第24回「河豚は喰いたし命は惜しし」

photo あんなあ、へえ、儂(わし)はスモーカーです。ここ数年は寄る年波か一ダースほどに減りましたが、最盛期には優に一日二箱は烟にしておりました。
 煙草を吸う理由はそれぞれでしょうが、儂の場合は「好き」だから以上でも以下でもありません。単純に「美味しい」んです。とりわけ脂こいご馳走をいただいたあとの一服はたまらん旨さを感じます。あと、コーヒーね。ローストの深い豊潤な一杯とともに味わう煙草はうっとりするくらいウマイなーと思います。
 そやからゆうわけやないけど、いつでもどこでも吸いとなるし吸いとなったらたまらん! みたいなことはあらしません。ただ臍曲がりやさかい喫煙禁止の場所に行くと吸いとうてしゃあない(笑)。飛行機のなかとか困ります。帰国便とか十二時間ノンストップやもん。
 それとね、以前は文章を書いている時は常に煙草を人差し指と中指の股に挟んでました。ただ、あれは仕事中の〝おまじない〟ゆうか儀式[リチュアル]感覚。ほとんどお線香みたいに灯してるだけ。気がついたら吸いかけ煙草持った手で咥えた煙草に火ぃつけたりしてた。
 そんな儂が。体が悪なって煙草吸えんようなったら、そのときは潔う死ぬわ、なんて嘯いてた儂が。いま煙草を吸うてません。はい。そうです。件の病気のせいです。

 煙草と健康の因果関係は、いまだにはっきりせんことも多い。肺癌になる確率が高いと統計を信じるなら、喫煙者はアルツハイマーになる確率が低いという統計も信じなアカンことになる。そもそも無理に禁煙なんぞしようもんなら、そのせいで精神的にかかるストレスの負荷のほうがなんぼか怖い。なんちて。
 けどやねえ、これは吸いながらいつも実感してたことやけど、パルナスがお口の中に染みとーるよーに、ヤニって体に染みとーりますよね。汗かくと自分でも煙草臭うてヤんなるくらい。とはいえ清潔にさえしていれば人様の迷惑になるほど臭うわけやなし、かめへん、かめへん、と意に介さずにおりました。が、こんどばかりは直接的に害がありそでねえ……。
 なにしろ儂の股間にぶら下がってる玉袋は皮膚移植で新しゅうに作ってもろたばっかり。皮を剥いだあとの腿の傷もまだエゾくろしい【ドドメ色】ですわ。ここらにニコチンやタールがじゅわーっと染(しゅ)んでったらと想像すると、ほんなもん怖ぉーて怖ぉーて、とても煙草吸う気になんかなりまへんわ。
 いま4ヶ月ですけど、さいぜん書いたみたいにニコ中ではなかったんでとりわけ煙草が恋しくはなりません。ただ、この嗜好品はちょっとしたリズムを生活に与えてくれてました。例えば台所で料理の準備が全部済んで、洗いもんも終わってて、そやけどご飯が炊きあがるまでに、あと5分、みたいなシチュエーションに置かれたとき「ああ、こんなときに煙草が吸えたら!」とは思います。いわば〝間〟ァを埋める存在やったんやね。

photo 友人たちは「禁煙できてよかったやん」と喜んでくれますが、こういう臍曲がりには間違うてもそんなことを言うたらあきません。「儂はやめてへんよ。ただ、いま吸うてへんだけ。もしかしたら、もう一生吸わへんかもしれんけど、それでも儂は喫煙者やで」などとほざいております。困ったやっちゃ。
 それでも「一生吸わへんかも」なんちゅう台詞が儂の口から飛び出すのには、もういっこ理由があります。それはね、食べ物の味が変わったこと。
 リハビリというては散歩するくらいしかないんですけど、ちょっと歩けるようになってからは、ほとんど決まって毎日みたいに『Vagabond』ちゅう珈琲屋に通ってます。もちろん病気前から好きでよう行ってたカフェなんやけど退院後最初にありつけたときの感動ゆうたらなかった。まさに五臓六腑に染み渡りました。ただ日参してるうちに、どうやら生還できた悦びが旨さを増しているだけではないと気づきました。どうやら染みてたヤニが抜けて味蕾が敏感になったみたい。
 と、そこで喰いしん坊は考えてしもたんですね。この舌の状態で、大好きなあの割烹の料理や、あの老舗の和菓子を食べたらどない感じるんやろ……てね。いわば好奇心ですわ。そやし少なくとも次回日本に帰るまでは煙草を吸わいでおこうと計画しておるのです。はい。

 儂はね、単純に煙草やめたら食べもんが美味しなった、とは申しません。そやけど、変わったのは事実。「河豚は喰いたし命は惜しし」とはようゆうたもんで、なにごともお愉しみにはリスクがついてきます。煙草を吸ってたからこそ味わえた愉悦も絶対にあったはずなんです。このカフェの珈琲にしても、いつか現役スモーカー時代の味が懐かしくなる日がくるやも知れません。そしたら儂はまた躊躇なく喫煙復帰するつもり。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。