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<title>大阪の地名に聞いてみた</title>
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<pubDate>Wed, 06 Jul 2022 15:17:35 +0900</pubDate>
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<title>ここは水惑星サンズイ圏【後編】</title>
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<pubDate>Wed, 11 Jan 2023 01:00:00 +0900</pubDate>
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つぶらな津村

　津のつく地名のバリエーションに、中央区の北御堂（西本願寺）があります。南御堂（東本願寺）と並んで御堂筋の名の由来になった有名寺院です。「どこに津がつくの」と言われそうですが、北御堂の別称は津村別院。「つむら」とは近隣一帯がかつては円江（つぶらえ）と呼ばれた入江だったのにちなみます。　「えっ、御堂筋もビーチやったん」と、驚かれた方は海に浮かぶ島々を描いた古い大阪図をご覧ください⑬。福島、中ノ島（中之島）、船場などといっしょに圓江（円江）が載っています。池の形になっているのは、淀川の流れが運ぶ土砂で陸地化が進み、入江が閉じたのでしょう。　円江の記憶を伝える場所は他にもあります。津村御堂の近くにある御霊神社は、別称が円江神社。つぶらな瞳のような入江がそこにあったと、神社名が伝えています。


すみえの津守
 
　津のつく地名をもうひとつ。西成区の町名の津守は、かつての海辺の呼び名だった津守の浦にちなみます。「津守１丁目の南海汐見橋線津守駅⑭」と書いただけでサンズイの字が続々あらわれ、橋の字のおまけもついて、水辺をアピールしています。難波津を守るとの意味で津守との地名由来をきけば納得。汐見橋線は道頓堀川に架かる汐見橋にちなむ名で、始発の駅名も汐見橋駅です。　古い地名にも津守郷、豪族の名に津守氏があります。一族は津守連（つもりのむらじ）の称号を得て、後には住吉大社の神職を代々務めるようになりました。津の水脈は地名だけでなく人名にも及んでいます。 「そういう話こそ、こっちに来てやって」と、手招きするのはランドセル姿の児童です。住吉区の墨江（すみえ）にある墨江小学校に掲げられた「津守廃寺」の解説板を指さして⑮、「津守さんの寺が今はうちらの学校や」と教えてくれました。解説板を見ると、白鳳時代（7世紀後半）の古寺の存在を示す丸瓦や土器が当地で発掘されたと書かれ、古寺は古代氏族の津守氏にちなんで津守廃寺と呼ばれたとあります。さらには、古寺の後身と推定される延喜元年（901）創建の津守寺が明治元年（1868）まであり、その跡地に墨江小学校が建っているとのこと。解説の文章に、津守さんの二つの寺をめぐる1300年余の時の流れがぎゅっと詰まっています。


そこは入江の入江
  
　墨江、円江と江のつく地名が出ました。「江」もまたサンズイつきで、水地名のしるし。ここからは、江に話を移します。まずは大阪メトロ谷町線野江内代駅近くの野江水（のえすい）神社から⑯⑰。祭神は乙女の姿の水の神とされる水波女大神（ミズハノメノオオカミ）。この地域に多かった水害に備えて、三好政長という戦国武将が祀りました。　神社は後に羽柴秀吉に崇敬され、江戸時代には度々の洪水にも被害を免れるなど霊験を示したと、由来書に記されています。神社がある野江は現在の城東区の町名⑱で、かつての難波江（なにわのえ）から転じたとされる呼び名です。難波江が古代の大阪の入江をあらわすのは、もうおわかりでしょう。野江の一帯は、難波江の奥の淀川河口に広がっていました。　三好政長の榎並城があった榎並（えなみ）という旧地名も入江の南を意味する江南（えなみ）から転じたとする説があります。榎並は現在の町名に残っていませんが、榎並城は野江神社と同じ場所とする説が有力。城と神社が都島区内代町と城東区野江の境界エリアに建てられたのは、一帯が周囲よりやや高台になっていたためと思われます。そんな地の利の裏づけが、水害に強い野江水神社にはありました。


難波堀江が堀江になるまで
  
　江のつく地名では、ミナミの一角を占める堀江（西区）も見逃せません。そのはじまりは、河村瑞賢による元禄11年（1699）の堀江川の開削です。新しい川沿いに店ができ相撲興業が行われ、堀江新地ができました。若者に人気の今の堀江は、江戸時代の新地の転生した姿です。堀江は通称で、エリアは南北を長堀通と道頓堀川、東西を阪神高速道路と新なにわ筋で囲まれた四角い区域。町名は北堀江と南堀江です。エリアの中心を東西に流れた堀江川は昭和の高度成長期に埋め立てられ、すでにありません。　堀江川の命名由来は不詳ですが、堀江といえば思い出されるのは『日本書紀』に記された難波堀江（なにわのほりえ）です。仁徳天皇が治水のために掘った運河、河内と大阪湾をつなぐ画期的な大工事として江戸時代にもその名は知られていました。新しい運河は、難波堀江にあやかって堀江川と呼ばれたのではないでしょうか。　ちなみに、中世以前の大阪を描いたとされる古絵図には、四天王寺の近くに巨大池の堀江があるものが多いです。それらの古絵図は江戸時代後期に広まりました。実際にはない巨大池が描かれたのは難波堀江の伝承によると思われます。河村瑞賢の堀江川も同じ伝承が背景でした。 「私の頃は、難波堀江が堀江にあったと小学校で習いました」との声は誰でしょう。「山根と申します」と名乗るあなたは、古代の都の難波宮の発掘で名高い山根徳太郎博士（1889～1973）でしたか。子供時代を堀江で過ごされたんですね。地元の小学校の授業でそのように教えられ、中学校に上るまで信じていたと著書『難波の宮』に書かれていたのを読みました。出てきていただき、光栄です。　少年山根徳太郎は堀江が難波堀江ではないと知り、歴史の謎に挑む考古学者になりました。「難波堀江は今の大川で、難波宮は大川を見下ろす高台に築かれた頂上の都でした」と、山根博士。大川は中之島東端から毛馬までの流域名。大極殿（だいごくでん）の発掘で難波宮の存在が証明され、古代史が書きかえられたのは昭和36年（1961）でした。　さて、難波堀江は大川、難波宮は史跡公園になり、今やおなじみ。堀江の街も由来から独り歩きし、アメリカ村の西でもうひとつの賑わいをみせています。来年（2023年）は山根徳太郎没後50年です。


堀江川はなぜ江がつくのか
  
　「なんで堀江に江の字がつくの」と不思議そうな声は、津守の話に出てきた墨江小学校からです。なるほど、江は入江の江ですが、ルーツとなった堀江川は入江とはいえません。難波堀江がルーツだからと答えるのは簡単ですが、「その難波堀江にも江がつくのはなんで」と、問いが続きそう。ここは、大阪湾にそそぐ木津川の流れを街なかに掘り入れた堀江川は海からずっとぐっと深くて深い入江だねと、答えてみましょう。　第11回では島が山と呼ばれた話も出ました。ひとつの風景を川とも入江とも呼ぶ自在さが、地名世界の面白さです。「そっか、それで墨江小学校の墨江も江がつくんだ」と声が返ってきました。　つけ加えるなら、町名の墨江（すみえ）のルーツは「すみのえ」です。住吉というおなじみの呼び名もそこから転じました。つまり、住吉大社も住吉区も江の地名のファミリーというわけです。　墨江小学校㉒のまわりには、住吉大社㉒があり、その摂社で杜若（かきつばた）の花咲く池に鎮座する浅沢神社㉓があって、南海高野線の沢ノ町駅、町名の沢之町㉒があります。沢ノ町駅の東には古代の港の住吉津につながる川筋の一部を整備した「細江川のせせらぎ」があり、由来を記した石碑が建っています㉔。碑の前でたたずんでいると、「みんなサンズイのなかまやん」小学校から元気のいい声が届きました。


江口、浦江、大江の街角で
  
　江のつく地名としては東淀川区の江口も逸話が豊富です。一帯は古代の淀川の河口にあたり、ここから難波江（なにわのえ）が海に面して広がっていました。『日本書紀』には推古天皇の時代、難波津に到着した隋からの使者を飾船に乗せ、江口に迎えたと記されています。江口は国際交流の玄関口でした。平安から鎌倉期にかけては諸国に名高い水辺の遊興地。一夜の宿をめぐって西行と歌を交わした遊女の妙（たえ）ゆかりとされる江口君堂（えぐちのきみどう）も地元の寂光寺に残っています。大阪メトロ今里筋線井高野駅周辺の北江口㉒、南江口の町名、淀川との分岐点近くの神崎川に架かる江口橋㉒も名残りの地名です。　江口の場所については近年、福島区福島だったとする説が浮上しているそうですが、福島区の江のつく地名としては浦江があります。もとは海辺で中世は荘園名。江戸時代は村名。昭和の一時期は町名の浦江がありました。今の町名は鷺洲ですが、浦江公園にその名が残り、浦江聖天の通称で知られる真言宗寺院の了徳院も健在です㉖。かつて了徳院の境内は周辺の水路が集まり杜若（かきつばた）の花咲く池があって、涼やかな名所になっていました。　市内の中心、中央区にも江のつく地名はあります。大阪メトロ谷町線天満橋駅のほど近く、北大江公園にやって来ました。大江の岸という古い地名を伝える公園は、昼下がりのオフィス街のオアシスでした㉗。くつろぐ人たちの姿が浮かぶベンチが、岸辺に泊る小船に見えます。浦江も大江も江口と同じく難波の江に連なる水辺の風景なのでした。


川辺の北浜、海辺の粉浜
 
　水地名のキーワードに浜があります。なかでも知られた中央区の北浜㉘は、土佐堀川沿いの北方の浜をさす名といわれます。「北方」とは船場の中心部からの目線で、元和～寛永（1615～45）頃は、仮葺の小屋があるだけのだだっ広い浜辺だったとのこと。異説では、土佐堀川を前にして店がすべて北向きだったことから北浜と呼んだといいます。この「北向き」は店の正面が川の方を向いていたとの意味なので、浜辺が船で賑わいはじめた頃の話でしょう。後に井原西鶴が『日本永代蔵』（1688年刊）で北浜の米市は日本一の港と書き、商都の繁栄をうたいあげたのは有名な話です。 「海浜の歌のロマンをしらずや」とは、また古風な響きが聞こえてきました。川辺の浜とは異なる風情が海辺の浜にはあるのでしょうか。声は、かつての住吉浦の粉洲（こはま）から。南海本線住吉大社駅の隣りが粉浜駅で、その駅前に粉浜万葉の歌碑が建っています㉙。　住吉乃粉濱之四時美開藻不見隠耳哉恋渡南　歌碑には漢字19字でつづった万葉仮名の歌が刻まれています。文字は万葉学の第一人者といわれた故・犬養孝の筆によるもの。読みは次のとおり。　住吉の粉浜のしじみ開けも見ず隠りてのみや恋ひわたりなむ　住吉の粉浜のしじみがじっと蓋（ふた）を閉じているように、私は心の内をうちあけず、秘めて想い続けるでしょう……。このせつない恋歌の作者は名前も伝えられていません。　そういえば住吉大社の神は、航海の神で和歌の神でした。　住吉区の隣りの住之江区には、浜口西・浜口東という町名もあります。ルーツは江戸時代から明治にかけての浜口村で、住吉大社の西の細江川が流れるエリアでした。浜口とは、浜辺と川口の両方の風景を愛でた地名です。


古代の大規模人造池、狭山池と依網池
  
　「池を忘れていませんか」という声で目が覚めました。粉浜からの帰りの電車でうたた寝していたようです。声の言うとおり、池は水の地名の重要キーワード。瀬戸内気候に属し、雨の少ない大阪は全国有数のため池密集地で、府下のため池は軽く１万箇所を超えるそうです。水地名のフィナーレは池で飾ってもらいましょう。　というわけで、この池地名の出番です。　それは、日本最古のダム式ため池、狭山池です！　著者の地元の大阪狭山市にあり、築造は1400年前の推古天皇の時代。奈良期、鎌倉期、江戸初期にも改修を重ね、最盛期は府下南部から大阪市域までの広域に灌漑用水を供給していました。昭和16年（1941）に大阪府の史蹟名勝第1号となり、平成27年（2015）には国史跡に指定され、現在も貯水量280万トンを誇る治水ダムの役割を果たしています。平成の大改修後は、池畔の狭山池博物館、堤の桜が名物になりました㉚㉛。　狭山池とともに『日本書紀』に記された古代のため池として、住吉区の大和川畔にあった依網池（よさみいけ）にも触れておきます。江戸時代の大和川付替えで消滅したのは残念ですが、依網池跡を門前とする大依羅（おおよさみ）神社が創建1800年を誇り、一帯の水の神として崇敬されてきました㉜。当地は古代豪族の我孫子（あびこ）一族の本拠地ともいわれます。


伝説の万代池と河底池
  
　実は、今回が連載の最終回でした！　お別れの前にもうひとつ、住吉区の万代池を訪ねましょう。今では万代池公園が整備され、住吉エリアの人々の散歩道になっています㉝㉞。明治の初めまで灌漑用の池でしたが、もとは古墳を囲む濠だったという説もあります。名の由来には、聖徳太子が池の魔物を鎮めるために曼陀羅経（まんだらきょう）をあげさせたので曼陀羅池と呼んだのが万代池になったといわれ、話題は豊富です。　もうひとつ、これが最後の最後です！　天王寺区の河底池は、延暦7年（788）に和気清麻呂（わけのきよまろ）が茶臼山古墳の濠を利用して、旧大和川の川筋を変える開削工事を行った名残りといわれます。開削工事は途中で断念されたと伝えますが、現在の河底池は大阪市立美術館の目の前に横たわる街なかの静かなオアシスに生まれ変わっています㉟。眺めのよいベンチもあって、水辺はやはり和みます。
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<title>ここは水惑星サンズイ圏【前編】</title>
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<pubDate>Wed, 11 Jan 2023 00:00:00 +0900</pubDate>
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水都であり、水府もある

　大阪市は水都です。「いつからですか」と問われて、「江戸時代には八百八橋が名物でした」と答える方が多いです。「いやいや、はじまりは古代から」と言う方もいます。前回の話に出た大阪湾に浮かぶ島々を見渡す高台に、古代の都の難波宮がありました。高台の名は上町台地。現町名の上町から南に続く市内でいちばん標高の高いエリアで、かつては眼前に海が迫っていました。難波宮は水辺に浮かぶ都です。　以後、上町台地のまわりは陸地化が進みましたが、淀川に抱かれ、堀川が多い大阪市は今も水都です。　では、次。「大阪府は水府ですか」と問われたら、どう答えますか。ここで、前回の冒頭で２府４県にまたがる淀川水系の流域面積は大阪府が３つ入ってまだ余るという話を思い出された方は、大阪府も「文句なし、水府でしょ」と頷かれるかもしれません。　地名の世界にも、摂河泉（せっかせん）という呼び名があります。旧国名の摂津・河内・和泉の各１文字をとった広域地名で、現在の大阪府に相当し、兵庫県東部もエリアに含みます①。摂河泉と水との関係をみれば、摂津は「津」（港）をおさめる地、河内は淀川（河）より此方（大和から見て河の内側）の地、和泉は清い「泉」が湧く地の意味。津と河はサンズイつきで、泉は水つき。青い地球の表面は７割が海といわれますが、摂河泉の３文字には水惑星サンズイ圏のエッセンスが詰まっていたわけです。


水府の水市町
  
　「なるほど、それでうちも水地名なんや」という声が、摂津市と河内長野市と和泉市と泉佐野市と泉南市と泉大津市と池田市と寝屋川市と貝塚市と岸和田市と河南町と岬町と島本町から返ってきました。早速の反応、ありがとうございます。サンズイや水の字がついている市町はもちろん、貝や岸や岬や島の字がつく市町も水をアピールしていますね。大阪府には33の市と９つの町と１つの村、合わせて43の自治体があり、そのうち13の市と町が 水にまつわる命名でした。　「ここは隠れた水地名かも……」と、その声は高石市からです。なるほど、市名の由来となった高師浜（たかしのはま）は浜の字がサンズイつき②。高石市を加えると、大阪府の自治体のほぼ３分の１にあたる14市町が水地名になりました。ここで一首。　音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ③　あなたの言葉はうわさに聞く高師の浜のあだ波のようです④。私はかかりませんよ。涙で袖を濡らすのはごめんです……。　水地名には昔から男女のさまざまな心の機微が詠みこまれてきました。女が男の誘いをふって、あっさりと波に返してしまうクールな恋歌の作者は、祐子内親王家紀伊（ゆうしないしんのうけのきい）。『小倉百人一首』より。


水都の水区町

　さて、話を大阪市にうつすと、水の区名がまず目につきます。名前がそのまま淀川沿いのロケーションを物語る淀川区、東淀川区、西淀川区の３区はその代表格。続いて、３区の対岸から北区大淀北・大淀中・大淀南の３町も名乗りをあげます。大淀の名は、今は北区の一部になった旧大淀区から受け継いだバトンです。　大正橋が命名由来の大正区は、四方を川に囲まれた島の姿を大正アイランドとも呼ばれ、橋と島の両面から水の区名です。前回の島地名の話に出た福島区、都島区も水にまつわる区名。第1回動物地名に登場の鶴見区は水鳥の区名で、同区の町名にも福島、都島、鶴見があります。　住之江区の「江」は入江の江で、水との深い関りを示す区名。昔の海岸線は今よりもぐっと東に入り組み、古代の港の住吉津（すみのえのつ）が住吉大社の門前に今も流れる細江川にあったとされます。古くは住吉を「すみのえ」と読みました。　住吉津と大和を結ぶ日本初の官道は磯歯津道（しはつみち）と呼ばれました⑤。住吉津に船で到着した大陸からの使者は、そこから陸路で河内、大和へと向かったのです。磯歯津道のルートはセレッソ大阪のホームスタジアムがある長居公園南側の通りと重なるとされます。


津のバトンはここへ
 
　「港の話はこれを見てからにして」と、港区から声が届きました。大阪の古代の津（港）といえば難波津。今の港は明治生まれの大阪港で、地元に「津」から「港」へのバトンタッチの跡があるというのです。声に導かれ、大阪メトロ大阪港駅近くの寺院、築港高野山を訪ねました。築港高野山⑥は明治末期創建。築港とは人が築いた港の意味。自然地形を流用した江戸時代の川口の港とは一線を画す近代港だった大阪港の別称でもあり、港区の命名由来にもなりました。築港高野山の所在地の町名も築港１丁目です。　さて、築港高野山で見つけた旧境内案内図の中に「津」から「港」へのバトンタッチのしるしがありました⑦。その名は「弘法大師入唐解纜（にゅうとうかいらん）遺跡」。弘法大師が難波津から遣唐使の船で唐に渡ったのを記念する碑が、かつての境内に建っていました。解纜（かいらん）とは船をつなぎとめていた纜（ともづな）を解き、出港すること。解纜の碑は海外交流史のシンボルで、大阪港とは再び海外に船出した明治日本の新たな難波津でした。大阪港は難波津と同じ場所ではないのですが、近代技術が生んだ新時代の津として未来をひらいたのです。　残念なことに、その後の歴史は戦争に向かい、解纜の碑は寺とともに空襲で焼失しました。案内板の解説によれば、創建当初の築港高野山は7,800坪の広大な境内に多くの堂塔を持ち、東の四天王寺、西の築港高野山と讃えられたとのこと。海の向こうを見ていた時代の空気を感じます。ここで名の出た四天王寺が、難波津に出入する船のランドマークだったという逸話もあわせてお伝えしておきましょう。


難波津もあれば浪速津も
 
　「港のルーツなら、こっちが元祖」と、続いて飛びこんできた声は浪速区からですね。浪速は「浪」の字がすでにサンズイつき、かつ『日本書紀』以来の由緒ある呼び名ですが、区名は古代の港の浪速津にちなむとのこと。浪速区エリアはかつての海辺で、出船入船の港があったとされます。先述の難波津も浪速津も読み方は「なにわづ」で、どちらも古代史を彩る港の名称。大阪の古代の港は一箇所だったのではなく、複雑に入り汲んだ大阪湾に散りばめられた波静かな船の停泊地としてあったわけです。　第2回【後編】では、浪速区の浪速郵便局前に建つ古代のくり船発掘碑が登場しました。かつては海辺だった大阪メトロ・南海・近鉄難波駅、JRなんば駅のまわり一帯を丸太のくり抜き船が行き交う風景を想像してください。地元にあった船出町（現在の難波中及び敷津東）という町名⑧は、明治11年（1878）のくり船発掘を記念した命名でした。いつかまた水にまつわるどこかの地で、古代の港や船の遺物が新たに発掘され、ニュースになる日が来るかもしれません。　以上、大阪市は淀川区、東淀川区、西淀川区、大正区、福島区、都島区、鶴見区、住之江区、港区、浪速区が水区名で、番外の旧大淀区を加えた計11区のラインアップとなりました。


津のつく地名
  
　津は港。港の記憶を語ります。　大阪市中の津のつく地名、その１。浪速区の敷津（しきづ）は奈良時代からあった地名で、上町台地南西部の広々とした海浜を敷津浦と呼んだのがはじまりとされます。今の町名は敷津西・敷津東です。　舟ながら今宵ばかりは旅寝せむ敷津の浪に夢はさむとも　いっそ今宵は旅寝しよう。船の上のひと夜の夢が、敷津の浦の波音に覚めてしまうとしても……。　『新古今和歌集』の歌が、敷津浦での一夜の船遊びの情感を伝えています。清少納言をはじめ数々の女性と浮き名を流したといわれる貴公子、藤原実方（ふじわらのさねかた）が詠みました。敷津の地名由来は不詳ですが、平安時代には歌のとおりの貴族たちがはねをのばす浜辺だったのでしょう。　その２。東住吉区の桑津はかつて養蚕のための「桑」が植えられ、平野川の「津頭」（しんとう）にあったのが地名の由来。津頭とは船の渡し場です。地元の桑津天神社に養蚕を広めた髪長媛（かみながひめ）が祀られ、境内の八幡宮は髪長媛が住んだ館の跡とされます。『日本書紀』によれば、髪長媛は応神天皇に日向（今の宮崎県）から呼び寄せられ、仁徳天皇の后になったとのこと。九州から桑津へは、船でやってきたのでしょう。髪長媛の到着地を現在の伊丹市西桑津（兵庫県）を中心とする古代の桑津郷とする説もあるそうです。　その３。中央区の町名には高津（こうづ）があります。高い津とは何でしょう。高津という地名はかつて岸の上に船が着く港があったのにちなむと『古事記伝』に書いたのは、国学者の本居宣長です。江戸時代の人、宣長は上町台地の周囲が海辺だった古代の風景を知っていたのです。地元の高津神社を訪ねると、鳥居から本殿に向かう長い坂、境内裏の急な坂に台地の高さを実感します⑩。　「その４は三津寺でどうでしょう」という声が心斎橋方面から届きました。なるほど、中央区の三津寺町は、第10回【後編】に登場した大福院三津寺にちなむ町名でした。古代には門前の西側が海浜で、難波（なにわ）の御津（みつ）と呼ばれたエリアです。その三津寺は2022年12月現在、工事中。新ビルの胎内に本堂がそのまま再誕するプロジェクトが来春の完成をめざして進行中です⑪。　御津といえば心斎橋一帯の産土（うぶすな）神社の御津八幡宮が、三津寺町の西のアメリカ村に鎮座しています。産土とはその土地とそこに住む人々の守り神。創建は仁徳天皇時代と古い由緒を誇りますが、境内の犬と猫の絵馬にペットも家族という今の時代を感じます⑫。
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<title>島の国の島々の街【後編】</title>
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<pubDate>Fri, 09 Dec 2022 02:00:01 +0900</pubDate>
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島の生涯、難波島の場合
 
　【前編】に続き、八十島祭りが行われたかもしれない場所として難波島（なんばじま）の話をします。大正区に三軒家東という町名があり、一部の町域が半島になって木津川の流れに突き出ています。かつての難波島は木津川に大きく横たわり、船の往来を妨げていたので、江戸時代にバイパス水路（今は木津川の一部）を開削。ふたつに分割された島の西半分はそのまま難波島、東半分は月正島（がっしょうじま）と新しく名づけられました。 現在は木津川をはさんで難波島エリアが半島の形になって大正区に、月正島エリアは陸続きになり浪速区に、それぞれ所属しています。　JR大正駅から南へ木津川沿いに歩くと、やがて難波島跡の案内板、百済橋（くだらばし）跡の碑と出会います⑪⑫。そこから延びる道が埋め立てられた川筋の跡で、難波島が島だったしるしです。　古代の八十島のひとつで、朝廷の重要行事だった八十島祭りの地ともいわれる難波島。木津川上流の東岸は古くから難波（なんば）と呼ばれる広々とした土地で、江戸時代には難波村がありました。難波は浪速（なにわ）に通じ、波の速い海の難所を意味します。　もう一方の月正島の命名由来は不詳ですが、月正（がっしょう）は正月をさす季語で、島の新たな出発の意味でしょうか。川の中で難波島（地図中の）と月正島が向かい合う姿は、合掌する手のようにも見えます。


宮に向いた島とは

　「そろそろ出番でしょうか」という声は、大阪城方面から。「もうひとつ島の区が……」確かに島の字のつく区名は【前編】の福島区だけではありません。お待たせしました。ここで紹介しましょう。　その名は都島区です。前身は明治22年（1889）に生まれた自治体の都島村で、命名由来は古代の宮向島（みやこじま）とされます。宮向島とは宮に向いた島。宮は難波宮とする説が有力です。都島区は難波宮史跡公園を西に望み、大阪城にも近い大阪の歴史の中心地。宮向島はいくつかの島の総称ともいわれ、ここにも湾岸の八十島に連なる風景がありました。　区内の町名にも島地名があります。そのひとつ、網島⑬は江戸時代に川魚漁の網の干し場だったのが地名由来。今は桜名所の毛馬桜之宮公園に続く水辺の散歩道です。島の西端は川の合流で流れが激しく、水勢をやわらげるため、明治時代に木と石で将棊島（しょうぎじま）が築かれました。命名は将棋の駒に似た形によります。実態は突堤に近いのですが、水中に突き出た地を島と呼ぶのは、八十島がつながり陸地化した街に住む人々には自然なことだったのかもしれません。現在は天満橋南詰の川畔に将棊島跡の記念碑が建っています。　大阪城の北には備前島⑬という島もありました。備前岡山城主で備前宰相（びぜんさいしょう）と称された宇喜多秀家の屋敷の所在地だったのが名の由来で、大坂の陣では徳川方の大砲の陣地に。江戸時代からは備前島町という町名があり、明治の初めに網島町の一部に吸収されました。陸地化した島々の名も少なからず消えていったのです。


安けき島々が生んだ天保山、USJ

　難波島を開削した河村瑞賢（かわむらずいけん）は、九条島を開削して安治川を生んだ事業でも有名です。九条は西区の町名ですが、安治川をはさんで対岸の此花区には西九条の町名があります⑭。九条と西九条は、かつて九条島と呼ばれた島の一部でした。もとは衢壌島（くじょうじま）と書き、衢は「ちまた」とも読み、衢壌とは賑わいの地のこと。九条島は大阪湾の島々の中でもひときわ大きく、安治川の開削工事はバイパス水路開通と洪水対策の両面で期待されました。安治川とは「安けく治める」を意味したといわれます。　その後の川ざらえで出た土砂は天保山（港区）⑭という観光名所を生みました。昔の地図では陸地と橋でつながった島に見えますが、航行する船の目印になったので山と呼ばれたのですね。　「ほんま、島は山……」とは、天保山と安治川を挟んで対岸からの声。なるほど、そこは大阪でいちばん標高の高い島。USJとJR桜島駅の地元、桜島（此花区）です。USJがオープンしたのは平成13年（2001）。開設に先立って河口に近い立地に配慮し、敷地の全域を盛り土して津波・高潮に備えた結果、市中では大阪城のある上町台地北端と並んで標高が高くなりました。この話は、『古地図でたどる大阪24区の履歴書』という本でも紹介しましたが、その時には触れなかった伏線があります。　はじまりは幕末にさかのぼります。その頃、当地は湾岸で進んだ新田開発地のひとつでした。しかし、せっかく造成した土地は水害で流出。明治初めに新たな新開地ができましたが、これまた流され、残念な結果に。明治26年（1893）に埋め立てられた新開地がようやく3度目の正直で存続し、同33年（1900）に西区桜島町としてスタートを切りました。町名は桜を植えた築山の眺めを愛でたものですが、背景には水害を安けく治められた安堵の気持ちがあったでしょう。　町名由来については鹿児島の桜島からとったとする説もあります。九州の桜島は、火山島が大噴火で陸地とつながった景観で知られ、愛されつつ畏れられる存在です。大阪観光の名所となったUSJ誕生にまつわる地名の物語は記憶にとどめておきたいと思います。


島名が語る人の営み
 
　江戸時代後半の湾岸は大規模な土地開発が進み、新たに命名された島もありました。中でも有名なのが九条島の隣りの勘助島（かんすけじま）⑮。もとの名は姫島（先述の西淀川区の姫島とは別）で、ここに田畑を開墾し、堤防築造、木津川浚渫など尽力した中村勘助にちなんで改名されました。その功績を刻んだ大きな石碑が地元の上八坂神社（三軒家東２丁目）に建っています。勘助島も今は陸続きです。　此花区の現役町名の四貫島（しかんじま）⑯は九条島とともに江戸時代の新田開発の最も初期の成果とされます。開発後の島が四貫文（約10万円）の値段で買い受けされたので四貫島と呼ばれました。やはり此花区に今もある酉島（とりしま）⑯という町名は、江戸時代の埋め立てで生まれた多くの新田のひとつ。命名は酉年に開発が始まったためとも、開発者の多羅尾七郎衛門の居住地から酉（西）の方角の新田だったためともいわれます。　西淀川区の現役町名の出来島（できじま）⑯も、開拓で生まれた新田がルーツ。江戸時代に彦坂四郎兵衛が開発し、出来ばえがよかったので出来島新田です。　ご覧のとおり、江戸時代の島の命名は開拓の経緯を反映して、バラエティに富んだものになりました。八十島の島々の名がしばしば自然や神仏と結びついたのとは対照的ですが、これも時代の流れです。


新地の舞台、新名所の発信地
  
　新田の話に続いて、島は新地にもなったという話をします。新地とは新開発の場所に設けられた遊興地をさします。人を呼び、賑わいを生むのが、町づくりの第一歩というわけです。　西区にある川口という町名は昭和52年（1977）まで富島町でした。江戸時代に大仏島とも呼ばれたのは、戦国時代に焼かれた東大寺（奈良）の大仏再建のため資金集めに奔走した公慶（こうけい）上人が、この島で多くの寄付を得たのに由来します。港と色里で賑わった新地の島には富がありました。新たな大仏の完成は元禄5年（1692）。その後、大仏島が富島と呼ばれるようになったのは、商都大坂が繁栄を誇った時代の流れと無縁ではないでしょう。　明治維新の頃、富島は大阪税関発祥の地となり、大阪開港の一翼を担います⑰。当時の港は安治川上流の川口で、文明開化の最前線となった周辺の島々は大変貌。富島にあった色里は、明治２年（1869）開設の松島遊廓に移転します⑱。そこはもともと松ケ鼻と呼ばれた砂洲で、明治政府が市中の色里を集めて統合。松島新地とも呼ばれた遊廓は昭和39年（1964）まで続きます。　松島の西北には戎島と呼ばれた砂洲があり、明治元年（1868）の開港にあわせてできた外国人居留地が西洋文化の入口になりました。明治7年（1874）には松島の東北の江之子島には大阪府庁が誕生します⑲。居留地は明治32年（1899）まで、大阪府庁は昭和４年（1929）まで近代大阪を象徴する新名所として存続。湾岸の島々は明治の大波に真っ先に洗われたエリアでした。


ミナミ発祥の島の今

　島之内という地名があります⑳。中央区の現役町名ですが、もとは南北を長堀川・道頓堀川、東西を東横堀川・西横堀川で囲まれた区域をさす名称でした。４つの川はどれも人の手で開削された堀川で、島之内はいわば人工島の町。北側の船場がやはり堀川に囲まれた人工島で江戸時代に船運を生かして発展したのに続き、島之内は商業地と遊興地を兼ねた賑わいをみせ、現在の繁華街ミナミの発祥地となりました。道頓堀川沿いに生まれた新地を南地と称したのがミナミの呼び名のルーツです。　「船場が船で……」と、ここでミナミのお店から朝帰りのお客さんのひとり言が聞こえました。「島之内が島なんは、なんでなん」これは、船場より後発の島之内が、島の１字を地名に織り込んだのはなぜか、という意味でしょうか。船場の原型は豊臣秀吉の時代にできました。船場とは、船で海外に乗り出した頃の人々の意欲を反映した呼び名です。対して、島之内とは、島を経済活動の拠点とし、島に富を集めた江戸時代の人々の意識のあらわれでしょうか。　江戸時代の島之内は４つの堀川の内側のエリアをさす呼び名で、町名の島之内の誕生は時代が下って昭和57年（1982）のこと。しかし、平成元年（1989）には一部が東心斎橋に町名変更され、広域名称だったかつての島之内はぐっとミニサイズになりました。長堀川も昭和40年代に埋め立てられています。　時を経て今、大阪市中のあちらこちらの堀川畔に船着場やテラスの賑わいが戻り、行き交う船や水辺でくつろぐ人々の姿がみられるようになりました。島はもはや囲われた場所ではなく、街角にひらかれている。そんな気がします。


時空に浮かぶ島の名は
 
　さて、【後編】もいよいよ最後の島の登場となりました。ここまで「あの島がなかなか出てこない」と思われていた読者もおられるでしょう。そうです、大阪の島の地名といえばここ。パリの文化の中心地シテ島になぞらえて紹介されてきたあの島。美術館、博物館が建ち並び、川面に映る名橋群㉑、数々の名建築、歴史を語る史跡、季節を彩るバラ園など華麗なる都市景観を誇る島……。　それは、ご存じ、中之島です！　その中之島（北区）も、もとはといえば、大阪湾に浮かぶ古代の島々のひとつ。江戸時代に諸藩の米と産物が集まる蔵屋敷で埋め尽くされ、出船入船数知れず。明治以後は蔵屋敷の跡地に続々と大阪府立図書館、大阪市中央公会堂、大阪市役所、中之島公園などが登場し、大阪の顔となるエリアを形成しました。全長約3キロ、幅は最大約300メートル。現在の姿は、大阪の歴史の中心地、上町台地を目の前にして横たわる絶妙のポジションがもたらしました。　そこには生まれ育つ島の力も大きく働いたでしょう。琵琶湖に発した母なる淀川の流れが大阪市中で大川と名を変え、中之島の西端で堂島川と土佐堀川に分かれ、東端でいったん合流し、すぐまた安治川と木津川に分かれて大阪湾に流れ着く。中之島はゆたかな歴史とダイナミックな水系が交わる時空の島でした。中之島とは江戸時代の中之島町を引き継いだ町名ですが、現在の中之島は対岸エリアも含んだ広域名称として存在感を増しています。令和4年（2022）オープンの大阪中之島美術館㉒など新たな話題も尽きません。
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<title>島の国の島々の街【前編】</title>
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<pubDate>Fri, 09 Dec 2022 01:00:00 +0900</pubDate>
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島の地名の原点
 
　今回のテーマ、島は大阪の地名の重要なキーワードです。本題の前に、まずそのあたりの話に触れておきましょう。　島といえば海。大阪で海といえば大阪湾ですね。東京湾、伊勢湾とともに日本三大湾（国土交通省HP）、三大港湾（日本港湾協会HP）に数えられる大阪湾は豊かな漁場に恵まれ、巨大な港湾で発展し、昔から海の向こうの文化の入口にもなって、街々を育んできました。　島の地名は川とも深くつながっています。大阪で川といえば淀川。日本屈指の規模を誇る淀川水系は琵琶湖を源に、多くの分流を抱え、滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・三重県の2府4県に属する54市17町4村（令和2年3月末現在）を潤して、最後は大阪湾にそそぎます。流域の総面積は8,240平方キロ。なんと大阪府が4つすっぽり入ってまだ余る広大さです①。　大阪湾と淀川水系の大スケールを思いつつ、古代の大阪をイメージしてください。大阪市の背骨ともいえる上町台地の東西が海の底にあった時代の話です。淀川の河口は今よりもっと上流にあり、奥深く入り組んだ大阪湾には流れ来た土砂が積もって大小の島が生まれ、川筋は姿を変えながら分流と合流を繰り返し、水辺は葦で覆われました。　古代の大阪を彩る島々の呼び名は八十島（やそしま）。川中や湾岸に葦茂る島々の眺めを愛でた古語が、大阪の島の地名の原点です。　そういえば生国魂神社（天王寺区）②に祀られた生島神（いくしまのかみ）・足島神（たるしまのかみ）の別称も八十島神でした。生島神（生み・生れる島）・足島神（満ち足り・満たす島）の２神は、島国・日本列島の誕生と繁栄の象徴です。ふだんは気安く、いくたまさんと親しまれる神社に古代以来の由緒あり。このあとは大阪の島々の地名を訪ねつつ、街角の風景を眺めなおしてみたいと思います。


福島の旧称について考える
 
　最初にとりあげる島地名は福島です。福島区の名の由来になった福島は八十島のひとつでした。町名にも福島があり、JRの福島駅と新福島駅、福島天満宮、福島公園、福島小学校など福島の名はあちこちに。福島駅周辺は古い商店街、町屋の残る界隈に新しい飲食店なども加わり、近年とくに活気をみせています。 「それにしても、なんでかな」という声は地元の古いお店から。「福島の昔の名前のことやけど……」そうでした。福島と名づけたのは菅原道真ですが、気になるのはこの地の古名です。道真が京都から大宰府に向かう途中、立ち寄った島の名を尋ねたのです。里人の答えは餓鬼（がき）島。そこで道真が福島と改名したのはわかる気がしますが、もとの呼び名が餓鬼島だったはなぜでしょう。　道真は船でこの地を訪れました。湾の奥の入り組んだ川筋に葦が茂る風景は、往来の船には難所だったでしょう。餓鬼島の名の由来は不詳とされますが、推測はできます。第10回【後編】に登場の伝法山西念寺（此花区）が手がかりです。そこは川施餓鬼（かわせがき）で名高い寺でした。川施餓鬼とは水難者の供養を起源とし、後にお盆の灯篭流しにも変じていく仏事です。西念寺の所在地の伝法はかつて八十島に数えられた伝法島で、港が栄えました。同じく八十島のひとつだった餓鬼島も、川施餓鬼あるいは水難者の弔いに関わる地だったのではないでしょうか。道真は餓鬼島から福島への改名をもって死者の供養とし、都を追われた我が身の希望としたのだと思います。生れ育つ八十島は、帰りゆく道にも通じていました。八十島のイメージには光と影の両面があったでしょう。　現在の福島区には島の面影はないものの、堂島川畔の福島１丁目１番地に、ほたるまち港③があり、「淀船の竿の雫（しづく）もほたるかな」（与謝蕪村）にちなむほたるまちの店々の賑わいも生まれました。近くの福島天満宮では夏祭り、秋祭りが風物詩。中の天神と呼ばれた天神社は福島天満宮④に合祀されましたが、福島区玉川には下の天神が健在です。変遷を重ねつつ、天神さんのお膝元に新旧の名所・名物店が集う今の姿は、福々しい福島の名にふさわしく、道真の改名は功を奏したといえるでしょう。


鷺洲、海老洲、野田の島々

　福島区の町名の鷺洲（さぎす）は古くは鷺島とも書き、ここもかつての八十島だったとされます。今は内陸の町名ですが、明治時代の鷺洲村は現在のエリアだけでなく淀川畔までの広域を占めていました。後に鷺洲村が分かれて海老江という町名ができます。古代の鷺洲、海老洲の島々が淀川上流からの土砂堆積で陸続きになり、人が住んで村ができ、市や区の時代へと変遷を重ね、今また鷺島・海老江の町名になって帰ってきた。そんな一連のストーリーが浮かびます。　同じく福島の町名で安治川沿いの野田も、古くは野田洲と呼ばれた島でした。区内の町名には他に玉川、吉野、大開（おおびらき）がありますが、いずれも古くは野田村に所属。なかでも玉川には野田玉川と呼ばれた網の目の川筋があり、川沿いに野田藤が咲き乱れる花見の名所とうたわれました。野田洲が他の島々と陸続きになっていくにつれ、風景は変わり、村名、町名のうつろいもありました。野田が島の記憶を継ぐ町名として残り、野田藤が近年、復活して話題になったのも、地名のストーリーのゆたかな彩りです。　今の福島区を見渡すと、福島駅のある福島の西側に鷺島、海老江、野田、玉川、吉野、大開のあわせて７つの島生まれ、島育ちの町名で、このエリアができあがっているのがわかります⑤。福島区の北には淀川、南に堂島川、安治川が流れ、西の端で六軒家川（ろっけんやがわ）が正蓮寺川（しょうれんじがわ）から分流し、正蓮寺川は川施餓鬼の地、伝法（此花区）へと通じています。


甦る・奉る・歌う島々

　次に訪ねるのは、大阪湾岸の区のなかでも島の地名がとくに多い西淀川区。姫島、御幣島（みてじま）、歌島、加島、竹島などが八十島に由来する地名とされます⑥。　まず姫島は、日女島、比売島、媛島とも書き、読みはいずれも「ひめじま」でした。奈良時代には四天王寺領の牛の放牧地。中世からは稗島（ひえじま）と名が変わり、江戸時代には農村に。明治時代の自治体の名も稗島町でしたが、大正14年（1925）には姫島町とあらため、新設の西淀川区の所属に。生まれ育つ力をあらわす八十島地名の姫島が、人口・面積日本一の大大阪誕生期の新町名として復活しました。　御幣島（みてじま）は、この地で神功皇后が御幣を奉ったとの『日本書紀』の逸話が名の由来。御幣とは神事の用具です。神功皇后は朝鮮半島からの凱旋を神に報告し、御幣島を住吉大社に寄進しました。大社の記録には六ケ島とも書かれ、６つの島の集まりだったと思われます。御幣島もまた島々の成長で生まれたのでした。　歌島のたどった道は他の島地名ともからみあって複雑です。もとは加島と呼ばれる砂洲で、江戸時代には舟が行き交う水郷地帯の加島村がありました。明治半ばに加島村は御幣島村などと合併して歌島村を名乗ります。その名は、加島が数々の歌に詠まれて、歌島とも呼ばれのたが由来。御幣島、姫島も歌にしばしば詠まれた地で、加島の香具波志（家具はし）神社には連歌所がありました。　しかし、歌島村は大正14年（1925）に新設の西淀川区の所属になった時点で、いったん消滅。入れ替わりに加島、御幣島などが新町名として発足し、歌島が新町名に加わったのは、およそ半世紀後の昭和47年（1972）のことでした。その間に、やはり八十島のひとつだった竹島も西淀川区の町名になり、現在に至ります。八十島は長い曲がりくねった道を歩み、令和の西淀川区姫島・御幣島・歌島・加島・竹島の町名にたどり着きました。　結びに姫島の万葉歌を一首。　妹（いも）が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔むすまでに　失った愛娘（まなむすめ）を想い、その名が永遠であれとの祈りに、姫島の松はなんと答えたでしょうか。


田簑島はいくつある
 
　「どこにあるのかわからないというか……」と、ここで何やら、もやもやした声が届きました。「あっちにもこっちにもあるというか……」とは、数ある八十島のなかでも謎めく田簑島（たみのじま）のことですね。　田簑島は現存しない島。かつ所在地がはっきりせず、候補がいくつか挙げられています。以前、『古地図で歩く大阪ザ・ベスト10』という本で著者は、堂島を候補とする説をもとに田簑橋（北区）⑦と田簑神社（西淀川区）をつなぐ古代の島の風景について触れました。堂島も八十島のひとつで、その名は四天王寺造営時に難波の守護として薬師堂の建立地だったのに由来するといわれます。　田簑神社⑧があるのは西淀川区佃（つくだ）で、その名は貞観年間（859～877）に始まり、もとは田簑島と称したそうです。田簑島に建ったので田簑神社と呼ばれ、田簑橋は田簑神社に続く道の一部だったと考えれば、話がおさまります。しかし、他の田簑島にもそれぞれ根拠があり、ひとつにはしぼれません。　例えば大川に架かる天満橋の南詰近くの旧地名・渡辺（現・石町）のもとの呼び名も田簑島だったといわれます。渡辺は古来より朝廷に厚く崇敬された坐間神社の発祥地で、今も坐間神社の御旅所があり⑨、田簑島にはエピソードが豊富です。御旅所の南には島町という町名もあります。江戸前期の地図には「志まや丁」と記され、人名由来の名とも思われますが、これも島との縁ですね。　それにしても、田簑島と呼ばれた場所がなぜ、こんなにいくつもあるのでしょう。点々と散らばる田簑島の伝承をつなぐものは何なのでしょうか。


八十島祭りはどの島で

　「話がおさまるどころか、もやもやが増えたやん……」という声とともに潮風が届きます。海辺からの声のようです。　考える手がかりに、今回は福島の話で登場した八坂神社（福島区海老江）⑩の由来書に記された一文をとりあげます。 「浦江村は田簑島にあり、田簑島は太古より形成された難波江の多くの島々のひとつで住吉の八十島祭りの行われたところである」　文中の浦江村は現在の福島区鷺洲にあたり、難波江の多くの島々とは八十島をさします。田簑島は鷺洲（鷺島）と陸続きになって、名が消えたのですね。鷺洲（鷺島）と海老洲（海老江）が陸続きになったのは先述のとおりですが、この説によれば、同じエリアのどこかに田簑島もあったわけです。　由来書の「八十島祭り」に注目を。新しい天皇が即位にあたって、生まれ育つ生島神・足島神（生国魂神社の祭神）の２神の力を身にまとうため、難波（なにわ）の八十島の地で行った祭りは平安期に定着し、鎌倉時代に途絶えました。文中の「住吉の八十島祭り」は、ある時期から祭りの場所が住吉の浜に移ったのを示しています。　それなら、田簑島とは島の名であるとともに、各時代の八十島祭りが行われた場所の呼び名でもあったでしょうか。それらがいずれも田簑島と呼ばれ、伝承を残し、地名となって足跡が刻まれたのではないかと思うのですが、どうでしょう。　起源や変遷の経緯については諸説あり、謎を残す八十島祭りですが、バックボーンに淀川水系が注ぎ込む大阪湾の島々の生まれ育つ力があるのは確か。これだけは間違いありません。　ここで『古今和歌集』から詠み人知らずの歌を一首。　難波潟（なにわがた）潮満ちくらしあま衣たみのの島に鶴（たづ）なき渡る　大阪湾の島々に満潮の時が来たよ、田簑島には鶴が鳴いて渡っていくよ……鶴のひと声で、もやもやは少し晴れたでしょうか。
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<title>仏地名は難波（なにわ）から大坂、大阪へ【後編】</title>
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<pubDate>Mon, 14 Nov 2022 02:00:00 +0900</pubDate>
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法円坂の法案寺、日本橋の聖天さんになる
 
　【後編】の最初に登場するのは大阪市中央区の町名、法円坂⑱です。そこには古代の都の難波宮跡があり、中世の大坂本願寺門前町の記憶が継がれ、近世の商都繁栄を象徴する大阪城が健在です。難波から大坂、大阪へ。法円坂から歴史のパノラマが見渡せます。　法円坂の名は聖徳太子の創建と伝える法案寺にちなみます⑲。寺の名はここで仏法弘通（ぶっぽうぐつう）の公案を行ったのに由来するといわれます。仏法弘通は仏教を世に広めること。公案は難問に向きあう修行です。法円坂は大阪という街が産声をあげ、仏教という新文化が育まれた揺りかごのような地でした。　法円坂は今も残る地名です。法案寺も健在ですが、場所を２度替えました。最初の移転は豊臣秀吉の城下町建設の時で、同じく法円坂にあった生玉神社とともに谷町の地に移され、生玉南坊と呼ばれる神宮寺（神社に属する寺）になりました。仏法の伝来以後、神仏が交差してきた歴史の１ページです。　生玉南坊は数ある生玉神宮寺の筆頭として栄えましたが、明治時代の神仏分離政策で、現在地の島之内に移転。戦中の空襲で焼失後、復興をとげます。現在の法案寺は道頓堀川に架かる日本橋北側の繁華街にあり、日本橋の聖天さんと呼ばれています。聖天さんは本堂に祀られている大聖歓喜天の通称です。


まだある太子ゆかりの寺
 
　法円坂の話にも聖徳太子が登場し、話が【前編】の続きのようになりました。【前編】で漏れた太子ゆかりの寺もあり、ここで一気に紹介します。　下の太子と呼ばれた大聖勝軍寺がある八尾市には、他にも太子がひらいた寺があります。近鉄高安駅にほど近い教興寺は、所在地の町名も教興寺。物部守屋に戦勝した太子が、四天王寺と同時期に建立しました。鎌倉時代に西大寺（奈良）の高僧永尊が再興し、蒙古襲来の時には異国降伏の祈祷を当寺で行いました。江戸時代には近松門左衛門が一時期寄宿したとの逸話でも知られています。　同じく八尾市にあった久宝寺も太子建立の寺でした。明治時代の神仏分離令で廃寺になりましたが、町名の久宝寺をはじめ久宝寺緑地、久宝寺駅があり、中世以来の歴史的町並みの面影が残る久宝寺寺内町（じないまち）に、その名が継がれています。寺内町とは戦国時代の各地に築かれ、主に浄土真宗寺院を中心に自治が行われた町の呼び名です。　さらに挙げると、百済から伝来して安彦の一族に祀られていた観音像を本尊として太子が建立した大聖観音寺（通称はあびこ観音・住吉区我孫子）、本尊の十一面観音像が太子の作と伝えられる長栄寺（東大阪市高井田元町）など多彩。また、泉佐野市の檀波羅公園は檀波羅蜜寺（だんはらみつじ）の遺跡発掘地で、かつて檀波羅蜜村がありましたが、この檀波羅蜜寺も聖徳太子の開創と伝えられています。檀波羅蜜（だんはらみつ）とは仏教用語で、布施（ふせ）を行って悟りに至る道。布施とは自分を分け与えること。先述の長栄寺の所在地は昭和42年（1967）まで布施市（現・東大阪市）の町でした。　生野区の町名の舎利寺は舎利尊勝寺に由来⑳㉑。この寺には聖徳太子が口のきけない子供に仏舎利（釈迦の遺骨）を吐き出させ、言葉を話せるようにしたとの伝承があります。仏舎利は３粒あって、四天王寺、法隆寺、舎利尊勝寺に１粒ずつ祀られたとのこと。　天王寺区の町名の六万体も聖徳太子にまつわる伝承にちなみます。六万体とは太子が作った地蔵像の数。夕陽丘町にある四天王寺支院の真光院は太子が開創。六万体の地蔵が祀られたとされ、現在の境内には六万体地蔵と呼ばれる大きな地蔵像が建っています。


四天王寺と寺町の風景
 
　やっと四天王寺の名前が出ました。太子が大阪に建立した寺で最も有名な四天王寺は、所在地の町名も四天王寺㉒。太子の遺志を継ぐ和宗の総本山であり、天王寺さんの通称でも愛され、天王寺区をはじめJR天王寺駅や大阪メトロの天王寺駅・四天王寺前夕陽ケ丘駅、天王寺公園、天王寺動物園などの命名由来となった大名所。【前編】の太子町で幕を開けた大阪の仏地名の話は、ここに至って、聖徳太子の存在の大きさがずしんと重量感をともなって伝わってきます。　四天王寺の周辺には、寺町と呼ばれる寺院密集地があります。町名でいうと生玉寺町・下寺町・城南寺町（天王寺区）、中寺（中央区）の一帯ですが、生玉町・生玉前町などにも寺院が連なり、規模は全国最大ともいわれています。　寺町は豊臣秀吉が城下町建設時に寺院を一箇所に集め、いざという時の防衛線にしたといわれます。北区の大阪天満宮の北側にも秀吉は寺町をつくりました。町名でいうと与力町・同心町を中心とするエリアで、歩くと今でも寺院が東西に並んでいる風景が見られます。　四天王寺周辺の寺町には七坂と呼ばれる名所もあり、そのうち寺にまつわる名の坂は、真言坂（真言宗寺院が集まっていたのにちなむ）、源聖寺坂（源聖寺にちなむ）㉓、愛染坂（勝鬘院愛染堂にちなむ）、清水坂（清水寺にちなむ）の４つです。寺町の七坂に神地名の天神坂（第９回【後編】参照）がひとつ入っているのも面白いですね。　坂の風景は、法円坂から続いています。難波宮・大坂本願寺の跡と大阪城がある上町台地北端から七坂を経て、大阪市の中心部を貫いていたのです。


寺山と寺の字のつく３町名

　「うちの近所の寺山公園の由来を教えて」と、これは法円坂にお住いの散歩好きさんからの声。寺山公園は法円坂１丁目の難波宮跡公園の東南にあり、歩いていると、近くに内久宝寺町、竜造寺町、安堂寺町という寺の１字のつく３町名が並んでいるというのです。何かありそうですね。　寺山公園は中央区上町にあります。上町は昭和54年（1979）にいくつかの町名が合併してできた新町名。なくなった旧町名のひとつが寺山町でした㉔。中央区役所が地元に建てた「旧町名継承碑」の碑文によると寺山町の「町名は、この地域がもと一帯の高地で小山を形成しており、南方一帯に寺院の集中する寺町であったことに由来すると思われる。」と記されています。地図中には寺山町の北に寺町という町名が載っていますが、文中の寺町は先ほど紹介した四天王周辺に寺院が密集する寺町のことですね。　寺の１字のつく３町名の由来にも触れておきます。内久宝寺町は船場の北久宝寺町・南久宝寺町と東横堀川を隔てた隣接地をあらわし、「内」は大坂城の域内の意味。「久宝寺」は地元にあった寺の名とも、八尾の久宝寺村（【前編】参照）から多くの人が移り住んだのにちなむともいわれます。竜造寺町は豊臣時代に大名の竜造寺氏の屋敷があったのに由来する町名で寺院とは無関係。安堂寺町は『日本書紀』に登場する海人（あま）の阿曇（あずみ）氏の氏寺だった阿曇寺（あずみでら・あどんじ）が地名由来といわれます。


六万という数字の響き

　「六万寺町って六万体と関係あるん？」という声は東大阪市方面からのつぶやき。地元の六万寺町には六万寺㉕という寺もあって、【後編】の初めに登場した聖徳太子ゆかりの天王寺区六万体を連想されたのでしょう。　六万寺も歴史が古く、『日本書紀』によると起源は仏教伝来の時代にさかのぼります。崇峻天皇3年（590年）に日本最初の尼僧の一人だった善信尼が百済留学から帰国し、桜井寺に入りました。桜井寺は天平17年（745）行基によって再興され、聖武天皇に厚く崇敬されて隆盛。その後も宇多天皇による伽藍の整備がありました。南北朝期には楠木正行の本陣となり、兵火で焼失。その後も江戸時代の復興、明治期の衰退、戦後の復興と盛衰を繰り返して、現在は境内に楠木正行の墓と楠木正成の供養塔があり、桜井寺以来の由緒を誇る古寺として知られています。　桜井寺の跡地に行基が開いた寺がなぜ六万寺と名づけられたかは不詳ですが、太子が六万体の地蔵を作った伝承を意識した命名の可能性はあると思います。六万という数字が釈迦の最初の説法地となった鹿野苑（ろくやおん）に響きが通じているのも、もしかしたら理由のひとつかもしれません。一帯は六万寺山と呼ばれる小高い山で、現在の境内に建つ観音像の正面にあべのハルカスが見えます。六万寺の観音は四天王寺の方向を向いているのです。


どちらの太平寺ですか？

　「時々、間違えられるんやけど」とぼやく声は、柏原市、堺市、東大阪市から。この３つの街にはそれぞれ太平寺という町名があり、いずれも地元の寺院が命名由来。確かにややこしい。寺のつく地名は数が多く、こんなケースも出てくるのですね。　柏原市の太平寺は近鉄大阪線の安堂駅前の町名。『日本書紀』の続編『続日本記』に度々登場する智識寺があった地で、ルーツは行基が開創した太平寺。一帯の丘陵には太平寺古墳群もあります。堺市の西区太平寺㉖は泉北ニュータウンに属する町名で、やはり行基が開創した太平寺にちなみ、度々再建を繰り返した太平寺が真言宗寺院として健在です。　東大阪市の町名にも戦国期から続く太平寺がありますが、由来とされる太平寺はなくなり、詳細は不明。最寄りは近鉄大阪線の長瀬駅です。　３市の太平寺の間のつながりは謎。なお、東大阪市太平寺の隣りにある寺前町は、岸田堂という寺の門前だったのが町名由来。岸田堂とは聖徳太子の叔母の推古天皇が創建した長楽寺の異称。この寺は明治時代に廃され、神戸市中山寺通に移された建物・仏像も戦災で焼失したとのこと。


町名か、横丁名か
 
　「間違えやすいというか、かえって覚えやすいというか……」とつぶやく声は柏原市から聞こえてきました。　柏原市の法善寺㉗と中央区の法善寺横丁。夫婦善哉、水掛け不動で有名な横丁を連想するので、柏原市の町名の法善寺は確かに覚えやすそう。町内にある近鉄大阪線の駅名も法善寺駅です。町名由来の法善寺は８世紀後期の創建。大寺でしたが焼失し、跡地の法善寺１丁目に今は雷封じの観音の伝説で知られる壺井寺が建っています。ちなみに先述の柏原市太平寺は法善寺駅から南へ約１キロの近さです。　一方、ミナミの賑わいの一角を占める法善寺横丁㉘は、もともと法善寺の境内でした。名物店が並ぶ界隈になってからは法善寺路地、法善寺裏などと呼ばれ、織田作之助の小説『夫婦善哉』の舞台になり、流行歌にも唄われて名所になりました。そもそも法善寺は宇治にあった寺で、寛永14年（1637）に現在地に移転し、千日念仏を行ったのが評判となり、千日寺、千日前の呼び名が広まって、繁華街の千日前の起源にもなっていきます。街と人の足跡が点々と連なる風景の中を今、私たちは歩いています。


伝法からのレポート
  
　ここで残念なお知らせです。大阪の仏地名はまだありますが、連載第10回【後編】もそろそろお別れの時がやって参りました。【前編】と併せて予定のボリュームをすでにかなりオーバーしていますので、あしからずご了承ください。　というわけで、今回のエンディングを飾る仏地名……それは伝法です！　伝法とは仏法の伝来を意味します。それは歴史を揺るがす力にもなりました。伝法という大阪の地名は歴史的大事件の証人でもあります。　伝法は此花区の町名です。淀川と正蓮寺川にはさまれ、阪神なんば線が通って伝法駅があり、伝法大橋、新伝法大橋で対岸と結ばれています。古代には大阪湾に抱かれた砂洲だったエリアで、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に仏教の経文が初めて着岸した地だったとされます。　地元の鎮守として健保3年（1216）に創建された鴉宮（からすのみや）という神社があります㉙。その社伝には、百済から「我が国で始めて母なる仏教経論・仏像」が伝法島に着岸したと記されているとのこと。さらには経文の着岸地の古名を傳母頭（もりす）、鴉宮の旧称を傳母頭神社（もりすじんじゃ）とも。傳母頭の「傳」は伝の旧字。「母」は母なる仏教の意味。現在、烏宮の前を流れる正蓮寺川に架かる橋の名は森巣橋（もりすばし）で、その南詰は四貫島森巣（しかんじまもりす）商店街の賑わいに通じています。街の呼び名に古代の響きが受け継がれているのがわかります。　森巣橋の近くには伝法川跡の石碑も建っています㉚。伝法川は戦後の埋め立てで大半が姿を消し、残りは船溜りになりました。鴉宮の社殿は船の舳を組み込んだ珍しい造りになっていて、伝法がかつて船運の拠点だったのを雄弁に物語っています。　此花区伝法には、伝法山西念寺という寺もあります㉛。寺伝によれば、難波宮が開かれた大化元年（645）に船寺として開創され、別名を伝法官寺聖跡とも呼ばれて栄えたとのこと。船寺という呼び名には船運で栄えた伝法地域の人々の願いを感じます。菅原道真が訪れ、空海によって中興されるなどの事蹟を伝える由緒書きが境内にいくつも見られます。　鴉宮と西念寺。伝法に残る神社は社殿を船で飾り、寺院は船寺の異名を残し、仏法伝来の記憶を今に伝えつつ、この地の物語を紡いできました。神も仏もいる伝法の街が水辺の風景とともにあるのも大阪らしい彩りです。
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<title>仏地名は難波（なにわ）から大坂、大阪へ【前編】</title>
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<pubDate>Mon, 14 Nov 2022 01:00:02 +0900</pubDate>
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仏の地名、最初の訪問地
 
　古い神社と寺院は地域の記憶の貯蔵庫で、地名とも深い関りを育んできました。前回の神地名に続いて今回は仏地名の特集です。　日本に仏教が伝来して千数百年。遠い昔の話のようですが、地名は今の暮らしの話。地名にかつての記憶が刻まれているのなら、足もとの地名から千数百年前の昔を語る声も聞こえてくるかもしれません。　最初に訪ねたのは太子町①です。大阪府に９つある町のひとつで、エリアは南河内。奈良県と境界を接し、人口約1万３千人。町名の由来はいうまでもなく聖徳太子です。実在かどうかが話題の聖徳太子ですが、地名の世界での存在感は今も際立っています。　太子の時代、仏教をめぐって日本は揺れ動きました。太子町には天皇として初めて仏教に帰依した用明天皇の陵墓があります。太子は用明天皇の子で、父の没後、叔母の推古天皇、大伯父の蘇我馬子とともに仏教興隆に尽くしました。反対派の物部守屋との戦いに馬子とともに勝利した太子は593年、四天王寺（天王寺区）を造営。翌年には推古天皇が三宝（仏・法・僧）を敬うべしとの詔（みことのり）を出し、太子はその後も多くの寺院を建立しました。　太子町には推古天皇陵があり、聖徳太子廟（霊を祀る所）②、蘇我馬子の墓があります。推古天皇は、太子廟の守護に香華所（こうげしょ）を設けました。香華所とは廟に香や花を供えるために陵墓などに隣接して置かれる寺院。これが現在の叡福寺で、数ある太子ゆかりの寺院の中でも特別な地位を占め、上ノ太子とも呼ばれています。最寄り駅も近鉄南大阪線上ノ宮太子駅。太子町は今も太子の町で、仏教が古代国家に根づいた足跡そのものです。


住所は太子町太子

　聖徳太子は第8回仕事地名・北摂編に登場した継体大王の曾孫（ひまご）です。継体は近江出身の天皇として歴史に新風を吹き込み、継体以後の日本は政治・文化の両面で転換期を迎えます。　継体の子の欽明天皇は太子の祖父で、欽明の時代に仏教が大陸から伝来。これに反発した物部氏によって仏像が難波の堀江（現在の大川）に捨てられる事件が起きました。仏教を受け入れるかどうかが国家の大問題になり、物部氏は争いの末、太子と馬子に敗れます。古代の河内が合戦場になり、大阪は仏教興隆の舞台でした。　叡福寺③の所在地は南河内郡太子町太子。太子の町の中心です。太子の逝去からおよそ100年後、聖武天皇が叡福寺の境内を整えました。現在、叡福寺のまわりに点在する南林寺、西方院、東福院の３寺院はかつて叡福寺にあった諸堂の一部だそうです。今の町域でいうと太子エリアと隣りの春日の西半分をあわせた広域が、叡福寺の境内にすっぽりおさまっていたのです。


太子信仰の故郷

　没後の太子は仏教興隆の祖として敬われます。救世観音あるいは日本の釈迦とも讃えられ、叡福寺は太子信仰の聖地になりました。隣接する太子廟④には空海、親鸞、日蓮、一遍など名僧たちが訪れ、昼夜こもっての祈願で霊験をあらわして、聖地の名をさらに高めます。平安から鎌倉時代にかけて太子信仰は各地に広まり、室町時代以後は数々の寺院建立により大工など多くの職人を生み出したことから、工匠の祖としても崇められました。こうして太子信仰はさまざまな階層の人々に浸透します。　聖徳太子の命日は旧暦2月22日です。現在も叡福寺で催される命日法要の大乗会（４月11・12日）は、親しみこめて太子参りとも呼ばれ、毎年多くの参拝客を集めています。叡福寺、聖徳太子廟の周辺には上宮太子中学、上宮太子高校、磯長台太子団地、太子学園、太子霊園など太子にちなんだ命名が目立ちます。　「太子の市も立つんやて」と、ここで叡福寺門前の青空マーケットの噂を耳にした方の声が届きました。名物の市の呼び名は「たいし聖徳市」で毎月第３日曜に開催。会場の「太子・和みの広場」には聖徳太子絵伝の石碑とともに太子の定めた十七条憲法を刻んだ石碑が17あり、買い物がてらに太子と出会えます⑤。「太子・和みの広場」の名も、十七条憲法の「和を以（もっ）て貴（とうと）しとなす」のアレンジでしょうか。令和3年（2021）は聖徳太子1400年遠忌。永い年月を隔ててもなお、太子は親しい存在なのですね。


上もあれば、下も中もある

　太子堂という町名が八尾市にあります⑥。　「そうそう、こっちで太子堂いうと大聖勝軍寺（だいしょうしょうぐんじ）のこと」　飛びこんできた声はもちろんJR大和路線八尾駅前の地元から。叡福寺が上ノ太子なら、大聖勝軍寺は下ノ太子と呼ばれ、四天王寺と同じ頃に聖徳太子が創建したとの由緒を誇ります。　勝軍寺と名前が勇ましいのは、太子が物部守屋との戦いで、仏法を守護する四天王に戦勝祈願したのを建立の起源とするため。門前の守屋池は、物部守屋の首をとって池で洗った跡とされ、周辺には守屋を射た鏑矢（かぶらや）が埋められた鏑矢塚もあります。近くの楠本神社にも守屋の首洗池と伝える池が残り、守屋の墓も同じ太子堂の町内にあります。戦いのさまを生々しく物語る地名もまた太子の一面です。　上ノ太子、下ノ太子と並んで、中ノ太子もあります。羽曳野市野々上（ののうえ）の野中寺（やちゅうじ）は南北朝時代の戦乱で焼失しましたが、残った礎石が法隆寺式の伽藍配置を示し、太子の時代を物語っています。再建された本堂に、現在は重要文化財の弥勒菩薩像があり、毎月18日に開帳され、仏像の研究者、愛好家の来訪が多いとのこと。　上ノ太子、下ノ太子、中ノ太子の三つの寺をあわせて河内三太子と称します。聖徳太子といえば法隆寺や太子が住んだ斑鳩宮（いかるがのみや）で有名な斑鳩町（奈良県）がありますが、太子はご覧のとおり河内の人でもありました。


古代史のビッグネームが太子橋で顔合わせ

　聖徳太子にまつわる地名、太子町、太子堂に続いて登場するのは太子橋です。　太子橋は昭和46年（1971）生まれの旭区の町名。由来はこの地域がかつて天王寺庄と呼ばれ、聖徳太子の四天王寺建立計画地だったとの伝承によります。四天王寺はここに建つはずだったという想いを、昭和の新町名に感じます。　「太子橋の太子はわかったけど」と、ここで地元からの声。「橋ってどの橋」との質問が後に続きます。ごもっとも。太子橋に架かる橋といえば、昭和45年（1970）に完成した豊里大橋が当時最大級の橋として有名で、それ以前は平田の渡し⑦と呼ばれる渡し船が名物でした。しかし、昭和中頃の地図⑧で太子橋エリアを見ると、あらわれたのは橋寺という町名です。　当地には鎌倉時代に橋寺荘、江戸時代には橋寺村がありました。明治半ばに豊里村に編入されてからも大字名で橋寺が残り、大正14年（1925）には新設の東淀川区に属する橋寺町として再スタート。昭和17年（1942）に旭区橋寺町⑦となり、同46年（1971）太子橋に町名変更しました。太子橋の名は、昭和の市電の太子橋停留所⑦、現在の大阪メトロの太子橋今市駅にも見られます。　昭和時代にこうして橋寺は太子橋になりました。太子橋とは「太子」の記憶に橋寺の「橋」をくっつけたモザイク地名だったわけですが、命名の背景は何でしょう。　ここで登場するのが行基（ぎょうき）です。伝記『行基年譜』には数多くの行基建造の寺院や橋が載っていますが、橋寺の地には高瀬橋、高瀬橋院（寺の名）を残したとあります。この寺は地元では橋本寺あるいは略して橋寺と呼ばれたとのこと。後の発掘調査により橋寺は焼失したとされますが、中世以後も荘園や村の名になり、昭和の橋寺町にまで継がれました。　1970年・大阪万博の翌年、町名の太子橋が誕生。飛鳥時代に仏教興隆の道をひらいた聖徳太子（574～622）と奈良時代に仏教を民衆の間に広めた行基（668～749）。古代史のビッグネーム２人の足跡が、旭区太子橋で交わりました。万博という祭りの後に産声をあげた新町名が足元の歴史を振り返ったのは、時代の風の移り変わりを物語る出来事だったようにも思えます。　ちなみに行基ゆかりの高瀬は旭区の隣りの守口市の町名に残り、高瀬橋は現在の豊里大橋の上流にあったと推定されています。豊里大橋の河川敷はかつての天王寺庄村だったエリアです。


行基の古寺に白いハンカチを
  
　ここから話題を太子から行基に移します。行基は各地の寺院建立、橋や道、溜池の整備を通して民衆への布教に尽くした名僧。東大寺の大仏造営にも協力して大僧正となり、生前から菩薩と呼ばれ、平安時代には聖徳太子と並んで日本仏教の祖師と仰がれました。　行基は、この連載第３回で登場した「咲くやこの花」の歌を詠んだ王仁（わに）の子孫で堺の生まれです。JR阪和線津久野駅近くにある家原寺（堺市西区）は、行基が自分の生家を寺院としたもの。これが生涯をかけた布教の始まりで、家原寺ができたのは慶雲元年（704）、行基37歳の時でした。本尊の文殊菩薩は行基の自作と伝えます。所在地の家原町はもちろん家原寺にちなむ町名です。　今、家原寺を訪ねると、本堂を覆うようにしてぺたぺた貼られた白いハンカチに目をひかれます⑨。ハンカチには「合格お願い！」「今年こそ！」などの言葉がびっしり。知恵の象徴である本尊の文殊菩薩にあやかっての合格祈願です。以前は壁や柱に願い事を記したので落書き寺とも呼ばれたのですが、今は祈願ハンカチで有名に。　歴史が長く、衰微した時代もあった家原寺はしばらく高野山真言宗に属していましたが、行基誕生から1350年を経た平成30年（2018）、念願かなって行基宗を創設し、その本山となりました。平成元年（1989）には三重塔も再建していて⑩、境内は改修と整備が継続中。行基菩薩誕生塚の石碑⑪が存在感を示しています。


土と６万枚の瓦でできた塔
  
　家原寺町の東にある土塔町は、堺市中区の町名です。由来は行基とその弟子たちが作った十三重の土塔（どとう）。十三重というと空に伸びる高塔を想像しますが、行基の土塔は土と粘土の壇に瓦をのせたもので、目にした第一印象は階段になったピラミッド⑫。近づくにつれ、瓦葺きの檀が重なる姿の細部があらわれ、まさしく土で築いた塔なのだとわかります。まわりをめぐると発掘調査の成果を伝える解説板が点々とあり⑬、土塔には６万枚を超える瓦が使われ、その多くに人名が記されていたとのこと。土塔の築造に大勢の人々が関わったのが伺えます。　道路をはさんで向かいに行基がひらいた大野寺が建っています。同寺の由来書によると、土塔は大野寺の仏塔でした⑭。現在、土塔は国の史跡で、周辺はオープンスペースの土塔町公園。地元の町名は土塔町。土と粘土と瓦の塔が、古代を身近に感じさせてくれます。


御堂筋にも行基の寺

　先述の東大寺の大仏造営を望んだのは聖武天皇です。大事業をすすめるにあたって行基の力を借りた聖武天皇は、大阪にも寺院の建立を命じました。　心斎橋の大丸百貨店前から御堂筋を南へぶらぶら歩いて数分、左手にひときわ目につく白い壁。その角を曲がると寺の山門があらわれます⑮。その名は三津寺。行基開創の大福院が前身で、行基作の十一面観音を本尊とする古寺ですが、現在の通称はみってらさん、あるいはミナミの観音さん。民衆への布教を志した行基がひらいた寺らしく呼び名にも親しみがこもっています。　行基の名がそのまま寺の名になった例もあります。枚方市の町名の釈尊寺町は、京阪交野線郡津駅近くの釈尊寺に由来しますが、この寺のもとの名は行基寺でした。開創者はもちろん行基です。後に宋から伝来の釈迦如来像を本尊として有名になり、平安時代には釈尊寺と改められました。　東淀川区の崇禅寺は阪急京都線崇禅寺駅近くにあり、天平年間に行基がひらいたのが始まりとされます。本尊は最澄作と伝える釈迦如来像。後に室町幕府の6代将軍足利義教の菩提所となって栄え、細川ガラシャの墓所としても有名になりました。江戸時代には浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」の舞台になり、ますます名所の名を高めます。行基ゆかりの寺のたどった道はさまざまです。


行基ゆかりの地名
 
　大阪メトロ都島駅がある善源寺町⑯はもと善源寺村で、中世は善源寺荘。名前の由来は善源寺という寺でした。この寺は津守郷（西成区・浪速区にあった地名）に行基がひらいた善源院（尼院）が当地に移転したもので、明治時代に廃されたとのこと。隣りの町名の城北善源寺は城北村がルーツです。　北大阪急行緑地公園駅前にある豊中市の町名の寺内（てらうち）は、発掘調査で瓦などが発見された古代の石蓮寺（せきれんじ）にちなむ地名。石蓮寺は行基開創で、千軒寺とも呼ばれるほど多くの坊舎があったとの伝承があります。その坊舎のひとつが寺内小学校近くの観音寺とされ、同寺は「行基菩薩開創」「行基作と伝える観音像が安置されている」と案内板を掲げています。
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<title>人の世と神代（かみよ）を結ぶ神地名【後編】</title>
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<pubDate>Tue, 11 Oct 2022 02:00:01 +0900</pubDate>
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弁天と大坂城と淀君の物語
 
　JR大阪城公園駅前といえば、大阪城公園や大阪城ホールがおなじみの風景。では、駅のすぐ北にある弁天橋はご存じでしたか？　弁天橋を渡って西へ行くと、大阪城と川を挟んで対面に弁天抽水所（雨水の排水施設）もあります。城の直近に２つの弁天地名……何か、いわれがありそうです。弁天とはもちろん七福神の唯一の女神、弁財天をさしています。　弁天橋の北詰の町名は城見（中央区）で、弁天抽水所も同じ町内です。城見は大手企業の超高層ビル、イベントホール、ホテルなどが建ち並ぶ大阪ビジネスパークの所在地。大阪城を間近に見る立地にちなむ町名です。　さて、城見という町名が生まれたのは昭和54年（1979）で、その前の名は弁天町でした。さらに前は弁天島でした。川に挟まれた砂洲が弁天島と呼ばれたのは、弁天堂という弁財天の祠があったから。　弁天堂を有名にしたのは豊臣秀頼の母、淀君でした。生前は熱心に弁天堂に参拝し、死後はかたわらに淀姫神社ができました。淀君が祀られたのは、江戸時代の大坂城には異変が度々起こり、大坂夏の陣で自害した淀君の祟りとされたから。　弁天島には京橋口定番（警護役）の下屋敷、大坂城の焔硝蔵（火薬庫）があり、鴫野村の一部だったので、弁天堂・淀姫神社は鴫野の弁天さんの名で親しまれました。今、城見は中央区、鴫野は城東区に分かれていますが、もとはひとつの鴫野村が弁天島にあったわけです。　明治10年（1877）弁天島の一帯は、陸軍の兵器工場である大阪砲兵工廠の一部になりました。鴫野の弁天さんは、鴫野神社として谷町９丁目の生國魂神社の境内に移されて現在に至ります。生國魂神社はかつて大阪城の敷地にあったので、淀君の安住の地になったのも縁でしょう。今の鴫野神社の通称は淀姫の社で、女性の守護神とも呼ばれています。　大坂夏の陣以後、城を見守る弁天の地名はめまぐるしく変遷しました。城見に残った弁天橋、弁天抽水所は、大阪城と淀君、弁天さんを結んで偲ぶ糸でした。


もうひとつの弁天町と２つの神明

　城見の前は弁天町という町名だったと述べました。今、弁天町といえば、大阪メトロとJR大阪環状線の弁天町駅を思い浮かべる方が多いでしょう。ショッピングセンターやホテル、温泉、放送局がある大阪ベイタワーが駅前の賑わいの中心。駅前の町名は弁天で、その前は弁天町といいました。駅名とともに弁財天との縁を物語っています。　町名の弁天町の誕生は昭和2年（1927）。さらに前は市岡町で、ルーツは江戸時代に開発された市岡新田にたどりつきます。新田には村人が集まる会所が設けられ、弁財天が祀られていました。昭和の初め、周辺の町々を再編してできた新しい町の名に、江戸時代の村人のよりどころだった弁天の名を復活させたのです。　港区では弁天埠頭も、かつてのフェリーターミナルの賑わいで知られ、周辺には弁天埠頭公園、弁天公園など弁天地名があちこちに見られます。　【前編】では日中神明が大正13年（1924）、大正区（当時は港区に所属）の鶴町に遷座しました。その翌年に人口日本一の大大阪が誕生。弁天町の発足はさらにその２年後。大大阪の名で大阪が躍進した頃、湾岸の神地名にも異動が続きます。【前編】でお話した朝日神明社の明治40年（1907）此花区春日出中への遷座も時代の流れ。結果として此花区・大正区に大阪三神明のうちの２つの神明が鎮座し、弁天町のある港区を中心に湾岸３区に神地名が揃い踏みをしました。大坂城・大大阪・弁財天の三題噺が、江戸時代と近代を結ぶ形で締めくくられたのです。


議会で決まった毘沙門池の顕彰
  
　「七福神やったら、ここにもおられます」と、教えてくれた声は天王寺区役所の方面から。江戸時代に有名だったという毘沙門池のことですね。　江戸時代の地図には大きく載っている毘沙門池。古くは池畔が紅葉の名所でした。毘沙門池の名の由来は不詳ですが、仏法守護の四天王に数えられる毘沙門が北方の守り神で、池が四天王寺の東北にあったのが理由と思われます。灌漑用の水源でもありましたが、周辺の市街地化により明治末に埋め立てられました。　後に、地元名所の消滅を惜しむ声があがり、区議会の決議を経て、昭和3年（1928）に天王寺区役所に毘沙門池記念碑が建ちました。区役所の建物は昭和２年（1927）完成で、大正末に大大阪時代を迎え、地域の歴史を顕彰する機運が市中で高まっていたのです。区役所は平成の改修時にも建設当時の外観を保存し、毘沙門池記念碑も玄関脇に残されています。　区役所と四天王寺の中間点には、四天王寺建立の頃の創建と伝えられる五條宮があり、その境内にも旧毘沙門池跡碑が建ちました。２つの碑の間に、約17,000㎡の池が広々と身を横たえていたのです。


大黒さんとえべっさんへの参道に
 
　「七福神、しょっちゅう渡ってます」何かと思えば、道頓堀川に架かる大黒橋のことでした。大黒橋の東隣りは新戎橋、戎橋が連なる賑やかな界隈。大黒天の打出（うちで）の小槌にあやかりたいとは、ミナミのお店の方たちの声でしょう。大黒橋の名は、橋の南詰が木津大黒天社（浪速区元町）への参道になっていたことにちなみ、大黒天社は旧木津村の村社の摂社です。　同じく浪速区の大国（だいこく）は敷津西にある敷津松之宮の摂社・大国主神社にちなむ町名。祀られている大国主（おおくにぬし）は大黒天の別名ですね。周辺には町名の大国、大阪メトロの大国町駅、大国小学校、大国南公園などもあります。　浪速区の七福神にまつわる地名では、戎が目立つ存在です。十日戎で名高い今宮戎があり、その門前の町名は今宮で、南海電鉄の今宮戎駅もあります。並行して走る阪堺線には恵比須町停車場があり、周辺の町名は戎本町・恵比須東・恵比須西とまさにエビス沿線。道頓堀に目をやれば観光名所の戎橋があり、その名は橋の南詰から続く今宮戎への参道にちなみます。江戸時代には市中から戎橋を渡ると村々の田畑が広がり、十日戎には参道が福笹を持つ人の行列で埋まったといいます。　堺市の戎島町は、寛文4年（1664）縁起の良いしるしとして霊亀（れいき）が現れたことから亀島と呼ばれた洲に蛭子（えびす）神社を建てたのが起源。神社は海で見つけた蛭子神の石像が祀られ、島の鎮守とされ、戎之町・戎之町浜という町名の由来にもなりました。


宮の１字は神地名のサイン

　今宮戎の話題が出ました。今宮の「宮」は神社をさし、神地名のサイン。ここで宮の付く大阪の神地名をいくつか挙げておきましょう。　泉大津市の宮は、泉州を代表する古社のひとつ泉穴師（いずみあなし）神社の鎮座地の町名。宮はそのまま泉穴師神社をあらわしています。祀られているのは天忍穂耳命（あめのおしほみみのみこと）と織物の神の𣑥幡千々姫命（たくはたちぢひめのみこと）で、泉大津市は現在も繊維産業が盛んです。　堺市の宮下町（みやしもちょう）は、地元の踞尾（つくの）八幡神社の下にひらけた町。岸和田市の宮前町は、西之内町の浜主神社の前面にあたるのに由来。いずれも今に続いている町名です。　次はかつてあった宮の地名。中央区に昭和54年（1979）まであった宮林町は、江戸時代の当町が稲荷神社の近くの鬱蒼とした森だったことに由来。現在の町名は玉造と中道です。北区の宮之前町は明治5年（1872）までの町名で、現在の町名は天神橋筋。大阪天満宮の門前町をあらわす名が、参道筋の賑わいを願う名になりました。 池田市の宮之前は、宝亀元年（770）創建とされる地元の住吉神社にちなむ町名。昭和40年（1965）に住吉と空港（第8回登場の町名）に分割、改称されました。羽曳野市の宮村は江戸期の村名で、百済（くだら）から渡来した津連（つのむらじ）の氏神の大津神社があるのに由来。和泉市の宮里は地元の丸笠神社にちなみ、現在の国分町・仏並町・下宮町付近一帯の地名だったとされます。


北区は天神と天満の神地名ラッシュ
  
　今回、すでに天神・天満の名が何度か出ていますが、どちらも菅原道真を神として呼ぶ名前で、天満は天満大自在天の略です。大阪府下には多数の天神社、天満宮がありますが、ここでは町名あるいは町名の由来になった天神・天満の例をとりあげます。　大阪天満宮のお膝元、北区では大川沿いに天満、西天満、天満橋の町名が広い範囲を占め、大川には天満橋、天神橋が架かっています。日本一長いといわれる天神橋筋商店街の東に沿って町名の天神橋が続き、西側には天神西町という町名も見えます。　京阪電車、大阪メトロ谷町線の天満橋駅、JR環状線の天満駅、JR東西線の大阪天満宮駅、大阪メトロ堺筋線・谷町線の天神橋筋６丁目駅も名をつらね、天満市場をはじめ、天満を冠した商業施設も多数。上方落語の常設寄席の天満天神繁盛亭が賑わいに花を添え、北区エリアはまさに天神・天満の神地名ラッシュ。　江戸時代には、大川の北側一帯の広域が天満組と呼ばれ、豊臣時代に天満堀川が開削されて商業地が繁栄し、北区のルーツになりました。天満組の中心が天満宮で、明治以後も天神祭りや天神橋筋商店街の賑わいのよりどころでした。天神・天満の地名が大阪天満宮の周辺に集中しているのも頷けます。　ここまで、ずらりと並んだ天神・天満の地名から、神社名はもちろん森や山、町や駅、さらには商店街の名前にもなるフットワークの軽さが身上といえるかもしれません。上方落語の常設寄席として知られる天満天神繁盛亭は、天満と天神を重ねたネーミングに千客万来の願いをこめています。


北区以外の天神地名

　天神地名の最後に北区以外の例を３つ。第３回に登場した高槻市の天神町は昭和39年（1964）生れの町名で、太宰府天満宮に次いで2番目に古い天神社の上宮天満宮の門前町なのが由来。町域には天神山があり、天神山遺跡からは大量の土器が発掘されました。第４回に登場した西成区の天神ノ森は、地元の天神ノ森天満宮にちなむ町名です。　岸和田市の天神山町は昭和54年（1979）からの新町名で、もとは神須屋町をはじめいくつかの町域が再編成されてできました。　堺市には明治５年（1872）まで近隣の菅原天神にちなんだ天神東片原町という町名がありました。　天王寺区の天神坂は、坂の上の安居天神が名の由来ですが、この天神はもともと天照大神など天津神（あまつかみ）と呼ばれた神々のこと。後世になって菅原道真も祀られ、安居天満宮とも呼ばれるようになったとのこと。


海をめざす神地名、それは……

　大阪の神地名の特集もいよいよ終わりに近づいてきました。ラストを飾る神の名は何でしょう。　それは住吉の神地名です！　神の名に順位はつけ難いですが、大阪の地名の世界で、住吉の名が示す存在感は天神・天満とともに大きく、かつ次の地名が神地名としての住吉を強力にプッシュしています。　その地名とは、住吉区です！　区名の由来はもちろん住吉大社。住吉区の誕生は大正14年（1925）で、当時は現在の住吉区だけでなく東住吉区・住之江区・阿倍野区・平野区の５区域を含む広域区で、大阪市の歴史で最大の区でした。そのエリアは奈良時代の律令制で定められた住吉郡にほぼ重なります。古代の住吉郡も住吉大社にちなむ命名で、神地名としての住吉には長い歴史の裏付けがあります。　住吉の神は海中から出現したことから海の神とされ、大阪湾に抱かれた大阪にはとりわけ重要な神でした。和歌の神、農耕・産業の神でもあり、住吉にちなむ地名は各地に広がりをみせています。


住吉公園に桜咲く
 
　住吉大社の住所は住吉区住吉です。住吉の周囲には上住吉・南住吉の町名があり、南海本線の住吉大社駅、南海高野線の住吉東駅、阪堺電軌上町線の住吉公園停車場、阪堺電軌阪堺線の住吉停車場・住吉鳥居前停車場があって、各路線が並行、あるいは交差して走っています。　住吉高校、住吉団地など住吉のつく地名は多く、なかでも住吉大社の目の前にある住吉公園は明治6年（1873）開設の大阪最古の公園。もともと住吉大社の境内地だった場所が公園として整備されたもので、ふだんは参拝がてらの散歩道、春は桜の花見で親しまれ、令和5年（2023）に開設150周年を迎えます。　住吉公園の南と木津川の間を流れる住吉川は、江戸時代は海だった一帯の新田開発にともない、物資輸送の水路として利用されたもので、流域は住之江区に属します。　住之江も住吉から派生した地名で、住之江区には昭和23年（1948）まで住吉浦町（現・柴谷町）がありました。もとは住吉浦と呼ばれた海浜が、江戸時代の埋め立て開発で新田となり、一部に残った水路が住吉浦と呼ばれた後、住吉川に姿を変えたとのこと。　地名の変遷の例として興味深いのが、北区にあった住吉町です。住吉の神が出現した松の木があったので住吉町と呼ばれていた町が、江戸後期に老松町（第4回参照）となり、昭和53年（1978）に天神西町・西天満に改称されました。北区は先述のとおり、天神・天満の勢力圏です。　最後に府下の住吉地名も挙げておきます。堺市の住吉橋町は昭和34年（1959）からの町名で、前身は明治5年（1872）生れの住吉橋通。住吉大社の御旅所の宿院頓宮に近く、夏には住吉大社の神輿が通ります。堺はかつての住吉大社の社領です。泉佐野市の住吉町は昭和43年（1968）からの新町名。由来は未詳ですが、大阪湾に突き出た埋立地で、海の神である住吉の神にあやかったものと思われます。　池田市の石橋駅近くにある住吉は昭和40年（1965）からの町名で、地元の住吉神社に由来します。住吉の地名は大阪南部を中心に広がり、北部にも進出しました。　住吉と天神は大阪の２大神地名。大阪天満宮が梅の名所で、住吉大社門前の住吉公園は桜の名所というように、第３回の花地名の話題ともつながるところがあります。人の世の日々、四季のうつろいに神や花の地名が寄り添っているのを感じます。
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<title>人の世と神代（かみよ）を結ぶ神地名【前編】</title>
<link>https://140b.jp/chimei/article/p17</link>
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<pubDate>Tue, 11 Oct 2022 01:00:04 +0900</pubDate>
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大阪駅前に神の山があった

　さて、今回のテーマは神です。連載中、すでにいくつもの神社の名前が登場しましたが、神にまつわる地名は神社だけではありません。科学万能の時代になっても、街のあちこちで息づく神の呼び名。意外とふだん意識しないまま、口にしている神地名もあったりするかもしれません。　オープニングは梅田から。大阪駅の東、阪急東通商店街を抜けたところに神山町という町名があります。駅前散歩にちょうどいいくらいの近さです。神山町の南には太融寺町があり、そこは昔、稲荷山と呼ばれていました。稲荷山といっても山はなく、神山町にも山はありません。どうして稲荷の山、神の山というのでしょう。地図を広げると近くに神明町という町名も見えます。　神山町、稲荷山、神明町……並べただけではつながりの見えない３つの地名について、このあとの話は続きます。太融寺町という寺にまつわる地名が、神の地名とどう関わるのかも見ていきたいと思います。


神山に祀られた2人

　神山町には、菅原道真を祀る綱敷（つなしき）天神社があります。綱敷の名は、京の都を追われて大宰府に向かっていた道真が当地で梅の花を愛でた時、船の綱を巻き置いて座ったのにちなみます。船で来たのは、昔の梅田は川筋が縦横に流れていたから。なぜ、ここで梅見をしたかといえば、ここが特別な場所だから。　というのは、綱敷天神社が生まれる前、そこにはすでに先客がいました。皇大神宮、もとの名は神野神社です。祀られているのは嵯峨（さが）天皇。祀ったのは嵯峨天皇の第八皇子で左大臣の源融（みなもとのとおる）です。　嵯峨天皇（786～842）は政治の安定と文化の発展に尽くし、自身も秀でた書家として後世に名高い天皇ですが、死後の供養は不要と遺言したため、墓が長い間つくられませんでした。源融（822～895）はそんな父のために神野神社を建てたのです。神野の名は嵯峨天皇の死後の称号からとりました。建立地は兎我野（とがの）を見下ろす小高い丘で、兎我野（連載第２回に登場）は嵯峨天皇のかつての訪問地でした。　神野の丘と兎我野の間には、嵯峨天皇の命で開かれた寺もありました。その寺の境内地を広げ、太融寺と名を改めたのも源融です。死後の供養を拒んだ嵯峨天皇の遺言を源融は守らず、父とゆかりの深い稲荷山、兎我野、神野で追悼を重ねました。丘の上に神野神社を建てたのは、丘を陵墓に見立てたのでしょうか。　今に残る神山という町名は、神野神社の建立地が小高い丘だったのにちなみます。菅原道真（845～983）がやって来たのは、創建から半世紀以上経た頃の神野神社の丘でした。眺めを楽しみ、梅を愛で、源融と嵯峨天皇の時代を偲びつつ、道真は都を追われて大宰府に向かう我が身の運命を省みたことでしょう。後に自分も神山の地に祀られるとは、思いもよらないことでした。


稲荷山から駅前ビルへ
 
　太融寺が開かれたのは稲荷山という場所だったと、先に述べました。その名は源融の子孫が祀った稲荷社にちなみます。ここにも源融とつながる縁がありました。その後、稲荷山は花見の名所になり、明治維新後は大阪駅誕生でさらに賑わいをみせていきます。　何度か危機も乗り越えました。明治42年（1909）の北の大火では堂島川の北側一帯が焼けても稲荷社は残り、「焼けずの稲荷」と呼ばれました。大正～昭和は開発による風景の変貌が激しく、戦時中は空襲にもあい、神山も稲荷山も平地になってしまいましたが、稲荷社は今も無事です。　現在の鎮座地は、梅田の賑わいを見下ろす駅前第一ビルの屋上。稲荷社のかたわらに建つ碑には、源融の10代目の子孫の渡辺伊豆三郎が当地を開墾し、18代目の渡辺十郎が守護神として稲荷社を祀ったと記されています。空襲で梅田一帯が被災した時も、地元有志の手で再建されたとのこと。高層ビルの屋上はいわば都市にそびえる山の頂上。稲荷山で生まれ、梅田の変遷を見てきた稲荷社にふさわしい鎮座地といえそうです。　現在の名は正一位（しょういちい）福永稲荷。もとは神の最高の位階の呼び名で、後に全国の稲荷神社の別称にもなった正一位を冠したところに、梅田の稲荷再建を望んだ人々の崇敬が表れています。


明るい神の町という町名

　源融が梅田に残した神地名は、まだ他にもありました。昭和19～53年（1944～78）の間、北区にあった神明町です。今の町名でいうと西天満と曽根崎のエリア。大阪駅の目と鼻の先で、神山町との距離は約500メートル。阪急東通商店街の賑わいもすぐ近くという界隈です。　昔、神明町のあたりは川が流れ、中洲にあったのが神明社。祀られた神は伊勢神宮の天照大神と豊受大神（とようけのおおかみ）で、祀ったのは源融です。天照大神は日の神で皇室崇敬の象徴。豊受大神は天照大神とともに伊勢神宮の主神とされる食物の神。神明社の神明とは、明るく照らす日の神である天照大神をあらわす呼び名です。　神山町と神明町。神の山の町のご近所の明るい神の町。その原風景には、山もあれば川もあるかつての梅田がありました。


神地名が語るもうひとつの梅田の賑わい史

　こうして梅田の山川は一大霊場になりました。源融は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされた人。京の都で地上の栄華を極めつつ、梅田では彼岸の栄光を願って、神野神社・太融寺を開き、伊勢神宮の2神を迎えたのです。　梅田の歴史について、しばしば、「明治になって大阪駅ができる前は、梅田墓地があるだけのさびしい場所だった」と言われます。じつのところ、梅田墓地は大阪駅の西側の話です。東側の一帯はここまで見てきたように、地名の神山・稲荷山・神明町、神社の神野神社・福永稲荷・神明社が連なる神域でした。いずれの逸話にも源融及びその子孫が関わっています。梅田の賑わいはまず東から、神々の賑わいとともにはじまったのです。　源融が建てた神明社は、夕日神明社と呼ばれるようになりました。社殿が夕日の沈む西向きなのが名の由来です。江戸時代には、歴代の大坂城代が城に赴任した時、必ず参拝したとの由緒を誇りました。　明治の末に曽根崎の露天神社の境内に移されて残り、現在は難波神明社と称しますが、昔のままに夕日神明社とも呼ばれています。


朝日の神明、春日の神と此花で出会う
 
　大阪には他にも神明社があります。大阪メトロ長堀鶴見緑地線・松屋町駅の北の神崎町（中央区）は、当地にあった朝日神明社に由来する町名です。朝日を冠したのは、朝日が昇る東を向いた神明社だったため。前身は熊野街道沿いの参拝所（王子社といいます）のひとつだった坂口王子社とされ、創建は文治元年（1185）。建仁元年（1201）に後鳥羽上皇が熊野参詣の途中で訪れたと藤原定家の日記『明月記』に記されています。後には源義経が戦勝祈願をしたともされ、逸話の多い社でした。　明治40年（1907）、朝日神明社は春日出中（此花区）に遷座しました。町名の春日出は、江戸時代の新田開発の折りに殺された鹿を開発者の雑賀七兵衛が弔い、春日神の社を建てたのにちなみます。鹿は春日神社の神獣で、春日出もまた神地名でした。　遷座にあたって朝日神明社は、此花区川岸町の皇大神宮（天照大神を祀る）、春日出町の春日神社、西区阿波座の安喜良神社（天神を祀る）を合祀。明治の近代化で神の世界も合理化が進みましたが、発祥の地の神崎町には今でも朝日神明宮旧跡の碑が建っています。


大大阪時代の神明の鎮座地

「これって、大阪三神明の話やね」と、古書市の露店から声が聞こえます。神明社はまだ２つしか登場していないのですが、確かに３つ目の有名な神明があり、戦前の頃まで大阪三神明と呼ばれていました。大阪の古い話を集めた本に載っているよ、と声はさらに教えてくれました。　すでに述べた朝日神明社は朝日の神、夕日神明社は夕日の神。もうひとつの神明は昼の日の神で、社殿は南向きでした。名前は日中神明です。　日中神明は後陽成天皇が京都西院に伊勢の天照大神を祀ったのが起源。江戸時代の初めに大坂城に近い内平野町に移されたのは、城の守護神、大坂三郷（江戸期の市街地）の祈願所とするためでした。　大正13年（1924）に大正区鶴町に遷座したのも、時代の要請によります。翌年、大阪は市域拡張で面積・人口日本一の大大阪になり、人口最大区となった港区は大正区エリアを含む巨大区で、港湾を中心に大躍進を遂げました。日中神明社は、そんなフロンティアの地の守護神として招かれたのです。　夕日神明社は神明町、朝日神明社は神崎町という町名を生みました。日中神明社は町名にはなりませんでしたが、大阪三神明のひとつに数えられ、その名を残しました。


稲荷と神明と春日の地名
 
　このへんで、ここまで登場した稲荷、神明、春日の神にまつわる地名の例をもう少し挙げておきましょう。　江戸時代には玉造稲荷（中央区）の門前に、稲荷門前町（図中では稲荷前町）・稲荷仲之町（図中では稲荷中町）・稲荷新町の３町名がありました。玉造稲荷が大坂城の守護神として豊臣秀頼の信仰厚く、江戸時代にも歴代の城代に崇敬されためです。明治５年（1872）、稲荷門前町の一部は神職を意味する禰宜（ねぎ）町に改称。他は東雲町通・岡山町と、城の東、玉造の岡にちなんだ改称で、玉造稲荷を偲んでいます。　浪速区の町名の稲荷は、地元の赤手拭（あかてぬぐい）稲荷にちなむ町名で、今も健在。上方落語の「ゾロゾロ」にも登場するお稲荷さんとして知られています。　堺市の町名の稲荷町・稲荷屋敷は、高須稲荷神社（現・高須神社）に由来。明治5年（1872）にそれぞれ北半町・北旅籠町東に改称しました。堺市には神明町も江戸期からあり、今も続いています。由来はもちろん神明宮です。　茨木市と枚方市の町名の春日、高槻市の春日町、豊中市の宮山町はいずれも春日神社の所在地で、春日神社の神は藤原氏の守護神で祖神です。　神地名をたどっていくと、神々が地名に根をおろし、あるいは移り、地域の歴史と交わりながら、時代を経てきたのがわかります。


神山・神並・神内……なんと読む？
 
　大阪府には神の１字が入った地名も数多くあります。【前編】の最後に、その中から神社や神話的な伝承に由来する地名をいくつか挙げます。　東成区の神路（かみじ）は大正5年（1916）に南新開荘村が改称して誕生。村内を東西に横断する暗越奈良街道が、神武東征の通路になったとの伝承にちなむ町名で、神武天皇は古代のさまざまな事蹟を神格化した存在と考えられています。　岸和田市の神於山（こうのやま）は和泉山脈の一角を占め、古くから山そのものがご神体として信仰の対象でした。山名も神の尾根、神のいる峰の意味。奈良時代に金峯・熊野・宇佐・白山の神々を祀る鎮守の社が置かれ、後に神於町という町名も生まれました。　河南町の神山（こうやま）は金剛山地の西にある町名。天磐船に乗った饒速日命（にぎはやひのみこと）の降臨の地で、饒速日命を祀る鴨習太（かもならいた）神社があるのにちなみます。　東大阪市の神並（こうなみ）は、神の降臨するところを意味する神奈備（かんなび）が転じた町名で、石切剣箭神社の鎮座に由来。大正９年（1920）より石切の一部に編入されました。　高槻市の神内（こうない）は安満山の南東の丘の麓の町名。古い呼び名の神奈備（こうなび）が、神内に転じたと伝えられます。神奈備は神の鎮座する山や森をさす言葉。　豊中市の神洲町（かみすちょう）は神崎川下流の町名で、八幡神社が鎮守の洲到止（すどうし）と菰江（こもえ）の各一部が昭和38年（1963）に合併したもの。　池田市の神田（こうだ）は天元元年（978）創建とされる素戔嗚尊神社（現・八坂神社）があったことによる地名です。
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<title>語る地名、働く地名。（北摂編）【後編】</title>
<link>https://140b.jp/chimei/article/p16</link>
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<pubDate>Thu, 08 Sep 2022 01:00:01 +0900</pubDate>
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自己紹介する町名

　後編の最初の訪問地は摂津市です。連載の第１回では摂津市の鳥飼が登場しましたね。大和朝廷時代に設置された鳥養部にちなむとされる地名で、平安時代には乳牛を飼育する味原牧があり、江戸時代から明治・大正にかけては米づくりと綿や菜種の栽培が盛んでした。風景が一変したのは昭和3年（1928）、新京阪鉄道（現・阪急京都線）が開通してからです。正雀駅が誕生し、駅前から市街地化がはじまり、鐘淵化学（現・カネカ）、ダイキン工業などの大工場が次々と開設されました。　昭和41年（1966）には、正雀駅前に阪急正雀という町名が生まれます。全域が阪急電鉄の正雀工場で、「私は阪急の車両工場の所在地です」と町名が自己紹介しています⑮⑯。第７回河内編で地名が物産名・企業名と結びつく例（河内ワイン・飛鳥ワインなど）を見ましたが、企業名がそのまま町名になった例は、これが連載初登場。電鉄と地域の結びつきの深まりを物語るエピソードです。　昭和43年（1968）、正雀工場は西宮工場を統合し、当時の民間鉄道としては東洋一と呼ばれる巨大な車両工場になりました。検査・整備・修理・改造のための仕事場であり、鉄道ファンには毎年恒例の阪急レールウェイフェスティバルの会場として広報役もつとめています。コロナ禍以後もフェスティバルはオンラインで開催され、阪急正雀の名をネットの世界にも広げています。


阪急、ダイハツ、東芝……企業名が地名になる昭和後半

　昭和生まれの町名には、阪急正雀以外にも企業名登場の例があります。池田市のダイハツ町は川西市、伊丹市と境界を接し、昭和41年（1966）に誕生。昭和36年（1961）にダイハツ工業の工場ができ、昭和40年（1965）に大阪市中からダイハツ工業本社が移転して、翌年にダイハツ町になりました⑰。　茨木市の太田東芝町は昭和48年（1973）からの町名。全域が東京芝浦電気の大阪工場で、旧町名の太田が企業名に冠されました。中世の太田郷や豪族の太田氏が太田城を構えた歴史に、現代の企業活動が接ぎ木された格好です。　企業名ではありませんが、江戸時代以来の名高い商業地の名前が新地名になった例として、箕面の町名の船場西・船場東も挙げておきます。誕生は昭和47年（1972）。かつての農村地帯に、大阪市中の船場の繊維卸売業者を誘致して生まれた商業団地にちなんだ町名です。　昭和後半、戦後の成長期は企業の活動に勢いがありました。パワーがついに地名の世界にも及んだわけです。江戸時代には土地を開発した商人の名が地名になる例が少なくありませんでしたが、昭和のケースは人名ではなく、企業名もしくは商業地名が主役になりました。働けば暮らしがよくなるといわれた高度成長時代、地名も企業名とタッグを組んで働いたのです。


空港のさらにその先に……

　時代の流れに乗って現れた町名の中でもひときわ異彩を放っているのが、昭和40年（1965）生れの空港（池田市）、昭和50年（1975）生れの南空港町（豊中市）です。いずれも町域の大部分が大阪国際空港で、空港の北側エリアは伊丹市域（兵庫県）にあり、北東側が池田市、南側が豊中市で３市域にまたがっています。　昭和14年（1939）にできた滑走路２本だけの大阪第二飛行場が戦後に拡張され、大阪国際空港と改称した後も大阪万博開催直前の新滑走路完成など成長し、池田に空港、豊中に南空港町という町名が誕生しました。鉄道に続いて空港が新時代を象徴する仕事のステージになったのが、こんな形であらわれたのです。　第７回河内編、第６回泉州編では述べませんでしたが、八尾空港には空港、関西国際空港にも泉州空港という名の町名があります。　「私は空港です」と町名に名乗られても、初めて聞く人はとまどうかもしれません。試しに、空港エリアの旧町名の地図⑱の上部に載っている東市場・西市場という地名をご覧ください。空港も市場も仕事場の名であることに変わりはないのに、市場の方が地名として自然な感じがするのは、空港がまだ歴史の浅い言葉だからでしょうか。　空港は国や自治体が主導する大規模な事業です。ひとつの空港から多くの仕事が創出されます。一方で、大規模ゆえの環境への負荷という問題も生み、大阪国際空港は廃止論が出た時期もありました。空港という町名には、地名と仕事の交わり方が、どこかの時点で大きく変わったと感じさせるものがあります。　試練を経て空港は今も健在で、今も時は留まることなく流れていきます。空港のさらにその先の新しい仕事地名が生まれる頃には、仕事という言葉の意味も、これまでとはかなり違うものになっているのかもしれません。


地名にもOEMが

　話題が未来にまで飛びそうになりました。　再び時代をさかのぼり、中世の能勢町を訪れたいと思います。能勢町は大阪府最北端の町。かつては多田銀銅山の銅の採掘所がありました。多田銀銅山は兵庫県と大阪府にまたがる大鉱山で、豊臣時代に採掘が盛んになり、有名になりました。江戸時代には能勢の平通村（ひらどおりむら）⑲をはじめとする村々が幕府領の銀山村とされ、採掘した鉱石を運び出す坑道があり、精錬用の炭を焼いていました。呼び名は銀山村でも、能勢で採れたのは銅です。伝承では多田銀銅山の採掘も銅からはじまり、その銅は東大寺の大仏造営時献上されたとのこと。現在の多田銀銅山遺跡は、兵庫県猪名川町の銀山（町名）⑲にあり、かつての坑道などが公開されています。　精錬用の炭焼きの話が出ましたが、炭は能勢町の重要な産業で、後に茶席用の「池田炭」に発展していくのは、【前編】で紹介したとおり。隣りの豊能町も茶席用の「池田炭」の産地でした。能勢・豊能の両町ともに特産の炭が池田のブランド名を冠して流通したわけです。今でいうOEMのような仕組みが江戸時代にもあったのですね。


伝統野菜になった地名

　北摂は河内、泉州と同様に早くから開けた地で、近世にも大消費地の大阪を控えた農業地として発展しました。江戸時代から続く大阪独自の野菜を対象に大阪府が認定している「なにわの伝統野菜」も19品目のうち６品目が北摂産です。　茨木市では天保年間（1830～44）にみずみずしく甘い三島独活（うど）が名産になりました。三島はかつての郡名で、その一地域だった茨木市には現在も阪急総持寺駅の北に三島・三島丘という町名があります⑳。三島独活は今、伝統の栽培技術を受け継いだ千提寺（せんだいじ）の農家一軒が生を続けていて、三島という地名との結びつきは見えなくなっていますが、名称は三島独活のまま変わりません。　吹田慈姑（くわい）は小粒で柔らかく甘みがあるのが特徴。地下の塊茎を食べるクワイが、千里丘陵の良質で豊富な地下水に育まれ、独特の風味をもつ吹田慈姑（くわい）になりました。　摂津市の鳥飼茄子（なす）はまん丸い形が見た目にも可愛らしく、食感がさっくりとして甘みがあります。能勢町には香り高くやわらかい高山牛蒡（ごぼう）、くせのない茎野菜の高山真菜（まな）があり、高槻市には旧服部村の服部越瓜（しろうり）が漬物で人気。いずれも地名が野菜に冠された名前で親しまれてきました。　「知らんと食べてたら、地名やったん」という声が聞こえました。今日からは野菜の味はもちろん、名前にも注目を。消えた地名も野菜といっしょに思い出してもらえたら……。　「なにわ伝統野菜」は河内、泉州、大阪市中にもあり、それぞれ地名とかかわりが深いです。ここまで触れる機会がありませんでしたが、またいずれ紹介したいと思います。


ハニワ工人たちの仕事場へ
  
　いよいよ北摂編の最後の話題です。 　高槻市のJR摂津富田駅から北へ約２キロ、古代の氷の貯蔵所があったとされる氷室町（ひむろちょう）を通り抜け、上土室（かみはむろ）の町内に入ると見えてきます。　木々の緑の向こう、池の畔の斜面に長々と延びる屋根がひとつふたつ……　その名はハニワ工場公園です！　フルネームは史跡今城塚古墳附・新池埴輪製作遺跡ハニワ工場公園！㉑　日本最古・最大のハニワ工場の跡地で、周辺の今城塚（いましろづか）古墳、太田茶臼山古墳などの築造にともなうハニワを焼いた窯18基と工房３棟が復元されています。長い屋根に見えたのは、窯を覆う粘土製のドームでした㉒。今城塚古墳が近年の発掘調査で６世紀の継体大王の墓と判明し（それまでは太田茶臼山古墳が継体天皇陵とされた）、注目を浴びたのに応えて、ハニワ工場跡が史跡公園として整備されたとのこと。オープンしたのは平成７年（1995）です。　ハニワと工場がくっついたネーミングに興味をそそられ、ハニワ工場公園を訪れました。ハニワが並ぶ遊歩道、斜面に復元された窯、保存されたハニワづくりの作業場㉓……青空の下の池の畔というオープンな空間に、古代のハニワ工人たちの制作現場が再現されています。ハニワ工場公園は今城塚古墳と合わせて国史跡にも指定されている本格的な遺跡ですが、案内板はどれもマンガ付き。近所の子供たちの探検コースみたいな雰囲気もかもしだされていて、親近感がもてます。　ちなみに公園の所在地の町名、土室（はむろ）もハニワ作りの小屋を意味するハニイオ（埴廬）から転じたとのこと。納得です。


ハニワ、土によみがえるもの
   
　ハニワ工場公園から足をのばして、今城塚古墳にも行ってみました㉔。円筒ハニワの行列㉕でまわりを囲まれた大きな古墳です。かたわらに古代の祭礼を模したハニワ群㉖があり、武人、力士、家、馬、鳥㉗などがずらりと並んで、古代の風景を再現しています。　次の文は古墳の案内板の解説より。「ハニワをつくるには、よい粘土と燃料になる木、粘土をこねる水がたくさん必要です。それにハニワを焼くカマは斜面につくるために、台地のはしっこのようなところがなければなりません。ここがハニワ工場に選ばれたのはすべての条件がそろう、理想的なところだったからです。」　巨大な古墳には数千～数万のハニワが必要で、ハニワ工場の工人たちも腕のふるい甲斐があったでしょう。　ちなみに、今城塚古墳に葬られた継体（けいたい）大王は近江出身で、応神天皇の子孫とされ、大和から迎えられて天皇になりました。古代の三島は高槻市・茨木市・摂津市にまたがり、継体大王を支えた北陸や東海地方の豪族たちと瀬戸内海を結ぶ要路でした。三島を縦断する淀川は大王の故郷である近江が源でした。土と水と火でできたハニワから、古代の風が舞い上がり、彼方の大空へ吹いていきます。
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<title>語る地名、働く地名。（北摂編）【前編】</title>
<link>https://140b.jp/chimei/article/p15</link>
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<pubDate>Thu, 08 Sep 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
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7市３町の北摂

　連載第５回・６回・７回は、仕事にまつわる地名を訪ねて大阪市中・泉州・河内をめぐってきました。今回の北摂で、大阪府一周です。　北摂エリアには大阪府の北部を占める高槻市・茨木市・摂津市・吹田市・豊中市・池田市・箕面市の７市、島本町・能勢町・豊能町の３町が属します。「摂」は８世紀初めに定められた旧国名の摂津をさし、その北部なので北摂です。もともとの摂津には、今の兵庫県内の尼崎・伊丹・有馬なども含まれていましたが、明治以後に行政区分が変わりました。　北摂は、大阪府の他のエリアと同様に古代以来の長い歴史を持っています。一方で近隣の諸地域と大阪市中の中間に位置し、文化が交差する場所でもありました。　そんな北摂の仕事と地名は、どうなっているでしょうか。最初に訪ねるのは池田市①です。


古代近畿の機織はたおりのはじまり

　池田市の綾羽（あやは）町に、伊居太（いけだ）神社があります②。市内最古の神社とされ、大陸から招いた穴織媛（あやはとりのひめ）を祀っています。招いたのは応神天皇で、祀ったのは仁徳天皇。後には両天皇も伊居太神社の祭神になりました。　伊居太神社は阪急池田駅の北に広がる五月山公園の麓にあります。穴織媛とともに招かれた呉服媛（くれはとりのひめ）を祭神として祀る呉服（くれは）神社③④も池田駅近くにあり、駅前の石鳥居が参道への道案内になっています。　呉の国の人だった穴織媛と呉服媛は機織りの技術を日本に伝え、没後に「裁縫の神」として祀られました。呉とは中国の南部にあった国の名前です。今でも着物のことを呉服（ごふく）と呼ぶのは、呉から織物の技術が伝来した歴史の名残り。呉は「くれ」とも読み、「くれはとり」とは呉機織（くれはたおり）が訛った呼び名ともいわれます。また「あやはとり」とは漢機織（あやはたおり）に由来し、機織技術を持つ渡来人をさしていました。


絹を洗う川、干した川原
 
　ここまで読んで、連載第７回登場の交野市の機物（はたもの）神社、あるいは藤井寺市の衣縫（きぬぬい）廃寺に織物の発祥にまつわる話があったのを思い出した方もいるかもしれません。　さらに付け加えると、池田市の伊居太神社、呉服神社の由来は『日本書紀』に記され、そこには穴織媛と呉服媛が古代宮廷で裁縫の仕事を担った飛鳥衣縫（あすかのきぬぬい）、伊勢衣縫（いせのきぬぬい）の祖であるとも述べられています。　これらの話は、古代の近畿に広まった織物の技術のルーツは同じと語っています。「衣」は昔も今も生活の大事な基盤で、豊かな彩りです。池田の地で穴織媛、呉服媛の技を受け継いだ人々は、神社を建て、二人を祀り、感謝の念をあらわしたのでしょう。「衣」を織り、縫う仕事のはじまりが、こうして今に伝えられました。　日本に穴織・呉服を連れてきたのは阿知使主（あちのおみ）という渡来人です。無事に任務を果たした功績で猪名津彦（いなつひこ）の名を賜り、伊居太神社の境内の猪名津彦大明神社に祀られています⑤。猪名とは、社前を流れる猪名川をさし、穴織・呉服はその川でが染色した絹織物を洗い、川原に延べて干したといいます。現在の猪名川に架かる絹延橋（きぬのべばし）、橋の対岸にある能勢電鉄の絹延橋駅、駅の所在地の絹延町（川西市域）の絹延の２字は、穴織・呉服の伝承にちなんだものです。　池田市と川西市の境を流れる小川に架かっていた絹延小橋はなくなりましたが、呉服神社の隣りの歴史民俗資料館の前に、橋名を刻んだ小さな石碑が建っています⑥。


北摂と河内をつなぐ織姫伝説

　池田市には、機織り仕事にまつわるファンタジックな伝承も残っています。　昔、中国から、あやはとり、くれはとりの二人の姫が渡ってこられ、夜遅くまであやにしき（絹の織物）の機織りをしていました。すると、そこへ多くの星が降りてきて、おりどの（織殿）を真昼のように明るく照らしてくれました。これが、二人の織姫を助けた星々を明星大神として祀り、星の宮を建てたはじまりです。　この話が載っているのは、星の宮の案内板です⑦。星の宮の別称は明星太神宮。伊居太神社の近くにある御旅所です⑧。　「機織りと織姫ならこっちにも……」という声が、北河内の方面から届きました。そうですね、星の宮の伝説は確かに第７回登場の交野市の機物（はたもの）神社と七夕の織姫伝説を連想させます。機物神社が七夕祭りで有名な神社になった背景には、「はた（秦）」という名の一族がありました。声が言うように、交野と池田の伝承には共通点があります。　池田市には古代から中世にかけて秦上郷（はたのかみのごう）、秦下郷（はたのしものごう）という地名があり、渡来系氏族で養蚕・機織に従事した秦氏が住んでいました。一説には、秦氏と並ぶ渡来系氏族の東漢（やまとのあや）氏の居住地でもあり、呉国から「あやは」「くれは」を連れ帰ったのは東漢氏の祖であったともいわれます。　北摂の池田と北河内の交野は、機織りと星にまつわる伝承を共有し、歴史を受け継いできました。大阪府の北西と北東に分かれながら、ふたつの街には近しいものがあるようです。


もうひとつの穴織と呉服

　「駅の東も、あやは、くれは……」とアナウンスのような声が流れたのは阪急池田の駅前です。そうでした、ここまでの話に出た伊居太神社は池田駅の北、呉服神社は西側にあり、どちらも夏祭りの賑わいで知られています。一方、東側にある穴織神社、呉服神社は知る人ぞ知る。祀っているのは同じ「あやはとりのひめ」「くれはとりのひめ」なのに、いったいなぜ、と、さっきの声は言いたかったのですね。　池田駅の東口前は、市役所のある中心街です。さらに東に行くと歴史民俗資料館があって、近くに小さな「あやは」「くれは」の神社がありました。両神社には同じ内容の縁起を記した案内板⑨があって、それによると、どちらの神社も、東の村の人々が、西側の神社から「あやは」「くれは」の神霊を分けてもらい、鎮守として祀ったとのこと。　案内板にはさらに、村人たちは待兼山（まちかねやま）で神霊の到着を今か今かと待ちかねたと書いてあります。待兼山は今の大阪大学の所在地で豊中市域ですが、昔から和歌で人待ちの想いが詠まれた名所なので、こんな伝承が生まれたのでしょう。村人の待望ぶりがわかります。東の村に新しい穴織神社・呉服神社⑩が生まれたのは、江戸時代の寛永年間（1624～44）でした。　江戸時代の池田は、池田酒、池田炭と並んで池田木綿が特産品でした。第７回で河内木綿の話があったように、江戸時代は木綿の栽培が各地で盛んになります。絹織りを伝えて神になった「あやは」「くれは」は、新しい産業の時代になってからは、地域の守り神に変じ、村の繁栄、村仕事の無事を願う人々の願いに応えたのでした。


呉服の里の池田酒

　池田酒と池田炭の話が出ました。仕事地名の話題ではもうおなじみの地名を冠した産物の登場です。　まずは池田酒。そのはじまりは応仁年間（1467～69）に萬願寺村（兵庫県川西市の旧村名）から池田に移って酒造業を営んだ萬願寺屋です。江戸時代の中頃には、酒造家が40軒近くあり、大阪府下で最大の酒どころに成長。現在の西本町・米屋町・中野町の一帯が酒造の中心地で、池田酒は元禄期には数十万樽が船で出荷されました。送り先は主に江戸です。　現在も地元に２つの蔵元が健在。そのひとつ呉春株式会社は、江戸時代の池田ゆかりの絵師・松村呉春の名にちなんだ命名とのこと⑪⑫。呉春とは、呉服の里の池田で春を迎えた感銘をあらわす号。松村呉春は与謝蕪村に絵を学び、後に日本画の一大勢力になる四条派の祖で、司馬遼太郎の『天明の絵師』の主人公にもなった人物です。


池田炭、地名と産物の新たな関係

　続いて池田炭の話です。池田酒ほど知られてはいませんが、江戸時代には、クヌギを原材に諸国第一の上質とされ、切り口が菊花状になるのが美しいことから茶席で珍重されました。但し、生産地は現在の能勢町の一帯、または兵庫県川西市の一庫（ひとくら）です。池田には西本町・中新町・北新町に炭屋・炭商が集まり、池田を通して各地に出荷していました。池田炭とは、集散地の名を冠しての命名でした。池田酒が産物名に生産地名が冠されているのとは、成り立ちが違います、これまで紹介してきた仕事地名を見渡しても、池田炭のような例はありません。　池田炭というネーミングがなされた背景には、商業地としての池田の名がブランドの地位を獲得し、産地名を冠するよりも販売に有利だったという事情があります。江戸時代が商業の時代であり、大坂が商都と呼ばれて繁栄した時代の流れに池田も乗りました。池田炭が茶席で好まれたのも、ブランドが求められる一因になったでしょう。池田では定期市も賑わいました。商業地としての繁栄を支えたのは西国街道、能勢街道など各地に延びる往来の道でした⑬。


箕面の萱野米・粟生米

　さて、池田市に続いて登場するのは箕面市です。箕面は酒どころの池田に隣接し、酒造の原料となる良質の酒米（さかまい）を産出して、萱野米（かやのまい）、粟生米（あおまい）と呼ばれました。萱野も粟生も箕面の地名で、酒米の産地としてブランド名になったのです。背景には街道筋がひらけた箕面が、池田の酒造と一体化して発展できたという地の利があります。　一方で箕面は、箕面滝、瀧安寺などの名所が古くから知られ、江戸時代には観光地として名声を高めます。元禄年間（1688～1704）には滝と紅葉を求めて京・大坂など近在から人々が来訪。文人墨客が多くの詩歌、絵画を残しました。町人に文化が広まる時代になると、新しい仕事も生まれました。大坂・伊丹で流行した俳諧は、著名な俳人になれば選者や編者として生計をたられる道をひらいたのです。箕面でも俳諧は人気を呼びました。今、萱野３丁目には、萱野三平重実（かやのさんぺいしげざね）を偲ぶ萱野三平記念館が建っています。俳人としての名は消泉。赤穂義士の一人といわれ、記念館は萱野の名物になっています。
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<title>古くて新しい仕事と地名の話（河内編）【後編】</title>
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<pubDate>Fri, 19 Aug 2022 01:00:06 +0900</pubDate>
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機織りという仕事、秦者という地名

　前編では南河内から中河内にかけてめぐりました。市でいうと、河内長野市・大阪狭山市・藤井寺市・羽曳野市・松原市・柏原市・八尾市。古墳の築造、綿作、ブドウ栽培、ワイン製造と地名にまつわる話をしつつ、古代から中世、近世から近代へと時代もめぐってきました。　後編の舞台は中河内の残りの地域と北河内です。まずは、北河内の交野（かたの）市の話からはじめましょう。時代は古代に戻ります。交野市は枚方市の南隣りの街で、７世紀の推古天皇の時代には皇族の領地で、早くからひらけた土地でした。街を見下ろす交野山の麓に倉治（くらじ）⑬という町があり、現地の機物神社（はたものじんじゃ）には次の話が伝えられています。　倉治の昔の呼び名は秦者（はたもの）でした。機物神社の本来の呼び名も秦者社（はたもののやしろ）で、秦者の人々が祀る神社を意味したとのこと。後に、秦者から機物へと文字が変わり、現在の神社名になったというのです。　秦者とは秦氏という古代の交易商人の名前でした。地名と神社名の変遷の背景には、秦氏が養蚕と布織の技術者集団を連れて大陸から渡来し、交野山麓に住んだという歴史があります。機織りを広めた人々は、交野山を機織りの御神体として祀りました。今でも冬至前後の数日間、交野山の背後に白い光の帯が走り、山を浮き立たせる現象が見られるとのこと。山の自然も機織り仕事の人々を見守ってくれているようです。


「星のまち」を仕事地名として考える

　交野山麓の一帯はかつて三宅荘と呼ばれた荘園で、機織りと稲作で発展します。中世以後も交野は、京都と大阪の中間点の交通の要所として存在感を示していきます。　鐡道開通以後の交野市は北河内の観光地⑭になり、近年は「星のまち」の呼び名でも知られています。交野市のケースには、現代の仕事地名を考えるヒントがあるようです。　交野市と星の関りは長いです。かつて空海が秘宝を修し、星が降臨したとの伝承を持つ星田妙見宮が古くからの名所で、星田という地名があり、市内を走る京阪交野線の星ヶ丘駅、学研都市線にほしだ駅があり、近くには天野川という七夕を思わせる名の川も。さらに自然公園のほしだ園地には、日本最大級の吊り木橋があり、星空の夜にゆらゆら渡るのにぴったりの「星のブランコ」という愛称がついています。まさに「星のまち」と呼ばれるにふさわしい星づくしです。　昭和54年（1979）には機物神社の七夕祭が復活し、夏の夜を大いに盛り上げています。機物神社に祀られている天棚機比売（あまのたなばたひめ）は機織りの神なのですが、平安時代に交野が貴族の遊楽地になるにつれ、織姫伝説と結びついて七夕の神として語られるようになったのです。　「星のまち」は交野市民の間にも浸透しています。　織姫まつる機物神社　とは「交野郷土史かるた」の「お」の札の言葉。地元では昭和59年（1984）から毎年１月に、地域色豊かなかるた大会が催され、世代を越えて参加があるそうです。　機織りから七夕への転換は、今の人々の心もとらえました。　現在も交野市は北河内屈指の観光地で、交野市星のまち観光協会が情報を発信中。歴史、自然、人々の遊び心の交わるところに生まれた愛称「星のまち」は、観光による町おこしの仕事をしています。愛称は広まれば広まるほど、大きなはたらきをするでしょう。これは現代的な仕事地名のあり方の一例かもしれません。


ひらパーと香里園の場合

　枚方市は北河内の中でもいちばん北の街。交野市とは境を接し、牽牛を祀る彦星の神社があることから、マスコットキャラクターはひこぼしくんです。交野市は織姫ゆかりの機物神社にちなんで、おりひめちゃんがマスコットキャラクター。天野川がふたつの市をまたいで流れています。枚方市の禁野（きんや）は平安時代の貴族の遊興地だったという点でも、交野市と共通した歴史の背景を持っています。　枚方市は「ひらパー」の愛称でおなじみの遊園地・枚方パークの所在地です⑮。「星のまち」交野が現代的な仕事地名の一例であるのなら、地名を冠した遊園地も仕事地名のバリエーションなのかもしれません。それはさておき、前身の香里遊園地誕生から1世紀以上の歴史を持つひらパーが、地域の名を広める役目を大いに果たしたのは確かです。　香里遊園地があったのは寝屋川市で、開園の年に菊人形展も催されました。遊園地が枚方市に移ると、跡地に千葉県成田市成田から交通安全祈願で有名な成田不動尊が勧請されて、成田不動尊大阪別院と呼ばれる新名所が生まれました。　遊園地開設と成田不動尊勧請を行ったのは京阪電鉄です。成田不動尊大阪別院の建立地の町名も成田で、周辺は成田遺跡の発掘地。枚方市には先述の禁野がかつての遊興地で、それぞれ由来のある土地を選びつつ、沿線に人を呼ぶための事業を展開したわけです。　地名は名を上げることで、観光という仕事を生みます。枚方市、交野市、寝屋川市の地名をつなぐ沿線の名所めぐりという楽しみをもたらしたのは、電鉄という現代のインフラでした。街の営みと地名の関係は、こうしてさまざまな時代の動きを反映しつつ姿を変えてきたのです。


東大阪市の足代と衣摺

　さて、第６回【河内編】もいよいよ大詰め。中河内の東大阪市の登場です。　東大阪市の人口は約50万人。大阪市、堺市に次ぐ府下３番目の大きな街です。馬場川遺跡、鬼虎川遺跡、西之辻遺跡の埋蔵文化財があり、国史跡の日下貝塚、河内廃寺跡など古い歴史を物語る史跡も多く、さまざまな仕事にまつわる地名も残っています。　近鉄布施駅前の足代（あじろ）⑯は古くは網代と書いた町名。細く削った竹で編んだ網代笠の産地だったのが地名由来とする説のほか、漁獲のための網代木（あじろぎ）にちなむとする説もあるとのこと。２番目の説は、魚の獲れる水辺があったのを示します。　衣摺（きずり）⑯は八尾市、平野区との境近くの町名で、かつては染色の職能集団が摺衣（すりごろも）を作っていた地。草木の汁で布に文様を染め出す技術を持った人々が住んでいたのです。江戸時代には綿作、明治初めには撚糸業が盛んでしたが、後に繊維・金属・機械工業が興ります。　綿作は河内木綿の名で江戸時代の東大阪市エリア各所に広まりました。大和川が付替えられた後は旧川筋の跡地が綿作に適した地になり、河内木綿は地域を代表する産物に成長。明治以後はすたれ、技術力を他の分野に向けていったのは他のエリアの街々と同じです。そんな中で伝統的な製法を受け継ぐ「河内木綿はたおり工房」（東石切町）がかつての風合いを今に伝える活動を行っているのはユニーク。同工房では見学・体験もできるそうです。


枚岡神社ゆかりの水走氏とは
 
　東大阪市は古い寺社の多い街でもあります。訪ねたのは近鉄奈良線枚岡駅近くの枚岡神社⑰⑱です。河内第１位の神社を意味する河内国一之宮の称号にふさわしく、創建は初代天皇の神武以前にさかのぼると伝えられる古社。社格も官幣大社で最上位。駅前から続く参道は静かで、森の中にたたずむ社殿も風格を漂わせています。東大阪市のかつての有力土豪・水走（みずはい）氏は枚岡神社の神官を輩出した一族であり、社領を守る武士団でもありました。水走氏については東大阪市の仕事地名と深い関係があります。足代、衣摺に続いてとりあげる重要な仕事地名が、今回のトリの話題を提供してくれるでしょう。


地域の歴史と仕事地名、御厨の場合
 
　さて、今回の最後に登場するのは、東大阪市の歴史を彩る地名です。　近鉄八戸ノ里駅を降りて北へまっすぐ一本道を歩きます。東大阪市文化創造館を通り過ぎると、やがて見えてくる交差点。　その名は御厨（みくりや）交差点です！　北側の町名は御厨！　南側は御厨中！　交差点の西には新御厨橋が……！⑲　御厨とは平安時代の延喜式（えんぎしき）という文書に「大江の御厨」の名で載っていて、皇族に献上する魚貝を得る土地のこと。大江とは、河内国の主な池、河を総称する呼び名。大江の御厨で獲れた淡水魚・水鳥・水草などは船で淀川を上がって京の都に運ばれました。皇室領でもあった大江の御厨を管理し、収穫物を運ぶ役目を担っていたのが先述の水走氏です。　石切神社の１キロほど西にある町名の水走が、水走氏の出身地。水走のエリアは広く、北部を古水走、南部を町水走と呼び分ける通称名もあるそうです。ドライバーには国道13号線の水走インターのあるところと言った方がわかりやすいかもしれません。　御厨交差点から少し足を延ばすと、御厨行者堂と昭和9年（1934）に建てられた大峯登山三十三度供養碑があります⑳。御厨では15歳から18歳の男子が8月に先達の引率で大峯登山をする風習があったとのこと。古い地名の御厨に、古い風習が昭和のある時期まで残っていたのがわかります。


天然記念物の木の下で河内の仕事地名を振り返る
 
　御厨にある天神社に足をのばしてみました。天神社はかつて御厨神社と呼ばれ、枚岡神社から移築された能舞台があり、村相撲が盛んに行われた場所でもあったと、案内板に記されていました㉑。境内には市の天然記念物の楠が、太い幹に太い枝を張っていました㉒。樹齢900年の巨木です。　かつて、はたらくということ、仕事をするということは、地域の歴史とつながっていました。現代は場所のイメージが、場所を離れて拡大し、仕事の仕方を変えていく時代です。河内には新旧の仕事地名がそれぞれの顔を見せて、共存しています。河内は古くて新しい。御厨の天神社で、そんなことを思いました。
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<title>古くて新しい仕事と地名の話（河内編）【前編】</title>
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<pubDate>Fri, 19 Aug 2022 01:00:04 +0900</pubDate>
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16市2町1村の河内

　連載の第5回は大阪市中、第6回は泉州を訪ねて仕事にまつわる地名の話をしました。今回訪ねるのは河内。ひとくちに河内といっても広いです。北から順に、枚方市・交野市・寝屋川市・守口市・門真市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市・藤井寺市・松原市・羽曳野市・大阪狭山市・富田林市・河内長野市の16市、さらに太子町・河南町・千早赤阪村の２町１村が連なって、それぞれに歴史あり。大阪府の東部一帯を占め、あまりに広いので北河内・中河内・南河内の３つに分けて語られることも多い河内は、ひとくくりにできない多様さを抱えたエリアです。　さて、河内の歴史と地理の網の目から、どんな地名と仕事のイメージがあらわれてくるでしょうか。まずは藤井寺市の道明寺天満宮①を訪ねます。


古墳を造るという仕事

　最初の話題は古墳です。令和元年（2019）百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されて以来、古墳はブームになりました。百舌鳥エリアは堺市で泉州、古市エリアは藤井寺市と羽曳野市で河内。この一帯は古代の王朝が繁栄と権威を示した地でした。大きい古墳はどれか、どの古墳に誰が埋葬されたのかなど話題は豊富ですが、それらの古墳を造った人々についてはどれだけ知られているでしょう。どこに住み、どんな人たちが造ったのかには、案外と目が向けられていない気がします。　古墳の築造には最先端の土木技術が必要でした。土師（はじ）氏という技術者集団がいたのです。居住地は、現在の藤井寺市道明寺のあたり。土師氏は菅原道真の先祖にあたる一族で、古墳や埴輪をつくるために朝廷に仕えていました。そのはじまりについて『日本書紀』には、土師氏の始祖にあたる野見宿禰（のみのすくね）が、垂仁天皇の皇后の葬儀に際して埴輪の作成と墓の築造を進言したのがきっかけと記されています。それまで貴人が亡くなると、お付きの人々が殉死といって生き埋めされる風習があったのを、改めようとしたのですね。　野見宿禰のアイデアは喜ばれ、土部（はじ）の職に任命されました。これが土師氏の名の起こりです。土部の名のとおり埴輪も古墳も土からつくられ、土師氏の名は土に眠る魂に関わる仕事師の証明で、土師氏が住む里は土師郷（はじのごう）と呼ばれるようになりました。そこに土師氏ゆかりの土師社、土師寺も建ちました。今の町名でいうと道明寺が建立地②③です。近鉄南大阪線には土師ノ里駅、道明寺駅があり、以上の出来事はこの2つの駅の周辺で起きたのでした。


道明寺1丁目ミュージアム
  
　話はまだ続きます。時は流れて平安時代。埴輪や古墳を造っていたのは昔の話になり、土師氏は政界に進出し、一族出身の菅原道真が華々しい成功をおさめます。道真が没すると、土師郷に天満宮が建ちました。もとからあった土師寺は道真の号をとって道明寺と改名。天満宮は今、道明寺天満宮の名で知られ、もとの土師社も元宮土師社として境内に鎮座しています④⑤⑥。土師寺だった道明寺も近くに健在で、道明寺天満宮・元宮土師社・道明寺が今でも勢揃いして建つ藤井寺市道明寺１丁目は、埴輪と古墳をつくった仕事師一族とその居住地である土師郷のいわば生きた歴史ミュージアムです。人と仕事、地名の交わりが、こんなに凝縮された場所はなかなかお目にかかれません。　おまけの話もひとつ。道明寺天満宮の北側には、旧石器時代から中世までの遺物が発掘された国府（こう）遺跡もあります。飛鳥時代の寺院跡も発見され、裁縫技術を持った工人集団の長である衣縫造（いぬいのみやつこ）が建てた衣縫寺の跡とされます。衣を縫う人々の氏寺ですね。道明寺と国府遺跡はおよそ500メートルの近さです。


河内木綿と久宝寺木綿

　衣を縫う一族の話が出たところで、次は衣の材料になる綿の登場です。話は江戸時代につながっていきまます。　キーワードは河内木綿です。河内という広域地名と木綿がくっついた、この呼び名。読者は聞いたことがありますか。かつてそれは、上等の木綿の代名詞でした。綿の衣類はもちろん、きれいな模様を染め上げた綿布団は婚礼用として喜ばれたそうです。　久宝寺木綿という名称もありました。八尾市の久宝寺⑦が、河内木綿を代表する産地だったのです。久宝寺は聖徳太子建立の久宝寺があったのにちなむ地名で、戦国時代には本願寺門前の寺内町として栄え、江戸時代初期には木綿の生産で有名になりました。旧大和川の長瀬川の水運を利用した綿の流通拡大が、久宝寺木綿の成長と、商業の発展をうながします。流れは波及し、河内の各地で木綿づくりが盛んになり、それらを総称した河内木綿がもてはやされるにつれ、久宝寺木綿もますます名声を高めていきました。　河内木綿も久宝寺木綿も、地名が物に冠されて広まった名前です。連載第６回泉州編に登場した谷川瓦の話と似ていますが、今回のケースは久宝寺だけでなく河内という広域地名を巻き込んだのが大きな特徴です。　平和が続き、経済成長が続いた江戸時代の中頃は、それまでとは比べものにならないほど商業が発達しました。商都大阪に隣接する河内はエリアごと、商業隆盛の大波に乗ったといえます。木綿の市場は、久宝寺木綿がリードし、河内木綿が拡大しました。産物が広域地名、地域の地名と次々に結ばれていく時代の躍動です。そんな歴史のステージに綿の花はひらきました。そこで仕事をする人々の意識も変わり、視野も大きく広がったことでしょう。


三宅木綿と中心を持たない河内

　ここで、「そういえばミヤケモメンって、祖父母が言ってた」という声が届きました。国道309号線の三宅（みやけ）インターを降りてきたドライバーの方からです。三宅⑧は松原市の地名ですね。北に大和川、西に近鉄南大阪線の河内松原駅を控え、江戸時代の三宅は河内木綿の産地で、三宅木綿が知られていました。　三宅と久宝寺木綿の久宝寺との間はおよそ５キロ。お隣さんと呼べる近さで、それぞれのご当地木綿が張り合いつつ、河内木綿のブランドを共有し、共栄したわけです。時代とともに地名と物の関係も流動的かつ複雑になりました。木綿に携わる人たちも、ある時は三宅（久宝寺）、ある時は河内を意識して、日々の仕事と向き合ったことでしょう。　仕事地名について大阪市（第５回）、堺市（第６回）で述べた話を振り返ると、違いが見えてきます。大きな都市では、職種や産物の名が地名になるケースが目立ちました。都市が生まれる過程で、同じ仕事に携わる商人・職人の集住地に職種や産物にちなむ地名がつけられたのです。　河内は違います。「広大な農村地帯に根ざしていたこと」「商業の発展にともなう新たな作物の開発が望まれたこと」この２つの条件がはたらいて、大きな中心を持たず、いくつもの有力な地域がそれぞれの発展を持ち寄り、全体として河内の繁栄を築いていった。そんな経緯が河内の仕事地名からは見えてきます。　三宅という地名はもともと古代の屯倉（みやけ）に由来し、皇族直轄の倉庫、領地の意味でした。古い地名が近世の新産業だった綿と結びつき、綿は昭和の初めに至るまで、三宅の大事な産物であり続けました。綿がすたれたあとも、その織物技術は地域の新産業となった金網製造に継がれていきました。さっきのドライバーの方は、そんな河内の三宅木綿のたどった道のりを祖父母から聞いたのでしょうか。


河内ワインと飛鳥ワインの里で

　羽曳野市もかつては綿作が盛んでしたが、明治以後はいち早く新分野の開拓に向かいます。八尾市、松原市とは別の道を歩んだわけです。河内はひとまとまりのエリアであると同時に、多様性も抱えています。　羽曳野市が最初に挑戦したのは、桃の栽培でした。大正期には堅下村（かたしもむら）の堅下ブドウの移植に成功し、昭和10年代にはブドウの名産地として知られるようになりました。堅下村は羽曳野市と同じ南河内の柏原市柏原町の旧地名で、柏原市は羽曳野市と境界を接する街のひとつ。この後に続く話のキーワードはブドウです。　近鉄南大阪線に乗ると、羽曳野市の駒ヶ谷駅（こまがだに）から上ノ太子駅にかけて、丘に広がるブドウ畑が車窓から見えます。沿線の風物詩です。町名でいうと駒ケ谷、飛鳥⑨のあたり。このふたつの町は、堅下ブドウの移植から100年を経た今、それぞれ河内ワイン、飛鳥ワインで有名になりました。　河内ワインと飛鳥ワインは、ご当地ワインの呼び名です。ワイン製造の企業名でもあり、ワイナリーやブドウ畑の見学もできる観光スポットの名称としても認知され、話題を広げています。地名が物に冠されて広まったのは、かつての河内木綿と似ていますが、企業活動や町おこしと連結して進んでいる点で、とても現代的です。今には今の流儀が、地名と仕事の結びつき方にもあるというわけです。第６回【泉州編】で訪ねた陶邑（すえむら）とスエムラの話を思い出します。　駒ケ谷は聖徳太子がここで馬を停めた故事が地名由来といわれ、飛鳥はこの一帯が古くから近つ飛鳥と呼ばれたのを示す地名です。木綿からブドウ、ワインへの変遷も、古代から続く長い時の流れの一幕。そう思うと、沿線のブドウ畑の風景も少し違って見えてくるでしょう。


ブランドネームになった堅下という地名

　ここで届いたのは「堅下ブドウのその後は？」との疑問の声。柏原市にお住いのブドウ好きさんからです。先ほどの話に出てきた堅下は今どうなっているのか、気になるとのこと。　ご心配なく。羽曳野市に移植されて河内ワイン、飛鳥ワインを生んだ堅下ブドウは、柏原ブドウとして今は世界に売り出し中！ 平成29年（2017）と翌年の２度にわたってアジア最大級の食品見本市「香港フードエキスポ」に出品したのを機に、海外のフルーツショップで柏原ブドウが並ぶようになりました。　昔をふりかえれば、江戸時代の柏原はやはり河内木綿が名産品でした。ブドウを育てる農家もあったそうですが、堅下村⑩で本格的なブドウ栽培がスタートしたのは、明治初めに甲州ブドウが移植されて以後のこと。そこからの普及がめざましく、昭和初めの一時期はブドウ栽培面積の全国１位を大阪府が占めました。　ワインも地場産業になりました。大正3年（1914）創業の現存するカタシモワイナリーというワイン製造会社をはじめ、戦前には柏原市内だけで50件以上のワイン醸造所があったとか。現在も柏原市は全国屈指のブドウ産地で、「観光ぶどうセンター」「ぶどう狩園」などの施設も揃って、呼び物になっています。ブドウ栽培、ワインづくりの仕事の苦心がこもった「柏原」「堅下（カタシモ）」の地名はブランドネームに育ちました。


半田木綿から大野ブドウへ、地名は語り部

　もうひとつ、河内での「むかし綿作・いまブドウ栽培」の実例を見てみましょう。南河内の大阪狭山市にも半田木綿、大野ブドウの名があります。半田も大野も地元の地名で、地名が産物に冠される命名は、ここまで紹介してきた他の河内の街々と同様です。　大阪狭山市のブドウは明治後期から栽培がはじまり、土質の良い丘陵地に恵まれたのと発酵肥料の工夫などで、糖度23～24の甘い大野ブドウを生みました。平成21年（2009）には「大阪ミュージアム食生活部門ベストセレクション果物」にも選ばれ、夏には市中各所に幟をたてた直売所が出て街角の風物詩にもなっています⑪。市名より産地名の大野が前に出ているところに地域の頑張りがうかがえます。大野ブドウは地産地消をベースに、ただいま売り出し中です。　ブドウを例に羽曳野、柏原、大阪狭山の３市を訪ね、地名と物産名の関り方を見てきました。人口は羽曳野市が12万人、柏原市が７万人、大阪狭山市が５万５千人。それぞれの街の規模にあった発展の仕方をしてきたように思います。仕事地名は人の営みの語り部なのですね。


天野産だから天野酒

　河内には日本酒を名産した街もあります。大阪狭山市の南隣りの河内長野市は、天野酒が名産。天野町（あまのちょう）⑫にある金剛寺の坊舎で醸造されたのが起源とされる天野酒。大阪で最初に酒造りを始めたのは金剛寺といわれ、美酒として名高く、戦国時代には織田信長・豊臣秀吉にも献上されたとのこと。創業300年の老舗をはじめ複数の地元酒造が健在で、それぞれ天野酒として売り出しています。銘柄の名前はそれぞれ別ですが、どれも同じく天野産の天野酒。地名を冠した産物が時代を越えて継がれた例のひとつです。　金剛寺は行基が創建した古寺で、南北朝期には南朝の後村上天皇が6年間ここで政務を執るなど、歴史の舞台にもなりました。金剛寺の山号も天野山⑫。大阪狭山市と天野をつなぐ道は天野街道で、その名は高野山参詣の道である西高野街道よりも古くからあったとされています。
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<title>街・人・物・神シームレス（泉州）【後編】</title>
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<pubDate>Thu, 07 Jul 2022 01:00:00 +0900</pubDate>
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泉州と河内をつなぐ鋳物師のルーツ

　金岡町のもとの名の金田が、鋳物師の居住地だったのは史実です。堺市内には浅香山や鳳（おおとり）にも金屋（鋳造所）があり、その技術が戦国時代の堺の鉄砲製造につながったといわれます。【前編】の最後にあらわれた謎のお年寄りが語った異説には、そんな背景がありました。　大阪府域の鋳物のルーツは、堺市美原区を中心に松原市、大阪狭山市にまたがる旧丹南郡で活躍した鋳物師集団です。丹南郡は河内国に属することから、河内鋳物師（かわちいもじ）とも呼ばれます。日本各地の梵鐘（寺院の鐘）を多数生産したことで有名ですが、河内の話は次回に譲って、ここでは泉州エリアの話題をとりあげます。河内鋳物師が集住し、一大鋳物産地となった堺市美原区⑯の話です。


日本御鋳物師発祥の地
 
　美原区はもともと河内国の所属ですが、堺市が政令指定都市になった平成18年（2006）に河内郡美原町から堺市美原区に移行しました。河内鋳物師の本拠地・美原は現在、泉州エリアに所属。河内と泉州をつないだ河内鋳物師のメモリアルともいえる碑が、大阪市中と南河内を結ぶ国道309号の沿道に建っています。　碑には「日本御鋳物師発祥地」と文字が刻まれています⑰。後ろには、当地が鋳物師集団の居住地で、大保千軒と呼ばれたのにちなむ碑が建っています。河内鋳物師の始祖とされる石凝姥命（いしこりどめのみこと）を祀る鍋宮大明神があったのを示す石碑⑱も同じ敷地にあります。大保（だいほ）は堺市美原区の地名で、今は泉州エリアですが、かつての美原は河内国に属していました。


広国神社と「金」の地名の関係は……
 
　東大寺の大仏再建や鎌倉大仏の建造にも貢献したと伝えられる河内鋳物師の神は今、鍋宮大明神跡地にほど近い広国神社に合祀されています。広国神社の祭神は広国押武金日命（ひろくにおしたけかなひのみこと）で、その名は安閑天皇の死後に贈られたもの。つまり、ここは安閑天皇を祀る神社なのです。もとは修験道の蔵王権現を祀る社でしたが、後世に安閑天皇が蔵王権現と同体との説が広まり、広国神社の主祭神になりました。広国押武金日命の中に金の１文字が入っているのが、金属を扱う鋳物師との縁を思わせます。　安閑天皇は即位の翌年に亡くなっていますが、その経緯は不詳とのこと。時代は６世紀前半。王朝内に争いがあったといわれる動乱期でした。　鍋宮大明神の石碑を見た後、広国神社を訪れました。境内に、合祀された鍋宮大明神の祠⑲があり、鋳物の神にちなんだ巨大な鍋⑳も出迎えてくれました。鍋の大きさがわかる目盛りがかたわらにあって、親子連れで楽しめそう。鋳物師の歴史が急に身近なものに思えてきます。


鍛冶と魚と舞の地名

　さて、ここまで、「お仕事地名・大阪府近郊編」として泉州エリアを訪ねてきました。瓦、鋳物のほかに旅籠、材木商、織物、鉄砲鍛冶などの職業名が出てきましたが、その他のなりわいにまつわる地名はどうなっているのでしょう。　例えば和泉市の鍛冶屋町は、中世以後に鍛冶業が行われていた地域だったのに由来する町名。貝塚市の大字地名として残る加治は、垂仁天皇に剣を鍛造、献上して鍛冶村の名を賜ったのが起源とされます。岸和田市には大工町の町名があり、第２回【後編】では魚屋が、堺市の魚ノ店東半町とともに登場しました。　和泉市に今も残る舞町（まいちょう）㉑は、かつて陰陽師が活躍した地だったのにちなみ、暦を作成して売っていたとのこと。当地には聖武天皇が立ち寄った仮宮があったと『続日本紀』には記されています。阪南市にも舞という旧地名があり、芸能者集団が居住していました。舞の名は現地の小学校の名に残っています。　堺市の日置荘（ひきしょう）は鋳物師集団の日置氏の居住地だったのが地名由来とされますが、日置とは古代の太陽祭祀の役目を担った人々を示すとの説もあります。この説をめぐる古代史の謎は40年ほど前にＮＨＫスペシャル「知られざる古代」で紹介され、番組と同名の書籍も２冊刊行されて話題になりました。


近郊で賑わう市の地名

　近郊では「市」の地名も目につきます。「市」は市場ですね。堺市の旧町名の市之町（いちのちょう）、市之浜は青物市と関係が深く、市之町浜には町内の筋に海老屋町、穀物町などの別称がついていました。堺市には他にも旧町名の市之町寺町、市之町中浜があり、現役の町名に市之町東、市之町西があります。　泉南市にはかつての市場という村名㉒が今も大字名として残っていて、高石市の綾井も古くは市場村でした。市の１字には、市場に並ぶさまざまな品と、それらを扱う人々のなりわいが凝縮されています。


石と箱をめぐる地名

　今回は【前編】から【後編】にかけて土（瓦）と金（鋳物）の話がいくつか出てきました。エンディングは石の話で締めたいと思います。古代の石作連（いしつくりむらじ）と江戸時代の石匠（せきしょう）へとつながる話です。　日本地質学会認定の「都道府県の石」に、大阪府では和泉石が選ばれました。和泉山脈は美しい青石の産地で、江戸時代の『和泉名所図会』に「和泉石はその性、細密にして、物を作るに自在なり」と記されて、石灯篭や石臼、石仏などの細工で有名でした。　紹介文は「箱作（はこつくり）に石匠多し」と続きます。箱作は今の阪南市の地名で、京都の加茂神社の神体を納めていた古い箱が淀川に流され、大阪湾に出て当地に漂着した逸話が名の由来。もとは「箱着里（はこつくり）」と書いたのが、「箱作」になった背景には、泉州の石作りの歴史があります。古代の泉州には石像や石棺を作る石作連（いしつくりむらじ）、石作部（いしつくりべ）の人々がいました。　そんな神と石のイメージが重なる石匠の里……。　それが、箱作㉓でした！　さて、エンディングにおまけをひとつ。近郊と市中の仕事地名を最後にもういちど比べてみたいと思います。箱作に引き寄せられて登場する大阪市中の地名とは……　その名は、箱屋町です！　現在の大阪市西区阿波座上通にあたる箱屋町は、江戸時代から明治の初めまでの町名。通称の戸屋町は戸大工が多く住んだため。戸大工とは、戸や窓を作る職人。江戸時代の中頃には、大工の職能もいろいろに細分化し、それぞれが技術を磨いていました。街の暮らしの向上と専門職の増加は歩調を合わせていたのです。　同じ箱の1文字が、泉州は石工、大阪市中は戸屋という職業と結びついて、それぞれの地名になりました。西区の箱屋町は消えてからおよそ150年が経っています。阪南市の箱作は海水浴が楽しめる砂浜の名前になりました。愛称は、ぴちぴちビーチです。
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<title>街・人・物・神シームレス（泉州）【前編】</title>
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<pubDate>Thu, 07 Jul 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
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もうひとつの江戸時代の瓦産地
　今回は大阪府域の仕事、なりわいに関わる地名の話です。前回の大阪市中の話と何か違いが出てくるでしょうか。　まずは、前回紹介した中央区の東横堀川に架かる瓦屋橋に再度登場してもらいましょう。近くで瓦の材料になる良質の土が採れ、瓦製造の燃料には炭屋町（現在の西心斎橋）から炭が供給され、橋詰が瓦の出荷で賑わったという話。　同様の場所が、大阪府南部の泉州にもあります。江戸時代の有名な瓦の産地で、その地の呼び名を冠した瓦は明治期には類似品が現れるほど、もてはやされたといいます。


瓦のつく地名、地名のつく瓦

　その名は谷川瓦です。瓦で一時代を築いた谷川①という村が、大阪府の最南端で最西端、岬町にありました。江戸時代には都市化が進んだ街々で火災が大きな脅威になり、幕府は板葺き、藁葺きが一般的だった町屋の瓦葺きへの転換を奨励しました。大阪湾と和泉山脈にはさまれた谷川村は良い土がとれ、燃料となる薪や松葉も豊富。村には海運の拠点となる良港もあり、需要増大に応えて谷川瓦は諸国に出荷されました。　大阪市中の瓦生産が幕府の御用に応える官需で潤ったのに対し、谷川瓦は民需で栄えたのです。明治期には皇居造営時に宮内省から御達しがあり、高まる名声に便乗して「谷川」の名を刻印した粗製の瓦を売る業者が出没する事態に。谷川村では対策として、谷川瓦製造会社を組織し、加盟業者のみ「谷川」の刻印が使えるようにしたとのこと。明治末頃には村内に14もの瓦製造工場があり、谷川は泉州瓦の代名詞になりました。その後、時代は移り、瓦需要が減少。谷川、瓦屋橋の風景も変わっていきます。現在、谷川産の鬼瓦や道具は地元の廃校をミュージアムに再生した「岬の歴史館」の谷川瓦展示室で公開されています。　瓦は同時代の産業として、大阪市中と大阪府の南西端で繁栄しました。谷川では、瓦屋橋のような仕事と直結した地名が生まれず、代わりに、品物に地名を冠した谷川瓦の名が広まりました。仕事と地名の関り方もいろいろです。　谷川の現在の地名は多奈川②です。連載第２回に登場した犬飼村の伝承地でもあります。


地名がブランド名になる
 
　瓦屋橋と谷川瓦のような地名のあり方の違いは、どこから来るのでしょう。思案していると、堺市の方から「ここの住所は瓦がそのまま地名やけど！」とメッセージが届きました。堺市役所の写真③④が添えてあります。　なるほど、堺市役所が建っているのは南瓦町。そこから南海高野線の堺東駅まで続く中瓦町・北瓦町のエリアは昔、瓦職人の集住地だったとのこと。堺は中世から続く旧市街を中心に繁栄し、戦火の経験もあって、瓦作りは街の維持に不可欠でした。瓦町という呼び名はそこが瓦職人の町と示しつつ、火の脅威という都市が抱える問題もあらわしているようです。　一方、谷川瓦は地名を瓦に冠した商品名です。地元消費よりも諸国向けの出荷品として出回った谷川瓦が有名になり、村の名が広く知られたことに谷川の人々は誇りを感じたことでしょう。地名が瓦のブランドになり、広報役を務めてくれたわけです。今回は仕事由来の地名がテーマですが、地名がひと仕事するケースもあるのですね。


仕事地名は旧市街とともに

　堺市は現在、人口80万人を抱える政令指定都市です。その起源となった旧市街は南海本線の堺駅と高野線の堺東駅の間に位置し、かつては環濠と呼ばれる堀で囲まれた自治都市でした。住人が自ら街を治め、富を築くなかで、都市生活を支える品を扱う人々の居住地が品名や職種名で呼ばれる仕事地名を生んだのです。　今も残る北旅籠町と南旅籠町は旧市街の入口にあたる町で、文字通り旅籠（はたご）が多く、宿屋町（しゅくやちょう）は街道を往来する旅人の宿が並んでいました。材木商が多かったのが名の由来の材木町⑤は、四国や九州の材木の集散地。櫛屋町（くしやちょう）⑥は名産の和泉櫛の問屋が多かった町。いずれも泉州の交通と流通の中心地らしい町名です。　綾之町（あやのちょう）と錦之町（にしきのちょう）は応仁の乱の兵火を逃れて京都から移住した織物師たちが、綾織り、錦織りの技術を伝えたのが町の起こり。鉄砲町は名前のとおり鉄砲の生産地で、堺砲術発祥之地の碑が建っています。鉄砲鍛冶射的場跡の碑もあり、試射場で鉄砲師が射撃の技を教えていたとのこと。堺の旧市街は文化、文物の入口でもありました。


須恵器の誕生とともに
  
　「歴史を言うなら、こっちの方が古い！」という声は、同じ堺市の泉北方面からです。「なんといっても日本の須恵器の発祥地やから」と聞いて、思い出しました。1960年代の大規模都市開発のモデルとなった泉北ニュータウンの造成時、おびただしい数の窯跡と須恵器が発見されたこと。調査の結果、一帯は日本の須恵器発祥で日本最大級の須恵器生産地だったと判明。大きな話題となったのでした。遺跡は『日本書紀』に記された「茅渟県陶邑（ちぬのあがたすえむら）」の地名にちなんで陶村窯跡群（すえむらようせきぐん）と名づけられました。窯業に適した粘土がとれ、燃料となる雑木や松は周囲の丘陵から調達できた泉北では、ろくろの技を持つ工人集団が永年にわたって活躍。縄文、弥生の土器から進化した須恵器は、丈夫で艶やかな陶器の時代のはじまりを告げ、人々の暮らしを一新したのです。　泉北ニュータウンに隣接する大阪狭山市との境にある標高153メートルの陶器山の一帯が、陶村窯跡群の跡で、茅渟県陶邑の故地。現在は宅地と緑地に覆われたエリアですが、須恵器の記憶が刻まれた地名も点々と残っています⑦。　泉北高速鉄道泉ヶ丘駅近くの高倉台のもとの地名は高蔵寺（たかくらじ）で、蔵は須恵器の貯蔵庫のこと。行基建立の高蔵寺があり、その別称は大修（須）恵院で、やはり須恵器にちなんだもの。周辺には片蔵、富蔵の地名も残り、崇神天王によって紀元前に創建されたとされ、陶器大宮の異名を持つ陶荒田（すえあらた）神社も鎮座しています。東陶器村、西陶器村があったエリアの現在の地名は堺市中区陶器北。そこから陶器山トンネル⑧を抜けると大阪狭山市の陶器山通り⑨へと格好の散策路が続きます。陶器山の尾根道は「大阪の道99選」になった天野街道の一部です。


最古の「陶村」から最新の「SUEMURA」へ
  
　陶器山通りを歩いていると、「おいでよ、space.SUEMURAへ」と、風が横文字の名前をささやきました。スペース・スエムラとはいったい何？　『日本書紀』に出てくる陶邑を「すえむら」と読むのは、須恵器が陶器のはじまりという歴史のあらわれです。昭和45年（1970）、陶村窯跡群の跡に建った「泉北考古資料館」が平成22年（2010）年「泉北すえむら資料館」として再生したのも、須恵器の古里らしい改名でした。6年後に閉館したものの、「すえむら」の火は消えず、現在は資料館の須恵器保管庫をリニューアルしたモノづくり拠点「space.SUEMURA」⑩が活動しています。地域に根ざして、ここで好きなこと、得意なことを仕事にする人たちは「スエビト」と呼ばれるとのこと。須恵器生産のはじまりとされる古墳時代後期からおよそ1500年後に登場したSUEMURA、スエビト。呼び名の変遷は、仕事をする、働くということの意味を再発見する時代の到来を物語っているようです。　「space.SUEMURA」は泉ヶ丘駅から歩いて行ける大蓮公園の中にあります。訪れた日は、公園内のイベントゾーン⑪⑫に手作りのアクセサリーやお菓子の出店のテントがずらり。黒地にくっきり白抜きの「LIFE is PARK」の文字が並んでいました。


スター絵師・巨勢金岡を知っていますか
  
　泉北エリアからほど近い著者の住まいの周辺にも、岩室（いわむろ）、釜室（かまむら）の地名があります。「室」は蔵で須恵器の保管場所だったともいわれ、「釜」は須恵器の窯をさすとの説もあるそうで、陶器との縁を感じたところに、またも声が届きました。「河内絵師の巨勢金岡を知っていますか……」と彼方から、かすかに聞こえます。　巨勢金岡（こせのかなおか）といえば、平安時代の宮廷画家で菅原道真にも重用され、日本画独自の様式を追求して大和絵の祖となった美術史上のビッグネーム。明治時代まで続く巨勢派の祖とも仰がれた巨勢金岡は、堺市北区金岡町の出身でした。金岡町には巨勢金岡を祀る金岡神社があり、巨勢金岡が筆を洗ったとされる金岡淵が史跡として残っています。　なるほど、このケースは人名が先で地名は後。それでさっきの声は、地名の話に人名で割り込んできたのですね。　歴史をたどると、地名の金岡のもとは金田（かなた）⑬で、地元には住吉三神（住吉神社に祀られる三つの神の総称）を祀る金田三所宮がありました。巨勢金岡⑬の没後、金田三所宮はその遺徳を讃えて祭神に加え、金岡神社⑬と名を変え、地名も金岡になったと伝えられます。抜きん出た仕事をすると神になり、地名にもなるという話。先ほどの彼方からの声は、人・地・神が近しいものだった遠い過去からのものだったようです。　後日、金岡神社⑭を訪れました。樹齢900年という楠の神木⑮を見上げていると「金岡の由来には異説もありましてなあ……」とつぶやく声。振り返ると、涼しげな目でこちらを見ているお年寄りがいます。「このへんは昔、鋳物をなりわいとした人々が住んでいて、金物のクズが田んぼから出て金田（かなた）と呼ばれた。金岡いうんは、その金田がなまったんやな」ふふふと笑みを残し、お年寄りは風とともに去っていきました。
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<title>場所が仕事をつくってきた【後編】</title>
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<pubDate>Wed, 08 Jun 2022 00:00:01 +0900</pubDate>
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アメリカ村は江戸時代の先端産業の跡地
 
　アメリカ村といえば70年代以来の若者の街。そのシンボル的な空間が三角公園です。正式名が御津（みつ）公園とは知らずに訪れる人が多い三角公園ですが、さらに忘れられたものが公園内にあります。　アメリカ村の旧住所にあたる南炭屋町の旧町名顕彰碑⑭です。江戸時代には炭屋町で、明治初めに南炭屋町となった当地は、平成元年（1989）の中央区誕生時に新町名の西心斎橋の一部になりました。炭屋町とは四ツ橋から南の西横堀川沿いに炭問屋が多かったのにちなむ呼び名。西横堀川沿いは銅吹（どうふき）屋が集まり、銅の精錬が盛んでした。炭はその燃料だったわけです。かつての大阪は銅の一大産地で、東横堀川畔に住友銅吹所跡が史跡として残っています（前掲の「浪花名所独案内」に銅吹屋住友あり）。西横堀には住友と並び称された銅吹屋の大坂屋久左衛門がいました。炭屋では、後に有力両替商となる辰巳屋が知られています。　江戸時代の先端産業だった銅の精錬を支えた炭問屋。その拠点となった南炭屋町の跡地が今の三角公園⑮で、若者文化の拠点になっているのは面白い風景です。著者も度々足を運んだ場所ですが、公園の隅っこの南炭屋町旧町名顕彰碑には気づきませんでした。今回ようやく対面できたものの、植え込み越しのうえ、文字がかすれて、ほとんど読めません。この連載には、すでにいくつかの旧町名顕彰碑が登場していますが、三角公園の碑はどこよりも経年変化が著しいです。ここは特別に、時代の流れが早かった場所なのかもしれません。


塗師屋町から笠屋町へ

　【前編】からここまで中央区の地名が続きました。仕事に関わる地名は都市化と深い関係にあり、おのずと都心が主役になりました。中央区の話の最後に、旧南区エリアにあった町名をいくつか見ておきましょう。　興味深い例として最初に挙げたいのが笠屋町。古い呼び名は南塗師屋町で、塗師（ぬし）とは漆喰職人のこと。昔の傘は漆が塗られ、傘（笠）づくりを塗師が支えていました。町名の変遷は、職人の技から商品の流通へ、人々の関心が移ったのを物語っているようです。また、南塗師屋町には六軒町の異名もありました。青楼が六軒あったのが由来とのこと。笠屋町は、今の東心斎橋と宗右衛門町の一部です（旧東区の項にも笠屋町は登場。東成区にも江戸時代初めに笠屋町がありました）。　次は畳屋町。豊臣時代に大坂城への畳納入御用を務めた山善・山八・大丈などの御用商人の居住地だったのが町名の由来。今は心斎橋筋・東心斎橋・宗右衛門町の各一部です。この後に挙げるのは、いずれも今は島之内と町名が変わっています。鍛冶屋町は大工道具の鍛冶職人をはじめ鍛冶屋が住んだのが町名由来。竹屋町は竹職人や竹筒屋の商人が住んだのにちなみ、南綿屋町は綿の繊維製品を扱う商家が多かったのに由来。問屋町は文字通り江戸時代に問屋の住居があったのを示す名で、町内にお染久松のかなわぬ恋を描いた浄瑠璃『新版歌祭文（しんぱんうたざいもん）』の舞台になった油屋もありました。


樽と壺と吹子の職人がいた
  
　続いて北区に目を移します。大工町は天満宮の裏門前にあった町名。大工職人が集住したのにちなむ呼び名。樽屋町⑰も樽や桶を作る職人が多かったのに由来。樽屋は西鶴の『好色五人女』で、天満のおせんに思いを寄せる男の職業でした。大工町は天神橋、東天満。樽屋町は今の天神西町です。壺屋町は染色用の壺を扱う町⑱だったと推定され、今の町名は天満の一部。旅籠町は、今の南森町の一部。これらは江戸時代から昭和後期まであった町名です。　大阪天満宮の門前町のひとつ菅原町の菅南中学校の前には、吹子屋町筋の碑⑲が建っています。銅吹きに欠かせない吹子（ふいご）を作る家が20軒余あったのにちなむ呼び名で、東西に延びる道筋が吹子屋町とも呼ばれました。吹子の生産は江戸中期にはじまり、明治・大正初めまで行われていたとか。【後編】の冒頭で触れた江戸時代の先端産業・銅の精錬を支える町だった歴史を碑は伝えています。


天満与力・大塩の大仕事葉

　大阪天満宮の北側に並ぶ同心町と与力町は、現役の町名です。同心、与力は江戸時代の奉行所に勤務し、町々に睨みをきかせていた役人。与力の方が上級で、同心に指令を下す役職。同心町、与力町はそれぞれが居住した屋敷地でした。　北区は大川をはさんで中心市街とはへだてられています。江戸時代には天満組と呼ばれて、福島区にまたがっていくつも連なる天神宮がそれぞれに門前の賑わいをもたらしました。船場や島之内とは彩りの異なるエリアを形成していたのです。与力町から起こった大塩平八郎の乱は、大川を越えて市中に吹いた旋風となり、ひいては幕末の日本を揺るがす大仕事になりました。


天王寺エリアのお仕事地名

　四天王寺の西門前の愛染坂と天神坂の間にある伶人町の名は、四天王寺の舞楽法要に奉仕する天王寺楽所所属の伶人８家の屋敷町にちなみます。明治33年（1900）にできて今も続く町名で、もとは大字天王寺の字北の丸・中の丸と呼ばれていました。伶人（れいにん）とは精霊会で雅楽を演奏する人をさします。　天王寺区で、かつて繰綿業が地場産業になっていたとは意外かもしれませんが、昭和後期まで上綿屋町の町名がありました。繰綿（わたくり）とは綿の繊維と種子を分ける仕事です。明治末の市電開通後、宅地化が進行。今は四天王寺・上汐・六万体町の各一部です。　天王寺エリアの異色の地名として、てんのじ村があります。もともとは住吉区天王寺村の一部で、てんのじ村は通称。上方芸能発祥地の碑が建ったのは、この界隈が道頓堀・千日前・新世界の寄席・劇場に近く、戦災もまぬがれたことから、300人とも400人ともいわれる芸人が集住し、演芸復興の拠点になった経緯を忘れないためです。再開発で古い長屋の風景が消え、代わって開通した阪神高速の高架の脇に建つ碑も設置から半世紀近くを経て、今やかなり年季が入った姿になっています。てんのじ村の一帯の今の町名は、西成区山王町です。


船と網と鍼にちなむ地名
 
　大阪市中のお仕事地名をたどってきた今回の話も、いつのまにかフィナーレに近づいてきました。西区、都島区、東住吉区を駆け足で訪ねます。　西区にあった船町は、船頭や水夫、漁師が居住したのにちなむ町名で、明治初めに土佐堀裏町、大正末に土佐堀船町となり、昭和後期に土佐堀・江戸堀に分割して改称されました。都島区に今もある網島町は、漁師が網を干した場所だったのが名の由来。大川・寝屋川・平野川が合流する地で、流域は川魚の漁場になっていたのです。　東住吉区の針中野は、町名だけでなく近鉄の駅名としても知られています。名の由来は代々続いた中野という名の有名な鍼灸院㉒で、設立は平安時代の延暦年間（782～805）にさかのぼるとのこと。大正時代に大阪鉄道（南海平野線）が開通した時、駅から鍼灸院まで石の道標が７つ建てられ、そのうち２つが現在も残っています㉓。


エンディングを飾るつくりべの２大地名
 
　最後に登場するのは、古い時代の地名です。人々が集まり住みつき、社会が成り立ち、役割を分担していくなかで、さまざまなモノがつくられました。つくる仕事で認められた人々は「つくりべ」と呼ばれる集団になり、社会を支え、技能を伝えていきました。　つくりべがいた場所は、つくりべの名で呼ばれ、それが地名になりました。ここに２つ紹介します。　その名は、鞍作（くらつくり）と玉造（たまつくり）です！　まず、平野区の鞍作。古くから武具をつくるつくりべが住み、鞍作部と呼ばれていたのが由来。鞍作は現在の平野区北部から東住吉区の一部に及ぶ広域名称で、江戸時代は村の名になり、明治半ばからは大字名に。昭和に町名として復活し、現在も加美鞍作の町名が残っています。鞍作部の出身者に、法隆寺金堂の釈迦三尊像を作成した鳥仏師（とりぶっし）がいます。日本の仏工の祖といわれる鳥仏師の異名は、鞍作鳥（くらつくりのとり）です。　もうひとつのつくりべ地名の玉造については、地元の玉造稲荷神社の門前に建つ玉作岡（たまつくりのおか）の碑文㉔から次に抜粋します。古めかしいながら、熱のこもった文章です。　「難波（なにわ）の高台の内に位する玉造稲荷神社の所在地は、古代には玉作岡とて玉作部に所属する曲玉（まがたま）作りの集団居住地であった。故に大阪においてもっとも古く由緒あるべきところというべきである」㉕　東成区の町名やＪＲ環状線の駅名になっている玉造の名は、古墳時代に曲玉をつくる玉造部（たまつくりべ）がいたことにちなみます。曲玉は勾玉とも記される古代の装身具で、遺跡や古墳から数多く出土。玉作岡に建つ玉造稲荷神社は豊臣・徳川時代を通じて大阪城の鎮守の神ですが、お守りは玉造部にちなんだきれいな勾玉。由緒ある地名が手作りアクセサリー風のお守りに姿を変えて、歴史を伝えるともなく伝えているところに今の時代を感じます。
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<title>場所が仕事をつくってきた【前編】</title>
<link>https://140b.jp/chimei/article/p9</link>
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<pubDate>Wed, 08 Jun 2022 00:00:00 +0900</pubDate>
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花はうつろい、人もうつろう。

　前回まで、動物や花、草木にまつわる地名の話をしてきました。今回のテーマは「お仕事」。さまざまな職業、なりわい、役目などに関わる地名を訪ねます。愛でたり和んだり、親しみの対象になる動植物に対して、働いたり稼いだり、日々の営みに直結する仕事はどんなかたちで地名に根づいているでしょう。　　まずは大阪市中から訪ねます。例えば、北区の土佐堀川に架かる端建蔵橋（はたてくらばし）①。初代の橋は明治時代に架けられました。蔵屋敷が並ぶ中之島の西の端にあるのが名の由来といわれますが、今はもう蔵屋敷の姿はなく、多彩なミュージアムがエリアの顔に。橋名は裸足で働く倹約家が蓄財して蔵を建てたのにちなむとの説もあります。裸足蔵が端建蔵に転じたというのですが、それはかつての頑張る働き方のモデルでもありました。さて、今はどうでしょう。一生懸命働けば蔵が建つとは限らず、蔵が豊かさの象徴ともいえなくなりました。　時代とともに働き方は変わります。花も人もうつろいますが、うつろい方は人のほうがせわしなく、お仕事地名には時流を感じさせるものが多いです。そこに何を見出すかは、人それぞれ。今回登場する地名は、何を語りかけてくれるでしょうか。


瓦が地名になる時
 
　次も橋の話題です。とりあげるのは中央区の瓦屋橋②③（位置は後掲の「浪花名所独案内」参照）。東横堀川に架かる欄干に記された碑文によると、江戸時代には良質の粘土が採れ、近隣は瓦の産地でした。今も町名は瓦屋町で、近くには瓦屋町公園もあります。　江戸時代の瓦屋橋の東詰一帯は南瓦屋町と呼ばれ、瓦の窯や土取場、瓦の積み出し場がありました。瓦を積んだ船の賑わいは、瓦屋橋から東横堀川へ、さらに市中の堀川へ広がり、市外にも伸びていきました。当地の瓦は、大阪城や京都の御所、二条城や多くの寺社にも供給されたのです。寺島家という瓦の専売権を持つ幕府の御用商人がいて、瓦の町には瓦を作る人、運ぶ人、売る人など、瓦に関わる仕事に携わる人々が集まり住んだといいます。風景は変わり、今の瓦屋橋は高架の下。丸瓦を想わせる橋の高欄が、瓦の町の面影です。


もうひとつの瓦の町名

　瓦屋町、瓦屋橋とは少し離れた場所にも、瓦にちなんだ町名があります。同じ中央区にある瓦町です。旧区名で言うと、瓦屋町と瓦屋橋は南区、瓦町④は東区の町名です。　旧東区の瓦町には建築関係の仕事に携わる人々が住んでいました。戸棚や風呂の細工職人、障子や襖を扱う商人、鉄問屋などです。北隣りの淡路町、南隣りの備後町など仕事と結びつかない町名のエリアにも、箪笥（たんす）屋、大工道具の職人、鉄問屋がいたとのこと。　同じく旧東区にあった唐物町⑤は、江戸時代に唐物（からもの）と呼ばれた長崎での貿易品を扱う店が多かったのにちなむ町名。今は船場中央の一部です。他にも錫屋町・南鍋屋町・蝋燭町・笠屋町などの町名がありましたが、残念ながら消滅。　瓦町がある旧東区はかつての大阪城下町の中心で、武家屋敷と北船場の大店が並ぶエリアでしたが、さまざまな職人と商人が集住する風景も見られ、街の活気を生み出していたのです。


広々として何もない地名
 
　次は、なくなった後も語り継がれる地名の話。「昔、商店街の北側に野獏（ノバク）⑥といって、だだっ広い空き地があって……」と、著者は以前、中央区の空堀商店街の古いお店の方から聞きました。獏とは「広々として何もないさま」（『広辞苑』）。野獏とは、まさにだだっ広い野原のことで、どうして街なかにそんなものがと不思議に思いましたが、後に瓦の土取場だったと判明。先述の瓦屋橋⑦、瓦屋町は空堀商店街の南に接する町で、こうして話がつながりました。空堀商店街は大阪城の空堀（水のない堀）があった場所としても知られていますが、北側一帯の起伏に富んだ風景は、江戸時代の瓦産業と深い関係があったわけです。　瓦屋町の話に出てきた寺島家の初代は、豊臣と徳川の両家から瓦の御用を受けた瓦商人でした。２代目は元和元年（1615）、南瓦町（今の瓦屋町）に屋敷地を拝領。寺島家で最も有名なのは４代目の藤右衛門で、寛永7年（1630）屋敷地の東北に瓦の土取場を与えられ、明治維新に至るまで寺島家は瓦専売の特権を持ちました。土を採取した跡は野獏になり、天保年間の観光案内図「浪花名所独案内」にもノバクが載っています。浪花名所に数えられたノバクはただのだだっ広い空き地ではなく、瓦産業がもたらした経済発展の象徴だったわけです。


両替町。引っ越しする地名
 
　江戸時代の大坂は30～40万人の人口を抱え、江戸、京都とともに三都と呼ばれた大都市でした。今の中央区、北区、西区を合わせたよりも小さい面積に、商都の機能を凝縮。有力商人の多くは現在の金融業にあたる両替商を営み、華々しい成功をおさめていました。中央区（旧東区エリア）には両替町という町名もありました。　「それ、うちの会社の近所です」とは、中央大通りを徒歩で通勤中の方から。沿道に両替町の旧町名顕彰碑⑨があるとのこと。現在の町名は常盤町。大坂城下町建設の時に、伏見の両替町にいた伏見町人が当地に移り住んだのが旧町名の由来です。伏見の両替町は豊臣秀吉が伏見城を建て、町を改造した時に生まれ、後に徳川家康が銀座を置きました。京都で両替商が栄えたのは、現在の中京区にあったもうひとつの両替町で、伏見の両替町は繁栄した商業地ではありましたが、金融業に関しては不明。大坂にできた両替町も同様で、有力な両替商の集住地として著名になったのは北浜や今橋通り、高麗橋通り、平野町通りなど北船場の方でした。　「そういう話は十兵衛横町でやって」とのアピールは、北浜駅近くの今橋１丁目の小学校に通うランドセル姿の児童から。地元の小学校の前に建つ「天五に平五・十兵衛横町の碑」⑩のことですね。天五とは天王寺屋五兵衛、平五は平野屋五兵衛をさし、どちらも江戸時代を代表する両替商。碑があるのは両家の屋敷が隣り合わせで建っていた跡地。「五兵衛が二人で十兵衛横町なんやて」と、児童が教えてくれました。　旧東区エリアで明治維新の後、いくつもの銀行が生まれたのは土地柄の反映。そういえば、先述の両替町の旧町名顕彰碑が建っていたのも銀行の前。これも地名が引き寄せた縁でしょうか。


鑓屋町の文豪、西鶴が残した言葉
  
　伏見から引っ越ししてきた地名は、他にも左官町があります。旧東区にあった町名で、公儀向けの左官の住居があったともいわれますが、詳細は不明。　伏見から来て今も残っている町名では、鑓屋町（やりやまち）が井原西鶴の住居があったので知られています⑪。鑓屋の由来は不詳ですが、伏見にあった鑓屋町は伏見城から南へ延びる町筋に武家屋敷が並んでいたそうで、鑓を連想させなくもありません。由来はともかく、鑓屋町からすぐの本町橋３丁目に建つ西鶴文学碑⑫に、ひと言触れておきましょう。碑に刻まれているのは西鶴著『日本永代蔵』の一節。「始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし」をどう読むか。蓄財を尊ぶ人生訓とするのは当たりません。西鶴は金銀に翻弄される人々の姿をありのままに描くリアリスト。始末や倹約を奨励したのではなく、金が金を生む仕組みができあがった江戸中期、両替商が繁栄した世相の功罪両面を書いたのが西鶴という作者でした。その目は現代まで見通していたと言えるかもしれません。　今、鑓屋町を歩くと、「鑓屋町」「YARIYAMACHI」をロゴにしたお店が目につきます⑫。古風な町名を愛でるのは、文豪西鶴の出身地ならではの現象でしょうか。昔をなぞりながら、地名が独り歩きを始めています。
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<title>花も緑もある大阪【後編】</title>
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<pubDate>Thu, 12 May 2022 02:00:02 +0900</pubDate>
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花博生まれの花のライン
 
　平成2年（1990）大阪で開催された花の万博（国際花と緑の博覧会）⑫は、身近なのに知られていなかった花と緑の豊かさ再発見の場になりました。その一点だけで、もう十分に画期的。予想を上回る約2300万人の来場があったのも、多くの人が求めていたものがそこにあったからこそでしょう。　鶴見区、守口市にまたがっていた花の万博の跡地は、花博記念公園・鶴見緑地になりました。花博で話題を呼んだ国内最大級の温室「咲くやこの花館」⑬は今も現役の人気スポットです。「咲くやこの花館」の名は、『日本書紀』の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌にちなみ、此花区（第３回【後編】参照）と由来を共有しています。守口・鶴見区と此花区の間を花のラインが結んだ格好です。　「咲くやこの花館」の外観は、緑地周辺がかつての湿地帯で、水面に浮かぶ睡蓮の花をイメージしたとのことで、上町台地の東にあった古代の干潟が原風景。守口市は淀川の上流、此花区は淀川の河口エリアで、花地名にも森地名・林地名と同じく水辺との深い縁を感じます。そういえば花博に合わせて堂島川に架けられた中之島ガーデンブリッジは、水都の庭をイメージして誕生したのでした。


潮の香りの草地名
　草葉（くさば）という言葉があります。「人は草葉の露なれや」（『和泉式部日記』）であれば、ささやかなもの、とるにたりないもの。「夏草や兵（つわもの）どもが夢の跡」（『奥の細道』）ならば、青々とした盛んな勢い。草葉には両面があるようですが、大阪の地名に聞くと、どんな声が返ってくるでしょう。　「草といえば芦！」　元気のいい声に乗って潮の香りがします。なるほど、大阪で草といえば古くから芦ですね。そういえば浪速区の町名の塩草は、一帯が塩（潮）の匂いがする湿地の草（芦）の原だったのにちなみます。海の匂いは生命の匂い。塩草の隣には、町名の芦原、JRの芦原橋駅もあり、浪速区の名は古代の港の浪速津からとったもの。一連の地名から、水辺に生い茂る芦の風景が浮かびあがってきます。　西区にもかつては芦地名がありました。芦島は今の北堀江・南堀江にあたるエリアですが、大坂冬の陣で真田信繁（幸村）が家康を待ち伏せした地ともいわれます。今の堀江の賑わいからは想像できませんが、戦国末期に地名どおりの芦の茂る島（砂洲）があったのなら、軍勢を伏せておくには絶好の場所だったでしょう。　かつての芦地名は堺市にもあります。今の旅籠町西、半町西にまたがっていた芦原町は明治5年（1872）までの町名。戦国期には眺望の名所の芦原浜で、後に砂洲が広がり、江戸時代には町場になって開口神社の御旅所が建ちました。芦は賑わいを呼ぶ草なのかもしれません。


太陽の昇る草深いところ
　草の字が表に出ていない草地名もあります。東大阪市の日下（くさか）は、かつては草香、草賀とも書きました。『日本書紀』にも登場した古い地名で、東に太陽の昇る草深いところを意味する言葉「日下（ひのした）の草処（くさか）」によるとされます。現在の表記の日下は、太陽の光を浴びる草原と一対でした。日下町にある国史跡の日下貝塚は、古代の干潟の恵みと人の営みの記憶を伝えていますが、そこにはきっと潮風になびく芦の原があったでしょう。　太陽が昇る方向には生駒の山々が連なります。山登りの道は孔舎衙坂（くさかざか）と呼ばれました。草の字は出てきませんが、陽が昇る坂道は山の草であふれていたでしょう。　草地名の最後に美称としての若草に触れておきます。茨木市・東大阪市・八尾市にある若草町はいずれも昭和後半生まれの新町名。同時期に増殖した桜地名・梅地名（第３回【前編・後編】参照）の派手さはなくても、若草のイメージも地域に潤いをもたらしたことでしょう。


地名になった葛の葉と楠の葉

　「草」の次は「葉」の地名の話。まずは和泉市の葛の葉町から。　もとは浄瑠璃や歌舞伎の主人公で、後に小説・漫画・映画でも有名になった陰陽師の安倍晴明は、和泉国信太（しのだ）の森の葛の葉狐を母として生まれました。和泉市の葛の葉町は、葛の葉狐を祀る葛の葉稲荷の所在地として知られています。神社の正式名は信太森神社で、創建は和銅元年(708）。晴明の父の安倍保名（やすな）と葛の葉狐との恋物語を今も伝え、境内の森も健在。町名の葛の葉町は昭和35年（1960）の命名なので、土地の伝承に地名がようやく追いついた格好です。　次は枚方市の楠葉（くずは）⑭。地名由来について、『古事記』に崇神天皇の時代に敗軍の兵が「屎褌（くそばかま）」姿で逃げた地とあり、そこから転じたとする説がありますが、ここでは別の話をご紹介しましょう。延暦6年（787）創建の交野神社は楠葉にあり、その周辺は継体天皇の樟葉宮（くずはのみや）があったとされ、神社の前に「樟葉宮旧跡」が建っています。継体天皇は６世紀の人で、一時期、樟葉宮に住みました。楠葉の地名と樟葉宮の名と、どちらが先だったのか、考えてみるのは面白いかもしれません。　今、枚方市には楠葉朝日・楠葉丘・楠葉花園町・楠葉美咲町・楠葉面取町（めんどりちょう）と、楠葉を冠した町名がいくつもあり、京阪電車には樟葉駅があります。昭和半ばまで船着場の楠葉浜もありました。楠葉の由来はともかく、楠（樟）が古代から人々に好まれた木であったのは確かなようです。楠の葉は、もむとよい香りがします。　草地名と同様に、美称としての葉の地名もありました。寝屋川市の若葉で、昭和43年（1968）生れの新町名です。豊中市にも昭和の一時期、若葉通がありましたが、町名変更で一部が立花町になりました。葉の地名が花木の地名に転身した珍しい例です。


栴檀せんだんの木と柳の木

　さて、【前編】と【後編】のここまでで、３つの草木が登場しました。桃と芦と楠ですね。それ以外の草木の地名はどうなっているでしょう。　著者の場合、大阪の木の地名で思い浮かぶのは、北区の栴檀木橋（せんだんのきばし）です。昔、この橋から延びる筋に栴檀の木があったのにちなむ命名と伝えられます。今の橋は江戸初期の初代から数えて４代目です。　「栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時は過ぎたり」と現代歌人の江戸雪は詠みました。栴檀木橋は大阪の名橋のひとつ。南の橋詰に立つと左右の欄干が延びていくその奥に赤く映えるもの……大正生まれの名建築、大阪市中央公会堂の赤煉瓦です⑮。橋を渡るのを忘れて眺めます。かつては市街のあちらこちらで栴檀の古木が見られたそうです。　あちらこちらで見られたといえば、柳もそうでした。中央区にあった柳町は明治5年（1872）に西清水町に、西成区にあった柳通は昭和48年（1973）に潮路・岸里・花園などの町名に変更。それぞれ水辺または花にまつわる名前になったのは、柳がもともと川辺で多く見られたことを思えば、頷けます。　堺市に今もある柳之町西・柳之町東は明治5年（1872）生まれの町名ですが、どちらももとの町名に柳の字が付いていました。門真市には昭和40年（1965）に柳町、高槻市には昭和42年（1967）に柳川町が誕生。水辺に枝を垂れる柳の風情が好まれ、地名になったのでしょう。


似たもの同士の木の地名

　柳地名の最後に出てきた高槻市ですが、高槻という市名の「槻」は、欅（けやき）の古名。欅は梢が高く広がる姿が愛でられた木です。隣りの茨木市も木の市名で、文字通り茨の木が繁った地を意味しています。　高槻と似た町名の高木町が昭和48年（1973）まであったのは松原市です。羽曳野市には小字の地名で高木が残っています。どちらも室町時代は高木荘と呼ばれる荘園でした。　泉州の岸和田市と和泉市に、春木という地名があり、昔は岸和田市の方を里春木、和泉市の方を山春木と呼んで区別していたそうです。岸和田の春木は西福寺に薪を納める風習にちなんだ命名。和泉市の春木は春日神社の社領でした。木の地名が寺社を介して生まれることもしばしばでした。　柑橘類の木を総称する橘（立花）も各地で見られる地名です。豊中市の立花町、東大阪市の立花町は現役の町名。西区では南堀江の立花通がよく知られた現役地名。以前は家具の街、今は雑貨やファッションの店が増え、若者が集まるスポットになりました。通称のオレンジストリート⑯は、さわやかな柑橘系のイメージを押し出したものです。　一方で西区の橘町と橘通、平野区の橘町、堺市の立花通など過去のものになった町名もあります。消えた地名、生まれた地名、変わる地名、変わらない地名。よく似た地名でありながら、たどる道はさまざまで、それもまた地名の面白さ、奥深さと言えるでしょう。


木と水をつなぐ橋
 
　「そろそろ、あの川の話をしておいた方が……」と、気をもんでいるのは、話のフィナーレが近づいているのを察した方ですね。確かにこのへんで、あの川の名をご紹介しておいた方がよさそうです。その名は木津川⑰⑱。聖徳太子の四天王寺建立の時、各地の材木が運ばれた川と伝えられ、木津とは木の港の意味です。流域には古くから材木置場があり、川は材木市への流通の水路になっていました。　木津の地名として、中世には木津の浜、江戸時代には木津村がありました。今は浪速区に町名の木津川があり、木津卸売市場も賑わっています。他にも、西区の木津川橋、大正区の木津川運河、新木津川大橋など木津を冠した地名は今もあちこちに。そうです。水の都の大阪は、木の都でもありました。


緑といえば松だった
 
　というわけで、花と緑の大阪の話もフィナーレに向かいます。登場するのは、松地名。数ある大阪の花と緑の地名の中でも、【前編】に出て来た森と並ぶ一大勢力です。順を追って紹介します。　ひとつめは松原地名。白砂青松という言葉があるように、松は昔から浜辺を彩る緑の代表でした。川畔の松も名所に数えられる場所が少なくありません。大阪湾に抱かれ、大小の河川と堀川が流れる大阪で松地名が栄えたのも道理。キーワードが松原で、松原を冠した松地名の筆頭格といえば、住吉区の霰松原（あられまつばら）です。　あられ打つあられ松原住吉の弟日（おとひ）娘と見れど飽かぬかも　と、『万葉集』の歌に詠まれた風景は、あられが降るごとく潮風に緑がなびく松原。あの娘といっしょに飽きずに眺めた日が懐かしい……。今、住吉区安立（あんりゅう）町の安立小学校前に霰松原の碑が建ち、昔はこの一帯が美しい浜辺だったと物語っています。　続いて、阪堺軌道上町線と南港通りが交わる姫松交差点には、『古今和歌集』の次の歌がぴったり。　我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく夜経ぬらん　この歌の主は、姫松を眺め続けていったいどれだけの月日を過ごしたのでしょう。　姫松と呼ばれた松にちなんだ地名は西成区にも、姫松通⑲⑳があります。同区には敷津松之宮神社が所在する松という町名や、過去には海辺の松原にちなんだ松原通、岸松通㉑もありました。松原の町名は東住吉区・堺市でもなくなりましたが、高槻市・東大阪市・泉佐野市では残っています。泉大津市の松之浜町も残った松の地名の仲間です。　松原地名のしめくくりは松原市です。平安時代の荘園の松原荘が松原村になり、昭和の松原町、現在の松原市ができました。見事に松原一筋の市名です。


鼻のある松、島になった松

　天王寺区の松ヶ鼻町は桃の名所の桃山（桃山の項参照）の一角を占め、猫間川（第2回【後編】参照）を臨む高台にありました。松ヶ鼻の由来は不明ですが、高台の先端に松の木がある風景が連想されます。戦後、周囲の風景は変わりましたが、残された地名は街なかの景勝地のイメージを伝えています。　よく似た地名の松ノ鼻浜は、枚方市の淀川畔にあった松ノ鼻の船着場の名。明治43年（1910）に京阪電車が開通して、船運がすたれるまで運航していました。松ノ鼻の地名から、川端の鼻先の眺めのいい場所だったと想像されます。　天王寺区には松崎町もあり、前身の町名のひとつが一本松。松の地名が受け継がれていたのがわかります。　西区の松島公園がある場所は、松島遊廓の跡地㉒です。川に囲まれた松島へは松島橋を渡って行きました。松島とは客寄せのための美称地名。明治に生まれ、昭和の半ばまであった遊廓の記憶を留める碑が公園の近くに残っています。町名の松島町も遊廓とともに生まれて消えました。


住吉の松と天満の森の交わるところ
 
　草葉の地名の項で、美称としての若草・若葉の話をしました。松の地名にも若松があります。若松町は高槻市・富田林市、若松通が東大阪市・豊中市、若松台が堺市の泉北ニュータウンにあり、いずれも昭和後半生まれです。若松にはみずみずしい緑の他に、昔からおめでたいイメージもあって好まれました。　そんな中、北区の若松町は明治生まれで昭和後半に消えました。町名は西天満になりましたが、若松町の旧町名顕彰碑が残り㉓、そのかたわらに松の木が一本、枝を張っています。堂島川の畔に西天満若松公園もあり、休憩やランチタイムのスペースに。若松はまだ生きています。　北区の若松町は、北隣りの老松町と対になる名として命名されました。老松町㉔の由来は地元にあった松の老木に住吉の神が影向したとの伝承で、もとは住吉町と名乗っていました。江戸時代に老松町となり、昭和53年（1978）に天神西町と西天満に町名変更。今は老松通りの名が残り、骨董店とギャラリーが軒を並べる老松骨董街として知られるようになりました。　北区は大阪天満宮をはじめ天神社がいくつも連なる天神エリアです。【前編】で天満の森の話をしましたが、そんな天神のお膝元で、住吉の松にちなむ老松町が生まれ、若松町がそれに続き、町名変更された後も息長く存在感を示しているのは興味深いことです。地名の生命力にあらためて感服します。　老松通を歩くと、住吉のよく知られた地名を看板に掲げた骨董店が見つかります。通りがあるのは西天満の一角です。偶然と知りつつ、住吉の松と天満の森が邂逅する物語をつい思い描いてしまいます。　ちなみに、老松町は堺市にもあります。堺の旧市街はもともと住吉大社の社領でした。住吉大社の江戸から明治にかけての絵図には、鳥居の目の前に広々とした松原が描かれています。社前の風景は変わりましたが、地名は昔をよく覚えています。


松の地名あれこれ

　中央区と平野区の松山町、西区の松本町はなくなった松地名の例。守口市の松町、寝屋川市の松屋町、八尾市の松山町は現役の松地名の例です。いずれも由来は不明。これらの松地名は一部の例外を除いて、生れた年代、消えた年代ともに昭和です。他の地名でも昭和は大きな変化があった時代でした。　そんな中で泉大津市の助松町㉕は、海辺にあった松林と土地の開発者の幼名を合わせた助松に由来する命名で、室町時代から続く呼び名でした。昭和になって新町名の助松団地も生まれています。　中央区の松屋町（まっちゃまち）は、お菓子と人形・玩具の街で有名。当地に松屋を名乗る人物の屋敷があったのが町名由来で、松の地名とは言い難いのですが、ここはお屋敷の庭にあったかもしれない松の木を想像しておきましょう。天神橋の南詰から天王寺公園まで延びる松屋町筋もおなじみですね。


花の地名の大トリ
 
　さて、これが本当のフィナーレです。大阪の花と緑の地名の大トリにふさわしい花の地名、花地名の中の花地名といえば……。　それは浪花です！　言わずと知れた大阪の古名で、知らない人はいないというくらい有名ですが、浪花に大小２つあったのはご存じでしたか。　小さい方の浪花は、大阪メトロ天神橋筋六丁目駅の南西角にある浪花町㉖。この町名が誕生したのは大正13年（1924）で、あと少しで100歳を迎えます。　大きい方の浪花㉗は、同じく「なにわ」と読む浪速・難波とともに古来の大阪の呼び名で、『日本書紀』にも記されています。大阪湾にうち寄せる波（浪）の姿をあらわす３つの呼び名のひとつ、浪花。「浪」と「花」の2文字のとりあわせは、水辺と花の深い関りを物語る大阪の地名のまさに象徴と言えるでしょう。
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<title>花も緑もある大阪【前編】</title>
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<pubDate>Thu, 12 May 2022 00:00:01 +0900</pubDate>
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この森を抜けると朝が来る
 
　今回のテーマは「花と緑」です。大阪は緑が少ない街と言われています。そうでしょうか。地名に尋ねてみたら、どんな答えが返ってくるでしょう。　ここで、ふと思い出したのが千林商店街です。「主婦の店ダイエー」誕生の地で、日本一安い商店街とも呼ばれた有名商店街。江戸時代には村の名で、今は旭区の町名、京阪電車の駅名でもある千林は、そこにかつて生い茂った樹林にちなみます。　そういえば、南隣りの町名は森小路で、森の中に小さな路があったのが命名由来。京阪電車にも森小路駅があり、近くに新森小路（現・新森）という町名も。さらに言うなら、旭区と境を接する守口市は、もともと森口と書きました。森林の入口にあたる場所だったからです。　北から順に守（森）口・千林・森小路と続く地名は、大阪の北東に広がる緑の風景の名残りでした。旧京街道沿いの街々でもあり、往来の人たちは守口の宿場で、ここから千林、森小路を抜ければ大坂市中、道中もあと一息と、ほっとしたことでしょう。　さて、千林・森小路は旭区にあります。大阪市街の中心から見て朝日が昇る方角なので旭区です。江戸時代には淀川下りの夜船に揺られてきた人々が、今の旭区あたりで、まばゆい朝焼けを仰ぎました。　この森を抜けると朝が来る。　大阪の緑のイメージの源泉には、そんな安堵と期待の風景があったわけです。　守口市にある佐太天神宮①は1000年以上の歴史を持つ古社です。境内の森は100本を超える大木が繁る市指定の保存樹林②。「大阪みどりの百選」にも選定され、池の水面にみずみずしい緑を映しています。かつて森口だった街に今も息づく緑の森をオープニングに、地名に息づく花と緑の大阪をひとめぐりいたしましょう。


森と林に囲まれて

　旭区の新森公園に碑が建つ森小路遺跡は弥生時代の集落跡です。それより古い縄文時代の遺物が発掘されたのが中央区の森ノ宮遺跡で、ここも森地名。起源は７世紀の推古天皇の時代の逸話で、新羅（しらぎ）から持ち帰ったカササギの飼育地を鵲森（かささぎのもり）と呼んだと『日本書紀』にあります。その後、聖徳太子が父の用明天皇を偲んで当地に建てた社殿が鵲森宮（かささぎのもりのみや）③。現在の通称は森之宮神社。所在地の町名は中央区森ノ宮中央で、JR森ノ宮駅は目の前です。隣接する都島区の町名にも１字違いの森之宮があり、このあたりの森地名には神域のイメージが漂います。　一帯の古名は『日本書紀』に難波杜（なにわのもり）と記され、そこに鵲森ができ、鵲森宮となり、さらには戦国時代に森荘、江戸～明治時代に森村、杉山町、大正時代には森町がありました。時代とともに森が市街に変貌し、上町台地の東には時代に応じた森地名が生まれてきたのです。　大阪メトロ森ノ宮駅近くのピロティホールでは、年に数回、森ノ宮遺跡の遺物を公開しています。発掘された縄文時代の人骨も見られ、愛称は大阪市民第１号。ユーモラスな響きの奥に、鬱蒼とした緑の森の記憶があります。ピロティ方式（高床式）と呼ばれる独特の設計を施されたホールは、森ノ宮遺跡の保存のための工夫だそうです。


森地名に流れる水脈
 
　「前から気になってたんやけど」とは、大阪天満宮で参拝中の方のつぶやきです。「南森町て、どこの南なん？」そういえば、天満宮門前の町名の南森町も大阪メトロの南森町駅も、方角は天満宮の北西でした。いったいどこから見て南の森なのでしょう。　話は戦国時代にさかのぼります。織田信長が大坂本願寺との合戦の時、本陣としたのが天満の森です。信長本陣の位置について、星合の池と明星の池（第３回【後編】参照）との間と記された案内板が、天満宮の北側の星合（ほしあい）の池畔に建っています。もうひとつ付け加えると、江戸時代には北森町・南森町の両方がありました。　情報をつなぎあわせると、南森町とは、天満の森を南北に分けたうちの南の森町ということになります。天満宮の背後にあった森が、江戸時代には市街の一部になっていくなかで森の名残りの地名が生まれたわけです。　「それなら、こっちは天神の森」と、今度は西成区天神ノ森にお住いの方がつぶやきます。地元の天神ノ森天満宮④は応永年間（1394～1428）創祀の古社で、一ノ鳥居、二ノ鳥居から本殿までこんもりとした緑に覆われた姿は、まさに森。隣接の阪堺線・天神ノ森の停留所⑤も境内の緑に涼んでいます。良い清水が出るので、千利休の師の武野紹鴎（じょうおう）が茶室を設けたことから紹鴎森天満宮とも呼ばれました。　ここまでの話で「ふむ、森と水はワンセットなんや」と頷かれた方、察しが早いです。守口、千林、森小路、天満は淀川の流れに沿って連なり、森之宮はかつての干潟や猫間川（第２回【後編】参照）と縁が深く、南森町は池畔の地名でした。水なしで森は育ちません。古代は内陸深くまで海が入りこみ、近世以後は水の都と呼ばれてきた大阪。森の地名と水の縁には、長い歴史がありました。


森地名・林地名の点と線

　このへんで地図を広げてみましょう。先にお話した天満の森、天神ノ森を目線でつなぐと大阪市街を貫く上町台地の西麓ラインが見えてきます。上町台地に大阪城はあります。城の東の森之宮から東へ目線を移していくと、東西のライン上に東大阪市があり、森河内という町名が現れます。　東大阪市（旧河内国）の森を意味する森河内⑥は、先述の天満の森と同じく織田信長と大阪本願寺の合戦の舞台で、織田方の細川藤孝、明智光秀が陣を構えました。森は軍勢を伏せる場所で、森河内の北は長瀬川と寝屋川が交わる水運の要所。地元の森河内八幡神社には古木が多く、森の名残りの緑を繁らせています。大坂本願寺があったのは大阪城が建っているのと同じ上町台地の北端です。　天満の森～天神ノ森の上町台地西麓ラインは南北に延び、森之宮～森河内の東西ラインと直交しています。交点には大阪城がそびえています。　「河内森にもひとこと！」と、ここでかかった声は、やはり旧河内国の交野市の方からです。森河内と河内森。よく似ていますね。河内森は京阪電車の駅名で、所在地は私市（きさいち）ですが、駅の北側の町名が森北で、旧町名は森。駅の一帯にかつては緑の森がありました。　森河内から河内森・森北へ。河内北部を縦断し、森地名を結ぶラインが延びていきます。　「町名の森ならこっちにも」と手を挙げたのは貝塚市の方。貝塚市の森はかつて良質の材木産地で木島の森と呼ばれた町。水間鉄道の森駅、森ノ大池があります。　河内から泉州へ。森地名を結ぶラインは南のエリアをつないで貝塚にまで延びました。　冒頭にお話した守口（森口）・千林・森小路の淀川沿いラインと合わせて、地図の上に点々と散らばる森と林の地名を見渡すうちに、緑の点が線になり、面になって、大阪を覆っていた森と林の気配が立ち上がってきます。


まだある森と林の地名

　【前編】のもうひとつの話題に入る前に、その他の森地名、林地名に触れておきます。泉大津市の森町は江戸時代の森村がルーツ。千早赤阪村の森屋⑦は平安時代の荘園・杜屋荘（もりやのしょう）が起源で、江戸時代は森屋村。能勢町の森上は森ノ浦遺跡から弥生・古墳時代の土器が出土し、戦国時代には森上城が築かれ、江戸時代は森上村がありました。林の地名で言うと、生野区の林寺（はやしじ）は昔この地にあった林にちなむ地名と思われ、町名の林寺・林寺新家に残っています。藤井寺市の林は古代氏族の林氏の居住地だったのが地名由来。東大阪市の東部（旧枚岡市エリア）にあった林燈油園（はやしとうゆえん）は平安～室町時代の荘園名。地図の上の森と林の地名から、緑の気配が立ち上がってきます。


大阪には桃地名があった
 
　さて、森と林の字は木でできています。木は第３回の【前編】で桜、【後編】で梅の話をしましたが、今回は桃。『古事記』『日本書紀』にも登場する果樹で、大阪の地名にも根づいています。　まずは天王寺区の桃山。かつて玉造から天王寺まで広がっていた桃畑にちなむ広域の呼び名で、春の開花期は花見の人出で賑わう名所でした。明治後半の市街地化で、残念ながら桃畑は消滅。桃山とも呼ばれなくなりました。現在のJR桃谷駅の西側一帯が往年の桃名所の中心で、東側の生野区エリアに桃谷という町名が残っています。桃谷駅のシンボルフラワーはもちろん桃。桃山は丘、桃谷はその麓で、丘の上と斜面に桃畑……地名から見えてくる桃一色の風景です。　続いて、阿倍野区の桃ケ池町。町名由来の桃ヶ池には、聖徳太子に命じられて竜退治に来た使者が、人の股までの浅い池だったので退治できたとの伝承があります。もとの表記の股ケ池が、後に桃ケ池という美称に転じたわけです。現在の桃ヶ池は蓮の花の名所⑧。池畔の股ヶ池明神⑨は緑の木立の中。池は花と緑がいっぱいの桃ヶ池公園の中にあります。桃山・桃谷と同様、桃ヶ池にも桃の木は見られませんが、伝承を離れて独り歩きした桃のイメージは、ここでも風景を明るく彩っています。


桃の美称地名
　股ケ池が桃ケ池になったのは美称を好む心理のあらわれでした。第3回【前編・後編】に桜や梅の美称地名が昭和になって続々と出現したという話をしましたが、桃でも似た現象が起きました。　守口市の桃町は、昭和14年（1939）生まれの町名で、隣が梅町。池田市の桃園の前身は戦中の昭和19年（1944）生まれの桃園町。小字名にちなんでの命名でした。　桃山台は３つの市にあり、吹田市の千里ニュータウンでは昭和42年（1967）、堺市の泉北ニュータウンでは昭和47年（1972）、羽曳野市でも昭和54年（1979）に誕生。また、阪南市では平成8年（1996）に桃の木台のニュータウンとして阪南スカイタウンがまちびらきしています。　桜・梅ほど数は多くありませんが、桃もなかなかの人気者。梅・桃に続いて艶やかな花を咲かせます。


のどかな花地名、なごみの緑地名
 
　【前編】のしめくくりに、今回のテーマの「花」あるいは「緑」の１字を織り込んだ地名を見ておきましょう。最初に紹介するのは、「花の公園」の愛称で親しまれる十三公園です。もくれんの名所⑩で、桜も見られる地域の憩いの場。「花輪づくり」「やにあそび」に誘うイラストがなんとものどかです⑪。　西淀川区の花川は、もとは海老江町。昭和3年（1928）より花川町になり、昭和48年（1973）から花川に。和泉市の納花町（のうげちょう）は昔、施福寺の花畑があり、四季の花を寺に納めていたので納花です。槇尾川流域で谷山池という池もある水辺の村でした。明治半ばからは大字名でしたが、昭和31年（1956）に納花町になりました。　続いては緑の地名です。鶴見区の緑は、エリアの一部が鶴見緑地と重なるのにちなんだ町名。堺市・守口市・寝屋川市・高槻市の緑町は昭和生まれの新町名で、桃地名と同様に美称としての命名。八尾市・和泉市の緑ヶ丘、大東市・高槻市の緑が丘、豊中市・池田市の緑丘、富田林市・河内長野市・堺市の緑ヶ丘町もそれぞれ昭和の新町名です。　住之江区の緑木の町名由来はひねりが効いています。幕末に当地を開発した桜井甚兵衛の「桜」の旧字の「櫻」を嬰と木に分け、「嬰（みどり）」を緑の字に代えて再構成。緑木（みどりぎ）とは嬰児（みどりご）のもじりでしょう。新芽のように若々しい子供を意味する「みどりご」にあやかって、新開地の誕生を祝ったのです。ひねって、もじって、最後に和ませてもらいつつ、【前編】をしめくくりたいと思います。
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<title>桜と梅の大阪スクランブル交差点【後編】</title>
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<pubDate>Thu, 07 Apr 2022 02:00:01 +0900</pubDate>
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梅の里に咲く田子の浦
 
　「桜地名が大阪ノースに多いんなら、サウスは梅が多いの？」と、前編を読み終えた読者は思われたでしょう。答えはイエス。ここで、著者の場合は自宅の近場の梅の里が浮かびます。大阪みどりの百選にも選ばれた富田林市の錦織公園⑫⑬にあり、早春は380本の梅が咲き競う梅名所です。28ある品種には山部赤人の万葉歌にちなむ「田子の浦」もあれば、「思いのまま」など現代的なネーミングも。梅も桜と同じく時代の流れと無縁ではありません。流行の山と谷もあり、それぞれの分布の足跡があり、その途中経過が今、私たちの前にある風景です。


梅田がいっぱい

　大阪の梅地名といえば、まず浮かぶのが梅田。大阪の北の玄関、大阪駅は開設当初、梅田ステーションとも呼ばれました。大阪駅は全国に鉄道網を築いた官鉄（現・JR）の命名。梅田ステーションは地元での通称です。その後、私鉄の阪急、阪神が開設した駅がいずれも梅田駅を名乗り、市電やバスの停留所も梅田、大阪メトロの駅名もみんな梅田。大阪駅が建つ場所の町名も梅田。まさに梅田の花盛りです。　「江戸時代には墓地やったって聞いたけど」と、ここでつぶやきが聞こえました。大阪駅前の工事現場で多数の人骨発掘との平成のニュースを覚えておられたんですね。そうです、駅の西側には、かつて梅田墓地⑭がありました。市中から曽根崎川に架かる梅田橋⑭を渡る墓参りの道の呼び名は梅田道。桜地名が古墳や塚（墓）としばしば結びついたのと同じ陰影が梅地名にもあったのです。　梅田は明治以後の大発展で、大阪を代表する繁華街になりました。墓地はもちろん、梅田橋も梅田道も新市街に更新され、梅田新道が御堂筋と梅田をつなぐ新時代のルートになりました。近年、阪急大阪梅田駅前に新設された古書街・梅茶小路にはお洒落な雰囲気も。時代に彩られながら梅田の増殖は続きます。　「田畑の埋め立て地をあらわす埋田が転じて梅田になったんやて」という声が、あちらこちらで聞こえます。この話は、ご存じの方が多いですね。ただ、美称を好む人の心が梅を望んだとしても、明治以後の梅田地名の増殖は、それだけでは語れない何かがあるように思います。


天神と梅の深い関係① 紅梅町の場合
 
　このへんで大阪の梅地名を語るキーワード、天神に話を移しましょう。菅原道真は京都から太宰府に向かう旅の途中、淀川流域と浪花の地に数々の逸話を残し、その足跡に点々と道真を祀る天神社が生まれました。梅地名もまた道真の置き土産です。　そのひとつが、北区の大阪天満宮近くの紅梅町⑮⑯。道真の愛した紅梅にちなむ町名で、江戸時代には天満宮の門前町で、今は天神橋筋商店街とも接しています。道真とのゆかりの深さは、次の伝説からも伺えるでしょう。　この地に道真の神霊が鎮座した日の夜、一本の松の木が生え、見る見るうちに大木となりました。高くのびた梢の先に明星が降臨し、その光がかたわらの池の水面に照り輝き、人々を驚かせました。以来、その池は明星の池と呼ばれています。　明星池は明治時代まで残りました。場所は紅梅町と同じく天満宮の北側。池の畔には紅梅が咲いていたそうです。　東風（こち）吹かば匂いおこせよ梅の花　主なしとて春な忘れそ　これは道真が最期に残したと伝えられる歌。春風が吹いたらその香りを届けておくれ、梅よ、私がいなくなっても忘れずに……。紅梅町という地名もまた、その香りを忘れず、今に伝えているのです。


天神と梅の深い関係② 白梅町の場合

　高槻市にある上宮（じょうぐう）天満宮⑰は、福岡県の太宰府天満宮に次いで2番目に古い天神社です。社伝によると、菅原道真の死後、その霊を鎮めるために大宰府の墓に参拝した勅使の牛車が帰途、当地で動かなくなりました。調べたところ、ここに菅原氏の祖である野見宿禰（のみのすくね）を祀る廟があると知り、社殿を設けて道真を併せ祀ったのが上宮天満宮のはじまり。それで今も、境内に入ってすぐのところに野見神社が鎮座しているわけです。　上宮天満宮の近くにある白梅町は、最初の東京オリンピック開催の昭和39年（1964）誕生の新町名。戦後の高度成長と国際化に日本が邁進していた当時、地域では歴史を顕彰する動きもありました。高槻市も、こうして古い記憶を呼び起こし、町名に刻んだのですね。


梅川と桜山、菅原道真と西行
　ここで著者は、富田林市と河南町を流れる梅川の名が浮かびました。流域の弘川寺（河南町）には、数々の桜の歌を残した西行の墓があり、周辺は桜が植えられ、桜山と呼ばれています。　願わくば花の下にて春死なん　その如月（きさらぎ）の望月の頃　この歌のとおり、西行は如月（旧暦２月、桜の見頃）に亡くなりました。桜山を覆う桜は西行への献花だそうです。梅川と桜山と聞くと、大阪市中の桜川と梅川の話（【前編】参照）を思い出された方もおられるでしょう。こんなふうに梅と桜は交わりながら、大阪にそれぞれの根を張ってきたのです。　梅を愛した菅原道真（845～903）は平安時代の人。桜を愛した西行（1118～1190）は平安末から鎌倉初期の人。梅も桜も古くから歌に詠まれ、多くの事跡を伝え、人々を魅了してきました。古くは花といえば梅をさし、後には花といえば桜になりました。その分かれ目がいつなのかは諸説がありますが、大阪の地名を見渡す限りでは、道真が点々と梅地名を残し、西行を偲ぶ桜山誕生の頃までの約200年の間に、梅から桜への移行があったと思えます。南北朝から室町時代にかけては、桜を植えて春の開花を愛でる風習も広まります。江戸時代には大坂市中で桜の花見が人気を集めるようになりました。一方で根強く残った梅への想いは、近代以後に新たな梅地名を生む背景になりました。【前編】で昭和生まれの美称地名の話をしましたが、梅にも同様の現象が起きたのです。


梅の花咲く昭和の美称地名
　ここからは、今も残る昭和の美称としての梅地名オンパレードです！　此花区の梅香（ばいか）は大正14年（1925）の誕生当時の名は四貫島梅花町でした。四貫島は新田の名。梅香とは土地所有者（正岡家）の先代養母の法名ですが、美称地名の意味合いもあったでしょう。昭和50年（1975）より梅香が町名になりました。同じく此花区の梅町は昭和6年（1931）生れの新町名。公有水面埋立地という土地柄だけに、なおのこと美称としての梅地名が望まれたのでしょう。　堺市の百舌鳥梅町は昭和34年（1959）からの町名。堺市ゆかりの鳥の百舌鳥が梅の木にとまった格好です。江戸時代には梅村で明治半ばから大字梅でした。藤井寺市の梅が園町は昭和45年（1970）からの地名。西成区の梅南（ばいなん）は昭和48年（1973）からですが、これはもとの町名の梅通・梅南通を残したもの。　北河内でも梅地名が生まれました。交野市の大字（おおあざ）梅が枝は昭和40年（1965）。守口市の梅町は昭和14年（1939）生れの新町名。大宰府に向かう菅原道真がここで都からの沙汰（さた）を待った逸話が創建由来の佐太天満宮のお膝元らしい命名です。梅町の旧地名は狼島で、大神島とも記した川中の島だったとのこと。オオカミとは洪水への畏れを表す地名だったのかもしれません。守口市にはやはり昭和14年（1939）生れの梅園町という町名もあります。


消えた梅地名の数々

　新町名のお目見えと入れ違いに、残念ながら消えてしまった梅地名もあります。　堺市の梅が香町（うめがかちょう）は江戸時代からの町名ですが、明治5年（1872）に消滅。西区の梅本は慶応3年（1867）からあり、地元の竹林寺にあった古木「難波津香の梅」にちなんだ町名でしたが、昭和52年（1977）に消滅。北区の梅ヶ枝町⑱は梅を愛した菅原道真にちなむ命名でしたが、大正13年（1924）に生まれて昭和53年（1978）になくなりました。これらは由緒来歴がありながら消えていった梅地名です。　平野区の梅ヶ枝町は大正11年（1922）～昭和49年（1974）、豊中市の梅ヶ枝通は昭和17年（1942）～39年（1964）の間だけありました。　桜地名にも消えた例はありましたが、消滅率は梅地名の方が高いです。なんとなく梅に肩入れしたい気持ちになります。


梅地名のトリにして大物
 
　最後に、「梅」の１文字が入っていない、隠れた梅地名をご紹介しましょう。由緒が豊富で大阪地名の大物的存在。大正時代に生まれ、現在24ある大阪市の区のひとつ……それは此花区です！　此花区役所の玄関前に、歌を刻んだ碑⑲⑳が建っています。　難波津（なにわづ）に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花　大正14年（1925）に創設された当区の命名由来となった歌です。『日本書紀』には仁徳天皇即位を祝って、渡来人の王仁（わに）が詠んだ歌とあります。即位前の天皇の空位が続いた不穏な年月を冬ごもりに例え、今は花咲く春と謳いあげました。「咲くやこの花」の花は梅。古くは花と言えば梅をさしたとは、先述のとおりです。『古今和歌集』『源氏物語』に手習いの始めの歌と記されたように、かつては誰もが知る歌でした。　歌に詠まれた難波津は、難波（なにわ＝大阪）の港のことで、此花区エリアには仏法（仏教）伝来の地を意味する伝法と呼ばれた港があります。難波津の歌の「この花」を区名に選んだ大正時代の人は歴史と文学になかなか明るかったようです。　此花区誕生から60年余が経った昭和62年（1987）、市民からの公募で区の花が選ばれました。此花区の花は桜とチューリップ。梅は選ばれませんでした。他の区では、中央区が梅でした。市町では東大阪市・泉南市・藤井寺市・熊取町が梅。桜は此花区以外に都島区・西区・港区が選定。市町では枚方市・交野市・寝屋川市・大阪狭山市、河南町が桜でした。大阪府の花には桜と梅とサクラソウが選ばれましたが、大阪市の花は桜とパンジーで梅は選外でした。　人気度では令和の現在も桜が優位の時代と思われます。しかし梅にも意地があるでしょう。【前編】の末尾に触れたように、大阪の南北で桜と梅の地名分布の傾向に違いがあるのは、多様性の確保の意味では良いしるし。水辺に映える桜の風景を愛でつつ、梅の色香にも魅せられたい。桜も梅もあるから世は楽し。大阪は今日も桜地名と梅地名のスクランブル交差点でした。
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<title>桜と梅の大阪スクランブル交差点【前編】</title>
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<pubDate>Thu, 07 Apr 2022 01:00:02 +0900</pubDate>
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梅の林に桜の木が一本

　大阪駅西口から四つ橋筋を数分歩くと、駅前第1ビルがあります。おなじみの風景です。途中、大阪メトロ西梅田駅の降り口がありました。大阪駅前には阪神・阪急それぞれの梅田駅があり、さらに大阪メトロの梅田駅、東梅田駅もありました。駅前第1ビルの目の前の交差点の名は桜橋①。春には交差点角の桜が花ひらきます。住所は北区梅田１丁目。大阪の大繁華街、梅田の中心です。　梅に囲まれ、桜がぽつん。桜橋のこの風景を頭に置いて、あとの話をお読みください。「大阪の地名に聞きました」第3回のテーマは、桜地名と梅地名。桜と梅が交差しながら、それぞれの花を咲かせてきた大阪の地名から、どんな声が聞こえてくるでしょうか。


桜橋交差点に時は流れる

　まずは桜橋の地名由来の話から。　梅田1丁目は曽根崎新地と隣り合わせです。このあたりにかつて曽根崎川という川が流れ、畔に一本の桜の古木がありました。ある日、桜が倒れて川に架かり、人々が歩き渡る木橋になって、元禄8年（1695）に新しく架けられた橋の名が桜橋②。年月が経ち、明治時代に埋め立てられた川とともに橋はなくなり、今は桜橋の交差点が大阪駅前の風景になじんでいます。　桜木は枯れてもなお橋に名を残し、川と橋が消えても、桜橋の地名となって生き続けました。大阪の桜地名の多くは川と深い縁があります。江戸時代の名高い風物、安治川口の千本柱は、川辺の港を埋め尽くす船の帆柱を吉野の千本桜に見立てて愛でたものでした。吉野の桜が、山の風物なのとは対照的です。江戸時代に八百八橋と呼ばれた水都の風景に色を添えたのが桜でした。そこに桜が１本あれば、そこが名所。桜木を囲んで愛でる人々の姿は名所絵の格好の題材にもなりました。　風景が過去のものになっても、地名を手がかりによみがえる記憶があります。梅田の中心で桜咲く桜橋交差点の眺めから、桜と地名の古くて新しい風景も垣間見えてきそうです。


桜之宮リバーサイド
 
　「そういえば、造幣局の通り抜けも川辺の桜名所やった」と、さっそくお花見好きのみなさんから反響がありました。今や全国的に名高い通り抜けの桜は、大川を往来する水上バスからも仰げます。大川の両岸、毛馬橋から川崎橋あたりまで続く毛馬桜之宮公園の一帯は桜之宮と呼ばれ、JR桜ノ宮駅、桜之宮野球場、旧桜宮公会堂、桜宮橋（通称・銀橋）などが連なり、桜地名の花盛り。春には造幣局の通り抜けの桜の群舞が見事で、弧を描く川面に映る毛馬桜之宮公園③もまぶしいほどの桜一色。絶好のお花見散歩コースです。　そんな桜尽くしの桜之宮の由来となったのが、大川東岸に建つ桜宮（通称・桜宮神社）④。もとは野田村（今のJR京橋駅付近）の桜野にあった社殿が洪水で流され、大川沿いの中野村（今のJR桜ノ宮駅付近）に漂着し、後に現在地に移ったと伝えます。桜宮とはもとの所在地にちなんだ呼び名でした。その名にふさわしく、以後は桜宮のまわりに桜が植えられ、江戸時代には花見で人気に。明治時代には造幣局が新しい桜名所になりました。　名実ともに大阪を代表する桜名所の桜之宮の由来話に、洪水で流された神社が落ち着いた場所も川辺だったと語られているのが印象的です。桜之宮はいつの時代もリバーサイドなのですね。


梅があって桜がある

　「桜と川なら、そのものズバリ、桜川」と、ここで浪速区の方から声がかかりました。そのとおり、大阪メトロの駅名にもなっている桜川⑤は、明治33年（1900）大阪高野鉄道の西道頓堀駅（現・南海高野線の汐見橋駅）開設時に生まれた町名です。名の由来は、元禄11年（1698）頃に道頓堀川の分流として開削された桜川。その道頓堀川は高津神社境内の梅川を延長してできたと『浪華百事談』に書かれ、桜川は梅川と対になる命名だったのかも。お座敷唄の歌詞「梅は咲いたか桜はまだかいな」を題名にしたJ-POP（by Metis）があるように、昔も今も、梅とくれば桜です。　桜川の埋め立ては大正3年（1914）。梅川も今はありません。今の千日前通りは一部が桜川の流れの跡です。桜川の名は、町名と大阪メトロ千日前線の駅名に残りました。「誰の上にも歩き始めるために桜は咲くのさ。全てに意味があることのように君に桜は咲くのさ」とレゲエのリズムに乗せてMetisは歌います。川は消えても地名は残る。桜川のテーマソングのようにも聞こえてきます。


桜新地のお座敷で

　「梅は咲いたか桜はまだかいな」はもともと、お座敷で歌われた小唄や端唄（はうた）の一節でした。明治以後も新地と呼ばれる賑わいの街があちこちに生まれ、そこにはお座敷がありました。「そうそう、その名も桜新地！⑥」と教えてくれたのは枚方市に代々お住まいの方です。明治18年（1885）、枚方市から大阪市までの広域が浸水する淀川大洪水が起き、復興を期した枚方では修復した堤の上に新地ができ、たくさんの桜が植えられました。桜新地の名は花街に似合うだけでなく、咲く花の生命にあやかった祈りがこめられていたように思います。桜新地のお座敷ではおそらく年中、「桜はまだかいな」とくちずさまれたことでしょう。　昭和の半ば、いわゆる貸座敷業が転業を余儀なくされ、桜新地の風景も変わり、桜町という新町名に生まれ変わったのは昭和40年（1965）のことでした。枚方市には他にも香里園桜木町、桜丘町という桜地名があります。いずれも宅地開発が進んだ昭和40年代以後の新町名です。


丘と谷と町の桜

　豊中市には桜塚⑦という室町時代からの古い地名があります。命名は1500年以上前の創建と伝えられる原田神社の鳥居前の桜塚（古墳）より。塚には墓（古墳）の意味があり、一帯に広がる桜塚古墳群には今も30数基の古墳が健在。範囲はとなりの岡町にも及びます。岡町とは小高い丘（古墳）を示す地名。「なるほど、それでここも桜が丘」とは最近、豊中に越してきた方の声。桜が丘は新千里にできた住宅地の通称です。「豊中には鎌倉時代からの桜井谷、昭和にできた桜の町（ちょう）という地名も」と、さらに地元の声。　桜塚・桜が丘は丘や谷となじみがある地名です。一方、千里川流域の広域名称である桜井谷は、近隣の春日神社境内の清水のかたわらに桜が植えられ、桜井と呼ばれたのにちなみます。井は泉。谷がつくのは流域に起伏があったから。斜面になった場所に土器の窯跡が数多く発見され、古墳も見られます。桜井谷は古くから人の営みが築かれた地でした。丘や谷を桜が彩る町々の春は、千里川沿いの桜通りの散歩が楽しみとのこと。桜井の名がつく地名については、このあとも触れていきます。


古墳と丘と桜井、箕面市の場合

　箕面市を流れる箕面川の両岸に、桜地名が3つ並んでいます。桜・桜ケ丘・桜井⑧。桜の由来は6世紀築造の桜古墳で、桜ケ丘は広域名称の桜ケ丘古墳群にちなみます。桜古墳は明治時代に来日した英国の学者ウィリアム・ゴーランドに「桜のドルメン（巨石建造物）」と名づけられたことで知られますが、残念ながら消滅。町域変更で跡地の町名も桜から桜ケ丘に変わりました。桜ケ丘古墳群も昭和45年（1970）の宅地造成の頃にほぼ消滅。発掘調査では須恵器が多数見つかり、一部の住宅の敷地に今も古墳の痕跡が残っています。　箕面川沿いの3つめの桜地名、桜井は古くからある地名。大正時代に宅地開発され、以後も箕面が町から市へと発展するなか、大字名だった桜井は昭和41年（1966）に町名の箕面市桜井になりました。美称としての桜井が、新町名として好まれたのでしょう。　豊中市の桜塚・桜が丘・桜井谷。箕面市の桜・桜ケ丘・桜井。隣り合わせのふたつの街の桜地名に、北摂エリアの暮らしのうつろいが映し出されています。


桜井地名、東大阪市の場合

　東大阪市は中河内の大きな街です。かつては旧大和川の流れに抱かれ、船運によって平野や八尾など南のエリアとも結ばれていました。営みの歴史は古く、当地の桜井に応神天皇の后を出す豪族がいたとの記述が『日本書紀』に見られます。桜井が字（あざ）地名で残る六万寺町から池島町・四条町までの一帯が桜井⑨で、六万寺町には、日照りの時にも涸れない桜井の冷泉があったといいます。生駒山地の西麓の水脈からつながる湧水ですね。古代の河内潟があった中河内地域は、水辺の逸話には事欠きません。　「桜井といえば、梶無（かじなし）神社の境内の桜井神社は、どう？」という声は、もちろん東大阪市の方から。水にまつわる桜井の名を冠した神社が、船にまつわる梶無を名のる神社の末社とは、興味をそそる話です。地元の集会所の名は桜井会館との情報もいただきました。東大阪市の桜井は町名にこそなりませんでしたが、神社や会館の名となって人のそばにいたのです。　汲めば散る汲まねば底に影やどす花の香を汲む桜井の水　この歌の作者は関白の藤原房嗣。湧き出る水に影を映す桜を散らさぬよう、香りをそっと汲んでみた……と、詠んでみたくなる名所。それが桜井でした。　「桜橋小学校も桜と水の縁？」と、さらなる声が聞こえました。東大阪市菱屋西にある桜橋小学校の名は、近くの長瀬川に架かる櫻橋にちなむとのこと。校名を提案したのが児童だったという話も面白く、桜と水の深い縁が、時代も世代も越えて地名の奥に息づいているのを感じます。


最も有名な桜井地名

　「大事な地名をひとつ忘れてませんか？」と、ここで複数の方から催促の声が届きました。そうですね、桜井といえば『太平記』の名場面、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の逸話が有名です。この桜井⑩は、大阪府北東の三島郡島本町にあり、延暦年間（782～806）に円満院法親王が居住した桜井御所が地名由来で、西国街道の駅名にもなりました。御所の名、駅の名になり、物語を紡いだ桜井。数々の舞台を演出したのが桜と水でした。　人名に由来する桜井地名もあります。大阪市西成区にあった桜井は、江戸時代に当地で新田を開発した3代目桜井（加賀屋）甚兵衛の名にちなみます。堺市の桜井神社は、『日本書紀』に登場する武内宿禰（たけのうちのすくね）を、子孫の桜井氏が祀ったのが起源と伝える古社。地名は人名とも交差しながら、時を経てきたのです。


美称地名の桜パレード

　ここまでの話に美称としての桜地名が、いくつか登場しました。多くは昭和生まれの新町名で、桜井地名にも昭和42年（1967）に誕生した富田林市桜井があります。桜地名の話の最後に、そんな美称桜地名の数々をご紹介します。　此花区の桜島は、USJの地元で、JR桜島線（通称・ゆめ咲き線）の終着駅名⑪としておなじみになりました。地名由来は鹿児島県の桜島に見立てたとも、あるいは小丘に植えられた桜木にちなむとも言われますが詳細不明。盛り土された人工の丘に誕生したという意味では、USJが丘を彩る花園なのかもしれません。　次の美称は「桜ヶ丘」。八尾市桜ケ丘は昭和37年（1962）、高槻市桜ケ丘北町・桜ケ丘南町は昭和40年（1965）に誕生。１字違いの「桜が丘」も熊取町に近年にできた新町名。さらに人気の高い新町名は「桜町」で、昭和14年（1939）守口町（現・守口市）、昭和38年（1963）高槻市、昭和40年（1965）枚方市、昭和41年（1966）枚岡市（現・東大阪市）、昭和48年（1973）摂津市に、続々と桜町が誕生。１字多い「桜の町」という町名も昭和36年（1961）豊中市にできました。寝屋川市には昭和41年（1966）にできた桜木町の他、「太秦桜が丘」「萱島桜園町」があります。　最後に新しくて古い桜地名をひとつ。昭和44年（1969）からの堺市桜之町東・桜之町西は、もともと「桜之町」。ここにあった鉄砲鍛冶は、戦国時代に今井宗久が堺の「桜町」に吹屋を立てたのが起源。よく似た名前の兄弟地名たちです。
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<title>続・干支地名エトセトラ＆その他の動物地名バラエティ【前編】</title>
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<pubDate>Mon, 14 Mar 2022 00:00:03 +0900</pubDate>
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人と交わる動物たち
　前回は十二支にちなんだ大阪の地名の中から、多い方のトップ３（午・酉・辰）、少ない方のトップ３（寅・子・未）を紹介しました。今回はまず、十二支地名の残りの６つ（丑・兎・巳・申・戌・亥）をとりあげ、そのあと後編で他の動物地名はどんなものがあるか見ていきます。地名をたどれば、大阪の山や川、野原や田畑、あるいは街なかに動物たちがいて、人と交わりながら暮らしてきたのがわかります。今でも近郊や街なかでけんめいに生きている動物たちの姿と、それは重なります。地名には、そんなふだん忘れている命の風景を思い出せる力があります。


霊場になった犬地名

　さて、十二支地名の後半6つの最初に登場するのは、犬（戌）です。戌は旧暦の干支（えと）に用いられて時間や方角を示し、犬は古くから人のそばにいて昔話でもおなじみ。十二支の動物のなかでも特に身近な感じがします。大阪の犬地名にも泉佐野市の犬鳴山（いぬなきさん）①があります。命名は、大蛇に襲われた猟師が愛犬の鳴く声で危機を逃れた逸話より。山中には役行者が開いた犬鳴山七宝瀧寺（しっぽうりゅうじ）や犬鳴四十八滝と呼ばれる大小の滝があり、修験道の霊場ともされます。七宝瀧寺は真言宗犬鳴派の大本山で、犬鳴川の源もこの近くにあるとのこと。まさに犬鳴尽くしです。「そうそう、それでもって、今の犬鳴山は犬鳴温泉で知られる行楽地で、紅葉の名所」とは、地元からのPRの声。愛犬と一緒に泊まれるペットのお宿も、一軒ならずあるそうです。


時を超える人と犬の物語
　「PRもいいけど、さっきの犬の話が気になる」と、ここで全国の犬好きの方から声がかかりました。ごもっとも。それでは、犬鳴山の地名由来となった猟師と犬の話のあらましをお聞かせしましょう（著者宅にも愛犬♀16歳が在住）。　時は寛平２年（890）、今からざっと1100年以上も昔のこと、猟師がいつもの猟犬をつれて狩りに出ました。山中に獲物を探し、ようやく１頭の鹿を見つけ、まさに射止めようとした瞬間、犬がけたたましく吠えたのです。鹿は逃げ、なおも犬は吠え続けます。腹を立てた猟師が山刀で犬の首をたたき切ると、なんとしたことか首は大きく宙に舞い、木の上から猟師をひと飲みにしようと口を開けた大蛇の喉にかみつきました。おかげで命拾いをした猟師は、愛犬の心を知らずにその命を絶った愚かさを嘆き、犬の墓を建て、頭を剃って僧侶になりました。　犬鳴山七宝瀧寺の参道の石段には、「犬霊大菩薩、寛平二年三月十五日」の墓碑が今も建っているといいます。


犬飼村から和泉山脈を仰ぐ
　ここで、またひと声。「よく似た犬の話ならこっちにもある」と、泉南郡岬町の方が教えてくれました。大蛇に襲われかかった夫婦を愛犬が首を切られながらも助けたことから、その地が犬飼村と呼ばれたと、地元では伝えられているとか。　犬鳴山のある泉佐野市は泉州の中央、犬飼村の話が残る岬町は泉州の南端、いずれも修験道の霊場がある和泉山脈を仰ぎ見ながら、人と犬が交感する物語を昔から共有してきたわけです。動物の無言の語りかけは、時として人の言葉よりも雄弁です。霊場といわれても、もはやピンときにくい現代人には、犬鳴山や犬飼村の物語の方が響くかもしれません。　現在、岬町を流れる東川には犬飼橋が架かり、その下流域の多奈川が犬飼村の伝承地で犬飼がバス停の名前になっています。


由来不明の犬地名、消えた犬地名
　犬飼といえば、吹田市の大阪大学吹田校、茨木市の美穂ケ丘のそれぞれに、犬飼池という池があります。泉州の犬鳴山、犬飼村には共通の物語がありましたが、北摂の２つの犬飼村にも何か通じあう言い伝えがあったのでしょうか。『角川日本地名大辞典27　大阪府』（全1798頁）など資料では犬飼池が見つからず、由来はわかりませんでした。　残念なお知らせをもうひとつ。今から紹介する３つの犬地名は現存しません。　枚方市の印田町は、中世には犬田という地名で犬田城がありました。南北朝時代にあった荘園の犬居荘（いぬいのしょう）の場所は、昔の摂津国（今の大阪府と兵庫県東部を併せたエリア）のどこかとしかわかりません。犬田も犬居荘も犬との関係は不明です。大阪市の平野区には乾（いぬい）という地名がありましたが、これは正覚寺という古い寺の西北に位置したため。乾は西北の意味で、戌亥（いぬい）とも書きました。　人に寄り添う犬地名。今はなくなってしまった犬地名にも、何か物語があったのではないでしょうか。


「やま」ではなく「さん」と読む牛滝山

　すでに虎（寅）地名として紹介した茨木市の丑寅（第１回前編参照）は、牛（丑）のつく地名でもありました。今回、あらためて牛の目で見渡すと、丑寅のように現存する牛地名の少なさに気づきます。牛と同じく身近な家畜だった馬が、すでにお話したとおり大阪の十二支地名トップ３に入っていたのと比べて、これはまたどうしたことでしょう。　決して牛が軽く扱われたのではないのです。次の牛地名をご覧ください。　岸和田市の牛滝山。それは山の名ではありません。同市大沢町にある牛滝山大威徳寺（うしたきさんだいいとくじ）の一帯を指す呼び名です。大威徳寺は役行者が開いたとされます。牛滝とは牛の姿に似た岩のある滝に由来し、周辺は修験道の修行場でした。滝に打たれて修行する修験道の行者たちを牛滝は1000年以上も見守り、牛滝山という呼び名がそのまま一帯の名称になりました。当地を流れる川の名も牛滝川です。　「そうそう、もっと言うなら、今の牛滝山は牛滝温泉で知られる行楽地で、紅葉の名所」とは、地元からのPRの声。犬鳴山で聞いたのと似ているなあ、と思っていると、「牛滝山から犬鳴山までのハイキングコースも楽しめます」との追加PR。岸和田市の牛滝山と泉佐野市の犬鳴山は、和泉葛城山（奈良県の大和葛城山とは別の山）をはさんでつながっていたのです②。観光名所の牛滝山はPR用の顔で、その奥で和泉山脈の峰々が歴史と物語が交錯する世界へ誘っています。犬と牛が道案内です。　そういえば牛滝山は「うしたきさん」、犬鳴山は「いぬなきさん」と、「やま」ではなく「さん」と読むのも共通でした。どちらもお寺の山号（寺院の名に冠する称号）ゆかりの由緒ある呼び名なのですね。地名の文字は読み方ひとつにも土地の歴史が深く関わっていて、ちゃんと意味があるのです。


５月５日は牛の日でもあった

　今はなくなってしまっても、牛の存在感を示す地名はあります。馬と比べると、牛地名は街なかにあったケースが多く、市街地化の進行が、現存する牛地名の少なさにもつながっているようです。　北区の大阪駅前の旧町名だった牛丸町③はその一例。ここは今のグランフロント大阪が建つ大深町と芝田町にあたり、端午の節句の牛の藪入りが明治の頃まで恒例でした。牛を衣装で着飾って走らせ、見物人にチマキを投げる行事で、働く牛への感謝と子供の疱瘡除けの願いがこめられていたそうです。　大阪駅の東には綱敷天神、露天神、天神祭りでおなじみの大阪天満宮があり、西には福島天満宮があって、北区から福島区にかけては天神さんのお膝元。牛は天神さんのお使いで、天神社の境内にはしばしば牛の像が見られます。さらに牛は農家の働きもので、大阪駅前周辺は田畑や堤で牛の姿が見られる日常がありました。牛が主役の年中行事や、牛の地名があったのも不思議ではありません。牛丸町という命名も、牛の藪入りが催された端午の節句が男の子の行事だったのを思うと、似つかわしい気がします。


乳牛の牧場は平安時代から
　今はなくなった牛地名の続きです。　東淀川区の江口の近く、淀川の畔には、平安から室町にかけて牛を飼う牧がありました。もとの名は味原牧（あじはらのまき）でしたが、乳牛から牛乳を採取し、宮中に納める薬の材料などに用いたことから乳牛牧（ちうしのまき）とも称したといいます。かつての牛乳はずいぶんと珍重されていたのがわかります。　その他の牛のつく旧町名として、豊中市の牛立村（うしだてむら）（今の三和町と日出町）、平野区の牛屋町（今の瓜破）がありました。それぞれの地名由来は不明ですが、牛地名から牛が人の身近にいた頃の風景を想像するのは楽しいものです。街なかで牛の姿が見られなくなってから、まだ100年も経っていないはず。掘り起こせば思わぬ牛物語が発掘されるかもしれません。


ふたつあった庚申堂

　続いての登場は猿（申）のつく地名です。此花区の申、阿倍野区の猿山がありますが、どちらの地名も今はなくなっています。申はもともと申新田と呼ばれ、江戸時代の申年に開発されたのが命名由来。猿山も江戸時代の猿山新田が前身です。　今もある猿（申）地名としては、まず天王寺区の庚申堂（こうしんどう）④を挙げましょう。ここは日本で初めて庚申尊（こうしんそん）が出現したとされる庚申信仰発祥の地。庚申街道と呼ばれた道は、四天王寺から庚申堂へと南進して大和川を越えて古市街道に合流し、江戸時代には庚申参りの人々で賑わいました。　「庚申堂なら、こっちにもあるんやけど」と、手を挙げたのは此花区の方。そうでした。伝法５丁目に建つもうひとつの庚申堂。もとは明暦4年（1658）創建の愛宕神社の境内にあったのですが、明治後期に愛宕神社が近くの澪標住吉神社に合祀された時、地元の強い要望で庚申堂のみが残ったとのこと。申の飾り物があることから申神社の名でも親しまれていると現地案内板に書かれているのも猿地名らしい愛嬌です。　庚申参りは、自分の罪を天帝（神の名）に告げ口されて地獄に落とされないようにと願うのが目的で、目と耳と口を閉じた三猿（見ざる・聞かざる・言わざるの意）を家に置く風習もかつてはあったとか。罪を恐れて猿の手も借りたいというところでしょうか。


紀泉を見渡す峠の猿
　猿のつく現役地名としては、猿坂峠を挙げましょう。大阪府の西端で泉州の南端でもある岬町と和歌山県の境にある峠です。「紀泉入会（きせんいりあい）解消記念碑」と記した大きな石碑が建っています。紀泉とは、紀州と泉州。入会とは、住民が権利を持って山林で木材など採取して共同利用すること。かつて岬町の多奈川村と和歌山の紀ノ川右岸の村々は、山中の松茸などの採取権をめぐって争いが絶えませんでした。はじまりは戦国時代で、江戸時代も騒動が続き、明治維新後も乱闘や訴訟が起きたそうです。昭和の初めに農林省山林局が調停に乗り出し、ようやく和解が成立。石碑には紀泉の村々の代表の名とともに当時の農林大臣の名が彫り込まれ、争い終結の顛末を記録した長文も刻まれています。　猿坂峠の地名由来は不明ですが、人と人の仲を猿がとりもっていると思うと、ちょっと愉快な気もします。石碑の建っているのは県道の脇のたいへん見晴らしのよい場所で、現在は知る人ぞ知る展望の名所になっています。


蛇地名は息長く

　蛇草と書いて「はぐさ」⑤。大阪の数ある難読地名の中でも難度が高そうな、この地名は今の東大阪市長瀬・寿町を中心とする地域の呼び名でした。命名は平安時代の延喜式に載っている波牟許曾（はむこそ）神社に由来。波牟は蛇を意味する「はみ」から転じ、社は「こそ」とも読み、許曾の字をあてて記したとか。「はむこそ」が訛って「はぐさ」になるにはどれだけの年月がかかったでしょう。町名としての蛇草は消えても、当地の市営住宅などの名前に残っている息の長さも、どことなく蛇地名にふさわしい気がします。　現在も生きている蛇地名といえば、天王寺区の口縄坂です。地名由来を問えば、「道が曲がりながら長々と伸びていく姿が蛇に見えるから」と街歩き大好きの方たちから即答が返ってきました。天王寺七坂にも数えられる名所で、歴史散歩の定番コースだけのことはあります。昔は蛇を「くちなわ」と呼び、蛇坂と書いて「くちなわざか」と読んだりもしていたそうです。そんな目で眺めていると、坂道の石畳も蛇体のうろこに見えてきそう。こんな話をしていると、「大阪には昔から巳（みぃ）さんというてな」と身をのりだす方もいて、あちこちにある蛇にゆかりの神木や祠について語ってくれます。蛇が地名にあらわれる例は決して多くないのですが、蛇もまた大阪の地になじみの深い生き物なのです。


大人しい兎地名

　北区の兎我野（とがの）⑥は『日本書紀』にも逸話を残す古い兎地名です。といっても、兎我野の逸話に登場する動物は兎ではなく鹿。仁徳天皇が毎夜耳を傾けた兎我野で鳴く鹿の声が途絶え、翌日に兎我野の鹿が献上されたのを知り、悲しんだといいます。『日本書紀』には兎我野が狩猟場だったという話もあり、兎も狩の獲物のひとつだったと思われますが、それだけでは兎我野の地名由来としては弱いです。兎は当て字ともいわれ、刀我野・都下野などと書かれる例もありました。その場合は「とがの」のもともとの意味が気になってきますが、そちらについては日の出を意味する「ときの」（古い朝鮮の言葉）の訛りとする説があるものの、定かではありません。今の兎我野はキタの一角を占める繁華なエリア。ネオンが飾る街角に聞こえてくるのは夜の賑わいばかりです。　泉南市には兎田（うさいだ）の大字地名がありますが、これも兎との関係は不明。兎田は中世の荘園の名前で、江戸期からは兎田村、明治22年（1889）の市町村制の施行時に大字として受け継がれ、今に至ります。明治22年（1889）は大阪の多くの旧地名が大字に生まれ変わった年でした。新設される大字もあるので一概には言えませんが、大字地名は土地の歴史を知る手がかりのひとつです。　大阪の干支地名のなかではこれといった話題がなく、影の薄い兎。いつか、秘められた兎地名の由来が明らかにされ、脚光を浴びる日が来るでしょうか。


猪が好きな泥遊び
　干支地名もいよいよフィナーレ！ しんがりを務めるのは猪です。猪（亥）は十二支の末尾でもあります。　猪地名にはまず猪飼野（いかいの）と猪甘津（いかいつ）を挙げましょう。どちらも生野区の古い地名です。猪飼野とは、朝廷に献上する猪を飼育する猪飼部（いかいべ）の人々がいたのにちなむ地名です。この猪は実は豚だったともいわれますが、豚は猪が家畜化されたものでした。猪甘津（いかいつ）は古代の港の呼び名。『日本書紀』には仁徳天皇の時代に「猪甘津に橋を渡す」とあり、これが日本最古の橋とされます。　「そういえば、今里筋に猪飼野橋という交差点があったなあ」とつぶやいたのは、このあたりをいつも車で走る営業の方。なるほど、猪飼野橋とは猪飼野と猪甘津の橋を合わせたような呼び名です。橋といえば、生野区では鶴橋（第１回前編参照）がよく知られた地名で、さらに「つるの橋跡」の碑も生野区の桃谷にあります。それなら「つるの橋」は日本最古の橋と関係があるのかと言われそうですが、諸説あって結論は未確定。一方、鶴と猪の組み合わせは意外なようで、意外ではありません。鶴は水鳥。猪は泳ぎが得意で泥遊びが好き。そうです、この組み合わせは、一帯がかつては湿地が広がる土地だったのを意味しています。　実際に猪飼野はそのような土地で、猪甘津という港も水運に便利な地形を利用したものでした。上町台地の東側に広がる古代の海辺が、後に干潟になり陸地になって人が住み、猪飼野は早くから開けていました。そんな営みのなかで日本最古の橋も生まれたのです。大陸から日本に渡来した人々も、この地の開拓者でした。猪飼野という地名は今、交差点の名前の中にしか残っていませんが、鶴橋はコリアタウンの賑わいで生野区を有名にしています。コリアタウンの中心が旧猪飼野で、現在の姿に至るまでの長い歴史のはじまりに鶴と猪がいたのです。試しに、イカイノ、イカイノ、イカイノ……と10回唱えてみてください。最後はイクノになります


マシンになった猪

　さて、現役の猪地名としては、池田市、箕面市を流れる猪名川⑦があります。古い表記は為名川または伊奈川で、猪の字になったのは後のこと。上方落語の「池田の猪買い」は、冷えの病に効くという新鮮な猪肉を買うために、大阪市中の北浜から十三・三国を抜け、今の豊中市域の服部・岡町を通って、池田の猟師を訪ねる話です。大阪北部の山々は昔から猪の猟場で、池田は今でも猪肉のぼたん鍋が名物。なるほど、為名川・伊奈川が猪名川になったのもうなずけます。猪名川の流域一帯をさす呼び名も猪名野で、猪は北摂の山々の主だったわけです。　干支地名の最後の最後に紹介するのは豊能郡能勢町の猪ノ子峠（いのことうげ）。大阪府道４号沿いの未舗装のエリアがこの峠で、オフロードバイクのツーリングコースにもなっているそうです。砂利の坂道を豪快に駆け抜けるバイクは、マシンになった猪なのかもしれません。ちなみに池田市の猪名川沿いの猪名川運動公園には、陸上競技場があります。こちらは人間のランナーたちが川風を切り、トラックを駆けています。
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<title>続・干支地名エトセトラ＆その他の動物地名バラエティ【後編】</title>
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<pubDate>Mon, 14 Mar 2022 00:00:02 +0900</pubDate>
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干支以外動物地名は熊から

　これまでとりあげてきた干支地名の他にも、もちろん動物にちなむ地名はあります。なかでも目立つ動物が熊！ 驚くことはありません。大阪でも高槻市や島本町の山間部には熊がいて、箕面市ではツキノワグマの目撃談もあるそうです。といっても、早合点は禁物。大阪の熊地名は、そこが熊の生息地であることを必ずしも意味しません　大阪地名の熊は同じ熊でも熊野の熊。京の都の伏見から淀川を船で下り、大坂の八軒家の浜で降りると、そこは熊野街道のはじまりの地⑧。後は南へ一路、徒歩で紀州の熊野三宮をめざす街道の名から熊の字をとったのです。平安時代に大流行し、江戸時代にも知られていた熊野参詣ゆかりの地に、熊の字がつく地名が点在しています。４つの熊地名がこうして生れました。北から順番に紹介します。


熊野をめざす熊地名

　豊中市の熊野町のもとの名は熊野田⑨で、さらに古くは熊野代（くまんだい）でした。平安時代に花山上皇が、紀州の熊野と地形が似ている当地に寺を建立し、熊野代寺（くまんだいじ）と呼んだのちなむ地名です。寺は熊野三山を模して建てられました。熊野三山とは熊野本宮（ほんぐう）大社・熊野速玉（はやたま）大社・熊野那智（なち）大社の総称で、熊野信仰の中心にして全国の熊野神社の総本社。現在の宝珠寺が熊野代寺の後身で、山号は熊野代山です。同寺に近接する八坂神社には熊野権現社が座しています。昭和の初めまで熊野田村があり、以後は熊野町に改名。熊野街道の道筋ではないのですが、熊野との縁は深いものがあります。　熊野町は堺市にもあります。江戸時代にあった湯屋町が、明治5年（1872）に周辺の町を編入し、熊野町と改めました。当地に熊野神社があったのが新町名の由来です。堺市には２つの王子社（熊野参詣者が立ち寄る神社）があるのに加え、菩提と甲斐町の２町にも熊野神社があります。堺市は大阪から続く熊野街道の通り道です。　大阪狭山市の今熊は、江戸時代の今熊村が前身。村名は当地にあった金蔵寺の鎮守が今熊野と呼ばれたのに由来。今熊野とは今の新しい熊野を意味します。同寺の鎮守が現在の三都神社で、堺から天野街道を通って熊野三山に向かう道筋にあり、熊野三所権現を祀ることから熊野神社とも呼ばれました。金蔵寺は明治に廃されています。　泉南市の金熊寺（きんゆうじ）は、役行者が勧請した金峯（きんぶ）・熊野の２神の名にちなむ命名。金熊寺の門前に金熊寺村ができ、当地の梅林は金熊寺梅渓と呼ばれて風流を愛する人々が来遊しました。村の鎮守の信竜（しんだち）神社も、もとの名は金熊大権現です。金熊寺は明治半ば以後も大字の地名として残ります。梅林は今でも観梅の名所です。


羽白熊鷲と熊取町をつなぐもの
　「ここは町がそのまま熊地名」と、ここで声が届きました。泉南郡熊取町からです。ここまで登場した４つが熊野街道にちなむ地名だったのに対して、熊取町は異なる由来を持っています。　住吉大社に残る古い文献に、熊取はまず登場します。はるか昔、神功皇后が敵対する豪族の羽白熊鷲（はじろくまわし）を討ち取った地を熊取と呼んだというのです。しかし、羽白熊鷲は熊襲（くまそ）の人で、戦いの場は九州ですから、この逸話を大阪府の自治体の地名由来とするには情報が足りません。一方で、倒した敵の名の１字を地名に残し、その力を国土に取り込もうとする意志が熊取という地名にこめられたとの想像はできるでしょう。羽白熊鷲は強健で翼があり高く飛んだと『日本書紀』に記された超人でした。神功皇后は戦いの勝利者で、後に住吉大社を創祀しました。熊取の名づけは、この時に行われたのかもしれません。　熊野三山、熊野街道、羽白熊鷲にみられるように、熊には大自然の力と自然を超えた力の両方のイメージがあります。5つの熊地名を通して、なかなかに興味深い大阪の熊事情が浮かんできます。


甲羅干しする亀地名

　熊の次は、大阪の水辺でおなじみの亀の出番です。　柏原市の亀ノ瀬峡谷は、亀瀬橋の上流にある亀瀬岩をはじめ亀の形の岩がいくつか見られるのにちなむ地名。一帯は過去に多くの地すべりがあり、旅の関所ともいわれてきました。今、亀ノ瀬といえば、大阪と奈良を結んだ龍田古道と併せて日本遺産に認定された史跡です。地すべりで埋もれていた亀ノ瀬トンネルは人々が災害を乗り越えてきた歴史の足跡として一般公開中。亀尽くしの地名は、甲羅に守られた亀にあやかりたい道中安全の願いのあらわれだったと思えます。　大阪狭山市の亀の甲は、国指定の史跡の狭山池に隣接する小高い場所の古い呼び名でした。町名にはならず、今は交差点の名で残っています⑩。亀の甲とは、甲羅干しする亀の姿を思わせるところから付いた名前といわれます。大阪狭山市がある南河内が雨の少ない、乾燥しやすい土地柄なのが、地名にも反映されているわけです。そういえば、亀の甲の目の前に横たわる狭山池も、灌漑用水の確保のために推古天皇の時代に造営された巨大なため池でした。　八尾市の亀井は、亀井という名の清井（良い水の湧き出る所）に由来する地名。八尾市には、弥生時代の土器、石器、貨泉（かせん）が出土した亀井遺跡もあります。貨泉（かせん）は古代中国で鋳造された銅銭で、貨泉の２字が記されたもの。偶然とはいえ、亀はどうも水と縁がつながるようです。　「こっちにあるのは亀井町」と、ここで大阪市中央区の方から声がかかりました。そうでした。中央区の亀地名は、亀井ではなく亀井町。江戸時代に津和野藩の藩主亀井氏の屋敷があったので、この町名になりました。今は平野町に改名しています。おまけの亀話をひとつ。亀井氏の津和野藩は大阪に蔵屋敷を持っていました。今の西区江戸堀の一角です。敷地内の井戸の水が、維新にともない大阪に行幸された明治天皇に献上され、賜ったのが「此花乃井」の名。亀井と花乃井。亀と井戸水の奇縁です。今、蔵屋敷の跡地に、その名を継いだ花乃井中学校が建っています。


魚屋と魚ノ店の地名
　大阪湾に抱かれた大阪に、魚地名が現れるのは自然のなりゆき。江戸時代には魚屋にまつわる地名があちらこちらにありました。魚介を扱う市が街を賑わせていたのです。　そのひとつ、上魚屋町（かみうおやまち）は今の大阪市街の中心部とエリアが重なる江戸時代の大坂三郷北組の町名でした。豊臣時代に生魚の商人が当地に移住したのが地名の由来。現在は中央区安土町・安堂寺町町通と改名しています。　大坂三郷天満組には、新魚屋町から魚屋町へと変遷した町名がありました。天満宮の裏門から南に続く界隈で、今の北区南森町にあたります。　同じ北区にある天満・東天満・松ヶ枝町の３町名のもとは岩井町で、さらにその前は魚屋町でした。現在の市街地図を見ると、もとは魚屋町だった南森町・天満・東天満・松ヶ枝町が天満宮を囲むようにして並んでいます。地名の変遷を知れば、同じ市街地図が違った目で眺められることでしょう。　堺市には江戸時代に魚ノ店東半町（うおのたなひがしはんちょう）がありました。魚を扱う店が集まる界隈で、今の町名は宿院町・宿院東町・中之町・中之町東。一帯は旧市街の中心でした。魚ノ店東半町はなくなりましたが、市内には南半町東・南半町西、北半町東・北半町西という町名が残っています。　ここで岸和田市の方から着信が入りました。続いて「魚屋町なら、こっちにちゃんと残ってる」とのメッセージ。岸和田城の近くにある魚屋町の命名由来は、魚ノ棚川の両岸にあった魚棚とのこと。魚ノ棚川は後に古城川（こじょうがわ）と呼ばれるようになりました。現在は古城川のほとんどが暗渠になり、面影をとどめる古城川緑道が城下町情緒を伝えています。川に架かっていた欄干橋も復元されました。この橋のかつての通称が魚屋町橋だったのも、漁港のある浜を持つ岸和田の土地柄が出ています。


魚介地名余話

　岸和田市にある天性寺は、蛸地蔵と通称される地蔵菩薩の本尊で知られます。由来は戦いで攻められた岸和田城を蛸が救ったとの伝承。岸和田では昔から飯蛸漁が行われ、南海本線には蛸地蔵駅があります。地元の伝承と名物が寺名や駅名になって親しまれているのは、なかなかいい風景です。　大阪にかつて鯰江町（なまずえちょう）という独立した自治体がありました。前身が鯰江村で、淀川と寝屋川にはさまれた湿地の排水のために開削された鯰江川が真ん中を流れたのが村名の由来。鯰江からは鯰の棲む入江を連想します。鯰江町の町域は、今の城東区蒲生（がもう）、東大阪市新喜多（しぎた）を合わせたエリアでした。　中央区の鰻谷⑪は、一帯が谷筋の地形だったのが命名に関わりがあったとも言われます。詳しくは不明ですが、鰻の棲み処だったかもしれません。一時はいなくなったともいわれましたが、大阪市中の川にはかつて鰻は珍しくなかったと、古老が語るのを聞きました。今も鰻は調査で生息が確認されています。　福島区の海老江は昔、海老洲（えびす）と呼ばれた島でした。なぜ海老なのかは不明。海老洲は戎に通じ、戎神を意味したのでしょうか。戎神社があれば、裏付けのひとつになるかもしれませんが、海老江にあるのは八坂神社でした。もし、海老江が海老にちなんだ命名とすると、大阪に多い島地名としては珍しい魚介由来の命名になります。　茨木市の鮎川は安威川（あいがわ）の流域にある地名です。由来ははっきりしませんが、古くは「あいかわ」「あいがわ」とも呼ばれたとのこと。「あゆかわ」は安威川が訛ったとも思われますが、鮎は古くは「あい」とも呼ばれ、「日本書紀」の時代にはアユといえばナマズを意味したそうで、話は簡単ではありません。地名の世界はなんとも奥が深いです。


ミステリアスな希少種、猫

　犬地名はすでにいくつも紹介しました。猫は、となるとひとつしか挙げられないのが不思議です。猫は犬とともに古くから人の暮らしに身近だったのに、いったいどうしたことでしょう。しかも、その猫地名の風景は、もう見えるところにはありません。　今や隠れた猫地名となった、その名は、猫間川です！　阿倍野区に発し、北を向いて流れた猫間川は、最後に平野川に合流。短く狭い川でしたが、城の東を守る堀の役目を果たしていました。幕末には浚渫工事で川幅が広がり、堤には桜が植えられて、記念の石碑が玉造神社に建ちました。大坂の陣では城内に物資を運ぶ水路にもなった猫間川。大坂城の鎮守で、豊臣秀頼とゆかりが深い玉造神社に、その碑は今も残っています。　昭和の工事で猫間川は暗渠になりました。川筋は道路の下に隠れ、もはや古地図の中でしか見られない猫間川。その名の由来については、高麗川（こまがわ）が訛った、もとは寝駒（ねこま）川と書いたなど諸説ありますが、真相は不明。なんともミステリアスなところが猫らしいとはいえます。　このブログのトップページ「大阪の地名に聞きました」の脇にも、猫間川の碑が描かれています（題字・画／奈路道程）。今も大阪城の東のねきで生き続ける猫地名が看板猫になって、この連載を見守っています。第2回の掲載は早春。もうしばらく経つとJR環状線寺田町駅の近くにある猫間川公園の桜が開きます。　さて、猫の話題の最後に、ネコ科の地名をひとつ紹介しておきましょう。交野市にある獅子窟寺（ししくつじ）です。大きくひらいた獅子の口の形をした巨石が寺の境内にあり、昔その石に座して役行者や空海が修法を行ったとのこと。百獣の王ともいわれる獅子らしく、言い伝えにも迫力があります。


鼬いたちが語る古代から昭和まで
 
　南海難波駅の南の浪速郵便局（難波中3丁目）の前⑬⑭、行き交う人は多いのに、その碑が建っているのに誰もが気づかず通り過ぎてしまう。いつもの風景。ここに来ると、決して小さくないのに目立たないその碑に、つい見入ってしまいます。　知る人ぞ知る、その碑には、こう刻まれています。　鼬川くり船発掘の地　鼬川（いたちがわ）は浪速区木津町から西に流れ、木津川に合流した川で、名前については、四天王寺建立の時に多くの鼬が現れ、材木を運ぶための運河を掘ったのにちなむと言い伝えられます。延暦７年（788）に和気清麻呂（わけのきよまろ）が開削を試みて失敗した運河の跡とする説もありましたが、史実としては疑問が多いようで、鼬川の由来は謎に包まれています。鼬は、狐、狸などと同じく人里の近くにいて、さまざまな伝説でその妖しい力が語られてきた動物です。　時を経て明治時代、鼬川は一躍注目を浴びました。鼬川くり船発祥の地の碑が建ったのは、次のような経緯によります。明治11年（1878）に難波新川との開通工事の時に、古代のくり船が発掘されました。丸太をくり抜いたシンプルな造りなので、くり船。海と川が入り組んだ古代の難波を人々は小船を操り、自在に行きかっていたのです。昭和55年（1980）まで当地にあった船出町という町名は、この発掘にちなんだものでした。鼬川は昭和15年（1940）から埋め立てがはじまり、姿を消しました。
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<title>大阪の干支地名エトセトラ【後編】</title>
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<pubDate>Tue, 22 Feb 2022 18:26:48 +0900</pubDate>
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馬・鳥に続く３つめの地名とは？
　いよいよ発表！ 午（馬）・酉（鳥）と並んでトップ３入りしたのは、辰（竜）でした！ 十二支の中で唯一、想像上の存在の竜。上位にランクされたのは意外でしょうか。いえいえ、試しに実験。街なかの竜神の木、竜神の池、竜神の社や祠を見たこと、話に聞いたことがありますかと問えば、少なからぬ方の手があがるはず。昔から竜は水の神で、水害や旱魃に悩む人々に祀られてきました。天空をうねり、駆ける竜のイメージは、時に暴れる川の姿にもなぞられました。そんな記憶がいくつもの竜地名になっています。


泉が湧き、雨を降らせる竜地名
　「蘇我氏と空海ゆかりの竜の地名はここ」と名乗りをあげたのは富田林市の方。地元の竜泉寺を創建したのが蘇我馬子で、寺にあった池に住む悪い竜が馬子に諫められて消え去り、この池が涸れた時には空海が祈祷して清泉が湧いたとのこと。日本史の有名人２人が足跡を残した寺の背後の山は、その後も楠木正成が築いた竜泉寺城の跡地として『太平記』の舞台にもなり、竜泉の名は町名にもなって残っています。　例えば高槻市にある金竜寺（こんりゅうじ）は、当地の池から竜女が出現したとの伝承が寺名の由来。茨木市の竜王山は雨乞いに霊験のある八大竜王にちなむ地名。交野市の竜王山には雨乞い祈願が行われた竜王社があります。茨木市と交野市に同名の山があり、それぞれによく似た由来があったわけです。では、次の話はどうでしょう。


２つの市をまたぐ竜地名の里

　「雨乞い祈願に応えた竜がわが身を３つに裂いて雨を降らせたのはここ」と指をさすのは四條畷市の方。さされたのは竜尾寺（りゅうびじ）。空から落ちてきた竜の尾を祀ったのが命名由来とか。雨乞いの祈願者は行基とあって、話の展開にも迫力があります。　「そうそう、龍間（たつま）という町名が今もこっちにあって……」とうなずくのは四條畷市のお隣の大東市の方。龍間⑩は竜の尾とともに降ってきた竜の胴を祀った竜間寺（たつまじ）、竜の頭を祀った竜光寺（りゅうこうじ）が建てられたとの逸話につながる地名。竜間寺は戦後に廃され、本尊が移された龍間寺観音堂が当地の称迎寺（しょうこうじ）に建っています。　竜尾寺（りゅうびじ）、龍間（たつま）、竜間寺（たつまじ）、竜光寺（りゅうこうじ）、龍間寺観音堂と先ほどから竜・龍の字と、りゅう・たつの読み方が入り混じっていますが、誤記ではありません。前編で紹介の馬場町を「ばんばちょう」と読んだり、「ばばちょう」と読んだりするのと同じで、地名の表記や読み方には気まぐれなところがあって、そこがまた面白味ともいえます。　２つの市にゆかりの地名を残したのは年若い竜で、命にそむいて雨を降らせたのを怒った竜王によって３つに裂かれたといいます。四條畷市、大東市の境には竜間峠などの古い地名もありました。人々のために身を犠牲にした心やさしい竜の伝説は数々の竜地名を生み落としたのです。


蘇我馬子と空海と南海の駅名と竜の華
　そこへ「竜神が町名、駅名にもなりました」と切り出したのは堺市の方。ずばり竜神という町名は、江戸時代の天明年間（1781～89）に出羽国（でわのくに）・善法寺（ぜんぽうじ）の僧が当地に来て竜神に祈り、「港を深くすべし」と口うつしに告げたのにちなみます。大和川の付替えで土砂が堆積していた堺港の修築が、寛政初年（1790）頃にはじまり、20年かけた工事の後に堺港は再生。新地も生まれて賑わいました。今も堺市に残る竜神橋の町名は、新地に架けられた橋の名に由来。明治になると阪堺鉄道（現南海本線）の竜神駅ができ、これが今の南海本線・堺駅のルーツ。堺駅は竜神駅の少し北側にでき、市街の西の中心地になっているのは竜神のご利益でしょうか。　もうひとつ、八尾市から平野区、生野区を通って中央区の森ノ宮で寝屋川と合流する平野川の上流は、竜華川（りゅうげがわ）とも呼ばれていました。八尾市には竜華という町名があります。しばしば氾濫した暴れ川の名に竜の字がつく例は全国各地でみられますが、かつての平野川もたびたび出水して流域の村々を悩ませました。竜華川の竜は自然の威力への恐れ、華は安穏への願いがこもっている気がします。


竜たつと巽たつみの間に

　このへんで、竜と直接の関係がない竜地名について。中央区の竜造寺町（りゅうぞうじちょう）がそれで、ここは豊臣時代に戦国武将だった竜造寺氏が邸宅を構えた地。詳細のわからない竜地名もいくつかあって、北区の旧町名の竜田町（たつたちょう）は天満青物市場があった場所ですが、由来は不明。柏原市には古代の河内と大和をつないだ竜田越えの古道に竜田峠と竜田山があったと伝えられますが、位置は不明。守口市の竜田通は昭和生まれの町名ですが、これも由来不明です。　竜地名のおしまいに、十二支としての辰（竜）の関連地名として巽(たつみ)にもふれておきましょう。辰巳とも書く巽は、東南の方位を示します。生野区の巽中・巽伊賀ケ町・巽大地町・巽四条町・巽矢柄町⑪は、文字通り大阪城の東南にあります。城東区の旧町名、巽町の由来も同じです。　話のついでに巽の反対の方位は、乾（いぬい）で戌亥とも書きます。子・丑・虎・卯・辰・巳・午・未・申・酉・犬・亥の十二支は旧暦や時刻に用いられ、さらに方角も示す、時空を駆けるツールでした。十二支の動物たちはこうして暮らしのうつろいに深く溶け込んでいたのです。


希少十二支地名のオープニングは虎

　ここまで、数が多くて親しまれてきた十二支地名を挙げてきました。ここからは、数がたいへん少ない十二支地名を見ていきます。いわば希少種地名です。　最初に挙げるのは虎。言うまでもなく今年の干支。日本に虎は生息していないので、虎地名が珍しいのは当然のようですが、想像の産物である竜が十二支地名のトップ３入りしているのを見ると、虎地名の不人気ぶりは不思議です。しかも、大阪には虎単独の地名はなく、他の干支とくっついた地名しかありません。　「大阪の珍しい地名、難読地名に数えられるわりに放出（はなてん）、立売堀（いたちぼり）ほどに知られてないのはどうして」と、首をかしげる茨木市の方。地元をやきもきさせている（かもしれない）虎地名。本来ならこの連載の筆頭にとりあげられてしかるべき今年の干支地名といえば……。　それは茨木市の丑寅（うしとら）⑫です。牛が合体しているので、牛地名の紹介に登場してもよかったのですが、大阪で唯一の現役虎地名としては、ぜひともここでメインステージに立ってもらわなくてはなりません。　さて、丑寅とは何をさすのか。竜地名の話の末尾に辰巳（巽）は東南の方位を示すと書きました。丑寅も十二支で示した方位で、東北を意味します。どこから見て東北なのかというと、かつてこの地域にあった三宅城という城からです。そこは戦国時代に活躍した土豪の三宅氏の拠点でした。三宅城の最後の城主は三宅出羽守国村（みやけでわのかみくにむら）といいます。城跡にあった国村の碑は丑寅２丁目の現在地に移設され、知る人ぞ知る茨木市の史跡になっていますが、今後は珍しい現役虎地名の丑寅の町名とともにスポットライトを浴びてほしいものです。


地図でしか見られない希少種、鼠ねずみ

　次の希少種地名は鼠。十二支の最初の子にあたる動物ですが、現在の大阪府に鼠が付く地名は見つからず、今はなくなった旧地名でようやくひとつ、ありました。その地も、今では確かな位置を特定するのが難しくなっています。なぜなら、そこは中津川という消滅した川の中の小さな島でした。　その島の名が鼠島⑬です。中津川は治水のための淀川の大改修でできた新淀川筋に飲みこまれました。鼠島は水運のために残された中津運河に残りました。中島陽二「ある小さな島（鼠島）の生涯」（『大阪春秋』第88号所収）によると、もとは江戸時代から人が住み、畑もあった島でしたが、明治になってコレラ対策の避難院・消毒所が建ちました。大阪では江戸時代後期から度々コレラが流行し、感染拡大を防ぐために市街地と川を隔てた鼠島が、利用されたのです。　新淀川ができてからは船運の関所の役目を果たし、戦後の住宅困窮期には一時避難の地になります。中津運河は昭和48年（1973）に埋め立てられ、鼠島は陸続きになって、もとの形もわからなくなりました。位置は現在の福島区と此花区の境界にあたり、広さは約５万㎡だったといいます。一時期の鼠島がコレラの感染拡大を防ぐ役目を担ったという逸話に、コロナ禍中の令和４年（2022）２月現在、遠い昔の話とは思えないリアルさを感じます。


全国レベルでも希少な羊地名
 
　次に登場する希少十二支地名は羊のつく地名です。いざ探してみると『角川日本地名大辞典27 大阪府』（全1798頁）には、羊および未の１文字を含む地名（町名、主な寺社・山・川・道などの名）は載っていませんでした。対象を全国に広げてネット検索すると、現在の町名には見当たらず、ごくわずか未のつく旧町名があったらしい、としかわかりませんでした。　思案にくれて、あきらめかけていたところ、ひょいと見つかったのが岸和田市上松町にある羊公園です。名前のとおり、羊の像がシンボル。近所の子供たちのちょうどいい遊び場というのどかさがあふれ、ここが現役の希少十二支地名の非常に貴重な実例で、もしかしたら大阪で唯一無二の羊地名かもしれないとの気負いはどこにも感じられません。岸和田市のホームページには正式名称の上松台東第１公園で載っていて、羊公園は通称というのも奥ゆかしい。完成が昭和47年（1972）で、誕生から50年目にしてようやくその存在の真価が語られ、公園の羊もきっと喜んでいると思います。
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<title>大阪の干支地名エトセトラ【前編】</title>
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<pubDate>Mon, 21 Feb 2022 18:08:15 +0900</pubDate>
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意外と多い動物地名
　2021年は牛、2022年は虎の年。毎年１月になると話題に上がる干支の動物。十二支とも呼ばれる子（鼠）・丑（牛）・寅（虎）・卯（兎）・辰（竜）・巳（蛇）・午（馬）・未（羊）・申（猿）・酉（鳥）・戌（犬）・亥（猪）は、旧暦で用いられた呼び名です。それぞれの動物は人と関わりの深いものが選ばれ、地名にもしばしば登場して、親しまれてきました。　大阪といえば水都。島、川、江、堀、橋などの文字がつく水辺地名が豊富ですが、意外と動物にちなんだものも多いのです。都会のビルの街角にも古風ともいえる十二支地名は生きていて、並べてみるだけでも面白く、由来をたどれば土地の記憶もありありとよみがえります。　さて、今年の干支の寅（虎）にまつわる地名の話は後ほどの楽しみに、まずは大阪の干支地名で登場頻度の高いトップ３の話題から。今回のサブタイトルにもなっている、午（馬）と酉（鳥）の地名をご紹介しましょう。


大阪平野を駆ける馬地名
 
　大阪の馬地名では中央区の馬場町（ばんばちょう）①がよく知られています。「ああ、大阪城の前のＮＨＫのビルがあるとこ」と、うなずく方は多いでしょう。その横から「そうそう、大阪放送局の代名詞みたいなＪＯＢＫはジャパン・オオサカ・バンバチョウ・カドの略」と定番のジョークを添える方もいるかも（ＪＯＢＫは放送局のコールサイン）。　でも、もし、この場に守口市と貝塚市と泉南市と茨木市と堺市と東大阪市と平野区の方がいたら、話がややこしくなります。まず、「うちにもその地名はあるけど、読みは馬場町（ばばちょう）」と守口市の方が口火を切れば、「こっちでは町（ちょう）なしの馬場（ばば）」と貝塚市と泉南市の方が声をそろえ、「このへんは昔の馬場村（ばばむら）②。町名が佐保になった今も馬場のバス停がある」と茨木市の方がつぶやく。さらに「金岡町にある馬場町（ばばちょう）自治会館は、ここが戦国時代から馬場町（ばばちょう）やった名残。大阪市の馬場町（ばんばちょう）は明治の新町名」と堺市の方がうなずき、その横で平野区の方が「今の町名、平野馬場（ひらのばば）のもとは、中世の自治都市やった平野郷の馬場町（ばばちょう）」と胸を張ります。最後に手をあげたのは東大阪市の方。「生駒の麓の馬場川遺跡を忘れんといて。縄文時代の土器が出た」と、話はまだまだ広がりそう。


牛よりも馬の大阪地名
　馬の訓練などに適した広い野原にちなむ場合が多いとされる馬場地名（都島区の毛馬町のように馬と無関係の地名もありますが）。関西は牛、関東は馬の文化ともいわれますが、大阪地名は牛よりも馬のほうが目立ちます。一例が寝屋川市の馬甘（うまかい）で、この一帯は朝廷の馬の飼育地でした。『日本書紀』にも河内馬飼（かわちうまかい）氏と呼ばれる馬の飼育に携わった人々が住んでいたと記され、寝屋川市と四條畷市にまたがる讃良郡条里（さらぐんじょうり）遺跡では馬具が多数発掘されています。北河内、中河内の生駒山地西側のふもと一帯では馬の骨も多数出土していて、生駒の山々を仰ぐ野原を馬の群れが駆けていた風景が浮かびます。


バス停になった馬地名
　ここで、門真市の方から「下馬伏町（しもまぶしちょう）があって、上馬伏町がないのはどうして？」と疑問が出ました。そうです、馬伏荘（うまぶせのしょう）という荘園が門真市にあり、今の下馬伏町はその名残。かつてあった上馬伏（かみまぶし）という村名も、今はバス停の名になっています。　馬地名のおしまいに、羽曳野市の駒ケ谷（こまがだに）は、当地を訪れた聖徳太子が馬を停めた伝承にちなむという話を添えておきます。駒もまた馬の意でした。　駒のつく他の地名、今はなくなった馬の地名などまだ話題は尽きませんが、自動車が道路を疾走する時代になっても、人が馬と親しんだ時代の風景は地名の記憶となって日常にとけこんでいます。というところで、馬地名はひとまずこれにておさめます。


馬飼があれば鳥飼も
 
　大阪で馬よりもまだ多いのが鳥地名です。まずは、馬飼（うまかい）があれば鳥飼（とりかい）もあるという話から。摂津市の町名、鳥飼（上・中・下の３つあり）③は、平安時代の文書『延喜式（えんぎしき）』に載っている鳥養牧（とりかいのまき）に由来します。鳥養は鳥飼とも書き、牧は飼育地のこと。鳥飼は紀貫之の『土佐日記』にも記された遊興の地でした。淀川の流れをここで一望するのが、貴族たちの楽しみだったのですね。一方で、卵や肉を食べるための鳥の飼育は古墳時代から広まっていたのです。　今、当地の名物といえば、摂津市と守口市を結んで淀川に架かる長さ554ｍの鳥飼大橋。川端の堤に立つと、近年の架け替え工事でリニューアルされた橋の上の長～い歩道を川風に吹かれて渡る人の姿が小さく見えます。　鳥または酉（とり）の字がつく地名は他にも多彩。『日本書紀』の白鳥の逸話ゆかりの阪南町の鳥取（とっとり）④、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した仏教僧・行基を導いた霊鳥にちなむ貝塚市の鳥羽（とば）は他県の地名と迷いそう。羽曳野市は飛鳥（あすか）が「近つ飛鳥」とも呼ばれて知られる一方、同市には翠鳥園（すいちょうえん）との昭和の新地名も。和泉市の黒鳥（くろどり）は鎌倉時代からの地名ですが、由来は不詳。大阪市では此花区の酉島、西淀川区の酉洲がどちらも江戸時代の酉年に開発された新田名にちなんだ地名です。③摂津市鳥飼上・鳥飼中・鳥飼下（地図中央）「最新大阪府・日本統制地図 昭和16年（1941）」


もずやんが大阪府のキャラクターになるまで

　続いて、東住吉区の鷹合（たかあい）。こちらは飼いならした鷹を猟に用いる鷹狩りのはじまりを物語る地名で、『日本書紀』に登場。仁徳天皇の逸話に、献上された見なれぬ鳥を飼い慣らし狩りをして多くの雉を捕えたとあり、この鳥が鷹でした。鷹の飼育地は鷹甘邑（たかかいのむら）と呼ばれ、後の鷹合村となり、地元には今も鷹合神社があります。ちなみに、仁徳天皇が最初に鷹狩りを楽しんだ場所は百舌鳥野（もずの）と『日本書紀』に記されています。　「なるほど、そういえば府の鳥は百舌鳥、大阪府のキャラクターはもずやん！」と、ここで堺市の方から声がかかりました。そうです、ただちょっとややこしいことに百舌鳥（堺市）⑤の地名由来は鷹狩りとは別で、仁徳天皇陵の造営中に走り出て倒れた鹿の耳から百舌鳥が飛び出たとの『日本書紀』の逸話によります。鷹と百舌鳥は仁徳天皇で古代史とつながり、百舌鳥は出世して大阪府の鳥になり、もずやんになったというストーリーはなかなか意外性があります。　こぼれ話をもうひとつ。大阪には鷹地名もあれば鷲（わし）地名もあるというわけで、羽曳野市の高鷲（たかす）、東大阪市の鷲尾山（わしおさん）の名を挙げておきましょう。


鶴、雁かり、鵜う、鴫しぎ、鷺さぎ、鷗かもめ……みんな水鳥だった
 
　ここまで登場した鷹、鷲、百舌鳥は実を言うと、鳥地名としては少数派。大阪の地名に最も多く登場する鳥はさて、何でしょう。　答えは鶴！ と言えば早速、鶴見区と生野区と北区と大正区と西成区と守口市と堺市と和泉市と泉佐野市と茨木市と摂津市の方の手が上がりました。「鶴が群れ住んでいたから鶴見区」「鶴見緑地は守口市と鶴見区にまたがる大阪でいちばん大きな緑地」との声はもちろん鶴見区と守口市の方。すかさず「鶴橋⑥も鶴が集まる橋の名が地名のもと」と生野区の方が言えば、「今の堂ヶ芝、下味原町、東上町のあたりは昔、鶴橋北之町、鶴橋南之町やった」と天王寺区の方が思い出してのひと言。鶴の生息地は生野と天王寺の両区にまたがっていたと地名が教えてくれました。　続いて「鶴見と鶴橋を足して鶴見橋か」とは西成区の方からのクエッション。地図上では鶴見橋のある西成区、鶴橋北之町・鶴橋南之町があった天王寺区、鶴橋のある生野区が東西に並んでいて、鶴見橋、鶴橋は上町台地の東西の麓、旧町名の鶴橋北之町・南之町の一帯は台地の切れ目にあたります。これらの地域はかつての水辺や湿地で、鶴が好んで集まる場所でした。　そこへ「鶴浜通と鶴町は？」と大正区の方、「鶴野町もあるけど」と北区の方の声。近郊からも茨木市から「大字地名の鶴野は？」、摂津市から「鶴野町は？」、堺市から「鶴田町⑦、鶴松町は？」、泉佐野市から「鶴原！」、和泉市から「鶴山台！」と各地の方々の声が続々と……。出てきた鶴地名の由来については、万葉集の「潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴（しろたづ）の妻呼ぶ声は宮もとどろに」からとった大正区の鶴町のように、鶴が好む土地柄を思わせるものもあれば、美称としての鶴を冠した和泉市の鶴山台のように戦後の新地名もあります。茨木市の鶴野、摂津市の鶴野町、泉佐野市の鶴原は中世からの地名、堺市の鶴田町のもとは明治生まれの鶴田村、鶴松町は昭和の一時期にあった旧地名でした。　いずれにせよ、ずらりと並ぶ鶴地名に、鶴という鳥が愛されてきた歴史の厚みを感じます。　水鳥の地名は他にも福島区の鷺洲（さぎす）、城東区の鴫野（西と東がある）⑧があり、浪速区には明治から昭和50年代まで鷗町（かもめちょう）がありました。四條畷市の雁屋（北町・南町・西町）の雁（かり）は秋の季語にもなった水鳥で、たくさんの雁が飛んでいく風景に由来する柏原市の雁多尾畑（かりんどおばた）という地名になりました。高槻市の鵜殿（うどの）は、古代の合戦場で敗軍の将兵の首が淀川に鵜のように浮いたとの『日本書紀』の逸話をもとにしたシリアスな命名。同市内には道鵜町（どううちょう）という町名もあります。


闘鶏つげ、鵲かささぎ、鳳おおとり、白鳥……伝承の鳥地名

　水鳥以外の鳥を最後にまとめておきます。高槻市には闘鶏野（つげの）という名の神社があって、闘鶏を「つげ」と読むのは神託を告げて鳴く鶏に由来するとのこと。闘鶏野神社の門前には、2002年に未盗掘の石室発見がニュースになった前方後円墳、闘鶏山古墳が横たわります。余談ですが、神社と古墳のある氷室町（ひむろちょう）は『日本書紀』に氷の貯蔵所として登場。当地の氷は仁徳天皇に献上されたとのこと。　枚方市の天野川（あまのがわ）に架かる鵲橋（かささぎばし）は、七夕に天の川を渡る牽牛星と織女星のために橋渡しの役をする鵲にちなんだロマンチックな命名。鵲橋は秋の季語にもなりました。「天野川の鵲橋は明治の初めまで通行料を徴収して、銭取橋（ぜにとりばし）とも呼ばれてた」と、枚方市の方からオチのようなひと言。鳥と取りの洒落ですね。　堺市の鳳（東･西・南･北･中がある）⑨は古代豪族の大鳥氏ゆかりの地名ですが、鳳は想像上の鳥。地元の大鳥神社のはじまりは日本武尊（やまとたけるのみこと）が死後、白鳥になって当地に飛び来たり、停まった故事によると伝えられています。


おなじみの市名に隠れ鳥
　さて、鳥地名のエンディングには、鳥の名を秘した例をご紹介しましょう。いわば隠れ鳥地名。八尾市はなぜ八尾市というのか、ご存じでしたか。ひとつの説は、八尾が八つの尾を持つ鴬（うぐいす）の生息地だったから。別の説では、昔の大和川が当地で鳥の尾のようにいくつにも分流したからとも。空を舞う姿の神秘と奔放。どちらの説も、おなじみの市名に人々が鳥に抱いたイメージが託されています。
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<lastBuildDate>Thu, 27 Apr 2023 16:09:34 +0900</lastBuildDate>
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