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1998年に書いていた、古谷高治さんのこと

担当/中島 淳

2009年に産声をあげたナカノシマ大学は、リアルな意味で「大阪の歴史がたり」の場所だと思っている。

「そんな話はこの人やないとアカンやろ」という人に登壇してもらい、古代から現代までの「大阪」のある部分をスパッと切り取って、受講者をその時代、その世界に引き込んでいく、という面白さがある。

最近では、黎明期からのアメ村に足繁く出入りして、「誰もやっていない仕事」を確立していったDJのMARK’Eさん(2024年8月講座)や、南海ホークスがあった当時の大阪球場の熱気を知る野球評論家の江本孟紀さん(2025年7月講座)たちのおかげで、私たちは「あまり知られていない大阪の歴史」に触れることができている。

7月22日(水)に登壇してくれた中川和彦さんは、心斎橋にスタンダードブックストアを開く前、「南海電車と御堂筋線を結ぶ通路沿い(髙島屋地下)の店で、発売日に雑誌を高層ビルのように積み上げては完売させていた」という2000年代前半のことを話してくれたが、当日受講していた20代の学生くんたちにとっては生まれる前のことだし、「雑誌がそんなにたくさん売れるんだ!?」ということも含めて「?」であったろう。

でも知らない時代を垣間見ることができたり、知っている時代の新たな見方ができたりするという体験を異なる世代の人と共有できる場は、主催者である私自身にとっても、うれしい限りである。

彼が店主をつとめるPARCOの地下2階[TANK酒場]にて

8月19日(水)に登壇される古谷高治さんは、90年代のアメ村[TANK GALLERY]の店主、2002〜19年まで続いた心斎橋のカフェ&ダイナー[digmeout]のカフェマスター、そして現在はPARCOの地下2階にある[TANK酒場]の店主であるが、この人が「いつもの場所」にいることに安心する客は、30数年前からずっと変わらず「とても幅広い世代」カバーしている。

私は江弘毅氏が編集長をしていたMeets Regional編集部に1996年から98年までの2年間在籍したが、当時のミーツには1970年代生まれの編集者が3人いて、古谷さんと同世代だったこともあって「きのう、古ちゃんの店で……」みたいな会話を編集室でよく聞いていた。

彼に対してはその程度のことしか知らなかったが、私が担当していた連載「ママいるぅ?」の作者である日限萬里子(ひぎり・まりこ/1942〜2005)さんはアメ村や堀江で若い人間が開いた店に足繁く顔を出しては面白い話を仕入れたり知っている人を紹介したりして店の人といい関係を作り、私との打ち合わせの時には「若い子がやっている面白いトコ」の話をあれこれ教えてくれた。

「アメリカ村をつくった人」と言われる日限さんを見て一番カッコええと思ったところは、「アメ村創世記メンバー」で固まったりサロンにしたり、自分が「名士」になったりせず(持ち上げて利用したい人はいたが)、常に「あたらしい、おもしろいコト(人)」を探して歩き回っていたことだろう。ミーハーでイケメン好き、お茶目なお姐さんで、「止まる」「退屈する」ことが嫌いな人だった。

Meets Regional1998年4月号「炭屋町 先駆者の系譜。」

日限さんの連載の中で、「アメリカ村」と呼ばれる前はアメリカンカジュアルで一世を風靡した石津謙介のブランド「ヴァンヂャケット(VAN)」があった街だと書かれていて、驚いた記憶がある。

てっきり東京の青山だと思っていたら、大阪発祥だった。

中学時代からVANの服に夢中になっていた私は「いつかはそのことを書いてみたい」とは思っていた。すると別なところから、かつて石津謙介のもとでVANのノベルティ(通学カバンやロッカーにVANのステッカーを貼るのが一種のステイタスだった)をあれこれ作っていた方に出会う機会ができて、日限さんと彼を引き合わせ、二人から60年代のアメ村の話を聞き、アメ村のあたらしい流れを作っている若い人の店も取材したりした。

その時に行った店の一つが古谷さんの[TANK GALLERY]である。今から28年前の『Meets Regional』1998年4月号に、以下のようなことを書いた。

ポツリポツリとあった店は、すき間がないほどに増え、ワーゲンのビートルが似合った街には、もはや駐車スペースが取れないほど、人が溢れている。もし20年ぶりにこの街に帰って来た人間がいたら、完璧に浦島太郎であろう。VANも[ループ(日限萬里子さんが1969年に開いたカフェ)]も炭屋町という名も今はなく、サーフボードを持った人間にこの街で会うこともまずない。街にやって来る人間は、驚くほど低年齢化している。

しかし日限萬里子さんは、相変わらずこの街に顔を出しては「あのコの店頑張ってるよ、いっぺん行かへん?」と周囲の人間をつねに挑発し続ける。

路地の奥にある[タンクギャラリー]の古谷高治さんは、10年ほど前から古着が好きで吹田からアメリカ村に来ていた。「母が南中学校(現在のビッグ・ステップの場所)の出身なので、この街には何となく親しみがあったんです」。店はカフェとギャラリーが一緒になったような形。お世辞にも広いとは言えないが、ここの和み感覚は抜群である。実際、相席になって最初は渋々隣に座っていた女の子同士が、いつの間にか話し込んでしまう、という光景も目にする。それは古谷さんの、来る者拒まずで人の橋渡しまでするキャラクターによるところが大きい。

この写真(撮影・バンリ)はバンリさんとMeets Regionalのご厚意で今回のナカノシマ大学のチラシにも転載している

「昔のアメリカ村の店員は恐かった。服が好きだし、商品知識がすごいし、いろいろ教えてくれた。でも今は、店側もとりあえず、来る側もとりあえず、ちょっと危ないよね」。貸しギャラリーや自分で展覧会をプロデュースするだけでなく、自分自身も表現者として活動する。来る側と迎える側とのいい意味での緊張関係を志向する。

日限さんの連載の愛読者だという彼は、カフェが社交場として強力な武器となることをわかっている。

(Meets Regional1998年4月号「炭屋町 先駆者の系譜」から)

原稿の出来はさておき、古谷さんの「たたずまい」も良さも28年前からまるで変わっていないことに驚く。

もちろん、いろいろな面で変わったというところは当然あるだろうが、肝心なところは変わっていない。

「大阪の街の人間」に会うと安心するのはそういうところ。中川さんやMARK’Eさん、[ザ・メロディ]の森本徹さん、[アラビヤコーヒー]の髙坂明郎さんなどにも同じ「安心」を感じてしまう。

古谷さんによる、1980年代から今日までの、アメ村〜心斎橋がたり、どうぞお楽しみに!

https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20260819