第50回「同じ釜の飯を喰うた仲」

 この春に友人を亡くしました。そっからずっといつまでたっても治らへん傷みたいに、のどに刺さったまま魚の骨が抜けへんみたいに、じくじくと彼女を失った悲しみが疼き続けてます。それはもちろんご家族のほうがずっと辛いやろうし、儂(わし)よりも頻繁に会うて親しくしてはった人らもぎょうさんいてはるでしょう。そやけど吉野朔実ゆう人は人間付き合いがすごい丁寧やったんで、彼女の友達はみんな自分との仲をスペシャルやと思わせてくれはった。ほんできっと彼女にとっても「みんな違ってみんないい」仲やったはずですわ。
 儂らの仲はなんちゅうたらええんやろ。ひとことでいうならば、そやな、【同じ釜の飯を喰うた仲】やったと申せましょう。
 儂は実の父親を亡くしたときですら涙一粒こぼさへんかった人間でおざいまして、もしかしたら情緒に欠陥があるんやないやろかと己を疑ったりもしておりました。けど、いまだに吉野さんには泣かされてるとこをみると、おそらくは血の繋がりとか世話んなったとかそんなん関係なしに、どういった種類の付き合いをしてきたかが重要なんやろね。
 ひとによっては青春をともに歩んだ仲間こそが、あるいは恋愛感情を抱いた相手こそが、またあるひとにとっては趣味を共有する同好の志こそが、失ったときにかつて知らなかった疼痛を教えてくれはります。儂にとっては、それが【同じ釜の飯を喰うた仲】やったみたい。確かにいつでも忙しかった父とはあんましそういう機会ありまへなんだ。食べもんの嗜好も違ごたし、それやったらまあ泣けんで当たり前かもしれまへん。
 同じ釜の飯を喰う、ゆうのは回数が多いゆうだけの話やのうて、どんだけその食事を愉しんだかです。ただ食卓を囲むだけでなく、喰う悦びを分かち合えたか、ですわ。べつにそれが山海珍味である必要もありまへん。腹ペコのときにひとつのおむすびを半分わっこしたり、時間がないとき大急ぎで並んで立ち食い蕎麦を啜ったり、そういうのんこそが〝同じ釜の飯〟やと儂は思います。

 儂らの場合は人生において特別なごはんに舌鼓を連弾でけたんが、やっぱり大きい。
 まあ、初めて会うたときからその前兆ちゅうか、まるで未来を暗示するみたいな感じではありました。まだふたりとも二〇代半ば。共通の友人を介して彼女の「イタリアから帰国したばかりの学校の先輩がシェフに就任した大阪の店でディナーする会」に誘ってもろたんです。吉野さんの先輩というのは誰あろうのちに『ラ・ゴーラ』『アモーレ』などの名店をオープンさせた澤口知之さん。吉野さんは彼のベアトリーチェやったもんで、そらもう気合の入ったすんごい晩餐が繰り広げられました。三十年前やというのにいまだ記憶鮮明ですわ。
 ロンドンに拠点を移す前は東京出張がしばしばやった身の上もあってほんまによう揃って外食しました。京都好きの吉野さんもしょっちゅう上洛したはったし顔を合わせたら「どこで喰う?」の相談ですわ。
 澤口さんも連れもって『美山荘』に一泊した想い出なんかもあります。ああ、懐かし。このときのことはよほど印象的やったんか彼女も『吉野朔実は本が大好き』(本の雑誌社)に描いてはります。
 けど儂のほうからお誘いした食事のなかでは、儂らが行った当時は美山荘の厨房でお兄さんの故・吉次さんを手っ伝うたはった中東久雄さんが銀閣寺道に暖簾を出さはった『草喰なかひがし』での一夜が忘れられまへん。あれは一応、儂とツレとの披露宴になんにゃろか。一生に何べんもあることやなしちゅうこって無理を承知でお店を貸し切らせていただいて、吉野さんにも内輪の招待に加わってもらいました。
 なかひがっさんの釜の飯はいつでも美味しいけど、あれは特別中の特別やったなあ。
 そういうたら開店十周年を迎えられた、ご主人にとっての特別な日ぃに招かれたときも吉野さんに同伴してもろたんやった。柳孝先生、一澤帆布の信三郎社長といったメンバーの中になんでかしらん加えてもろて恐縮といっしょにご馳走を噛み締めました。もちろん一皿ごと恍惚の行進やったんですけど、このときのことを思うとまず瞼に浮かぶのが杯。
 酒杯はその晩のゲストのおひとりやった辻村史郎さんの焼きもんで、儂は刷毛目杯をチョイス、吉野さんは信楽の筒杯を選ばはったんですけど、いま自分の手元にあるんは筒杯やったりするんですよ。会のおしまいに「お土産にお使いの杯をお持ち帰りください」とご好意を賜ったんですが店を出るや否や彼女は「貰えるとわかってたらもっと真剣に選んだのに! 入江さん、そっちのがいい。交換して!」と詰め寄ってきはったのがその理由(笑)。ほんま器には目がなかった。

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 儂とトントンに器道楽やった吉野さんからはずいぶんプレゼントにも焼きもんを貰ろてます。あらためて見返すと、いずれもが彼女ならではのセンスで選ばれてて、ほんまにブレへん美意識を持ったはったんやなあと感心しますわ。仕事場を整理しはった元アシスタントさんが形見にぃゆうて小さな高杯を送ってくれはったんやけど何気ない普段使いにもかかわらず、どっから見ても【吉野朔実好み】でねえ。
 器といえば面白いことに気づいたんやけど、あんね、なんか料理作ってて、あ、これ吉野さんきっと好きそうとか思ったもんを盛るときは【吉野朔実好み】の器に当たり前のようによう映えるのよ。こないだもお友達にレシピを聞いて真似した「アボカドと豆腐のムースリーヌ」を、これは知ってはったら大好物やったやろなーとか独りごちつつ拵えてて、さて、器はなんにしょーと手に取ったんが件の披露宴の後日、お礼として彼女に頂戴したもんやったの。実際に盛り付けたら案の定見事なマッチング。
 かくて儂は『好みの器と好みの料理は自然と寄り添うの法則』を発見したのでありました。
 そやけど、あれやねー、もはや追憶に浸ってめそめそすることはないんやけど、同じ釜の飯を喰うた仲とはオトロしいもんで、アボカド豆腐然りなんか食べたり飲んだりして、こいつは絶対に口に合うたやろ、一緒に食べたかったなあ、「な、美味しいやろー」と自慢したかった……とか考えてしまうとあきまへん。どうしても、どうしても泣いてまう。
 なんぞ喰うて生きていく以上は、ちゅうことは死ぬまで続く痛みなんかな。まあ、しゃあないわ。美味しい同じ釜の飯を喰いすぎた報いやから甘んじて受け容れてくしかしゃあない。それくらい幸せな時間をシェアしてきた証明なんやからさ。

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 吉野さんが逝ってから、やっぱり儂同様に彼女と【同じ釜の飯を喰うた仲】だった藤田千恵子さん、三澤真美恵さんと東京・三田のフレンチ、『コートドール』で追善ランチをしました。ここは吉野さんが「今度、入江さんが帰ってきたらみんなで食べに行こうね」と言っていたレストラン。オープン間もないころから理由をみつけては通っていた〝同じ釜の飯屋〟。当然、ご両人も吉野さんと何度も一緒に食べてはるんで、彼女を偲ぶのにこれ以上の店はありません。
 もう三十年も世話になってる斉須政雄シェフは吉野さんの訃報をご存知で、三人の目的も言わずもがな、ほかのテーブルからはちょっと隔たった席を用意してくれたはりました。ほかのお客さんの迷惑になったらアカンと自分に言い聞かせつつ、吉野さんの大好物オンパレードに「美味しい」「美味しい」とおんおん泣きながら喰う三人でおました。斉須さん、あんときはほんますんませんでした。
 そやけど不思議なもんでっせ。食事のあと話し足りずに入ったカフェで喋っていたときには全然泣いたりせえへんの。ふたりともが面倒を見てもろてた(儂は現在進行形やけど)担当編集者の方と居酒屋で語りあったときは相当に覚悟していたのに、やっぱり儂はケロリとしてて「なんでやろ?」と訝しかったんやけど、あんとき泣かいですんだんは料理が同じ釜の飯やなかったからなんやわ。ええ店やったんやけどね。
 初めてのとこやからとか飯の種類とか安いとか高いとかは関係なし。そこの味がふたりにとって同じ釜の飯的であるならどんなもんでも涙腺は緩むねん。東京滞在の最終日、どうしてももう一回会いたいしてゆうて藤田、三澤ご両人と行った根津の蕎麦屋『よし房 凛』。彼女らはよくここで食事したはったんですけど儂はお初。やけど間違いなく同じ釜の飯やった。吉野さんも心から美味いと思ってはったはず。なんでて「なす汁せいろ」手繰った瞬間に涙腺崩壊してもーたもん。

 いまから謝っときまっけど、これからもし儂とどっかに食べに出かけて、そこで突然にこの大入道がうるうるしても気にせんとってください。つまりはそこで供された料理が同じ釜の飯的やったて、それだけのことやさかい。ただ美味しいゆうだけでなく吉野さんにも喰わせたいと妄想してしもたがゆえの涙ですわ。
 そやけどあれやね、もうこの世に吉野さんの肉体はないけれど、それでも彼女は少なくとも自分にとっては存在し続けてくし、その影響力も変わらへんのやね。塩梅よう彼女の好きそうな同じ釜の飯が作れたときは、朔実好みの器に盛って、バーチャル吉野さんを召喚しまひょ。ほんで賑やかに食卓囲みまひょ。どっちみち最後にはまた泣くかもしれんけど、それはそれやわ。
 ほな、吉野さん、またじきにー。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。