〝お愉しみ〟が最初にゆうた「栓」なわけですわ。賢明な読者の諸君なら、もうお解かりでっしゃろ。つまりは開いた口に合うストッパーを見っけてきてはめるんが、めっちゃ面白いんです。
 探して探して、いろいろ集めて、嵌めて試してピタッと誂えたみたいに合わさったときの感動は得もいわれません。これがまた、ピタッとサイズが一致するもんてゆうのが不思議なことに見た目もよう似おてることが多いんですわ。ほんまに。なんていうたらええんんやろ、この感覚。割れ鍋に綴じ蓋的快楽とでも言わせてもらいまひょか。

 このヨロコビを最初に知ったんはブダペストの骨董屋やった。まだ入国すんのに、いちいちビザを申請せなあかん混沌とした時代の話です。町外れの小さな店で儂は塩梅のよさそうなロシア製お醤油{しょゆう}差しに出会たんですわ。
 もちろん、それはお醤油のために作られたもんやのうて、そもそもはオリーブ油をサラダやらにかけ回すためのガラス容器。懐かしいような焦げ茶色で、ひゅっと擡(もた)げたおちょぼな注ぎ口が、いかにもすっきり水切れよさそうで、これは買わななしゃあない! と即決。したんはよかったけど残念ながら栓がなかった。お醤油差しにするんやったら、やっぱりなんか閉めるもんがないと気持ち悪い。
 「こういうものはコルク栓だから劣化しちゃうのよね」と、店員さん。そらそやろねえ。そやけどねえ。うーん。と、グズる儂。しばしの沈黙。「あっ、解決」と声をあげたのは店員さんのほうやった。こちゃこちゃとした小物が盛られたお皿を指先で攪拌したかと思たら彼女はひょいっと陶製の猿を摘みあげはった。小指の先ほどの白い猿は円錐の上に鎮座してて、なにかと問えば中国製の練香壷のストッパーやそうな。
「壷は割れてもて、そやけど、かいらしさかい捨てんのも可哀想で置いてあったんやけど……」
 そう言いながらロシアの醤油差しの口に猿を宛がうと、そらそらもー見事にそいつは収まった。出身も色味も素材も造形も時代も、まったく異なるエンもユカリもないふたつのものが、いかなエニシか遠く祖国を離れた場所で出会い、英国からきた日本人の手に渡り日々の暮らしのなかで慈しまれる。ドラマやわー。『愛と哀しみのボレロ』みたい。これを感動といわずして、なにを感動と呼べばええのやら。
 ロシア、中国、ハンガリー、英国、日本。ばらんばらんに食い違ったもんが渾然一体となった瞬間が忘れられへんにゃろな。栓と口とをためつすがめつしながら儂はいつもあの日のことを思い出します。そやからか無意識に本体とは違うもん違うもんを選びがち。あんまし奇を衒うのもいやらしさかい、そこそこを心がけつつも、どうしても数奇な出会い、怪体なマリアージュを夢見てしまいます。

 しっくりと馴染む喰い違い。それは喰い合せの妙にも似てまんな。喰い合わせの驚き、大事よね。
 思いも寄らん味覚と味覚、食感と食感。香りと香り、温度と温度が結ばれて想像を超えた美味が舌のうえで誕生する感激。これは喰いしん坊にとって堪らん一瞬です。蜂蜜と胡瓜を一緒に喰たらメロンの味になるとか、そういうギミックのことやおまへんで。いや、それはそれでおもろいさかい、まあ、ええか(笑)。実際、儂のする栓は蜂蜜胡瓜っぽいコンビネーションがようけあるしな。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。