第37回「面喰う」

 がぶり。と、喰らいつき、その齧り口を見て儂(わし)ゃ面喰らいました。「シソーノーロー?」。そう。歯茎から血が出ているのだと思ったんです。そやけど違いました。その林檎は果肉が赤かったんです。

 Red Devil ゆうのやと八百屋のあんちゃんは教えてくれはりました。八百屋ゆうても、ちゃんとした店やのうてKings Cross駅前に立つようになった屋台市場のなかの一軒。ロンドン近郊のオーガニック形式でやったはる農家からの出店でおました。ちょこちょこ買いもんしたあと、ルビーのように鮮やかな緋色に目を惹かれて眺めていたら「美味しいさかい一個持っていきよし」と手渡されました。「おおきにー」と貰って、電車の中でかぶりついたあと風景が冒頭です。
 そやけど面喰うたんは一瞬のことでした。あまりの美味しさに驚きはあっという間に押し流されてどっかいってもた。脳天に抜けるような爽やかな香気! これぞ林檎といったカリリとした歯ごたえが咀嚼するうちクリーミーに口どけする快楽。酸味と甘みのバランスが絶妙。ほどよくジューシーで、ほどよく小ぶりなサイズ。まさに理想の林檎といった塩梅。しかも値段もめちゃくちゃ高うはなかった。それに加えて果肉を縁取る、なんともキュートなピンク色のグラデーション。
 夢中で食べ終えた儂は、自宅の最寄り駅につくなり反対側のホームに移動しました。そうです。引ッ返したんですわ。林檎を買うために。阿保やなあと自分でも笑けましたが、この想いは親にも止められやしないよ。八百屋のおっちゃんは儂が忘れもんでもしたんかと訝しげでしたが、ただただ林檎買いに戻ってきたんやと知って爆笑してはりました。結局あるだけの赤い悪魔を浚える次第に相成ったわけですが、けっこうおまけしてもろた。まさに「芸は身を介く」ですわ(ちょっと違う)。

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 そやけど、なんでこないに美味しい林檎があんまし市場(しじょう)に出回ってへんのやろ? 儂は疑問でした。日本やったら絶対に人気出るに違いないもん。植林して大ヒットさせて林檎長者になる算段を頭ん中で立てながら訊いたところによると、ああ、なるほどなちゅう理由がちゃーんとございました。世の中、美味い話なんてそうそうおませんちゅうこってすわ。
 まず、この品種は、ものすごく旬が短いんやそうです。近ごろは年中齧れる無季節の林檎がいくらもおます。Red Devil せいぜい一か月。「今日、買うてもろてよかったよ。来月の市には並べられるかどうかわからへんもん」とあんちゃん。それに、強そうな名前の割には虫にも病気にもめっちゃ弱いんやそうです。おまけに収穫量も少けないんやそうで踏んだり蹴ったりや。
 でもね、なによりの問題は、この特徴的な赤い滲みが必ずとも綺麗に現れるわけやないということ。そーら、これのこと知ってて買うて、切って、なかがなんも普通の林檎やったら味に変わりはのうてもショックでっしゃろな。富士の高値に降る雪と京都先斗町に降る雪では、やっぱり変わりないいわれても変わりあるもんです。
 うまいこといくと芯まで赤う染まることもあるけれど、赤うならんとずず黒い茶色になったりもするそうで、改良を重ねてもほどよい色合いを安定して定着させられないうえ、まったくコントロールできないし、外側からも見分けられないそうな。クレームも結構あるとか。林檎長者の甘酸っぱい夢は潰えにけりないたづらに。
「はっきりいうて売れば売るほど損する林檎」なんやそうです。ほんまに美味しいし、自分も大好きやし売ってるけど……と、あんちゃんも淋しそうに微笑んだはりました。そう言われたら艶々真っ赤いけの果実が赤字の赤に見えてきました。(笑)って笑いごとやおへんけど(笑)。

 調べてみると悪魔ちゃん以外にも果肉が赤なる品種はけっこうあるみたい。画像検索してみたらめっちゃ楽しい。すっごいショッキングピンクみたいなんとか、外側はグリーンアップルみたいやのに内は赤いとか、なかには横に切るとハート柄とか花柄になってるやつもあったりして(転載許可をもろたんで読者の皆さんにもご紹介)、こんなんに当たったらその日一日ご機嫌で過ごせそうな気がします。【Redfleshed Apple】というのが一般名称。ぜひ見てみてー。
 ちなみに新しいバリエーションなんかと思たら、かなり古くからある品種が主。市場にはめったと姿を現さんでも英国では昔から大切にこっそりと育てられてきたのやそうな。そう考えると、なおさら愛おしい。赤い林檎に唇寄せても林檎の気持ちはぜんぜん解りまへんけど、林檎を育て作ってきた生産者の気持ち、英国農家の心意気はよーう解るような気がしまんな。  この時期に、こっちへおいでの皆さんは、ぜひ探し出して齧っていただきたいもんです。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。