第38回「喰いもんにしてくれるな」

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「buvons, mangeons, vivons! ――飲み、喰い、生きてゆこう」と、その店は宣言しはりました。2015年11月13日の金曜日、パリで起こった凶悪なテロ事件の翌日のことです。気楽だけれど手抜きのない、斬新ではないけれど遊び心のある料理を提供してくれる店。行きつけというほどではないけれど大好きな店。彼らから届いたメーリングリストにはこうありました。
Le Restaurant est ouvert ce soir. Ne leur donnons pas raison ; réunissons nous, discutons, réconfortons nous, buvons, mangeons, vivons!
 黒い喪章を巻いたグラスの写真に添えられた一文は、もしかしたら自分たちの無事報告を兼ねた、ただのお報せだったのかもしれません。けれど儂(わし)には「奴らにテロの〝理由〟を与えとうない」と書かれたそれは、「暴力に負けへんで!」という高らかな宣言だとしか思えませんでした。僕らは、生きてるんやから、生きていくんやから、生きてることを愉しまなアカンにゃから!
 フランス人にとって「喰う」ちゅう行為はただ生命維持のためのエネルギー注入やおへん。もっと哲学とか宗教とか恋愛に近いもんです。上等なもんや山海の珍味を好むというより、なんでもないささやかな毎日の食事を大切にする人らです。欠けたお皿の端っこにでも、ちょっとした季節感を添えることを忘れまへん。たまに、しゃーない人らやなあと嘆息しても儂が彼らにどーしょーものーシンパシーを感じんのは、そやからです。

 そんなわけで喪に服した三日間が終わり、フランス時間正午の黙祷があった16日まで、喪章の代わりにSNSの画像をトリコロールにしてました。なんの政治的な意図も思想性もない、ただただ大変やったねえ、あんたらの側にいるしな、気張ってな、一緒に生きていこな、というネットワークを共有するフランスに暮らす友人たちへのメッセージです。儂の周りにも、ようさんの人らがプロフ画像を三色に染めたはりました。
 目の前で困ってる人がいたら条件反射で手を貸そうとしますやろ? そんなような単純な気持ちの表れやったんですが、なんやこれが気に喰わん方々がおられたようで……。まあ、うちに直接文句いうてくる人はおらんかったんで京都風に「(どうでも)よろしなあ」「(もう)結構やねえ」と無視してたんですが、なんかねえ。
 なんでその人らが三色プロフに反対するんか一通り読ませてもらいました。言うたはることは、もしかしたら正しいのかもしれまへん。ちゅうか、そういう考え方もありますのやろと。そやし、やるもやらぬもご自分次第、ええも悪いもございません。けど、もしどちらかが強制されたら話は別。これはアウト! ですわ。
 現象を遠目に観察したら一目瞭然でっけど、この騒ぎ、文句が一方通行なんです。否定派のみがぎゃーぎゃーゆうてる。ありもしない同調圧力の妄想に怯えて人様に噛みついたはる。自分の思想を盲信して押し付けてきたはる。その押しつけがましさ、論理の乱暴さ。テロをやっとるISの連中と根本のとこで思考回路が同じ。

 しゃあないさかいちょっとだけ言わせてもらいまっさ。
 なんで、そんなに自分と違う考え方が許せまへんのや? なんで、やらへん理由をみんなの前で大声で言い訳せなあきまへんのや? しかも上から目線。糾弾口調。もうちょっと鷹揚に寛容になりまひょな。あんたらの高邁なご思想よりも、テロに傷ついた人らを悼む気持ちの方が儂にはずっとずっと大切で切実や。
 Pray for Paris(パリに祈りを)の標語が流布したのに対して、すぐに「こんなことイスラムの国々では日常茶飯事だ」「祈りはパリにだけ捧げればいいってもんじゃない」的な屁理屈がブーブー聞こえてきました。いや、お説ご尤も。けどな、儂が思い出してたんは、ちいちゃいころ神社参詣の帰りしな「なにをお願いしたんえ?」と親に訊かれたときのことですわ。
 あれとこれとあれもこれもと説明する儂に「あんなあ、へぇ、毎日どんだけの人がお参りしにきはる思てんの? 五円のお賽銭で神さんがそんなようさん叶えてくれはるわけないやろ」と諌められました。昔から一願成就ゆうてな、一番の大事を一つだけお祈りするのや。神仏はいてくれはるだけで有り難いのやから期待するようなバチ当りの真似したらアカン。

 だいたい今回の批判はなんのための批判でっしゃろ? 人様のお葬式に来て手を合わせてる参列者に「拝み方が違う!」と騒いでるようにしか儂には見えまへん。追悼の流儀の違いに正解はおへん。宗派によって地域によって時代によって変わります。それをまあ、ぐじゃぐじゃぐじゃぐじゃ。そんなん、人の不幸を自我の喰いもんにしてるだけやおへんか。さもしい、さびしい人らやなあ。
 そんなんどうでもよろし。いま自分が生きてることに感謝して、これからも生きていくことを寿ごうやおまへんか。そのためにグラスを挙げよやおへんか。
 ちなみに黙祷の瞬間、儂は水中におりました。傍目には三色プロフよりよほど不敬に映るかもしれまへんな。そやけど子供たちの上げる水飛沫のない静寂のプールは追悼の場所に相応しい敬虔な気分が満ちてました。肩まで浸かって目え瞑って指組んで、頭の中で唱えていたのはポール・ヴァレリーの詩、「失はれた美酒」の一節。

J’ai, quelque jour, dans l’Océan,
(Mais je ne sais plus sous quells cieux),
Jeté, comme offrande au néant,
Tout un peu de vin précieux

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覺えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」にする供物の爲に。

(堀口大學訳)

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。