世間がいう「不適切な表現」とは、そもそも由緒正しいイディオムです。

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ポスター

黒石神社の蘇民祭のポスター黒石神社の蘇民祭(岩手県奥州市)は、そのポスターの掲示をJRが拒否したことで、テレビ村的にはたのしい話題を提供してくれてました。

AA(アスキー・アート)というブリコラージュです。 

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「全裸は公然猥褻に該当し警察として措置する」

不適切な表現

スカパーでもっぱら古い日本映画ばかり観ているあたしは、「古い作品のため不適切な表現が含まれていますが……云々」のテロップがでる度に、「(不適切な表現なんか)ねぇだろうよ。」とTVに話しかけている怪しい人ですけれど、世間がいう「不適切な表現」とは、そもそもは由緒正しいイディオムです。

イディオムとは、あたしらの世界(IT業界)では、ソフトウェアのアルゴリズムやプログラミングのノウハウ、チップを集めたもののことですが、本来は「ある国家、民族、地方に固有な言語」、つまりは「地図」のある言語のことで、江がいみじくもこう語ったものです。

そこの店にはそこの言語体系みたいなものがあり、初めは全然分からないのだけれど、子どもが言葉を覚えるようにしてその店の「世界」につながってくる。

「言語そのもの」なんていうのはどこにもありませんが、国、民族、地方、職業、ついでに「店」といったさまざまな集団には、それぞれの刻印が押された固有の言葉使いはあるわけで、そういう集団(つまり「われわれ」)の中に「私」の言語が形成されるプロセスはあったりします。

そして「私」は、さまざまな集団にレイヤー的に(@江弘毅)属していることで、(「私」の属する)集団は、新しい言語の取り入れ口をもつことにもなり、つまり「私」の言語の変化は、集団の言語にも影響を与え、「集団」の言語の変化は、「私」の言語にも影響を与え……と、これが螺旋的に、同時多発的に起こるプロセスであることで、言語(イディオム)は変化しながら生きている(進化している)「種」(「われわれ」)なんだと思います。

イディオムはパトリの言葉であって、

現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されている。同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。

と江戸前な内田先生は(神戸において)言えるわけですが、しかしそういうイデオム感が欠如すれば、「小学校から英語を教えろ」というべらぼうなことにもなるんでしょう。

相手を敵とみなし邪悪な存在として否定することで、それに対立する自分たちを善とみなす。

あたしは灰色が読めない方とは(できれば)お付き合いしたくないといっているわけですが、灰色が読めないとは、白黒思考なわけで、つまりは〈差異〉が読めない、〈差異〉の存在が許せない、ということです。

〈差異〉が許せないのはイディオムがないからですが、イディオムがなければ「私」の言葉がない。であれば機能代替的に「みんな」の言葉である、標準だと思われる言葉(それが日本語=標準語ならまだしも、英語とかローマ字にしろ、とかいうべらぼうなやつもいるわけですが)を使います。

そういう標準語的な言葉を使う傾向が長期に亘れば、岸和田の言葉も、浅草の言葉も、野蛮人の言語にしか思えないのは当然で、そこで生まれるのは標準=善/標準以外=悪、という対立です(たぶん)。

このような対立を持ち出す人は、まず、《相手を敵とみなし邪悪な存在として否定することで、それに対立する自分たちを善とみなす》(@たぶんニーチェ)なので、この対立は争いをつくります。「ミーツ」の中吊りポスターを、「不適切な表現」だというのも、標準語的な言葉を長く使う傾向にある方じゃないでしょうか。

一方、灰色が読める、〈差異〉を認めることは、「われわれ」や「私」の特徴なのですが、逆らって闘うべきものは必要だとは考えますが、それは争いではありません。(しかしラディカルです)。

自分が逆らって闘っているその相手の傾向が、実は自分がその戦いで守ろうとしている傾向にとっての条件なのだということを理解しなければなりません。(ベルナール・スティグレール:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』:p128)

「われわれ」のルール

「われわれ」には「われわれ」の刻印の押されたルールがあります(イディオムと同じように)。それは外部にある標準語的なルールとは〈差異〉があり、日本人は本音と建前が違う、といわれてきたわけですが、それは「われわれ」と「私」が機能していたからこそで、そこでは、「われわれ」間にある〈差異〉も重視されます。

黒石神社の蘇民祭で裸になろうが、それは石黒神社の氏子(「われわれ」)のルールであって、「われわれ」でない者が、そこに口出しするのは「われわれ」的にはルール違反です。岸和田のお祭りに、浅草の人間が口を出すのは、お門違いというもので、余計なお世話でしかありません。

しかし、事前に「余計なお世話」であることが理解しあえる共同体のルールが、〈交換の原理〉によって駆逐され排除されれば、世の中、均質化された建前(標準)ばかりになってしまいます。そして建前が傾向として続けば、いつの間にか本音に倒錯してしまう。

岩手の裸祭りでの、警察の事前警告も、本来は建前なんでしょうが、それが建前に聞こえないことに、今回の騒動の不気味さはあって、そういうものを、本音として発動させている「みんな」もいるんだろうなぁ、と。だからJRはポスターをはらなかったのでしょう。あれは標準としては「猥褻」だと、排除すべき対象だという圧力は存在した。それは実際にはなくてもパノプティコン的に機能する環境管理型権力としてあるものです。

しかしそんなことは、「われわれ」にとっては余計なお世話でしかないのであって、灰色の人々である石黒神社の氏子(「われわれ」)の皆さんの対応は、非常にクールでありました。

失われる自由 

いまの時代に、建前としての法律や世間(「みんな」)からの要望に逆らって、本音を通すのは難しいものです。

例えば、談合は、いまや法律で禁止されています。あたしは、談合は、共同体性的贈与が生んだ、典型的な共生システムだ、と考えている人なんですが、「競争こそが個人の自由を最大限に生かす」という、つまり「生き残るために闘え!」イデオロギーの前に、あたしたちは談合をする自由を失ってしまいました。しかしそんな自由を主張するものならば、あたしは犯罪者であって、はい、お縄 (^O^)/です。(これは、「ハイ、オパピィー」の調子で読んでください)。

ケータイの電子マネーで電車に乗り降りできるのは便利だけれど、キセルする自由を失う、といったのは東浩紀でしたっけか? 

岩手の裸祭りも、「われわれ」的には、裸になる自由を主張していたわけで、「みんな」のルールとの争いになるのかと少々心配もしていたのですが、そこはさすがに座敷童の岩手県です、本音と建前をうまく使い分けたように思えます。

「みんな」と「ワシら」と「われわれ」と。 

「みんな」のルールをつくっているのは、世間=「みんな」でしかないわけですが、それは「私」という一人称単数を引き受けず、自分の存在の意味を問うこともなく日常に埋没して、「個」としての責任をとらない普通の人々=世人(@ハイデガー)でありましょう。

斎藤環さんが、象徴界はなくなったのではなく、いまはそこに「世間」が居座っている、とどこかでいっていた(と思う)のですが、つまり斎藤さんのいう「世間」とは「みんな」のことでしかなく、それが象徴界にあることで、江のいうように、「みんな」と「ワシら」は違うけど、ひっついてるな、になります。

「みんな」と「ワシら」そして「われわれ」はよく似ていて(というか居場所が同じ象徴界なので)、欲望/欲動を区別するイデオム感(若しくは自己/自我を区別する)がないと、全く区別がつかなくなります。

ボロメオの結び目と「私」「われわれ」「みんな」
ボロメオの結び目と「私」「われわれ」「みんな」

象徴界に「みんな」がいることの問題
生きづらさと「われわれ」が欠けているという思い

暦と地図

その「みんな」をつくる中心にテレビ村はあるのですが、しかしそのからくりは意外と簡単なんだと思うのです。暦と地図をテレビ村がつくるだけでいい(正確には地図は壊しっぱなしでしょうし、イディオム的には流行語大賞がありますが……)。

「われわれ」は、暦と地図で束ねられている集団で、暦は「私」が「われわれ」として集う日であって象徴です。岸和田のだんじり祭りも、浅草の三社祭も、きちんと暦があり地図があります。(それはあたしたちが生まれる前からの「われわれ」のストックとしてです)。

浅草は浅草寺を中心とした様々な宗教的(観光的?)行事を中心とした暦で動いて、と同時に、あたしには、あたしが属するさまざまな集団の暦があり、それらの重なり合いで、あたしの暦(時間)はきまっていきます。

自分たちのことを「われわれ」と言えるためには、同じ暦と地図のシステムを共有していなければなりません。(ベルナール・スティグレール:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』:p42)

あたしは時々暦の一部否定をして、空白の時間をつくったりしますが、それも(あたしが生まれる前から続く)暦があるからできることで、暦を全否定しているわけではないのです。「われわれ」の暦がなければ、あたしの暦はいつでも空白ですから。

地図とは地元のことで、テレビ村が地図を壊しっぱなしにしているというのは、まさに、

テレビ村には境界がないから「地域」がない、「地域」が存在しないということは、自分が実際に立っている地面のそのものの範囲の場所つまり「地元」がない。

ということです。

あたしは「地面から生えてくるもの」という表現を使いますが、「街的」とは、暦と地図で「われわれ」を束ねている「地面から生えてくるもの」=地勢的なもので、テレビ村は、その「われわれ」の感覚を深く傷つけます。しかし「みんな」の感覚=欲動はくすぐります。江は、

消費者として誰かに「ターゲット」にされる、というのは「おまえの欲望はこれだ」と指し示されているのと一緒でものすごくうっとうしいですね。

といいましたが、そういうものを、うっとうしく感じるのは、江が「われわれ」の人だからで、「みんな」の側にいる人は、うっとうしくもなんともなく、むしろ「われわれ」の暦と地図(象徴)がない(スケジュールが空白な)のであれば、その機能代替として、喜んでそれを使うのでしょう。ましてやそれを記録しているのは親しみ溢れるテレビなのですから。

大衆の音頭をとるのはつねに最新のものである。だが最新のものが大衆の音頭をとれるのは、実はそれがもっとも古いもの、すでにあったもの、なじみ親しんだものという媒体を使って現れる場合に限ってなのである。(ヴァルター・ベンヤミン:『パサージュ論 (岩波現代文庫)』)

欲望/欲動、自己/自我

テレビ村は欲望/欲動を、自己/自我を、区別しないことで、《欲動(欲望とは違う=これの混同は小泉政治バルブのようになるか、サラ金地獄が待っている)にうまい具合に働きかけてくる。》(@じゃがポックル桃知

江弘毅流にいえば、 

だからといって消費をやめることはできない。それは実際、まるで嗜癖的なんですが、「エエ服着て、エエもん喰うて、エエとこ住んで、エエクルマ乗って…全部しまくったけども、なんやピンとこない」となることは稀で、「服も、食べ物も、マンションも、クルマも、○×も、もっともっと」とし向けていく。そして○×はいつも空虚にちがいない。

テレビ村は欲動と欲望をとっちがえさせながら(というか〈欲望〉を萎えさせながら)、それを消費に誘導することに成功しているわけですが、それは、テレビ村こそが、「みんな」の暦をつくっているプロセスであるからでしょう。つまり「みんな」はテレビ村の暦に束ねられた「消費者」です。

「みんな」の暦には地図がありません。節分のときに恵方巻を食べるなんて、元々は関西のごく限られた地域の、ローカルルール(「われわれ」)なのでしょうが、テレビ村(とコンビニの共同体)は、それを全国区(「みんな」)にしてしまいました。おかげさまで、あたしも今年は食べましたよ。あたしの暦にはないものなのですが。

そんな「みんな」の暦は、いまやいくらでもあるわけで、クリスマス、ワールドカップ、オリンピックなんかはワールドワイド、グローバルです。家族に目を向ければ、一家揃って朝食も夕餉もとらないような勝手な暦になっていて、一人一台のテレビは、世人の暦と化しています。

つまりハイパーシンクロニゼーションは、ハイパーディアクロニゼーションを生み出します。(@スティグレール)

あたしらは毎日「みんな」としてテレビ村の暦で動いています。そしてこのプロセスに抗するのがなかなか難しいのは、「みんな」のルールに抗するのと同じです。

キアスム

抗する手段があるとすれば、江がいう《だから「ワシら」は考える、の1回転半ひねり。》ぐらいですけれど、それには、

「考える力」というというものは、「考え方を考える」ということで、「あらかじめ正解の知られていない問い」あるいは「そもそも正解のあり得ない問い」について考える能力である。

は絶対に欲しいわけで、それを江は「キアスム」といってくれました。しかし「キアスム」も「私」と「われわれ」がないと機能しないのです。

キアスム
Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
神話のアルゴリズム(@クロード・レヴィ=ストロース)

キアスム交差図式の蝶番にある「b」は、状況を反転させるトリックスターですが、ここにテレビ村がくれば、あたしはテレビ村に(消費者として)ひねられる。「世間」がくれば「世間」にひねられますが、しかしそれは世人的には快適なのです。

「みんな」のルールに抗するとき、「b」は他ならぬ自分でしかないわけで、「b」である自分がトリックスターであるには、「全人格をもって出来事を引き受ける」ことが出来なくちゃいけない。そうしないことには、あたしは状況に働きかけができません。

しかし全人格とは「私」であり、「われわれ」なのであって、だから「われわれ」がなければ「キアスム」も機能しないわけで、「みんな」であれば同質化するしかない、ハイパーシンクロニゼーション。

ここで万事休す。なので、あたしは、〈キアスム〉ができないという状況、〈前―キアスム〉から、ラディカルに「逆らって闘う」をやっている(つもり)ではありますが、しかしこれを、一人でも多くの方々に、と考えていくと、ほぼ絶望的になって、「あぁ、厭だ、厭だ」(@樋口一葉)と腹をくくるしかない。

あたしがあらわにされる問い

教育の問題は、内田先生にまかせておくとしても、ここであらわになるは、「街的」を語るあたしの姿勢と戦略なわけで、あんたはその絶望的な状況でなにをしているのか、ということでしょう。

それは、「答えがでないような問い」でしかないなのですが、能天気で絶望しないという特性を持つあたしは、川俣正さんの言葉を(無責任に)自らの戦略として引用してしまうのです。

とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくことが一つの方法になるかもしれない。(川俣正:『アートレス―マイノリティとしての現代美術』:p45)

ここでいう巨大な流れは、テレビ村ではなく、具体的にはインターネットという情報の技術です。それは楽観的かも知れませんが、希望がないわけでもありません。インターネットには、「私」の、「われわれ」のイディオムとしての《テクスト》が存在できる可能性が(まだ)あります。(インターネットもテレビ村化が進んでいて、「詳しくはホームページで」的なCMが氾濫していますけれども)。

インターネットは、(その気さえあれば)自分は、自分の言葉で書いた《テクスト》を、公衆の面前に紡ぎだせるわけですが、それは「私」になる過程、つまりプロセスとして可能だろうと。つまりは日本語というイディオムで《テクスト》を書くことで、「私」へのプロセスに参加できる可能性がある、と考えていたりするのです。そこには日本語の特性が大きく関与していますが、今回はそれにはふれず。 

そこにパトリ(地図)を満ち溢れさせることで、あたしはさらに「私」になれる可能性を孕んでいるだろうとも思うのです。だからあたしは、「んげ」「ほげ」ではなく、ちゃんと日本語で「書け!」と無責任にいうのですと云爾。

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2008年02月19日 21:02

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