自営業者が「街的」であるには、昼間から飲める居酒屋のある街でなくてはならない。

Twitterでつぶやく

暗い予言で2009年は始まりましたが

あたしが知っている限り、最も暗い予言で始まったのが2009年、つまりは今年なわけですが、「街的」は、市場原理主義とかグローバリズムに対するオルタナティブのようなものですから、その「最も暗い予言」も、市場原理主義とかグローバリズム依存ヘタレに対してのものであることで、(ある意味その)対極にある「街的」は、意外とタフさをみせるかもしれません。

グローバルな市場競争が、特定の個人や企業の利潤獲得機会と、特定の個人や企業の自由を拡大したことはたしかでしょうが、普通の人達、つまりは、サラリーマンや、中小企業の経営者や、商店主にとって、グローバルな世界での自由の拡大なんていうのはまったく不要な欲望(ニーズ)だったわけで、そんなことより、ローカルな生活の安定の方がずっと大事なものだ、と「みんな」もようやく気付いてくれたのが2008年です(たぶん)。

それが大事だと思える社会になるには、ナイーブに、構造改革をやって市場原理を導入すれば「幸せ」はやってくる、と考えることからの転換を図らなくてはならないのですが、最も悪いカタチで、その転換期が訪れたのが今なのかもしれません。

その意味で今年は、「豊かさの再定義」元年になるとあたしは思っていますが、「街的」は、この「豊かさの再定義」を再定義することも、そもそも定義さえしたこともなく、ずっと地でいっているわけで、なので、(町内会的には)「沈まない太陽も無い代わりに、昇らない太陽もないのであって、明けない夜はありませんぜ!」などと無意味に前向きに生きていたく思う今年の一発目であります。本年も宜しくお願いいたします。

経済人仮説は便利すぎるから信用しないのである 

前回、江が引用してくれた京都の寺町商店街の和菓子屋の娘さんと、漢字を駆使して完璧に日本語の読み書きが出来るフランス人学生さんの引用テクストは、面白い、というよりも、個人事業主的テクストであることで、一介の(あんまり働かない)ひとり商売人であるあたしには、たいへん勇気付けられる一文でした。(仮称)「街的合資会社」を立ち上げるなら※1、此のお二人は文句なく採用です(もっともあたしが上司じゃ厭だ!と言われるのがオチでしょうが)。

このお二人をみてもそうですが、「街的」な人間というのは、古典的経済学が想定する人間―経済人(ホモ・エコノミクス)という人間像を使わないのが特徴です。それは経済学なんて知らないからなんでしょうけれど、それよりも大きな理由は、経済人仮説はあまりに便利過ぎるからです。

町内会的には、便利すぎるものは信用しないことになっている。これは定理です。「街的」な人間は、複雑さと厄介さを好みます。その意味で「街的」は経済学ではなく社会学なんでしょうが(あたし的には民俗学だと思っていますが)、けれど、人間はそれぞれに違う、などと今更にいうのも気恥ずかしいわけで、なのであたしは「広義の自営業者」を「街的」の人間像(モデル)としていたりするわけです。

広義の自営業者と家族主義的人間

「広義の自営業者」はあたしの造語ですが、その意味は、「昼間から飲める居酒屋のある街の人」※2 であったりするべらぼうさで、これじゃわけがわからない。なのでちょっと高尚に、と背伸びしたりするのですが、すれば、エスピン・アンデルセンのいう、自由主義的人間、家族主義的人間、社会民主主義的人間という分類があったりします。「街的」な人間は、アンデルセンのいう「家族主義的人間」に近いわけです。※3

アンデルセン曰く、家族主義的人間は、アトミズムと人間性―市場と個人主義を嫌い、自由とは、彼と彼の家族が自分たちを取り巻く大きな世界から生み出される絶え間のない脅威から自己を守ることを意味し、彼は、周りの世界に挑戦しようとする、抑えがたい衝動に駆られた敏腕のやり手ではなく、最小限を充たすことで満足する人であり、最大限を追求する人ではありません。

さらに家父長制をよいものと見なしているし、彼らにとって、家族とは連帯とコミュニティのこの上ない源泉であり、(ここが重要なんですが)国家あるいはなんらかの上位の組織があらゆる不幸のリスクを排除してくれることには全面的に賛成。けれど上位の組織は家族に支援を提供するために存在するのであって、忠誠を強要するものであってはならないのです。

パトリとは国のことではない
自営業者のいる街のことである

種の論理あたしは「パトリ」をいう人ですが、パトリとは国ではない、といい続けています。国家は「類」であり、パトリは「種」です。国家に依存するだけの保守主義者も社会民主主義者もヘタレです。

「種」と「個」の関係こそが「街的」なのであって、「種」は均質的に意見一致の国民の集まりでもなければ、単なるバラバラの個人の集まりでもありません。

種的な共同体というのは、もちろん「個」の自主自由な活動による多様性を孕むわけで、つまり「種」は「個」の変化によっても変化もします。

しかしそれは無意識な束縛性、つまりは構造の範囲内でです。このような関係性に他治即自事(自律的であると同時に他を配慮した束縛性)として「個」は存在します。それが「」であり「われわれ」であり、「街的」であり、「広義の自営業者」だ、とあたしは考えていたりします。

そしてこのような自律的かつ自由な「個」によって、「種」に内在する不平等性が否定されるなら、「種」は自身で「類」に飛躍していくことが可能になる(@中沢新一)、なわけで、なので「国家あるいはなんらかの上位の組織があらゆる不幸のリスクを排除してくれることには全面的に賛成」したりします。それはヘタレではないと。※4

しかし、今年を暗い時代にしてしまった市場原理主義とかグローバリズムというのは、アメリカ「種」が(「類」ではなくある種の「種」=多様性を認めない「種」=それを「種的類」と呼んでいます)が他の「種」を潰しにかかっていたということでしょうし、その方法は、「個」を「消費者」として均質化してしまうことだったと。その均質化された「個」が「みんな」です。

「種」(共通の価値によって結びついた、ある規律を持ち、広い意味での道徳観念を持ち、人をそこに縛るものとしてのコミュニティ、共同体性)は、市場原理や、規制緩和や、金融資本主義からは、生まれてこないものですね。(以上、精華大の学生さん向けに書いてみました)。(笑)

浅草の「街的」とパトリと

年末に江が、『街のアウラとか、「いま―ここはよそではないいま―ここである」と「わたしはあなたではないほかならぬわたしである」の関係性の網の目であるみたいなことをひっくるめて説明しようと思いますが、(中略)(桃知流の)「パトリ」とは、ということを浅草の例を交えて説明してくれませんか。』とメールをくれましたね。

あたしは、ドーキンス先生の『遺伝子淘汰の観念は、素朴単純に原子論的なわけではない。なぜなら遺伝子は、「容れ物」を共有する可能性がきわめて高い他の遺伝子と生産的な相互作用をおこなうことによって淘汰を生き残るからである。』(@ リチャード・ドーキンス:『悪魔に仕える牧師』:p339) を引用しながら返事を書きました。

浅草は他の東京の街に比べれば、少々利己的な商売人が多い街だ。街中小さな店だらけで、それは浅草寺という究極の集客システム(子宮的構造)とそのアジール性からだが、戦後失われた共同体の、機能代替えを担った「会社」は極端に少ない(大会社ってあるのか?)街である。会社を名乗るところもあるけれど、浅草の商売人も職人も、基本的には広義の自営業者でしかない。

だからジャスコもなければヨーカドーもない。ましてやビトンやフェラガモもない。ドルチェ&ガッパーナなんて、なんのことだかわからない。けれどユニクロはある。

勤め人も少ない。24時間テキトーに過ごせる人は沢山いるけれど、24時間働けるエリートサラリーマンなんか見たこともない。いってみれば遺伝子レベルでは、あんまし優秀でもない個の集まりなのだ(今の会社至上主義の社会では、ということではだよ)。 (ノスタルジアとパトリと浅草と。 from モモログ

つまりは、ドーキンス先生のいう「容れ物」が浅草の「町内会」だということですが、それが可能であったのは、浅草が「広義の自営業者」の街だったから(たぶん)、とあたしはいいたいのです。※5

※注記

  1. これは、ほぼ編集をしない140Bのようなものなんだけれど、ちょっと真面目に考えていたりする。
  2. 「昼間から営業している居酒屋」。それをもてるのは、自分の時間を自分で決められる人々の住む街だけだ。 from モモログ 参照。
  3. 自由主義的人間、家族主義的人間、社会民主主義的人間―『ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学』 G. エスピン‐アンデルセンより。 from モモログ 参照。
  4. 「個」は「種」から生じますが、「種」は「類」から生まれるものではありません。「類」の基体は「種」です。まず国家ありきではない。つまりは町内会の集まりが国家だと考えてみると、そこにあるのは「他治即自治」でしかなくて、そしてそこに流れるのは「種」が多様体でであるための必須要件である「個」の不平等の否定です。
  5. それであたしはこれがいいたくて、前振りを準備したのでした。それが『自営業者、中小企業の復活こそが雇用対策である。』 from モモログ です。
Technorati Tags: , ,
Twitterでつぶやく

2009年01月15日 00:41

このエントリーのトラックバックURL

http://www.140b.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/468

Listed below are links to weblogs that reference

自営業者が「街的」であるには、昼間から飲める居酒屋のある街でなくてはならない。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

トラックバック

コメント

コメントを送ってください




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)