「おじい」の不在が、街をミシュラン化してしまいよった。
京都の若きアントレプレナー、藤田さんのコメントには、銭湯での年寄りの「場所」というのが出てきます。
140Bで、「ななじゅうまる」という、70歳を想定したリージョナル誌をつくり、新聞やテレビのニュースの特集にとりあげられたり、それなりに評価されましたが、そこでみんなで取材し考えたことは、はたしてどういうベクトルがはたらいて、「豪華客船の船旅」とか「田舎の別荘」とか「資産運用」というのが、現在の年寄りの欲望であるかのように語られているかのことでした。
内田先生も先日「おじいさんおばあさんをたいせつに」
http://blog.tatsuru.com/2007/11/09_1102.php
というコラムを書いていました。「財界とメディアと電通はこの1500兆円を握りしめている高齢者たちの財布のひもをどうやって緩めるかに戦略をピンポイントしている」ということでしたが、それこそなんとエゲつない資本の論理が追求する消費社会でしょう。
けれども先の藤田さんの例のように、京都や浅草の街中や、岸和田ではまだまだ年寄りの「場」がある。
確か70年代半ば頃のサントリーのCMだったと思います。
「金曜日はワインを買う日」という広告コピーがありましたね。週休2日制が定着し、「はな金」という言葉も出来た時代です。とても懐かしい気もしますが、これは完全にそのころの若い夫婦がターゲットで、核家族がもてはやされ、その家族の幸せがすなわちわたしの幸せであるという時代性を物語っていました。
まあ「同棲時代」というのはあったにせよ、そういう彼らはとにかくビンボーだったにせよ、岸和田ではなく東京のカップルは、安いワインを買っていたと思う。それが「二人の幸せが私の幸せ」ということでした。
あなたの幸せがすなわち私の幸せであり子どもの幸せ。「いつかはクラウン」というトヨタの広告もありました。2ドアの冷蔵庫から3ドアへ。全自動の洗濯機。家庭用パン焼き器や正月のための餅つき器、なんてのがありました。
家、つまり配偶者とその子どもによる「核家族」が「消費のユニット」で、そのユニット単位が所有する物の数や大きさ、私有する土地建物が大きくなることが幸福だった。それが「郊外の夢」で、日本を徹夜残業で引っ張ってきた源泉の父がそこの世帯主でした。
その後80年代を経て、消費生活において、家族および家庭の幸福は解体されましたね。
携帯電話に代表される「個」の時代。物心が付いた子供の部屋にはオーディオやビデオやDVDがあり、デスクにはパソコンがある。バスルームには娘と母と父が使う別々のシャンプー。キッチンは主婦の聖地だし、小さな書斎はお父さんの隠れ家。そんなふうに家の中にいても個人の領域や所有するものが、きちっと分けられた。
オレは風呂場で自分のシャンプーがなくなったから、嫁さんのを使ったら、それこそ烈火のごとく怒られた。「それは私のシャンプー! もう! いくらすると思ってんの」。「シャンプーぐらいでセコいこと言うな」と返そうものなら(笑)、でした。嫁はんにとってオレはもはや、自己や自分の欲望を邪魔する「他者」なのです。
そういう時代を経て、また家族の時代ですね。
しかし今度はおじいちゃん、おばあちゃんを含めた三世代家族。いまテレビでは、まさに「金曜日はワインを買」っていて、50代になった長塚京三の父親と祖父が出てくる「遺言」のCMが流され、おしゃれなおじいちゃんが雑誌に登場し、元気なシルバー世代が豪華客船に乗っている。
これはちょっと意地悪に見ると、いつも消費を牽引してきた若い層がニート・フリーターに象徴されるようにお金を使わなくなったので、今度はリッチな年寄りか、みたいな気もします。でもそれはお年寄りにとって、街場に居場所がなくなって来ている証左でもあると思います。
街の将棋クラブや碁会所はもうありません。浅草や新世界や京都には、まだありそうですが、岸和田ではもう1カ所か2カ所じゃないでしょうか。レストランや鮨屋では(これがミシュランのメイン・コンテンツだ!)、イケメンとキャリア・ガールがやけに目立ち、それに顔をしかめる長塚京三たちがいる。
鮨屋や居酒屋で、静かに渋く熱燗の猪口を傾けている年寄りの姿を見ることが少なくなりました。京都の下町や岸和田の城下町で言うところの「おじい」が居なくなったのです。そのおじいはゴルフより釣りを好み、海外旅行よりも近所の散歩をし、フレンチではなく茶粥を食べていましたね。
これは街にとってもさみしいことです。
高齢化社会なのに「おじい」はどこに行った。
おじいはおじいゆえんに、「若者に受けたい」などという欲望がない。つまり尊敬されたいという下心こそなかったので、そこがかえって立派がられ敬愛されました。
50代の長塚京三は、会社では部長であり、家ではそのおじいの孫のよき父親であります。これは疑いのないことです。けれどもそのおじいにとって長塚京三はこれも疑いのない息子で、息子はいつまでも息子であり、子供に違いない。だから孫やまわりからもどう見られたいとかはない。自分の子どもの子どもなので、かわいがったりはするが、そんな子どもの子ども相手にオレは偉いと威張ったり、過去の話や知識をやたら吹聴したりしない。
そういう面で、頑固には違いないが、そういうモノやカネに執着しない潔さや欲のなさ、肉体はもはや弱いが何ものにも動じない態度が、そういう「おじい」たる所以でしたね。だからおじいの話は含蓄があったし、説教も人間味溢れていておもろいはずです。
そういうおじいが、「郊外の夢」によってはじかれてしまったとするならば、これは取り返しのつかない事態です。岸和田ではかろうじて、まだおじいは、50歳になった子ども夫婦と社会人や大学生になったその子どもの近くにいます。同じ家には住んでいないけれども、孫がそのおじいと同じ小学校の卒業生だったりする。
この少子「高齢化」社会はますます進みます。しかし、これだけはいえます。街にそういう高齢者つまり老人が少なくなったから、需要と供給で彼らの居場所がなくなったというわけではない。いい店や街というのは、必ずしも若者で賑わうところではないけれど、そういうことを言う「大人」つまり長塚京三だけで賑わう街でもないと思うのです。
浅草の桃知は、「街とおじい」についてどう考えるのでしょう。
そして父というのは象徴(界)ですが、最悪の父っていうのは、今はここに〈交換の原理〉が居座っている、と。
最悪の父は、少なくともおじいではないと思うのですが。
2007年12月11日 20:35
コメント
すごいペースでの往復書簡ですね。
拝読しました。
ひとくちに70代といっても、
もう一枚岩ではないのかもしれませんね。
消費情報誌が直面しているのは、
「年齢切りターゲティング」の限界で、
20代男性向けファッション誌、とか、
「F1層にむけた」というような
マーケティング・セグメントがほとんど
機能しなくなっています。
たとえばフリーターで厳しい毎日を送る20代もいれば、
ネットショッピングで5分で30万使う20代もいます。
どの層にどれくらいの人数がいるのかが
判別不能なので、同じ世代で見たときに
富がどのように偏差しているのかさっぱりわかりません。
20代の成金向け雑誌を作るとして、一体発行部数を
何部にすればいいのか設定がとても難しいということです。
このとらえどころのなさ、そして世代共通の物語の
欠如がいまの現状ではないでしょうか?
(このような偏差はもちろん昔もあったと思いますが、
上位世代や地域コミュニティからの救済がない分、
格差が酷なものとして降りかかっています)
◆
少し脱線したので「おじい」の話に戻ると、
元気な70歳もいるが、
死にかけの70歳もいる。
1年間に3千万使っても使い切れない70歳もいれば、
これ以上年金が切り下げられるとキツい70歳もいる。
実際に、飛鳥という豪華客船での70日間世界一周ツアーは
およそ1千万ほどするらしいですが、いつも募集後すぐに
満員になるそうです。今回新しく発売になった
日産のGT-Rも、50代以上がかなりの割合を占めてるそうです。
マスメディアによる「あるべき70代像」にあおられているのか、
能動的な衝動として航海へ出発しているのか
正直わかりかねる感じですが、ひとまず現実的に
そういった動きがあります。
もちろん一方で、介護が必要な70代は飛躍的に増え、
現場はまったくの人手不足だったりします。
微細な単位で消費者を分解し、
その微細な差にとどめたままマーケティングを
展開するというのは内田先生の理説だったと
思いますが、70代もまさしくこの通りに
なっています。
なので、いわゆる「街のおじい」が減ってきているのは、この世代が資本主義のマジックにのみこまれたことを
意味するのかもしれません。
広告ベースのメディアおよびメーカー各社にとっては、家で寝ているおじいや銭湯に来て若者を叱るおじいよりも、
おしゃれな服を着てレストランに出かけ、
挙句には世界一周へと勇んで出かけてくれる
おじいが増えるほうが喜ばしいわけです。
雑誌の提案する「ちょい悪」や「優雅な」おじいを
地で行く人が増えたことは、資本主義のある意味
当然の帰結といえるのかもしれません。
江さんが書いておられるとおり、かつて
「私のテレビ」を理想化し、家族を分断していったのと
同じロジックです。
◆
今の70代は、退職金もばっちり出てある種
結果オーライ、先行逃げ切りな人も多い。
まだ「多数派」というのがどんな人で、
一枚岩でくくりきれないこともない。
でもこれって、30年後の70代は全く違った
世代になると思います。もう、「70代」とか
ひとくくりにできないような、
強烈に二極化・多極化した風景を
目の当たりにすることになりそうです。
そうなったとき、街という地域コミュニティは解体し、
この街が「もともとあった場所」であって
自分は遅れてきていると痛感させてくれるような、
街にねざしたおじいは絶滅してしまうかもしれません。
(京都にはバッキーさんがいるので安心ですが)
しかしながらその後、個々人は
サイバースペース上での興味・関心コミュニティに
再統合されていくと思いますね。
(江さんが書いておられるとおり、街の碁会所は少なくなる一方なのですが、ネット上には見知らぬ人と
将棋や囲碁で対戦できるコミュニティが着々と増殖しており、
最新の統計では将棋人口が700万人、囲碁が350万人と、
いずれも5年前とくらべて10パーセントほどアップしているそうです)
なぜなら、そのような趣味・関心コミュニティこそが、
マス・メディアおよびメーカー各社が狙っている
「次の単位」だからです。
アメリカのように複雑にチャンネル分化した
趣味・専門のマスメディアが跋扈するように
なると思います。
投稿者 ふじた : 2007年12月12日 00:12
心の豊かさって何なんでしょうかねぇ。
うちの村では、おばあ達は毎日、寺に寄ってますわ。
誰と彼がくっついたとか、あそこの子はホンマしゃぁないとか話してるそうです。
若い世代にしても、飲みにいくのも散髪に行くのも服を買うでも、それ自体の消費だけじゃなくて、「話しに行く」ということが多いです。
ふじたさんのおっしゃる銭湯に加えて散髪屋もそうですね。
ぼくの行ってる美容院はちょっと待つことになったら「ごめん。ちょっとこれ飲んどいて」ってビール出てきますし、「こないだの試験曳きは、○町はえらいこかしたらしいでぇ」とか、何しに行ってるんやようわからん時があります。
心の豊かさって、コミュニケーションして感謝したり感謝されることやと思うんですけど、街でお住まいでない人々にとっては「ええもん食って、ええもん買いまくったけど、なんやアホらしなってきた」と気付かんかぎり、銭湯やお好みやら言うてもなかなか通じないような気がしてならないです。
投稿者 くざえもん : 2007年12月12日 07:40
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