第55回「人衆ければ則ち狼を喰らう」

photo 人生ちゅうのは、ほんまなにがありよるか解りまへん。面白いなあ。と、ここんとこ毎週のように、それもなんべんも感慨しとります。まさか自分の人生にこないなことが起こるやなんて。て、大袈裟でんな。けど、ちょっと動揺するくらい大きな変化やったんですわ。儂(わし)にとっては。ほんでもって変わったんは儂自身やない。儂の生活。ライフスタイルの大変身。たった一軒のカフェの出現によってそれは起こりました。
『But First Coffee』。二年ちょい前、うちの近所、歩いて5分くらいの場所にでけた店。ここを通して、儂は「地域社会とのコミット」とゆう、あまりにも自分本来のベクトルとはかけ離れた愉悦を手に入れたんでおざいます。温かで、さらさら淡い、そやけど非常に快い距離感。もちろん、そういうもんが存在してることは知ってましたえ。でも、まさか自分がそんなサークルの一員になるやなんて想像もせんかった。
 そら京都人でっし素地はありました。洛中には地元と密接に繋がったカフェがあちこちにおまっさかいね。祇園祭の鉾町的なメンタリティの発露というたら解りやすいやろか。
 こないだリアルな京都を書かせたら随一のライター、高橋マキちゃんから謹呈本をいただきました。産経新聞の地方版で連載されていた、京都に散らばる個性豊かな喫茶店をめぐるコラムをまとめた『珈琲のはなし。』(自主出版やけど、そらもー素敵な一冊。ネットで買えるし検索してして)。ここには京ならではの呼吸をしてるようなカフェ、そのエリアにのーてはならん、まとめ役というか相談役みたいな人間そのものでもあるような喫茶店が50軒、庇を並べて紹介されてます。京都人の暮らしにはきっと、そういうスペースが必要なんやろな。
 ただ、もはや儂の生活の拠点はロンドン。この本には儂のオキニも載ってまっけど、なんぼ通うたかてもはや地域住民として椅子に座るわけやない。ご主人の取り持ちで仲ようなる人がいても、そちらのみなさんも遠路はるばるゆう方がほとんど。早い話が京都のカフェはそのエリアやないとアカンゆうレーゾンデートルを失のうてしもてる。ええ悪いの話やのうて、地域ありきから店(あるいは店主)ありきに変化したてこってすわ。

 ロンドンは京都みたいに隅から隅まで観光地やおへん。そやからこそ『But First Coffee』みたいな店も生まれ易いんでしょうが、ここのお客さんは9割が徒歩圏内の住人です。そやしここに集う人らと仲ようなると自ずと地域との関わり方も深こうになる。深こなったら、それだけ親しみも湧く。もはや儂にとってHarringayは西陣と変わらぬ愛着ある街になりました。いや、カフェがそんなふうにしてくれはったんです。
 蜜月は、こんなふうに始まりました。
 ここいらへんは国鉄で金融街の「City」まで直通、15分ほどです。店はその人らをターゲットに6時から営業。なので昼過ぎには閉店。当然ながら儂はそんな時間には縁がないんで、いつも前を通るたびに「いつ開いてんのかなあ」なんて思てました。そやし最初の一杯はたぶん開店一ヶ月後とかやった。ドアを押すと他に客はなく店主のマットが賑やかに迎えてくれました。
photo まあ、この時点でシンパシーはありました。やっぱゲイ同志やし。え? 儂も向こうも逃げも隠れもせんゲイでっさかい最初のひとことで、ほんなんツーツーです。で、淹れられたカプチーノを啜って、その旨さにちょいとばかり驚きました。仕事前にしゃっきり目を覚ましたいシティの住民好みのチョイスでもあるんでしょうが京都人が大大大好きな濃い濃い濃いコーヒ。でも苦みが澄んでて、するっと喉をすべってゆく。「ちょっと、あんた、美味しいやんかいさー」と続けざまにもう一杯。元は役者さんやったマットのお喋りはテンポも心地いいんですが、なにより抜群の間合い。こら、ちょこちょこ来さしてもらわななーと思いつつお会計を済ませました。
 決定的にこのカフェにやられたのは、そのとき。
「ごちそうさまー」と店をでようとした儂を引き留め、彼は紙袋を手渡してくれたんです。
「もう店じまいなんだけど、余りもん貰ってくれない? うちはその日の焼き立てしか売らないポリシーなのよ。冷凍もできるしさ!捨てちゃうの勿体ないし」
 それは手つかずのブリオーシュ、まるまる一斤。「ええっ?ええーっ?」といってる間に「ほな買わせてー」という儂の言葉を押し切って、まんまとマットは儂に持ち帰らせるのに成功してしまはりました。
 いままでかて京都でもロンドンでもそういうことはなくはなかったし、そういうお店とは後々親しゅうなることも経験上知ってた。んやけど、まさかこのお土産お持ち帰りがそれからも何度も何度もあろうとわ。しかも、こちらで扱ったはるクロワッサンやペストリー(デニッシュ)類の美味しいことったら!卸専門の小さなベーカリーで注文生産してもろてはるんやけど、はっきりゆうてこない塩梅のええパン、フランスでもめったにないえ。とりわけ『コペンハーゲン』という名のレモン風味の糖衣がまぶされたペストリーときたら絶品中の絶品。ただ売り切れが早いのが玉に瑕。
 ここんところは糖尿を理由に3度に2度は断れるようになったけど、いやいや、まあまあ、こんだけ気前がええんも今日び珍しい。そのお返しに、市場で珍しい旬の味覚を発見したらマットの分も買い足したり、鯖寿司作ったら一本余分にこさえてお裾分けしたり、もう、まるきり昔の京都人やおまへんか。
 そういう恩恵を受けているのは、むろん儂らだけやおへん。ほかにも何人もいてはる。旨い珈琲の匂いを嗅ぎつけて毎日通ってくるようになったイタリア人のご一家や決まって金曜日に集会しやはる子供連れヤンママグループ、シングルマザーもいればハリウッド映画に何本も主演しているスタアもいる。みごとにばらばら色とりどりの老若男女が引きも切らん人気店になるんはすぐでした。
 そういうお客同志が自然に交流を始め、カップルもできたりしてるんやけど、儂はといえば犬連れのお客さんがかなりいてはるおかげで、ときたまベビーシッターならぬドッグシッターを任せてもらえる友人が何人かでけたんが、もう、嬉しゅうて。それからね、たぶん儂の一生には金輪際縁なんぞおへんやろと考えてた小さい子らとの交流がでけたんも意外というかなんというか。ちいちゃい子、めっちゃ苦手やったんやけどなあ。
 マット自身が子供好きというのもあるんやろけど、ゲイ率と子育てをとっくに終えたおばあちゃん率が高いせいか、若いお母さんらが小さい子を人任せに遊ばしといて安心ちゅうか気を抜ける場所になってるんよね。ここ。そんなわけで次から次に膝に乗ってくる子らを相手に本読んだげたり落書きの相手したり、けっこう忙しい日もあったりするこの頃ですわ。
 カードを送りあい、誕生日を祝いあい、パーティやBBQに招んだり招ばれたり。しかし行き過ぎないようほどほどの節度のあるバランスを保たれた人間関係が幾重にも折り重なっているカフェ。それが『But First Coffee』。
 もちろん地元民でのうても同じ扱いをすべてのお客さんは受けるし、むしろ常連は儂も含めてちゃんと状況を読んで席が足らんようなときは、いつもの長尻をすっと譲る。とにかく内輪の空気が澱まんように気ぃつけてます。京都にもあんのよ。ええ店なんやけど内輪な空気がこもってて息苦しいカフェ。やったはる人らは〝和気藹々〟のつもりなんやろけど……。自分の好きな店に同じもんを持ち込みとないゆう話です。

photo 実はここがでける以前にも好きな地元カフェはありました。とりわけツレが魔法瓶でデリバリしてくれて長期入院中は心の支えになってくれたとこに、もはやついぞ足を運ばんようなってしもたんは残念なこっちゃと嘆息しております。あっこのご主人さんもマット同様に地域に密着した【カフェソサエティ】を築きたいという気持ちでやってはってんけど、いつしか店が評判になって何軒も支店を出しはって自分の拠点を移しはってからすっかり雰囲気が変わってもた。
 好きな店が流行るのは自分のことみたいに嬉しおす。けど、人気に流されたらあきまへんわ。『But First Coffee』も昨年、カルチャー/ファッション雑誌の老舗『GQ』が選ぶ「珈琲ブームのいま、ロンドンで行くべき10のカフェ」に選出されましたけど、そやからて何ひとつ味も態度もアトモスフィアも劣化しません。
 あ、劣化はしてへんけど変化は少々。イベントは増えたな。夕方から無料でビール飲み放題(醸造会社のマーケティング)があったり。月ごとにはローカルアーティスト作品展示即売も始まった。常連さんがお国言葉の教室始めはったり(入江も日本語教室やんなさいよとお声がかかったけど丁重にお断りしました(笑))。やはり常連さんの新ビジネス、イタリアンのデリバリサービスメニュー試食会が連夜開かれたり。などなど。

 前述した高橋マキちゃんの『珈琲のはなし。』はシンプルなデザイン乍らブーブー紙(パラフィン)のカバーがかかっていて、それがとてもいい感じなんやけど、ふと、気づく。カフェてさ、このブーブー紙みたいなもん違うやろか。薄い紙一枚が重なっただけで、さほどプラクティカルな意味はないんやけど、なんやその一冊が内包する世界を嫋やかに読者へ伝えてくれる役目を担っているブーブー紙。即ちカフェとは地域と住人の関係を嫋やかにしてくれる存在なんやないやろか。とか。
 ああ、そういうたらブーブー紙を吹いて音を立てるときと珈琲をふーふー吹いて飲むときの幸福も似てはるね。多幸感{ユーフォリア}ちゅうやっちゃ。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。