街的という野蛮人。
近景・中景・遠景
劇作家の別役実は現代における対人関係の距離感の変質について、絵画でいう「近景」「中景」「遠景」という用語で語ろうとする。皮膚感覚でお互いに感じ取れる距離については「近景」。家族や地域社会といった共同体的な対人距離で構成される「中景」。神秘的なものや占いを信じるような態度は「遠景」につながる。そしていまや 近景と遠景を媒介するはずの「中景」が抜けてしまって、近景と遠景がネットワークを通じていきなり接続されるというのだ。(斎藤環:『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論』)
家族は面倒くさい
江さんよ、「家族」は面倒くせえんだよねぇ、と泣き言だけは言わせてくださいな。言ったら、ちゃんと書くから。「解釈は貸借を満たすために快速でなければなりません」でいきますから。(笑)
個人の欲望がすなわち「極めて家庭的な家族
」の欲望であるという、〈近景〉のなかの〈共ー欲望〉なのだと思うわけ です。
家族というのは、一体何なのでしょうか。
「家族」と「女」はあたしのなんだかわからないモノの双璧ですよ。そんなものに言及すれば、あたしはめちゃくちゃになります。それでも「家族」について書くのは、あたしは「モナド」としての個人を理想としていて、モナドには窓も戸口もない、と言いますが、それは今の時代の家族的なつながりとその同心円上にあるモノを否定しているからなのです。なので前回
たしかに「核家族」は諸悪の根源でしょうし、その形態が破綻するとなれば、あたしはもろ手を挙げて喜びまくるかもしれない。
と書きました。
あたしは家族的なつながりを否定した上で、窓も戸口もない個人が〈世界〉に感染するためには「街的」が必要なんだよ、と言いたい。しかしそれはライプニッツや田邊元の受け売りでしかないし、実際に可能なのかどうかもわかりません。
さらに「街的」がなくなっている今、「個人」にそれを押し付けるのは、とんでもない負担だろうな、とも思っています。なにしろ「街的」がないところでのモナド的な接続とは、剥き出しの魂同士の接続ですからね。剥き出しにできる魂がなければそれは無理です。
江とあたしが、なんだかよくわからないけれども繋がっているのは、多少なりともそういうもの(剥き出しの魂)の接触があるからだろな、とは思います。なのでそれは不可能なことではないとは思います。しかしそれを「家族」から考え始めるといけません。
家族は剥き出しの魂でなんかつながっちゃいません。家族は(西田幾多郎風に言えば)〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉、つまりは想像界でつながっている。そういう西田幾多郎がモナドを言う田邊元を「(田邊には)子供がいないから〈種の論理〉なんだ」というような批判をし、「あいつはファッショだ」とまで言うのですが、まあ、それはありだろうな、と思わざるを得ないのですよ。
なので、上の引用につづけて
けれども「家族」という形態だけはどうしようもないな、と。
とも書きました。つまりあたしは家族的なつながりとその同心円上にあるモノを否定しているのですが、そのほぼ同心円上に(少し軸はずれている)しか「街的」は存在し得ない、とも考えているわけです。 ああ、なんたる矛盾――だからめちゃくちゃになるのですよ。(笑)
母としての家族、というか父の不在
「家族」は母性です。「家族」の接点とは想像界的なんです。今はそれが益々強烈で、マザコンならまだしも、親も子離れできません。最近は父親にも子離れできない人が多いと聞きます。父は不在なのです。それはあたしの勝手なラカン解釈の言うところでもあって、つまり(今の時代の)「家族」は想像界でしかつながっていない、とね。
象徴界(中景)にあったものがぶっ壊れれば、「家族」は「近景」にしかならないんですよ。ほんとうは、親父が出てきて、「母ちゃんのおっぱいは父(オレ)のもんだ」と言うのがスジなんだけれども――そのことで家族はぎりぎり「中景」側に振れる――、今やそんな昔の父親(象徴)なんかいないわけで、その代わりに象徴界に居座った「交換の原理」があたしらを(ただでさえ不完全なのに)ますます不完全に去勢してくれています。
だから最近の子供は最初から去勢不全の消費主体なんだろうし、その消費主体が求めるのは益々想像界的な接点でしかないのでしょう。つまり中沢新一のことばを援用すれば、
単子(モナド)と同じように、そのような個体にはいわば「窓がない」。異なる個体同士を包摂して、そこにコミュニケーションを実現してくれるような、一切の安易な回路はそこにははじめから存在してはいない。このような個体性を、外延として表現してみれば、それはまさしく「点」にほかならない。このような点には、もちろんのこと窓とてなく、点と点を結びつける媒質も、想像界によらないかぎりは、現実(リアル)としてはない。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p321)
ということなんだろうな、と思うのです。消費主体としての個人を「モナド」などと呼ぶ気はあたしにはさらさらありませんけれどもね。
想像力・創造力
ただ、あたしらのリアリティは今や想像界にしかないのはたしかだし、想像力はそもそも想像界と現実界の交差でおこなわれれるマッシュアップでしかない、というのがロラン・バルトから教わったことです。
そのマッシュアップのデータ保存庫である象徴界には「交換の原理」(資本の理論)が並べてくれたデータ(商品)しかないとしたら、想像界と現実界(遠景・欲望)がいくら機能したところで、その想像力・創造力はたかが知れているのでございますよ。
つまり、あたしらはモノ(商品)にあふれた生活しか想像できななくなってしまっている。それも脊髄反射的にだからどしようもない。みなさん反省(内省)なんてことは忘れてしまってます。It's just imagination they lack.であります。
あたしゃこれが動物化なんだろうなと思うのですが、そこにカタログ的な雑誌は余計なお世話的にデータを提供し続けてくれます。象徴界にはガラクタが溢れている。想像力はそのデータを使ってしか働かないのに、です。だから人間がなに考えるぐらいはある程度想定済みなんでしょうな、マーケティングというやつは。
「いま―ここ」でナマの身体付きのリアルなコミュニケーションがやり取りされる場というのは、今流行りの「カフェ的店」が典型で、その北欧的なセンスを自分の部屋に取り込もう、なんて雑誌の特集 がされている。[江:「家庭の幸福は諸悪のもと」と太宰は言うた。それで泣いてるのは街だと困る。]
はい、そのとおりです。
うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。
それじゃ諸悪の根源は「交換の原理」(資本の理論)なのか、と言えば、そうでしょうな、とあたしも言います。近代化というのも悪者にちがいありません。そしてそれらと結託した「家族」も諸悪の根源になってしまいます。太宰治「曰(いわ)く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。
太宰治に関してはあたしのブログではひとつだけ触れたものがあります。それは[初心者のための「文学」。(大塚英志)]というもので、そこであたしが、ああ、成る程な、と思って書き留めたのは、太宰治が戦争を「わくわくした時代」として描いたことについての大塚英志の言及なのです。実際に戦時下で書かれた太宰の作品『女学生』という短編を読んでみるとこんな一節があります。
郵便函には、夕刊と、お手紙二通。一通はお母さんへ、松坂屋から夏物売出しのご案内。一通は、私へ、いとこの順二さんから。こんど前橋の連隊へ転任することになりました。お母さんによろしく、と簡単な通知である。将校さんだって、そんなに素晴らしい生活内容などは、期待できないけれど、でも、毎日毎日、厳酷に無駄なく起居するその規律がうらやましい。いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。私みたいに、何もしたくなければ、いっそ何もしなくてすむのだし、どんな悪いことでもできる状態に置かれているのだし、また、勉強しようと思えば、無限といっていいくらいに勉強の時間があるのだし、慾を言ったら、よほどの望みでもかなえてもらえるような気がするし、ここからここまでという努力の限界を与えられたら、どんなに気持が助かるかわからない。うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。戦地で働いている兵隊さんたちの欲望は、たった一つ、それはぐっすり眠りたい欲望だけだ、と何かの本に書かれて在ったけれど、その兵隊さんの苦労をお気の毒に思う半面、私は、ずいぶんうらやましく思った。いやらしい、
煩瑣 な堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、じつに清潔で、単純で、思うさえ爽快 を覚えるのだ。私など、これはいちど、軍隊生活でもして、さんざ鍛われたら、少しは、はっきりした美しい娘になれるかも知れない。軍隊生活しなくても、新ちゃんみたいに、素直な人だってあるのに、私は、よくよく、いけない女だ。わるい子だ。(引用:青空文庫)
「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。」なのですよ。江が紹介してくれた『家庭の幸福』は戦後の作品ですが、そこにあるのは、「うんと固くしばってくれる」モノが無くなってしまった、つまりはかつてあった象徴が壊れ、そこに「交換の原理」が入りこむことで、「家族」のもつ想像界性が浮かび上がってきた時代の不安なのじゃないでしょうか。(太宰の戦後は3年しかありませんでした。このあと玉川上水で入水自殺してしまうのですからね)。
「交換の原理」への抵抗装置として想像界
確かに「家族」は諸悪の根源です。象徴界にあるもので、がらっと性質を変える諸悪の再生産装置なのですから。だからと言って「交換の原理」がさらにその勢力を強め、〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉も壊してしまえばいいのか、と言えば、なんかマルクスだよね、とあたしゃ勝手に思うのですね。(笑)
資本の流通にとっては、〈情愛〉のような、ねとーっとして、換金できないものは、自らの流れの邪魔(抵抗)でしかないわけで、「交換の原理」の強調は、想像界に宿る情や理性を断ち切ることで、家族さえもさらさらに微分しようとするんでしょう。
かと言って、そこから生まれてくるものはスティグレールのいう「固体化」じゃないし、モナドでもない――つまり家族を解体したところで新たな「街的」、共同体性がポンと生まれてくるわけでもない。それでその代わりに外部装置としての「制度的有責性の大枠」はつくります。曰く、法令順守、コンプライアンスですよ。
しかしね「交換の原理」への抵抗装置として〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉を排除したところで想像界はなくならない。それどころかウェットで乳臭い処へ人間は避難し始める。インターネットもそんなものです。みんなインターネットという母体に臍の緒を接続しているようなものです。
なので、逆説的ですが、マーケティングはいつも正解を出せないので、ざまあみろ!なんですよ。「交換の原理」がいくら家族に擦り寄ろうとも、「家族」の接点である想像界は、つかみきれないウナギのぬるぬるなのでございます。まあ〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉の裏にはなにか悪意が隠されているので、そういうものは表出しやすくなりますがね。
街的という野蛮人
芥川龍之介の『侏儒の言葉』には、
文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持ってゐなければならぬ。
というフレーズがあります。〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉というのは芥川の言う「野蛮人」なんだろうな、と思うのです。消費主体である都会人でも、その魂の奥底に、〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉を持っていなければいい文章はかけないよ、と読めます。
あたしはここでの芥川の主張は「文を作らんとするものは」にあると考えています。文を作るとは、内省・反省の行為としての自己言及のことですよね。しかし今のあたしらのデータベース(象徴界)には、自己言及のためのデータ(語彙)がない。並んでいるのは商品というガラクタです。商品並べて自己を語っています。そこに野蛮人はいません。
だからね、いつも同じことを書きますけれども、あたしゃ家族の同心円上にあるようで、じつは少し軸がぶれている「街的」っていうのを象徴界のデータベースに紛れ込ませてしまいたい(上書きする、ってことです)。
「街的」にも〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉があっていい、と言うか必ずあります。野蛮人がいます。だからこそ、「街的」が作る文章にあたしは魅せられている。ただその比重は「家族」に比べればずっと小さなものになる、と言うのは、それは基体だからです。「家族」がつくりだす〈情愛〉とか〈悲哀の愛〉は基体であってメタ情報なんですよ。たぶん。
「街的」は言ってみればそんな基体の上に書かれた、しかし明文化されない「うんと固くしばってくれる」モノです。それはあたしらが家族的に利己的であるが故に家族の枠を超えて利他的に作ってしまったものですよ。
昨年、大阪での江の公演を聴た感想を、あたしはこう書いています。
しかし江弘毅は、ここで立ち止まるようなまねはしないのだ。彼はここから、地域再生を考えるわれわれにとっても、実践理論としての価値を有すると(私は)思う視点へと、思考のジャンプをおこなうのである。 それは、 共―身体、共―欲望としての街場は、つまり共同体は、まだちゃんとあるところにはあるじゃないか、と、つまり今ある「街的」を示すという手法である。(私は彼のこの目の付けどころにほれたわけだ)。 『「街的」ということ』の卓見は、今もまだ残る「街的コミュニケーション」に、共同体性の逆襲の可能性を見出そうとしていることだ(と私は思う)。 [江弘毅講演について、若しくは「街的ということ」は実践の哲学であることについて。]
だからあたしは「街的」なデータを採取し、それを記録に残したい。消費者じゃなくて生活者としてね。そういうデータが少しでもミーム的に成功したら(〈他者〉の脳みそに入り込めたら)、そしたら「街的」は少しはリアリティを持てるかもしれません。それも象徴界にです。
しかしこの「街的」を書くのはとても難しい、しんどい。なぜなら、あたしの持ち合わせの語彙でさえ、象徴界に「交換の原理」(資本の理論)が並べてくれた商品でしかないからです。しかしそのデータ(象徴)の一部否定さえできれば、その途端に〈世界〉は広がるんだろうとも思っていますよ。そのためにはミシュランに頼らずに街に出なくてはなりません。
2007年12月21日 12:48
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