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<title>あの駅のこと | 株式会社140B</title>
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<description>阪急電鉄の沿線情報紙『TOKK』に「阪急沿線 ちょい駅散歩」（2008〜16年）という、イラストで各駅を紹介する連載がありました。
時が流れ、街も人も変わってきました。当時の編集担当者と絵師も年を重ね、同じ駅・同じ街を歩いても、見える風景が違っていました。
そんな駅と街と自分たちの変化を味わいつつ、誰かに話したい「あの駅のこと」を描きに旅を再開しました。</description>
<pubDate>Wed, 11 Dec 2024 12:40:57 +0900</pubDate>
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<title>苦楽園口（甲陽線/西宮市）</title>
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<pubDate>Thu, 19 Jun 2025 00:00:00 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[
　阪急甲陽線の始発駅と終着駅の間に一つだけある苦楽園口駅は、大正13年（1924）の開業時は「越木岩（こしきいわ）信号所」だったが、翌年、駅に昇格した。駅の東にある苦楽園口橋から北を見れば、ポコンとお椀を伏せたような甲山（かぶとやま）が鎮座する。のどかで品のある駅前を眺めて、深呼吸して歩き出す。　東へ10分も歩くと見えてくるのは、広い空を映すニテコ池。北から上池・中池・下池と3段に分かれた貯水池で、「西宮市所管の近代水道関連遺産」として、2008年に経済産業省の「近代化産業遺産」にも登録されている。池畔を囲む桜並木、絵になるフォルムの取水塔、気ままに過ごす水鳥たち。心安らぐ風景に、肩の力が抜けていく。　日本にあるカタカナの地名には、なぜか興味をそそられる。「ニテコ」の由来を調べてみれば、“えべっさん” の西宮神社との浅からぬ縁があるらしい。福男選びで知られる1月10日「開門神事」の舞台・赤門の左右に連なる「大練塀（おおねりべい）」は、室町時代に造られた現存最古の築地塀だ。練った土を突き固めて造るため、良質な採土場だったこの地の土を人夫が運ぶ「ネッテコイ、ネッテコイ（練ってこい）」という掛け声が訛って、「ニテコ」となったのだという。その後、採土場跡に水が溜まって誕生した池がニテコ池だ。　ニテコ池の西側丘陵地は、戦前から高級住宅地として開発され、旧日本銀行大阪支店長や、住友グループ最後の総帥・古田俊之助、住友銀行社長・岡橋林（しげる）、岩井商店店主・岩井豊治ら、関西財界の重鎮が住まいを構えた。中でも、この地をこよなく愛したのが「経営の神様」と呼ばれる、パナソニックグループ創業者・松下幸之助（1894〜1989）であった。　幸之助は、下池西側の広大な土地を求め、昭和12年（1937）から足掛け3年もの年月をかけ、「光雲荘」を建設。書院造りに西洋建築を取り入れた大邸宅で、「300年後も日本建築の参考となるように」と、当時最高の建築技術を集めて造られた。松下家の客人や取引先をもてなす迎賓館としても使われ、家族ぐるみでもてなしたという。 　幸之助が綴った『光雲荘雑記』には、こんな一節がある。　ながめてあきぬ雲の流れ、味わってつきせぬ人の世のさだめ、　そんなことを私は光雲荘の庭に立ってシミジミと考えるのである。　当時のまま残る正門前に立ち、見事な松を見上げれば、社業を通して日本を良くするために、この地で思索を深めた幸之助の姿が、輪郭をもって立ち上がってくる（現在、建物は枚方市のパナソニックグループの研修施設に移設されている）。　そして、上池西側にはもう一つ「名次庵（なつぎあん）」という、幸之助が戦後に建てた家がある。ニテコ池から1本西側の道沿いに、表札が今も確認できる。妻・むめのとの暮らしは、松下家最後の執事だった高橋誠之助が書いた『神様の女房』（ダイヤモンド社）で垣間見える。　むめのは、仕事に出かける夫を、玄関ではなく、急な階段を降りた門の外まで、夏も冬も毎日見送ったという。　晩年には、ニテコ池の周りを夫婦でよく散歩した。夫が仕事に邁進できるよう支えた妻と、妻に感謝を欠かさなかった夫。大企業を一から築き上げた、激動の人生を二人三脚で駆けた二人にとって、誰にも邪魔されずに語らいながらそぞろ歩くのは、心が満たされた時間だったに違いない。


戦災の悲話と、震災の鎮魂と
　太平洋戦争が始まると、ニテコ池は華やかな暮らしとは対照的なエピソードの舞台となる。実はニテコ池は、野坂昭如氏の自伝的小説『火垂(ほた)るの墓』（新潮文庫）で、清太と節子が暮らした防空壕があった場所なのだ。太平洋戦争末期、家族らしい暮らしを守ろうとした14歳と4歳の兄妹。サクマ式ドロップスの缶を宝物にしていた節子の笑顔、蚊帳の中で二人を照らす蛍の光、妹を荼毘に付した煙を見つめる清太の虚ろな目。スタジオジブリのアニメ映画のシーンに、どうしても我が子を重ねてしまう。　私の子供も兄と妹。もし戦争になったら、両親がいなくなったら。親目線でのリアルな想像ができるようになった分、昔よりも清太と節子の物語が胸に迫り、涙なくしては見られなくなった。　隣接する西宮震災記念碑公園に、「小説 火垂るの墓 誕生の地」という文学記念碑があるので訪れた。ニテコ池のある満池谷（まんちだに）町に住む土屋純男さんが、小説の足跡が残る地元を郷土史家と共に調査するうち、野坂作品の顕彰と平和を願う記念碑の建立を目指して2017年から募金活動をスタート。約790万円が寄せられ、記念碑は2020年5月に除幕式を迎えた。アニメ映画のワンシーンも描かれた石碑には、阪急甲陽園駅の北にある［アンネのバラの教会］から贈られた、鎮魂と平和を願うバラがそっと寄り添う。　この公園には、阪神・淡路大震災で亡くなった西宮市関係者1,086人の名前を刻銘した追悼碑がある。震災被害写真のカラー陶板と共に、リアルな被災を伝えている。この連載の取材で阪急仁川駅から歩いて訪れた、仁川百合野町の地すべり被害も同じ西宮市なので、ここで記録を見ることができる。　どの石碑も陶板も細工が見事なので、調べてみたら、すぐ近くの中谷石材工業所が製作を担当したという。見ごたえのある記念碑を造ることで、たくさんの人が訪れ、戦争や震災の記憶を風化させずに伝えていける。そんな石工職人たちの気合いの入った仕事に感じられた。　『火垂るの墓』ゆかりの場所を歩いてめぐる歴史ウォークなども行われ、地域の歴史を伝える試みが続けられている。


年に一度だけ開放される、桜の園
　西宮市の市花は、桜。そのゆかりは西宮震災記念碑公園に隣接する、越水（こしみず）浄水場にある。浄水場完成の翌年、大正13年（1924）に、有志が100本あまりの桜の木を寄付したことが始まり。その後、桜博士として知られる笹部新太郎（1887〜1978）が、ヤマザクラなどの日本固有の桜を中心に移植し、地元の人たちの手で大切に育てられてきた。　越水浄水場は、毎年期間限定で「さくらの通り抜け」として一般公開され、夙川の桜並木に勝るとも劣らない見事な桜が楽しめる。阪急沿線のおでかけ情報誌『TOKK』の取材で平日に訪れ、静かな浄水場内を歩き、仕事を忘れて春を満喫していたら、突然のゲリラ豪雨に降られて、途方に暮れた思い出がある。　ちなみに、市花が桜ということで、阪急甲陽園駅の北にある「北山緑化植物園」内には、西宮市植物生産研究センターがあり、市オリジナル品種を開発・育成しているという。「宮の雛桜」「今津紅寒桜」「越水早咲き」「夙川舞桜」「西宮権現平桜」の5種があり、いずれも西宮ゆかりの雅な名前が付けられている。　さて気づけばお昼どき。一度苦楽園口橋に戻り、たもとに佇む［大正庵 苦楽園口駅前店］で遅めの昼食をいただくことにした。大きな赤い提灯が目印で、昔は普通の蕎麦・和食店だったように思うが、何かが違う。店先の黒板には「マラバール風シュリンプカレー」に「燻製5種盛」？？ 明らかに変わっている。　店長に聞けば、2019年5月に40年の歴史を閉じたが、閉店を惜しんだ現オーナーが店を引き継いだという。「食のドン・キホーテ」を目指し、おいしい食べ物と飲み物を幅広く揃える、使い勝手のいい店にチェンジ。メニューには、蕎麦はもちろん、ラーメン、カレー、一品料理も充実し、クラフトビールから焼酎、入手困難な日本酒までずらり。多彩なメニューを調理できる理由は、店員一人ひとりの得意料理を活かしているから。今は魚を扱うのに長けた人がいるので、「炙りサーモンの親子丼」がおすすめとのこと。お花見の特等席として桜の時期は特に混み合うが、普段は「ちょっと呑めて、みんなで食事できるお店」として、地元の人に愛されている。　注文した「シュリンプカレー」はスパイスをしっかり利かせつつマイルドで食べやすく、燻製をおつまみに、画家の綱本さんとお昼からつい一杯飲んでしまった。　夙川沿いの窓からは、桜、紫陽花、紅葉と、まるで絵巻物のように移ろう季節が楽しめる。目の前の川辺で友人たちと夜桜見物をした若い頃の思い出が浮かぶ。自由で、取り留めもない話を延々とした日々。燻製とビールが染みる歳になったものだ。
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<title>塚口駅（神戸線･伊丹線/尼崎市）</title>
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<pubDate>Thu, 12 Dec 2024 00:00:00 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[
　2022年秋、阪急塚口駅前が激変した。1978年に開業した駅前の商業施設「塚口さんさんタウン」にあった、のどかな昭和のランドマーク・屋上観覧車が姿を消してから久しいが、ついに3番館が取り壊されて、ピカピカの商業施設［SOCOLA塚口クロス］を含む16階の高層マンションに生まれ変わった。新旧のコントラストが強くなり、駅前の風景は一変し、周辺住民の暮らしも変わっただろう。TOKK連載時の『阪急沿線 ちょい駅散歩』（2008〜16）で描いた観覧車が、誰かの記憶に留まるといいが、街はどんどん変わっていく。まるで生き物のように、世代交代を繰り返し、姿を変え続ける。　まだ建て替えられていない1番館の地下に、映画を愛するファンが全国から訪れる聖地［塚口サンサン劇場］がある。学生の頃にここで映画を観た時は、梅田や三宮の大規模館とは違って、ガラガラでちょっと薄暗い映画館だったのに、いつの間に変貌を遂げたのか。きっかけは、シネコンの台頭により客足が遠のきかけていた2011年頃。映画の魅力をお客さんと分かち合い、楽しみ尽くす企画が、映画愛あふれるスタッフの創意工夫によって数々生み出され、お客さんも巻き込んで話題を呼び、奇跡の復活を遂げたのだ。　常識破りの復活劇は、中心となった名物社員・戸村文彦さんによる著書『まちの映画館　踊るマサラシネマ』（西日本出版社）に綴られているので、“塚口の奇跡”を知りたい人は、ぜひ読んでみてほしい。「他ではなく、ここで映画を観たい」と言わせる、サービス精神と遊び心満点の歩みは、映画化にもってこい。いつか自画自賛上映がかなうかもしれない。


街場の美味いもんトライアングル
　歩いていたらお昼どきだったので、塚口さんさんタウン2号館に君臨するカレーの名店［アングル］へ。しっかりと大鍋で煮込まれたカレーを求めて、遠方からもファンが足を運ぶ。メニューを眺めて「説明不要！ アングル最高傑作」のフレーズに、「特選和牛カレー」1,500円を注文。　厨房を囲むＵ字カウンターに座って待っている間、古い記憶が浮かんできた。アングルは、学生時代に付き合っていた人のアルバイト先だった。留学が決まってアルバイトを辞める彼に、激励金としてボーナスをくれた店長。感動して泣いていたあの人は元気かなぁ。そんなことを考えていると、目の前に真っ白なお皿に盛られた白米と、銀色のカレーポットが到着。ゴロゴロと大きい牛肉は口の中でほどける柔らかさ。綱本さんはもう一つの看板メニュー「ポークしめじ」を美味しそうに平らげた。　聞けば、カレールーに使うダシを取るためだけに、毎月1トン以上も牛バラ肉を使うという。そして帰り際、勝手口から見えた山積みのタマネギとよつ葉バターも、甘みが出るまで炒めてルーに。人を惹きつけてやまないカレーは、想像を超える手間暇をかけて、生まれているのだ。　アングルから数歩先の［スパゲティ専門店 タント］と［ピザ マーレ］はアングルの姉妹店。タントは「ベーコンなすスパゲティ」発祥の店だし、TOKKで取材させてもらったこともある。しかもディナータイムには、どの店からも3店のメニューを注文できるという！ 実直に美味しいものを作り続けているこんなシェフたちの店こそ、街の宝だと私は思う。


鏡開きは塚口の職人技あってのもの
　お腹も心も満たされて、塚口駅の北側へと出発。ほどなく、立派な庭付きの日本家屋が見えてきて、［株式会社岸本吉二商店］に到着。鏡開きでおなじみの「菰樽（こもだる）」を作る、今では全国で3社しかない貴重な存在だ（うち2社は尼崎市内にある）。白鶴・大関・剣菱・菊正宗・月桂冠・黄桜と、灘･伏見の有名どころの酒蔵が取引先に名を連ねる。　江戸時代から尼崎では、農家がつくる菰縄（こもなわ）を買い取って、伊丹や灘の蔵元に納める商売があった。今は住宅街だが、昔は田園地帯が広がり、酒処への地の利の良さからそういった商いが生まれたのだろう。岸本吉二商店は明治33年（1900）に創業し、今では全国の神社に奉納されている酒樽の半数以上を手掛けるようになった。　綱本さんは、長く尼崎の産業振興にも関わっていて、そのご縁で同社のパンフレットを制作。TOKK『ちょい駅散歩』で塚口の取材先を探す際、綱本さんからこのパンフレットを見せてもらい、美しく描き込まれた菰樽や躍動感ある職人の絵に引き込まれたことを覚えている。菰樽の制作工房にお邪魔して、酒樽に菰を巻いていく荷師の手際の良さに圧倒された。鏡開きは日本が誇る「お祝い文化」の象徴だ。関係者で木槌を持って酒樽を囲み、ヨイショ！の掛け声と共に勢いよく蓋を叩き割る様子は、なんとも晴れがましい。同社では家庭でも楽しめるミニサイズの菰樽も販売されていて、文化の継承に一役買っている。


大資本が勝てない「商店街」の素敵キャラ
　阪急伊丹線沿いを少し歩いて、真っ直ぐに走る阪急電車の線路を眺めつつ、塚口商店街へ。「塚口笑店街」と名乗り、キャッチコピーは「笑える今日がここにある」。地元の憩いの場たらんと、個性豊かな店主たちが知恵を出し合い、盛り上げる元気な商店街だ。その中心に「私、商店街のマスコットガールやねん」と笑いつつ、実はめっちゃよく働く副理事長がいた。［アリクイ食堂］の店長・吉井佳子さんだ。同店は、すべて手作りのお惣菜がおいしい家庭料理店＆カフェで、吉井さんが27歳でオープン。以来、移転を挟んで10年以上ファンの胃袋を掴み、塚口駅北改札口のマクドの角を曲がってすぐの場所で、昼も夜も料理を作り続けている。　実は彼女、私がTOKK編集部に入る前に、宣伝会議主宰の「編集・ライター養成講座」で学んでいた時の同級生。お互い20代で夢をもって、書いて、遊んでいた良き時代。幼い頃から漠然と「書く仕事につきたい」と思っていたが、就職氷河期もあり出版・新聞系の就職は完敗。システム会社に入社した私は3年目、「このままでいいのかな」と思っていた。たまたま書店で手にとった『編集会議』という雑誌で、講座を目にして興奮し、勢いで申し込んだのが、人生の転機となった。そこで学ぶ日々は、私にとって発見の連続。同じテーマで書いても、書き手によって全く違う文章が生まれる。自分の文章の持ち味やクセも思い知った。何より「書くことが好き」な仲間にめぐりあえたことが、一番楽しかった。　吉井さんは当時から人が大好きで、年の差を屁とも思わないキャラで、かつ人情にあつくて優しい人。今の「食堂のおかみさん」は彼女にぴったりだし、塚口商店街で生まれた「おかもち屋台（Uber Eatsの走りのようなイベント）」から「地元商店街の味を集めた冷凍自販機」まで、人をつないでアイデアを一緒に練り、盛り立ててきた。いつも「もう休みたい〜」と言いながら、人の世話を焼き、自分の店を切り盛りする彼女みたいな人が、この商店街にはたくさんいる。地元を愛し、ゆるくつながって、無理せずできる範囲で、お客さんの笑顔のためにちょっと頑張る。そんな思いで、居心地のいい「街」はできている。
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<title>小林駅（今津線/宝塚市）</title>
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<pubDate>Wed, 26 Jun 2024 00:00:01 +0900</pubDate>
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　有川浩の『阪急電車』。阪急今津線の宝塚を出発した電車が一駅ずつ進んで、西宮北口で折り返す。その流れの中で、たまたま乗り合わせた人たちが交錯する物語がミリオンセラーとなり2011年に映画化もされ、実際に阪急今津線の各所でロケも行われた。阪急挙げてのキャンペーンが張られて、当時私が仕事していた阪急沿線情報紙『TOKK』でも特集することになった。　撮影現場を取材して、遠くから見た中谷美紀と戸田恵梨香の美しさに、別次元だと驚いた覚えがある。作中の小林駅は、ツバメの巣立ちを見守る優しい駅として登場し、物語の後半には愛に裏切られた翔子（中谷美紀）が再出発し、新たな友情が始まる駅として描かれる。エレガントで華やかな印象のある阪急今津線にありつつも、人のあったかさを感じさせる小林駅の雰囲気が、作品に上手に生かされている。　ちなみに、小林は「こばやし」ではなく、「おばやし」。十三や夙川、売布（めふ）神社などと並ぶ、阪急難読駅名の一つだ。その由来は、古代この地に渡来人の林 史（はやしのふひと）一族が住んでいて、美称の「御林」が転じて「小林」となったという。　今日の取材は、綱本さんだけでなく、デザイナーの山﨑慎太郎さんと140Bの青木雅幸さんが一緒に来てくれた。山﨑さんは、綱本さんが誌面で「橋の話をしよう」（Vol.1～20）と「駅前オーライ」（Vol.21～26）を連載していた中之島発のフリーマガジン『月刊島民』（2008〜21年/リンク先からバックナンバーが読めます）のデザイナーであり、綱本さんの著書『大阪名所図解』のデザインも担当された方。出版社の青木さんも含めた3人は旧知の仲であり、そこに私が交ぜてもらったという格好になった。　総勢4人で駅東側を少し歩くと、酒販店や青果店、理容店など生活の香りがする店が並び、地元の人から聞いた「小林は下町だよ」という言葉に納得。それでも、神戸の春日野道や新長田、阪神尼崎あたりの猥雑さとは違う、下町といえども静かで品を保った雰囲気が、やはり宝塚らしいのである。


少女たちの青春を見守る、緑の坂道
　一度駅へ戻り、小林駅で一番有名なスポットを目指す。「塔の町（とうのちょう）」という地名の由来にもなっている、真っ白な鐘塔がシンボルの［小林聖心女子学院］だ。カトリック女子修道会の流れをくみ、大正12年（1923）に神戸・岡本に創立。同15年（1926）に、小林に移転した歴史ある私立学校である。小学校・中学校・高等学校があり、特に中学校のある本館は、アントニン・レーモンド（1888〜1976）が手掛けた建築だ。　レーモンドは、帝国ホテルの新本館の設計をするフランク・ロイド・ライトの助手として、大正8年（1919）に来日。後に独立し、東京女子大学の礼拝堂など7つの建築物やカトリック軽井沢教会など、教会やキリスト教系学校の建築を数多く手掛けた。小林聖心女子学院本館は、建具や階段の手すりなどは建築当時のものが残り、1999年に国の登録有形文化財にも指定されている。　小林駅の東改札から線路沿いの石畳の道を南へ向かい、低い高架橋をくぐるとそのまま坂道が正門まで約400m続く。昭和62年（1987）から平成5年（1993）まで、中学・高校と通ったＴさんは、四季折々の坂道の景色が強く心に残っているという。 「春から夏の緑の美しさは、嵐山にも負けない緑のトンネルだと思うほど。秋は紅葉が錦絵のようだけど、おそろしく臭う銀杏坂が辛くて。冬は冷え込むと凍結するので、歩くのが怖かったです。そして急な勾配は、マラソン大会のときには地獄の坂に……。それでもやっぱり、私たちはこの坂が大好きでした」　取材で歩いたのは夕方だったので、森の坂道はひっそりしていた。登下校の時間には、小林聖心の制服姿の女子たちで、さぞかしにぎやかだろう。夏はファミリア製の水色のワンピース、冬は襟元が狭めの明るい紺色基調のブレザーに、紺色ジャンパースカートとグレーのハイソックスというスタイルだったが、今はスラックスも選べるようになっている。　創立100周年を機に、生徒たちの間で制服検討委員会が立ち上がり、2025年からデザインを新しくするという。ブレザーの柄がストライプから千鳥格子になったり、襟元の校章ブローチが刺繍になったりする。この変化を聞いてＴさんは「卒業生の愛着も大事にしながら、在校生が丁寧に進めてくれたようで、どんな風に変わろうと、信じてお任せしたいと思います」と語ってくれた。　坂を上りきり、小林聖心女子学院を後にする。少し北へ向かってから、小林駅西口を目指して歩く。右手に地域のごみ収集ボックスのある四つ角に来て、並木のある下り坂を右手へ折れると、落ち着いた住宅街に時折、変わった形の家がちらほら。家の１階は断崖の下にあり、玄関が２階や３階にある構造。道路と玄関をつなぐ“我が家専用”の橋は、むき出しの鉄骨美で支えられている。　特に、小林駅西口へとつながる、宝塚の山並みまで見晴らす道沿いに何軒もあり、建物に詳しい綱本さんは興味津々だった。「あの家の橋には、車も停まってますよ」「こういう住宅は珍しいですね」と言いながら歩いていると、「千種２丁目住宅案内図」に目が留まった。戸建ての全住戸に住民の姓が入った地図を見て、昔はなんとも思わなかったが、今は安心安全な地域の象徴のように感じてしまった。　小林駅の西改札が見えてくると、道は細く入り組み、坂も階段もあって、ダンジョン（迷路）感が半端ない。ちょうど［ちぐさ薬局］の辺りだ。西改札は自動改札機が2つあるだけの小さな改札口。しかし、平成7年（1995）にこの改札ができるまで、駅西側の住民は、一旦東改札から出て跨線橋をわたってぐるっと回るしかなかった。阪急電鉄に問い合わせると、設置の経緯までは記録が残っていないとのことだったが、西改札の形状や立地から、地域の要望に応えて、苦労して設置したことが偲ばれる。



焼鳥ロードで、至福のつくねに出合う
　昭和48年（1973）に、駅の東側にイズミヤ小林店がオープンすると、その周りにお店が集まり、街が出来て、品揃えの良い書店やCD店、カレースパゲッティが食べられる喫茶店などがあった（いずれも現在は閉店）。イズミヤ小林店は、『阪急電車』で、裏切られた元恋人の披露宴に白いドレス姿で出席した翔子が、「討ち入り」を果たした後、着替えを求めて訪れたスーパーとして登場する。怨念のこもったドレスをゴミ箱に放り込み、翔子はすっきりとイズミヤを後にする。武装解除して、普段着の自分に戻れる小林の下町らしさたっぷりの名シーンだ。　今、駅からイズミヤへ向かって東へのびる道には、なぜか焼鳥店が多く、さながら「焼鳥ロード」だ。その道を自家焙煎のコーヒーで有名な［百合珈琲］まで行き、変わらぬ佇まいを確認。道すがらチェックしていた何軒かの焼鳥店から、渋い店構えの［鳥富］へ入った。　ご主人が焼鳥を焼く台を囲むコの字型のカウンター。一番客だった私たちは、４人並んで陣取った。お肌ツヤツヤのおかみさんに「何食べる？」と聞かれ、迷っていた私たちの様子を見て「おまかせで出したげよか」と上手に引き取ってくれた。聞けば、富永文男さん・順子さんご夫婦が、昭和52年（1977）に開業。焼鳥ロードでは最古参だという。最初に出されたハツを食べ、「当たりだ！」と確信した。取材先でも旅先でも、こういう所謂“当たりの店”を引く、隠れた特技が私にはある。　料理の仕込みをしながら、ドリンクを出し、皿を片付ける。おかみさんは手を休めず、常に動き続けながら、お客さんの話し相手も華麗に務める。その間、ずっとご主人は焼きに集中。ささみのたたきの柔らかさに驚き、甘めのタレのネギ身（ネギはタマネギだった）も絶妙だったが、続いて出された「つくね」に瞠目した。　もしこれが夕飯に出たら、大人も子どもも10個、20個と箸が止まらないだろう。小さめのハンバーグのような形のつくねは、おかみさんが鶏モモ肉を皮ごとフードプロセッサーにかけて、ほどよく食感を残した挽き肉を味付けして、「過呼吸になるかと思うほど」手間をかけた仕込みの賜物だ。ビールをいただきつつ、「ここは宝塚市内の学校の先生がよく来てね。みんな校長や教育長になったけど、若い頃は２階の座敷で、よく密談してたわよ〜」なんて話を聞くのも楽しい。心もほろ酔いに、小林の宵が過ぎていく。
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<title>神戸三宮駅（神戸線/神戸市中央区）</title>
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<pubDate>Wed, 17 Jan 2024 00:00:06 +0900</pubDate>
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　「三宮を書くなら、やはり震災の日に歩いて、翌年の１月にWEB公開しよう」そう決めて、取材したのが2023年1月17日。阪神・淡路大震災の後、28回繰り返された、尊く平穏な1月17日だった。



　そして、早々に絵を描き上げた綱本さんに心の中で謝りつつ、結局1年原稿を寝かせてしまい、ようやく書こうとした2024年1月1日。能登半島で震災が起きてしまった。まさか……言葉を失う状況に、頭の奥が緊張する。テレビやスマホで、倒れた建物や家屋を見るたび、「液状化」「断水」という単語を聞くたび、29年前にポートアイランドの実家で被災した当時が生々しく蘇る。


1995年の真冬から初夏まで
　高校2年生だった私は、朝5時46分、マンションが崩れた！と感じるほどの衝撃で目を覚ました。母と妹の3人暮らしだったので、すぐさま妹のベッドに集まって、明るくなるのをひたすら待った。幸いマンションは倒れていなかったが、家の中のあらゆるものが散乱し、母が寝ていた布団には、父の仏壇が覆いかぶさっていて、その上にタンスが倒れていた。ただの偶然だけど、母も妹も私も「父が守ってくれたに違いない」と思った。冷蔵庫の奥で忘れ去られていた「酢大豆（昔健康にいいと流行って母が作ったもの）」の瓶が割れて、強烈な酢の匂いが部屋中に漂っていたのが忘れられない。　2週間ほど経った1月31日、新聞で「南京町で中止した春節祭の代わりに炊き出しがある」と見て、妹と震災後初めて三宮へ出た。見知った街並みが、傾き、生気がない。人は歩いているが、そこは街ではなかった。北側が大きく崩れたそごう神戸店に衝撃を受けつつ、なんとか南京町まで来ると、人だかりができ、声がして、湯気が見える。炊き出しは遠慮して、温かい水餃子を売るお店に吸い込まれ、妹と夢中で食べた。「神戸は死んでない。街は、まだ生きている」お腹の底からそう感じて、元気が出た。　阪急神戸線も甚大な被害を受け、中でも阪急三宮駅（当時の駅名）は、駅ビルが大きく損壊。上層階から崩落した瓦礫（がれき）が、北側の通称「おっぱい山（現・サンキタ広場）」を埋め尽くし、直前に出発した電車がフラワーロードをまたぐ高架橋の上で脱線したが、奇跡的に道路上への落下は免れた。　かつて「阪急会館」と呼ばれた、円柱形の塔のある地上4階・地下1階建ての素敵なビルは、東側の壁面に大きなアーチが２つ並んでいて、その１つはガラス張り、もう１つはトンネルで線路がビル2階のホームへとつながるという唯一無二の構造。薄緑色のタイル貼りのビルに、マルーン色（小豆色）の阪急電車が出たり入ったりする様子はとても色彩豊かで、華やかな神戸のランドマークだった。　しかし、鉄道の復旧を急ぐため、建物の取り壊しが速やかに決まり、2月には解体工事が完了。12月に建った仮設のビルは、白の鋼板貼りの3階建てで「こんな姿に……」とせつなくなったものだ。こういったビルの再建、商業施設の再開、線路や道路の復旧など、震災後に毎日もたらされるニュースは、決して震災で失ったものを埋められるわけではなかったが、被災者たちは震災前の生活を一つずつ取り戻せる喜びを感じ、「がんばろう神戸」「WE LOVE KOBE」の合言葉と共に、前に進んでいく一体感があったように思う。　阪急神戸線が6月12日に全線開通するまで、再開した学校へは、新聞のライフライン復旧欄を見て「今日は王子公園〜御影間が開通したね」と通学ルートをチェックし、代替バスと阪急・阪神・JRの開通区間を乗り継いで通った。最大で片道4時間かかったこともある。今から思えば、そんなに無理して学校へ行かなくても良かったのだが、あのときは無性に友達に会いたかった。私立だったので、大阪方面から通っている子もいて、その子たちはスカートにタイツ、神戸方面の子はズボンにスニーカーにリュックで「被災者」とひと目で分かるのが、いい気分ではなかった。　阪急神戸線は、西宮北口駅〜夙川駅間と、岡本駅〜御影駅間、三宮駅の損傷が激しく、当初は復旧まで年単位の日数がかかるとされていたが、実際には約5カ月で全線開通にこぎつけた。阪急電鉄は、そろばんを度外視した物量を投入して工事に当たり、沿線住民も昼夜土日を問わずの工事に協力したからこその驚異的なスピード復旧だった。その原動力は、沿線住民の足を止めてはいけない――公共交通としての使命感だった――という記録が残る。　阪急神戸線が全線開通した6月12日のことはよく覚えている。三宮駅から特急に乗り、西宮北口駅に着くまで、たった15分。渋滞もバスの行列もなく、スムーズに私たちを運んでくれるこの15分間に感謝しかなく、友達とおしゃべりしたり、試験勉強をしたりしながら、時間通りに移動できる、いつもの通学が戻ってきた。


「三災」を乗り越えて
　阪急神戸三宮駅の東改札口を出て、まっすぐ南へフラワーロードを下る。今日は東遊園地で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われている。犠牲者の追悼と震災の記憶を引き継ぐことを目的に、約4,000本の竹灯籠や紙灯籠に火を灯す。　私は学生時代に、震災で親をなくした震災遺児のサポートをする活動に携わっていた。理由は違えど親をなくした一人として、少しでも寄り添いたいと思い、2歳から高校生まで、一緒にキャンプに行ったり遊んだりしていた。でも、突然家族も家も思い出も奪われた震災遺児の痛みは、病気で亡くなった父との別れ方が、ある程度予想のつくものだった自分の痛みとは異質なものであり、想像を絶するものだった。その活動で出会ったSさん（仮名）からは、「『1.17のつどい』に足を運ぶと、約束をしなくても同じ震災遺児と会える同窓会のような場になっている」と聞かされた。　綱本さんと会場に着くと、報道各局の中継車がずらり。まだまだ在阪各局では、忘れず報道されていることにどこかでホッとしてしまう。その後、2023年5月にリニューアルが完了した東遊園地は、芝生が敷き詰められ、植栽の雰囲気もナチュラルになって、以前より“憩いたくなる”公園になった。新しい東遊園地になってからの「1.17のつどい」は、どんな雰囲気になるのだろう。　東遊園地を後にして、メリケンパークを目指す。途中の神戸市立博物館前で、三宮の知られざる戦争遺構を綱本さんと探した。機銃掃射の弾痕が、正面玄関の右手の壁に残されているのだ。ちょうど車いす用のスロープの手すりの下辺りがよく分かる。丸い傷跡がパテで埋められている。



　三宮は、水災・戦災・震災の「三災」に見舞われたまちだ。昭和13年（1938）7月3日から5日に発生した阪神大水害、昭和20年（1945）6月5日の神戸大空襲と、阪神・淡路大震災。つまり、三宮・元町近辺で90年以上続く老舗は、この三災を乗り越えたお店だということ。たとえば［欧風料理 もん］［グリル十字屋］［老祥記］［神仙閣］［森井本店］［赤のれん］［伊藤グリル］など、お客に愛される名店ばかりだ。


旅立つ者と降り立った者の150年
　綱本さんと話しながら南西に歩いて、メリケンパークに到着。阪神・淡路大震災で被害を受けた状態のまま、［神戸港震災メモリアルパーク］として保存されている一角があり、傾いた電灯や割れた岸壁に、地震のエネルギーの大きさを見せつけられる。修学旅行生の一団が見学していて、この日に神戸を訪れることを選んでくれた学校に、「来てくれてありがとう」と心の中で手を合わせた。　メリケンパークの南端には、全国的な“地名モニュメント”ブームの火付け役となった「BE KOBE」像がある。海を背景に白い文字が映え、2017年に設置されるや、SNSの盛り上がりの波に乗り、あっという間に人気観光スポットとなった。今も休日には撮影待ちの行列でにぎわっている。　「BE KOBE」像からほんの少し離れたところに、海を指差す子どもと両親の銅像がひっそりと立っている。「神戸から世界へ」「希望の船出」と刻まれ、脇に「神戸港移民船乗船記念碑」とある。



　そう、神戸港は約25万人もの日本人をブラジル移住へ送り出した港なのだ。親子は希望に満ちた表情をしている。「移民」という言葉には、やむにやまれぬ事情を感じさせる響きがあるので、その高揚した表情には違和感があった。彼らが日本を発つ前の最後の時を過ごした国立移民収容所が、現在も［神戸市立海外移住と文化の交流センター］として残されていると分かり、行ってみることにした。　鯉川筋を一気に北上すると、昭和3年（1928）築の5階建ての学校かホテルのような建物が、静かに迎えてくれた。戦災・震災を乗り越えて日本に現存する唯一の移民関連施設である、旧・国立移民収容所（神戸移住センター）だ。入口近くの展示を見ていると、ボランティアガイドの女性が親切に声を掛けてくださった。　「移住者はブラジルへ出発する前の1週間から10日前後をここで過ごし、渡航手続きや予防接種、買い出しを済ませ、語学や現地の基礎知識を学んだんです。農家の次男・三男といった、継ぐ土地がない男性が、家族を伴って渡航することが多かったようですよ。強制とか、イヤイヤではなく、新天地を求めて、夢と希望を抱いて移民船に乗りました。何十年も経って帰国された方が、『六甲山が、変わっていなくてよかった』と仰ってましてね。見ず知らずの国で生きていくと決めた遠い昔、甲板から目に焼き付けた六甲山の姿は、祖国の象徴だったんでしょう」



　綱本さんと鯉川筋を今度はゆっくり下る。ブラジルへと旅立つ人々もこの坂を下って、港へ向かったという。当時はきっともっと海が見えただろう。たくさんのビルに阻まれて、神戸の山と海は遠くなった気がする。　1995年末にできた阪急三宮駅の駅ビルは仮設と言われつつ、約20年そのまま使用され、『TOKK』で三宮駅を取材した時もこのビルだった。しかしようやく、2021年4月に29階建ての「神戸三宮阪急ビル」として建て替えが完了。復元された震災前のビル東側のアーチや、東改札口のコンコースの雰囲気など、往時の優雅な雰囲気をオマージュした空間となった。　高架下の商業施設も「EKIZO神戸三宮」としてオープン。路面店の多い神戸らしさ、駅裏の雑然とした感じも上手に残した、飲み食いの楽しいエリアとなった。この神戸三宮阪急ビルを皮切りに、駅周辺では大規模な再開発プロジェクトが始まっており、ウォーターフロントエリアにはアリーナ施設が開業するなど、10年後の三宮は激変しているに違いない。それでも時折聴こえる汽笛の音が、このまちが変わらず港町であることを教えてくれるはずだ。
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<title>今津駅（今津線/西宮市）</title>
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<pubDate>Fri, 15 Dec 2023 00:00:00 +0900</pubDate>
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　西宮北口駅から南へ延びる、阪急今津線の終点、今津駅。わずか約1.7kmの路線は、阪急最短支線。隣の阪神国道駅（阪急なのに阪神国道というややこしさ）との駅間は約700mで、ほぼ直線なので、阪神国道駅に停車している電車が目視できてしまう。駅の南側の今津駅前商店街には、まだ無名だった水木しげるが戦前に居を構えていた場所もあり、ラーメンやたこ焼き、パチンコ店が並ぶ、気楽な普段着の駅前である。　阪神今津駅の北側に整備された広場がある。実は平成7年（1995）に阪急が高架化するまで、この場所に阪急今津駅があった。今は阪神の線路に対して、垂直に阪急の線路が走っているが、当時は阪急の線路がもう少し長く、最後にグッと曲がる形で、阪神と阪急のホームがほぼ平行に、金網一枚を隔てて並んでいた。改札口も並んでいて、構内は共用。ライバル会社の車両が並ぶレアな風景が日常だったのだ。


　今日目指すのは、灘五郷の一つ「今津郷」と、現役最古の木製灯台である「今津灯台」。どちらも駅の南側にある。そういえば、今津駅は阪急の中で最も海に近い駅でもある。綱本さんと今津西線を南下し、阪神高速3号神戸線の高架下を走る国道43号を渡れば、グッと「浜側」感が増してくる。酒蔵通りを東に折れて少し歩けば、今津郷を代表する酒蔵・大関のアンテナショップ［甘辛の関寿庵（あまからのせきじゅあん）］に到着。酒造りに関する展示や製造工程の見学はないが、大関の商品と関連商品が揃う直売所に、落ち着いた喫茶と和菓子店が併設されている。　立派な梁（はり）とレンガの壁がシックなスペースで、なにはともあれ、まずは試飲。ワインサーバーとして時折見かける機械に、ほどよく温度管理された6種類の日本酒が収まっていて、100円入れて飲みたいお酒を選んでボタンを押すと、20mlがミニカップに注がれる。この量なら色々飲み比べもできて良いし、なんだかエンタメ感があって楽しい。機械式なので無人で試飲体験ができるのだが、綱本さんとどれにするかワイワイ話していると、店長の脇本さんがお酒選びを手伝ってくれた。古くから「灘の男酒、伏見の女酒」といわれるように、灘五郷に湧くミネラルを多く含んだ「宮水」と呼ばれる硬水が、キリッとした辛口の酒を生む。ここでしか飲めない「しぼりたて 純米生原酒」を味わっていると、壁に掛かった「今津灯台」の古い写真が目に入り、脇本さんに聞いてみる。


最初に今津灯台を訪ねた頃は、沖に埋立地があるとはいえ、まだ灯台らしい姿だった（2009年6月16日）


　「もともとこの今津灯台は、江戸後期の文化7年（1810）に、大関の創業家である長部（おさべ）家の五代大坂屋長兵衛が私費を投じて建てたもの。今津港から江戸へ酒荷を運ぶ樽廻船の安全を見守ることに始まり、200年以上が経過しています。いまの灯台は安政5年（1858）に再建されたものですが、大正時代に電化するまで、丁稚が毎晩大関本社から灯明油を運んで点灯していたんですよ。今も年間数百万円の電気代がかかっています」との言葉に驚いた。　私設とはいえ、海図にも載っている正式な灯台だからこそ、新川・東川統合水門の整備に伴って海から見えなくなってしまうのを避けるため約160メートル南西に移転するという。海図の変更も必要なうえ、日本最古の木造灯台で、西宮市指定重要有形文化財とくれば、その移設の困難さは想像に難くない。創設当時の場所に立つ今津灯台が見られるのは、今だけ。早く会いに行きたくなった。


飲酒文化を変えた名品、今津で誕生
　大関の代名詞とも言えるのが、「ワンカップ大関」だ。今でこそ巷にあふれるカップ酒だが、昭和39年（1964）10月10日、東京オリンピック開会式の日に発売された当初は、日本酒の飲み方やイメージを変える、画期的な発明だった。発案者は、十代長部文治郎。当初はなかなか受け入れられなかったが、国鉄駅での販売や自動販売機の開発などの努力が実り、市民権を獲得。1970年代にはショーケンこと萩原健一が格好良くワンカップ大関を飲むCMが、若者に爆発的に受け、牛乳瓶で真似する小学生もいたほど。　ワンカップ大関のアイコンは、広口瓶に印象的な青のラベルに印字された英字の白いロゴ。社内にデザイン会議を設け、瓶を東京藝術大学教授の小池岩太郎氏が、ラベルを東京女子美術大学教授の松川烝二氏が手掛けた。当時からデザインの力をきちんと評価し、商品開発をしていたのだ。そのデザインは50年以上経った今も愛され、少しも古びていない。絶妙なフォルムの瓶は、お酒好きだった故人の墓前やお地蔵さんへのお供えの定番だし、歯磨き用のコップやペン立てに使っている人もいる。関西の家庭における「モロゾフのプリン容器」と双璧を成す、ガラスの名品なのだ。ほかにも、ラベルの裏に写真を印刷し、透明な瓶を通して眺める「ワンカップフォト」のアイデアは、時代に合わせて新進のイラストレーターを起用するなど、変化しながら受け継がれていることも特筆したい。日本のプロダクト史や広告・マーケティングの歴史の面から見ても、示唆に富むヒット商品が、今津生まれだったとは！ 掘れば掘るほど面白い。　関寿庵を出て、向かいの今津小学校に立ち寄る。TOKK連載時に綱本さんが描いた旧校舎の「今津六角堂」は健在だった。明治15年（1882）に建てられ、当時の建設費8,000円のうち、5,200円が地元の篤志家の寄付だったという。酒造家の経済力もあり、江戸時代から教育に熱心だった今津らしいエピソードだ。今津灯台もしかり、「民」の活力が地域を作ってきた歴史がある。地域に誇れるシンボルがあることは幸せだし、それが地域の力で作ったものであれば、愛着もひとしおだろう。


変わりゆく風景にギリギリセーフ
　酒蔵通りを南へ折れて、いよいよ今津灯台へ向かう。歩きながら、ふわっとお酒の香りに包まれて周囲を見回すと、ちょうど大関の工場横だった。しばらくすると、今津港マリーナに係留する船の揚降クレーンが見えてきて、海に向かっているんだと実感する。クルーザーやヨットを横目にさらに進み、大きな水門に目を奪われているうちに、今津灯台に着いた。灯台には、広大な海を背に建つ孤高のイメージがあるが、今津灯台は、高さ約40mという巨大な水門と湾岸高速道路を背景に、歴史ある木造の灯台がぽつんと建っている、というコントラストが実にユニークな風景だ。


再訪すると、目の前に水門がつくられていた（2020年12月20日）


　今津灯台といえば、司馬遼太郎の『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛が初めて樽廻船で江戸へ向かう前夜、灯明台の赤い灯りの下、心細さで泣く新妻・おふさを抱き締めて愛を伝える、情熱的なシーンの舞台でもある。取材は移設前だったので、今津浜の砂浜の脇に佇む灯台を拝むことができたが、兵庫県による津波対策の一環で、流れ込む新川・東川の排水機場が整備されることになり、いずれこの砂浜も消えゆく運命にある。綱本さんが「間に合って良かったですね」とつぶやく。ふと気づくと、カンバスに今津灯台を熱心に描きつけている人がいた。「下り酒」を満載した樽廻船が江戸へ向けて出帆した今津港の風景は、令和の時代に大きく変わろうとしている。2024年2月に再点灯が予定されている移設後の今津灯台は、今津の移り変わりを、これからも照らし続けていく。


水門の外側へ引っ越し。灯台の船出という世にも珍しい光景が広がっていた（2023年9月1日）
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<title>中津駅（神戸線･宝塚線/大阪市北区）</title>
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<pubDate>Wed, 13 Sep 2023 00:00:05 +0900</pubDate>
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　名実ともに阪急の顔である大阪梅田駅から神戸線の普通に乗って、次の駅が中津駅。十三側の駅ホーム端では、両側の点字ブロックがくっついていて、「黄色い線の内側」がないほど、ホームが狭い。改札を出ると目の前に、昭和32年（1957）創業の大衆酒場［いこい食堂］が健在だった。隣の洋菓子店［ファーストコンフェクト］との並びは、昭和ムード満点だ。大阪梅田駅から直線距離で650mほどしか離れていないのに、どうしてこんなに違うのだろう。　中津駅付近を地図で見てみると、川と線路と道路の輪で、他のエリアから切り離された街だということがよく分かる。北と西は淀川、東は梅田貨物線（現･JRおおさか東線）が走り、南は国道176号。こうした地理的な特性に加え、駅北側が大阪の戦災を免れた地域であることが重なり、昔から変わらぬ街並みが残されているのだろう。大都市・梅田のそばにありながら、人に対する寛容さと、ゆるやかな時間が流れる中津は、自由を愛する人たちを惹きつけ、伝説のインドカフェ［カンテ・グランデ］や、フリーダムなカフェレストラン［中津芸術文化村ピエロハーバー］を生み、最近では「スパイスカレーの聖地」とも呼ばれている。　高架をくぐって、南側へ出る。細くて長い階段が見え、高架の上に出られそうだったので、上ってみる。たどり着いたのは、目の前を車がビュンビュン通る国道176号の歩道で、すぐ脇には阪急の線路。道路沿いにビルが立ち並び、階下の街並みとの激しいギャップに、どっちが現実か一瞬戸惑ってしまう。さらに、国道の向こうに望むのは、最先端のうめきた地区。大阪の数十年を一気に早送り体験できるこの階段は、うめきたエリアが完成した暁には、名もなき街の名所になるかもしれない。


「北梅田」ではなく、ここは「中津」だけど……
　駅へと戻って、北側を探検する。お目当ては、［カンテ・グランデ中津本店］のカレーとチャイ、［Gallery Yamaguchi kunst-bau（ギャラリー ヤマグチ クンストバウ）］だ。まずは、中津中央公園を抜けて「中津商店街」を進むと、あれ？ アーケードの屋根が開いて空が見える。商店街は既に商いをやめたお店もあるが、ネパール料理店や美容院、設計事務所、駄菓子店など、中津に愛着を感じた人が新たに開いたおしゃれなお店もぽつぽつと誕生している。



　そういえば、本連載の前身・TOKK「阪急沿線ちょい駅散歩」（2008〜16）のディレクターが、商店街にある設計事務所に中古マンションをリノベーションしてもらい、中津で暮らしていた。社内には同世代で子育てをしている人がいなかった私にとって、彼女は1年違いで最初の子どもを産んだ貴重なワーママ同士。よく仕事のやりとりのメールの最後に、保育園情報やお出かけ情報を書いて交換していた。子どもの発熱で取材の代役を同僚に頼む申し訳なさや、仕事が好きでそちらを優先したくなってしまう母としての葛藤……。会えばそんな話をポロリとこぼしつつ、働きながら子育てする怒濤の日々を共に過ごしてきた。　「必要なときだけ都会に行けばいい、という程よい距離感が気に入っていた」と、彼女は中津の暮らしを話してくれた。アーティストやデザイナーといったクリエイティブな職業の人が多く、ユニークな個人経営の店があちこちにあり、イベントに行けば知人と会うなんてこともしょっちゅう。地元のつながりが楽しい街だという。だが、住んで10年のうちに、中津の“梅田化”は進み、家賃が上がり、新築の建物名には「北梅田」と冠されることが多くなった。「この流れは止められないだろうな」という彼女の言葉通り、中津はいま過渡期にある。


佐伯祐三もウルフルズも中津から出た
　［カンテ・グランデ中津本店］は、マンションの地下にある。外からは生い茂る緑に囲まれて、お店があるかどうかすら分からない。手書きの小さな看板に誘われて階段を降りると、あっと驚くほどの開放的なエントランス。鮮やかな緑の窓枠のガラス張りの店内は、席と席がゆったり配置され、インドの雑貨やアート作品がのびのびと飾られている。色彩にとぼしかった中津の街から、鮮やかで生命力ある世界へ旅した気分！ ロックバンド、ウルフルズのトータス松本が、系列の大阪マルビル店で働いていたウルフルケイスケとジョン・Ｂに出会ったという「伝説のバイト先」としても知られている。1995年に発売された彼らの曲「大阪ストラット･パートⅡ」の「カンテGでやっぱチャイとケーキ」という歌詞は、このお店のことなのだ。　［カンテG］は1972年にオープンしてから、本場・インドの紅茶を大阪に広め、特に「炊き込みミルク茶」として出したチャイが評判に。音楽やアート、料理人など、夢を追いかけながらアルバイトをする若者が集うカルチャー濃いめな空気は、半世紀変わらずここを満たしている。　カンテを出て、淀川の方へぶらぶらと歩く。綱本さんの知人の美術家・北𡌛（きたの）吉彦氏が個展をしているということで［Gallery Yamaguchi kunst-bau］へお邪魔した。オーナーの山口孝さんは、関西のアートシーンに欠かせない一人。現代美術のアートフェア「ART OSAKA」の前身「Art in CASO」を2002年に立ち上げ、良質なギャラリーがきちんと選んだ現代美術作家を紹介する場として、「売れたら良い」のアートフェアとは一線を画したコンセプトが、美術関係者から熱く支持されている。20年の歴史の中で堂島ホテルを会場にするという、今も人気のアートホテル型の展示にもチャレンジし、全国へと広がった。代表を2012年に交代した後も、理事として継続的に関わっている。自身のギャラリーは、堂島、大阪港、曽根崎と移ってきたが、コロナ禍に、倉庫のつもりで借りていたここへ移転したという。



　北𡌛さんの作品は、日本の古色を塗った板が、ギャラリーの壁に等間隔に掛けられたもの。よく見ると、その板は廃棄されたノートパソコンのディスプレイ。思いもよらない素材に驚いていると、綱本さんが「大量に廃棄される電子機器への批判とも取れますね」とつぶやいた。作家のメッセージに思いを巡らせ、作品を鑑賞する。現代美術ってよく分からなかったけれど、初めて面白いなぁと思った。ギャラリー自体は予約制だが、21時まで照明がついており、大きなガラス戸から、中の展示が楽しめるようになっている。街を歩いていて偶然アートに触れられるなんて、素敵な仕掛けだ。　そこからほんの3分ほど歩いたところにある光徳寺は、30歳で夭逝した洋画家・佐伯祐三（1898-1928）の生家。あまり寺には見えない外観の建物だが、敷地内には生誕の碑と墓所があり、今もファンが訪れる。パリを躍動感ある筆致で描いた佐伯氏の絵に魅了された、実業家で美術収集家の山本發次郎（はつじろう/1887-1951）は、佐伯作品を熱心に買い集めた。最大で150点ほどあったコレクションは、戦火で大半が焼失してしまったが、山本の強い使命感をもって、疎開により守られた33点が、1983年に遺族から大阪市に寄贈された。この山本コレクションが核となり、約40年の時を経て、大阪中之島美術館の開館へと結実。大阪が誇る近代美術館の源流が、まさか中津にあったとは。取材を終え、地図を再び見てみれば、四方を囲まれたような中津の街が、アートやカルチャーを育むゆりかごに見えた。
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<title>六甲駅（神戸線/神戸市灘区）</title>
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<pubDate>Fri, 28 Jul 2023 00:00:05 +0900</pubDate>
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　大学や短大の多い阪急神戸線･今津線沿線で、ここ六甲駅は「学生街」らしいものが見当たらない。神戸大学のお膝元なのにもかかわらず、駅前に学生が集まりそうな居酒屋やラーメン店、ファストフードは皆無（昔あったマクドナルドは閉店）。いかりスーパーや銀行、洋菓子店などはあるが、岡本のように商店街があるわけでもなく、5分も歩けば静かな住宅街になってしまう。　今日の目的地は、神戸大学のある駅北側のエリアだが、まずは南側（神戸の人は海側と言う）へ降りてみた。六甲山観光への玄関口とも言える駅南側のバス停からは、市バスが観光客や登山客を運ぶ。そのバス停の裏側にある、こんもり茂った森は［六甲八幡神社］の社叢だ。取材した日は厄除大祭（1月18日･19日）の準備中だった。サメ釣り、玉子せんべい、ベビーカステラなど露店の幕が並ぶだけで心が躍る。


鎮守の森の周りはカルチャータウン
　六甲八幡神社の境内を出て、周囲を散策すると、落ち着いた住宅街の中に［器 暮らしの道具 フクギドウ］という雑貨屋さんや、バレエ教室、学習塾、外国語教室などの看板がちらほら。文化度の高さが溶け込んだ独特の街並みだ。その中に［コイネー］というアートスクールを見つけて、六甲ビルの階段を上がっていく。あいにく代表の中村征士さんは不在だったが、「絵を描かないアートスクール」を掲げ、美術を鑑賞しながらみんなで感想を発表する中で、自分の「好き」を探究していくのだそう。MoMA（ニューヨーク近代美術館）で開発された「対話型鑑賞メソッド」が、六甲で体験できるなんて。型にはまらず、自由にのびのびと自分の感じたことを人に伝える喜び、楽しさ。そんな体験を私も子どもにさせたいけれど、住んでいるニュータウンの近所では、なかなかこんな素敵なスクールには出会えない。　そして、同じビルの1階には「神戸の中のギリシャ」と言われる料理店［Φ（フィ）］がある。ここでは、ギリシャ人のアンドレアスさんと春原伸佳さん夫婦が、伝統的な料理やワイン、語学、音楽、工芸品、旅行を通じて、ギリシャと日本の文化の架け橋となっている。お二人は、三宮や元町といった大きな街よりも、地元密着のスタイルが合っていると、住んでいる六甲で料理店をすることを決め、子どもたちを育てながら、近くで働くという職住近接を選んだ。　こうした子どもを通じての家族付き合いや、近所の方々に支えられてきたと言い、「11年続いた、すべては六甲愛……かな？」と春原さん。ちなみに、先述のフクギドウ（表ゆかり・三上裕子）の著書『つくり手からつかい手へ、豊かな暮らし』（主婦の友社）では、器の使い方の提案として、春原さんがギリシャ料理と盛り付けで協力している。地に足がついた暮らしの中で、本物を求める感度の高い人と人のつながりが六甲らしい。　［Φ（フィ）］を知ったのは、「神戸マルシェ」というイベントの運営を個人的にお手伝いしていたことがきっかけ。参加するレストランのシェフたちが集まるミーティングで自己紹介を兼ねて、春原さんがギリシャ発祥のオリーブオイルを試食させてくれた。その果実をしぼったような、オイルとはまったく違う風味に衝撃を受けた。聞けば、日本ではなかなか手に入らない、単一農家・単一品種のオリーブをコールドプレス（機械や溶剤を使わず、熱をかけずにオリーブの果実から油分を絞る昔ながらの製法）して作られる、最高品種のものだそう。［Φ（フィ）］では、お料理にふんだんに使われ、購入することもできる。　また、神戸マルシェでは、六甲山行きのバス停をそのまま下っていったところにある［古本とジャズ 口笛文庫］という古書店にも出会った。神戸大学が母校の店主・尾内純さんも、六甲に縁（ゆかり）がある人。神戸マルシェのWEBサイトでインタビューしたのが2008年。15年ぶりに訪ねてみたら、尾内さんは驚くほど変わっていなかったが、扱う本は膨大に増え、2019年9月からは、三宮センイ商店街に［三宮駅前古書店］も営むようになっていた。



　ガラスの引き戸を開けると広がる、本の森。児童書から文庫、実用書、雑誌、洋書、明治〜昭和の古書のほか、CDやレコードもあり、扱うジャンルは幅広い。近所の子や大学の先生、古本好きとお客さんもさまざまで、本の虫の息子を連れてきたら喜ぶだろうな。「六甲の街、暮らしに馴染む古書店になりたい」と話していた頃から15年、しっかり根を張り、その言葉通りになっている。丁寧に言葉を選ぶ尾内さんとゆるゆる話す間、その手はずっと棚の本を整理していることに気づく。ほんとに本が好きなんだなぁ。今日も明日もこれからも、彼が選んだ1冊1冊の本が、次の読み手を待っている。　駅の方へ戻って、六甲ビルの前を過ぎ、駅西側の花園線を山に向かって、桁下制限2.2ｍの高架をくぐる。神戸大学を目指して少しずつ角度が上がっていく坂道に、この街が山の街だったことも思い出す。途中、以前取材したユニークな石垣も確認。なんと［ホテル六甲ハウス］の名が彫られたままの門石が再利用されているのだ。大正時代まで御影石の採掘が盛んだったことから、古い家の石垣は立派なものが多い。


キャンパスから普通に見える大パノラマ
　つづら折りのバス道を曲がる度、ぐんぐん高度が上がっていく。もはや登山だ。道沿いには急斜面に張り付くように建てられた家々があり、その建築ワザに目を見張る。



　やがて神戸大学正門に到着すると、堂々たる広い階段の頂に、本館の美しい姿が現れた。昭和7年（1932）竣工の国の登録有形文化財で、ロマネスク様式の石造りの重厚な校舎。本館のほか、図書館・兼松記念館・武道場・六甲台講堂が近代建築群として知られている。新旧いくつもの校舎が山の傾斜に沿って建てられ、小道でゆるやかにつながる風景は、いかにも山の街・神戸の大学らしい風景だ。


　神戸大学といえば、経済・経営、つまり商いの学問のイメージが強い。それもそのはず、源流は明治35年（1902）、東京に次いで全国で２番目の高等商業学校として設立された神戸高等商業学校にある。同校は、昭和4年（1929）に神戸商業大学に昇格。昭和10年（1935）、ここ六甲台に本拠を構えた。　昭和24年（1949）の「国立大学設置法」により、兵庫の総合知が結集する形で、神戸大学が誕生。神戸商業大学が経済学部・経営学部に、神戸高等工業学校が工学部、姫路高等学校が文学部・教養部・理学部、兵庫師範学校が教育学部となった。さらに1960年代に医学部と農学部が、それぞれ兵庫県立の大学から移管され、現在は10学部ほかで約15,000人が学んでいる。　本館から少し南へ降りた、社会科学系アカデミア館のテラスからは、徳島、淡路島、神戸空港、大阪、和歌山までの、大阪湾のきれいなカーブが一望できた。私たちは寒さも忘れて、しばしその景色にほーっと見とれていた。実は、私たちが見たかった、神戸の海をパノラマ写真のように切り取った風景は、ここからではなく、六甲台第2キャンパスの百年記念館からのものだったと、原稿を書いていて分かったので、いつかまた山を登って再々訪したい。
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<title>甲陽園駅（甲陽線/西宮市）</title>
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<pubDate>Thu, 18 May 2023 09:00:04 +0900</pubDate>
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　阪急夙川駅を発車した電車は、夙川沿いをゆるやかにカーブしながら甲山（かぶとやま）に向かってのんびり走り、たった5分で終点の甲陽園駅へ到着する。西宮市北部のこのエリアは、大阪で財を成した経営者たちが大正時代から邸宅を構えた「西宮七園（ななえん）」の一つでもある。ちなみに、残り六園は、甲子園・甲風園・甲東園・苦楽園・香櫨園・昭和園だ。　高級住宅街のイメージとはいい意味で違った、簡素な駅舎を出て右へ1分ほど歩くと［ケーキハウス ツマガリ甲陽園本店］がある。喜ばれるおつかい物として阪神間で不動の人気を誇る洋菓子店。周囲にいくつもツマガリの工房があり、さながら“ツマガリ村”といった様子。オーナーシェフ・津曲孝氏の厳選した素材と丁寧な手作りへのこだわりから、梅田と神戸の大丸にある店舗では生菓子を扱っておらず、ケーキやシュークリームが購入できるのは、ここ甲陽園本店だけなのだ。　少し歩き、TOKKで取材した蕎麦処［甲陽園 喜庵（よろこびあん）］を左折して、閑静な住宅街の急坂を10分ほど「アンネのバラの教会」目指して上ってゆく。綱本さんは軽快に歩いていくが、私は息が切れてしまう。汗をかき、もうダメだ、休憩したいと思ったその時に、レンガ造りのバラ園と可愛らしい教会が現れた。　ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れ、隠れ家で『アンネの日記』を書き続けたアンネ・フランク（1929-45）。わずか15歳で命を落とした少女の平和を求めるメッセージは、父親であるオットー・フランク氏（1889-1980）によって1947年に出版され、世界中で読まれるようになった。遠く離れた日本の西宮にあるこの教会とアンネには、どんなゆかりがあるのか紐解いてみることにした。



バトンを受けたのは自分かもしれない
　1971年のある日、イスラエルを演奏旅行中の「聖イエス会 しののめ合唱団」の一員だった大槻道子さんが、オットー氏と偶然出会ったことから物語は始まる。　聖イエス会は、大槻道子さんの父・大槻武二氏（1906-2004）が、戦後間もない1946年に創立。1971年に平和事業の一環として、嵯峨野教会の聖歌隊を母体に、各地の聖歌隊から選抜された「しののめ合唱団」を創設した。平和を願う歌を届けるため、世界各国へ何度も演奏旅行に赴いたが、その初年度に、オットー氏との出会いがあったのだ。イスラエル・ナタニアのレストランで食事を取っていた合唱団に、一人の紳士が「私は世界で最も平和を愛する者の一人。アンネ・フランクの父です」と話しかけたという。合唱団はとても驚いたが、割れんばかりの拍手でその出会いを祝福した。
　アンネと同年代であり、『アンネの日記』を愛読していた大槻道子さんが代表として手紙を書いたことで、オットー氏との交流が始まった。すると、1972年のクリスマスに、オットー氏から「アンネ・フランクの形見」という名のバラの苗木が届けられた。その苗木を大切に育てて増やし、平和を願って全国へと届けるうちに、その心を次世代にも受け継ごうという機運が高まり、アンネの生誕50年を記念して「聖イエス会 アンネのバラの教会」の建築が決まった。


　高台から穏やかに街を見晴らすこの地が選ばれ、1980年に献堂。教会の完成をとても喜んだオットー氏からは、貴重なアンネの遺品や写真などが贈られた。今も併設する資料館で大切に保管され、見学することができる（要予約）。そして、アンネの形見のバラは、バラ園で毎年きれいなサーモンピンクの花を咲かせ、そっと平和を伝え続けている。
　一人の少女が綴った文字が世界に平和を訴え、友情で結ばれた手紙が、この場所を作った。文字の持つ力は、時も距離も超える。なんて強いんだろう。世界で戦争はいまだ終わらず、もしアンネの日記が続いていたら、何を綴ったであろうか。オットー氏が「最もアンネらしい」と語ったという、バラ園に佇むアンネ像は、心なしか物憂げな表情に見えた。


◯参考資料

アンネのバラの教会https://www.annesrose.com/
聖イエス会のホームページ（大槻道子さん著）http://seiiesukai.org/annerose.html
黎明（しののめ）聖歌隊（嵯峨野教会）http://www.saganochurch.org/activity_choir.html
聖イエス会　ソフィア教会（合唱団とフランクさんの出会い）http://home.f02.itscom.net/sophia/2011_08service.html
アンネのバラ　 その由来と日本伝来のルート（事実の研究）http://www.kscc.jp/anne.html
広島平和公園の記念のバラ（バラの特徴）https://hiroshimaforpeace.com/roses-in-hiroshima-peace-memorial-park-vol-3/
高橋数樹著「アンネ・フランクのバラ」（アンネの意志を継いだ人びと）／出版文化社https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%A9%E2%80%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E7%B6%99%E3%81%84%E3%81%A0%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E6%95%B0%E6%A8%B9/dp/4883382648

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<title>稲野駅 （伊丹線/伊丹市）</title>
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<pubDate>Fri, 10 Mar 2023 09:00:13 +0900</pubDate>
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　電車の発着時以外はとても静かな駅。ピン、ポン、パン、ポンという視覚障がい者向けの音声案内がよく響く。設置された駅スタンプの印影が濃く、この駅で降りる観光客が少ないことが窺える。地元の人のための駅なのだ。
　阪急塚口駅に接続する3駅だけの支線、阪急伊丹線。神戸線と同じ大正9年（1920）7月16日に開業したが、当初は終点の伊丹駅しかなく、中間駅である稲野駅は翌大正10年（1921）5月10日に開業。阪急のお家芸でもある、沿線の住宅地開発に合わせて駅が設置された（隣の新伊丹駅は1935年開業）。
　稲野駅の東側に出てみれば、趣のあるタバコ屋さんが一軒。その奥に住宅街が広がる。この街に住む友人によると、『すみれの花咲く頃』の作詞家としても知られ、“レヴューの王様”と呼ばれた宝塚歌劇の演出家・白井鐵造（1900〜83）が友人宅の向かいに住んでいたという。とても気さくなロマンチストで、遊びに行くと孫のようにかわいがってくれ、誕生日には「えみちゃん、おめでとう」とスミレの花束をプレゼントしてくれたのだという。
　住宅街を抜け、かつて「大手前大学 いたみ稲野キャンパス」があった場所は、移転に伴い広大なマンション用地として開発が進んでいた。約1,000人の学生が通った場所は、どのように変貌を遂げるのであろうか。隣接する「伊丹市立稲野公園」には、変わった形の自転車や一輪車で遊べる運動施設がある。年季が入ったオモシロ自転車たちは大切に整備され、マンション完成後は令和の子どもたちの思い出になるのだろう。大規模マンションで景色が変わり、新旧住民が交じりあい、街は変わっていく。暑さに負けてベンチでペットボトルの水を飲み干しつつ、綱本さんとそんなことを話した。


百舌鳥古墳群でおなじみの形がここにも！
　駅に戻って、西側へ。駅スタンプのモチーフにもなっている「御願塚古墳（ごがづかこふん）」を目指す。バスの停留所がなく、家族の送迎専用のような小さなロータリーから［いなの商店街］を歩く。5分もすれば、水路に囲まれこんもりと木々が繁る小さな山が見えてくる。
　御願塚古墳は５世紀後半に造られたとみられ、上空から見た形から前方後円墳の一種である「帆立貝形古墳」（世界遺産である百舌鳥古墳群44基のうち８基はこの形）に分類され、兵庫県指定文化財に指定されている。水路は古墳を囲む周濠で、発掘調査では円筒形埴輪が多数出土したという。墳丘の頂上には神社があり、参拝できる。感心するほどよく管理された木々が印象に残り、後で調べてみたところ、地元自治会や企業からなる「御願塚史跡保存会」が清掃・剪定・笹刈りなどを毎月実施しているというから驚いた。



　春には桜の花見と「つつじまつり」にカモの子育て、夏にはザリガニ釣り、秋は紅葉にカワセミが訪れ、冬は濠に氷が張る。四季折々の自然が、まるで自宅の庭のように身近にあることは、どんなに暮らしの潤いになるか。文化財がこうして地域の憩いの場として、愛されているのって素敵だなと思う。
　伊丹の市鳥でもあるカモが暑さから逃れるように木陰へゆっくりと泳いでいくのを見て、綱本さんと帰路につく。一戸建てのような三角屋根の駅が、住宅街に溶け込んで、私たちを「おかえり」と迎えてくれた。
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<title>春日野道駅 （神戸線/神戸市中央区）</title>
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<pubDate>Fri, 03 Feb 2023 09:00:05 +0900</pubDate>
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 　阪急の中でも中津駅と一、二を争う「狭い駅」として知られる春日野道駅。ホームの一番狭いところで2.5mというから、特急が通過する瞬間はちょっと怖いぐらい。高架駅なのでホーム幅を広げるわけにもいかず、エレベーターのない「ノンバリアフリー」な駅として、ベビーカーや重い荷物を持っている時にはとても不便な思いをしていたが、ついに2022年、ホーム柵とエレベーターの設置、および東改札口の新設工事が始まった。　待ち合わせするなり綱本さんから、「あのベンチ面白いですね」との声。春日野道駅は限られたスペースに、ベンチやゴミ箱、トイレ、自動精算機、スタンプ台、TOKKラックなど、様々な駅設備や備品をパズルのように収めていて、思わず感心してしまう。さらに工事が始まって、どのようにスペースをやり繰りするのか興味津々だ。


　駅北側に出ると、笑顔のナマズのアーチが架かる「かすがの坂商店街」が山へまっすぐ伸び、枝分かれするように「中西市場」「大日商店街」が東へ続く。どちらも昭和以前は灘浜重工業エリアの従業員の街として買い物客でにぎわっていたが、工場の移転に伴い（跡地が兵庫県立美術館のある「HAT神戸」だ）人通りが激減。時が止まったような場所になってしまっている。　付近の阪急･JRの高架下は、自動車整備や板金塗装の工場に交じって、オーダーメイドの家具店やアトリエなどが近年オープンし、新旧ものづくりエリアとして面白い景観を作っている。大きな音を出せる、振動OK、高い天井など、通常の物件ではかなわない条件が、ぴたりと揃っているからだろう。『TOKK』の連載「阪急沿線ちょい駅散歩」で取材した［一の宮ベーカリー］［お好みハウス ひかりや］も高架下で健在だった。



「ただ者ではない」街道市場のプロショップ
　さて、今日のメインである駅の南側へ。「春日野道商店街」が浜手へ伸び、阪神春日野道駅までを結ぶ。こちらは新しいお店も多く活気がある。だが、春日野道の「真打ち」は、商店街から300mほど西にある「大安亭市場（おおやすていいちば）」だ。ここは「市場」というだけあって、生鮮食品のお店が特に充実。八百屋さんだけで10軒以上もあり、店先にはちょうど夏野菜が山盛りだった。どれも新鮮で安い。お肉屋さんも多く、その中の［モリシタ精肉店］では、ハチノス、ツラミ、テール、タケノコ、コブクロなどなど、牛肉の様々な部位を売っている。珍しい部位でも買って、今日は焼肉にしようかな、という気分に誘われる。　また、多国籍なお店も増えていて、韓国や中国の食材、インドのスパイスも手に入る。肉も魚も野菜も世界の食材も、種類豊富で新鮮なので、三宮・元町界隈の料理人が仕入れに来るというのも納得だ。もちろん、おそうざい店や豆腐屋さん、お肉屋さんの作る焼鳥やコロッケなど、庶民のグルメもスタンバイ。ここが通勤経路だったら、夕飯のおかずや晩酌のアテに困らないのになぁと羨ましくなる。
　大安亭市場の南端には、旧西国街道が通る。阪急沿線を歩いていると、高確率で出くわす旧西国街道。京都から九州・太宰府までを結び、官民ともに多くの旅人が歩いた幹線道路だ。芦屋・打出浜で、内陸部を大名行列などが通る「本街道」と、海岸沿いを進む庶民の生活道路「浜街道」に分かれ、神戸・生田筋で再び合流。沿道はにぎわい、市が立ち、宿場町が栄えた。そうして見ると大安亭市場のにぎわいも、西国街道の長い歴史の一部なのだと感慨深い。


　歩き疲れてきたので綱本さんとひと息つけるところを探していると、［大安亭 エンヂニア珈琲店］という店を発見。これ幸いとアイスコーヒーを頼むと、「氷を使わず冷やしてます」という。なんとも飲みやすく、香りも強い。DIY感満載の店内も、何台も並んだエスプレッソマシンも気になる……！ 思い切って店主に聞くと、元はエスプレッソマシンのエンジニアだったという。機械のメンテナンスはもちろん、不具合が起これば解体・修理まで自分でこなす。マシンを良い状態に保つことが、美味しいコーヒーを淹れるための重要なポイントなのだと熱く語ってくれた。焙煎も手掛け、徹底的に品質管理。「変態的なこだわり」そんな言葉がふと頭に浮かぶ。
熱量に圧倒され、自宅で飲んでみたくなったので「モカ・ゲイシャ」という豆を購入。自宅で淹れてみると、ふくよかな香りとふわっとした甘さ。こんなスペシャリストが、しれっと市場の一角で珈琲店を営み、1杯400円の庶民価格でハイレベルコーヒーを出しているなんて、恐るべし大安亭市場！
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<lastBuildDate>Thu, 19 Jun 2025 03:58:06 +0900</lastBuildDate>
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