第3回 わかめは立派な主役である

わかめが食卓の主役になるというのは、一般的によくあることなんだろうか。私の中では、味噌汁や酢の物など、副菜の中でも二番手三番手の、さらに豆腐や薄揚げやタコに次ぐ二番手三番手の食材というイメージだった。その名を冠した料理でも、若竹煮か、わかめご飯か、わかめスープか、まあ言えば「いつもは渋く脇を固める役者をあえて前面に立てて目先を変えてみた」ぐらいの感じ。サザエさんで言えば、気立ては良くて優しいけれどサザエやカツオほどにはキャラが立たない、まさにワカメちゃん的な。

だから、「今日はわかめのしゃぶしゃぶにすっから」とカンコちゃんから聞いた時は、なかなか新鮮だった。震災翌年の春、岩手県陸前高田市のFさん宅であった宴会でのことだ。

土鍋に水を張り、煮立ったら、ザクザク切った生わかめの山から箸でいくらかつまんで湯に放ち、すぐに引き上げて、ポン酢か専用のわかめドレッシングで食べる。それだけ。他に鍋の具材はなく、昆布などのだしもたぶん取っていなかった。でもこれが、いくらでもいけるのだ。ほのかな潮の香りとなめらかな喉越し。太い茎も柔らかく、わかめってこんなに食べごたえのある風味豊かな食材だったか、と再発見する思いでわしわし頬張った。

しゃぶしゃぶだから引き上げるタイミングが大事だ。それは色で計る。カンコちゃんが「ほら、魔法見せっからねー」と一つかみ鍋に投じる。と、黒々としていたのが、さーっと鮮やかな、新緑のように明るい色に変わる。おおーとその様を愛でていると、カンコちゃんは「んだべ」と得意顔になり、だがすぐに「早ぐ取って取って」とせっつく。魔法は一瞬の出来事なのだ。どうやら彼はこのフレーズを気に入ってるらしく、神戸へわかめを送ってくれる時も「高田から魔法を送ります」と洒落た文句が添えてある。地元のうまい物自慢をする時は、ほんとうに無邪気で嬉しそうである。

「こっちもうめえよ」とFさんが勧めてくれたもう一品は、ごま油でさっと炒めたわかめ。塩をひとつまみ振って食べる。ちょっとナムルみたいな感じで、これがまたなかなか。酒がよく進んだ。

カンコちゃんから大量に届いた生わかめ。これをせっせと配り歩くカンコちゃんから大量に届いた生わかめ。これをせっせと配り歩く

●三陸のわかめは分厚く、たくましい

こうして最小限の加熱と味付けで生わかめをおいしく食べるには、2月頃に出回る早採りのものがいちばん適している。早採りとはつまり間引きした部分のこと。まだ十分に育っていないから厚みもそれほどなくて柔らかい。長時間煮込むと溶けたりするので、昔は「使えねえ」と捨てられていたが、ここ10年ほどの間にしゃぶしゃぶなどで食べるようになったそうだ。

「三陸産のわかめは長さ3mほどに育ち、その分、厚みも出ます。関西だと徳島の鳴門のわかめをよく食べると思うんですが、あちらは1mほど。どっちがいい悪いでなく、外洋の波にさらされる三陸産と内湾で作る鳴門産は、まったく別な海藻だと思ってもらったほうがいいかもしれません」

そう教えてくれたのは、陸前高田の広田地区でわかめ養殖をしている村上俊之さん。リアス式海岸を形成する広田半島の大野湾に養殖場がある(ちなみに陸前高田には村上姓が多く、俳優の村上弘明さんも同地区ご出身。私も津波の3カ月後、たまたま生家を通りかかった)。

その村上さんによれば、わかめの養殖は広田地区からほど近い大船渡市の末崎町(大船渡湾に面している)で昭和30年頃に始まったのだそうだ。その少し後、収穫したわかめを湯に通し、塩をまぶして保存する塩蔵の技術も同じ町で生まれた。ほどなく三陸沿岸全体に広がってゆき、今では全国のわかめ収穫量の1、2位を岩手と宮城で競り合い、合わせて7割を占める。3位が徳島だ。

「この気仙(大船渡、陸前高田を中心とする岩手県南部)でわかめ養殖が生まれたのは、海の環境が生育に適していたからなんです。黒潮と親潮がぶつかって栄養分が豊富なうえ、山から流れ込む水がミネラル分を運んでくる。先ほど言ったように外洋の流れの早い波に鍛えられるのもあって、大きく分厚くなる。養殖と言うと人工的な印象を与えるかもしれませんが、生育環境は天然ものとほとんど変わりません」

2011年9月、かわむらの唯一残った工場では芯抜きの作業が行われていた2011年9月、かわむらの唯一残った工場では芯抜きの作業が行われていた
取材に行ったことがある水産加工・販売会社「かわむら」のHPに産地を示した地図が載っていた。岩手の久慈から宮城の石巻まで沿岸部がびっしり埋まっている。なるほど、三陸を歩けばわかめの生産や加工の現場にしょっちゅう出会うわけだ。

かわむらは、宮城県気仙沼市を中心に23カ所あった工場・冷蔵庫のうち、22カ所を津波にやられた。津波の半年あまり後、たった1カ所だけ残った唐桑半島の工場を訪ねた時、女性従業員たちが塩蔵わかめの作業を休まず黙々と続けていたのを覚えている。社長が語ってくれたこんな言葉を本で紹介した。

「うちの親父はカツオ節屋でしたが、私は21歳のときに一人でトラック一台からワカメを始めたんです。39歳の厄年から魚に挑戦したんだけど、一時は倒産寸前まで追い詰められた。(中略)それから20年、一つ一つ工場を作ってきた。海に稼がせてもらい、海に全部持って行かれたというわけです」

一代で会社を築き上げたワンマン社長は、存亡の危機を嘆くでもなく淡々と振り返り、一日も早い再起を誓った。そして今、気仙沼から県境をまたいだ陸前高田に拠点を移し、新たにできた水産加工団地の中核企業となっている。さすが三陸のわかめのように、分厚くたくましい人なのである。

●裾野は広く、思いは熱く

あの津波で大打撃を受けながらも、わかめは比較的復活が早く、別の養殖業からシフトしてくる漁師も多いという。採苗(めかぶから胞子を採り、種糸に付着させる作業)から収穫までのサイクルが早く、1年で結果が出るのが最大の理由らしい(→こちら参考)。要は、手っ取り早く稼げるということか。

収穫は3~4月のだいたい2カ月。生わかめが出回るのもこの時季だけで、あとは塩蔵ものになる。南三陸町でわかめ漁師の作業場をのぞいた時には、パンチパーマのおじさん(長さんという)の指導のもと、30代ぐらいの女性が3人、せっせとわかめを解きほぐし、塩を絡めていた。交わす言葉が関西弁だったので、聞いてみれば、なんと神戸と大阪の人たちだった。週末を利用して1泊2日、このボランティアのためだけに来たんだという。関西から東北は遠いとばかり思っていたけど、やる人は黙ってできることをやってるんだなあ、と感心した。

わかめの一大産地は裾野も広い。関連商品やメニューがいろいろあるのだ。しゃぶしゃぶに使うわかめドレッシング(カツオだしの効いた醤油だれ。いろんな料理に使えてうまい)、わかめラーメン(麺に粉末が練り込んである)あたりは定番だろうが、ほかにも、わかめかき揚げ、わかめカツ丼、わかめリゾット、わかめサンド、わかめチップス……このへんは食べたことないので、味はよくわからないが。

山田町の「道の駅やまだ」には、わかめソフトクリームがある。たしか津波の1年ぐらい後、運転中のトイレ休憩に立ち寄ったら、「あの看板メニューが復活!」と、お待たせしました感全開で押していたので、西岡さんと「これは食うとかなあかんやろ」となり、以後、通るたびになんとなく食べてしまう。粉末状にしたわかめを混ぜ込んでいるから、うっすら緑色で、見た目だけなら小豆島で食べたオリーブソフトにも似ている。味はほんのりわかめ……な気もするけど、まあふつうにおいしいソフトクリームという感じか。

しかし、さすが町の名物である。「山田新聞」(全国80万人の「山田さん」で岩手県「山田町」を応援する『山田町応援団』の公式ブログ、とある)のわかめソフト復活を告げる記事の熱さに笑ってしまったことがある。こんな感じだ。

〈ペロッ……ふおお!/ミルク→ワカメの時間差攻撃!!!/想像以上にワカメ!!!/ワカメ100%!!!/フサフサになりそうな予感です!〉

これほどわかめ愛に身をよじり、興奮する人たちがいるだろうか。やはり、かの地では立派な主役なのだ。

「3月に入って収穫が本格的に始まったところです」と電話の向こう、わかめ漁師の村上さん。三陸の食卓に採れたての生わかめが並ぶ、震災から4年の早春である。

松本創(まつもと・はじむ)

1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。
著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著/講談社)。その続編を『現代ビジネス』で随時連載(→こちら