第62回(最終回)「歳を喰う」

 あんま喰いたないけど、喰わなしゃあないもんに歳があります。こればっかりはどうしょうもない。金持ちも貧乏人も、イケメンも不細工も、みんなも社ッ長さんも、平等に喰わなあかんと決まってる。運のあるなしで喰える量が変わってくるだけ。どうしても喰いとないひとは、霞だけ喰うて仙人になるしかない。
 あと、まあ、喰い方によってはご面相に影響が出たりもしまんな。歳を喰うマナーがなってない人はすぐにわかるもんでっせ。
 歳を喰うという符丁は、人間、生まれ持った命数を死ぬまで喰い潰してゆくものだ――ちゅう考え方から作られた表現なんでしょうね。そやけど阿呆な食いしん坊がこれを聞くと、どうしても【歳】てゆうのは食べられるもんで、こいつをしがんでその滋養で命を繋いでるってイメージから逃れられません。ほんで想像するんですわ。「いったい歳てどんな味や?」て。
 ジンセー経験豊富なひとを指して「酸いも甘いも噛み分けた」なんて言葉があるくらいやし、どうやら一定の味ではないらしい。そら一生喰うていかなあかんもんなんやから同じでは飽きてまいますわな。ただ基本的には苦いもんなん違うかな。根拠はないけど説得力はあるでしょ? そない思わはりませんか?
 人生は苦い。喰う量が足りんうちは、ただただ苦ごうて渋うて厭んなったりもすんにゃけど、しゃあなしにでも喰うてるうちに、その苦味にもいろいろあるんやとわかってくる。そっからが人生の醍醐味や。
 暑い暑い日の終わり、喉に流し込むちべたいちべたい生ビール。ほどよく焼けた秋刀魚に大根おろしと内臓わたをのへて喰う快楽。手作りした栃餅の奥のほーにかすかに残る灰汁の味わい。どれもこれも苦みがなかったら、なんの値打もない。
 どんなによう効くお薬でも、それどころかお釈迦様でも草津の湯でも癒せない痛みとゆうのが人生にはあるもんでっけど、そういうのんの処方箋はしばしば【日にち薬】しかないと考えられてます。たぶんこれは世界で一番苦い薬。そやけど良薬口に苦していう諺はこっからきたん違うかと思うくらい効果もあります。やっぱ歳ゆうんは苦いもんみたいやね。

 さて、どないなもんでも長いこと喰い続けてるとなんらかの障りがあったりします。痩せたんはええけど肌がかさかさになったとか一長一短よう聞きますやん。たいがい体にええもんでもそうなんやから日にち薬にも副作用がございます。歳かて喰い続けてたら、そらなんやかやあって当然でしょう。
 歳の副作用の代表は「もの忘れ」。これは茗荷どころの話やおへん。前の晩喰たもんを朝目が覚めたときにはもう思い出せんようなってたりする。けど、まあ、そういう想像の範疇内のトラブルはさほどショックでもありません。老眼然り諦めもつきやすい。そやけど歳を喰うた副作用は想像の斜め上をついてきたりもする。
 比較的、当たり前田の現象ではあるけど、わしの場合は度を越した喰いしん坊やったんで、単純に喰える容量の激減には、そらもう毎日のことやさかいええ加減慣れそうなもんやのに未だにびっくりします。えっ? もうお腹一杯になってもたん? なんで!? って思てまう。
 ツレは「じいさんになって体が欲する量が自然に減ってるだけだよ」と諭してくれるんですけど「そやねえ」とか返事しつつ全然納得してない自分がいてます。

 それから、これはもともとがかなりそそっかしい性質やったせいで認識すんのに逆に時間がかかってしもたんやけど。いやー、よーものこぼすよーなったわー。
 外食のときなんかは自意識が働いてるさけさほどでもないけど家ごはんはもはや修羅場の様相。ご飯粒口の周りにつけてるとかパン屑散らかすとかは、ようないけどまだええとして箸先に摘まんだもんが口に届くまでにぽろんぽろん落下してく。
 大皿から取り皿に料理を取り分けるんも鬼門。ソースの絡んだもんを掬ったときに汁気を撒いたり、麺類のおつゆを卓上に降らせたりは前々からやったけど、ほんまになんでもない滑りやすいとか丸っこいとかでもないもんが喰われとおないみたいに逃げていきよる。
 生来がっついてるよって子供のころからよう喉に詰まらせたり咽たり咳込んだりはあったんですが、嚥下にも気ぃ使わなあかんようなりました。食べることには関係ないけど五十を過ぎたあたりからしょちゅうこむら返りを起こすようなりました。布団から脚放り出したまま寝たりすると覿面で、起きてぐーんと伸びをしたとたん脹脛に刺すような痛みが走ります。嚥下トラブルもそれに似た感じ。情けない話です。冷たい蕎麦や素麺啜っててそないなるなんてなかったこっちゃもん。
 満腹なったが最後、消化に時間がかかってずーうと呻いてたり。魚や生もんのなまぐさい臭いに滅法弱なって料理しててもエづいたりする。包丁握ってて怪我する回数もだだ増え。そもそもキャベツの千切りとか大根のケンが十年、いやさ五年前に比べても全然太なってる。
 まだまだあるえ。食事の最中に気が散るくらい歯間にものが挟まるようなったんは、ほんま憂鬱。硬いもんが噛み切れんようなったんはともかく、ごはんの炊き具合がそれに応じてめっちゃ柔らこなった。なにげにこれはダメージおっきい。こんこちこんのほしいみたいなごはんが好きで仏さんのお下がりようよばれてたさかい。
 ただねえ、なにもかも悪いことばっかしゆうわけやないのえ。舌がじいさんになったことで味わいが増した食材がけっこうありますのや。子供時代祖父母が旨そうに食べてんのを見て、なんであんなもんが好きなんやろと首を傾げてたもんの魅力が理解でけるようなった。
 かつては見向きもせえへんかった羊羹やカステラなんかがこないに美味しいとは歳喰うまでちっとも知らなんだ。白瓜とか冬瓜のさらりとした滋味に、おお!と唸るようなったんも実は最近。青臭いもんは総じて好物やったのに、なんでかウリ科の癖は前は苦手やったのよ。嘘みたいやけど焙じ茶もそう。儂は煎茶か晩茶かの人で、もちろん出されたら飲むし、ええお茶なんがわかったら「美味しいねえ」とも言うてたけど自分からすすんで淹れることはまずなかったんよね。
 よう「大人にならなわからん味」があるていいますやん。子供が食べて顔顰めたら「あんたには、まだ早かったかな」とか「心配せんでもそのうち食べとうなるて」とか。実際それは冗談でも大袈裟でものうて味蕾の経験値が上がらんと味わえんもんが世の中にはいっぱいいっぱいあった。それと同じよ。歳喰わんと発見でけん美味が世界にはぎょうさんあんの。
 嗜好が年寄り臭いと言われてた儂ですらそうなんやから、ほとんど誰にでもあてはまる話やと思う。若いみなさん期待しはってよろしよ。ただひとつ、そういう〝老後の楽しみ〟を満喫するにはこのひとことを呪文のように唱えるんをお勧めいたす次第でおます。

 毎日の食事は冥土の旅のお弁当。
photo 歳喰うてからというもん、そないに思うて儂は暮らしてます。とりわけ死ぬか生きるかの大病を経験してからはかなり意識的に。それは意識の海の表面上に土左衛門が浮いてきよるみたいにぷかりと顔を出しました。縁起でもない喩えですんまへん。けど、ほんまそんな感じ。
 歳を喰えば、人間半世紀以上も生きてたら丈夫な人間でもどっかしらおかしゅうなる。問題はガタがきたときに暗い音のない世界で産声を上げる「いつまでも若く(美しく)ありたい」という執着。これこそが美味しい老後の最大の敵やて、奥さん、知ったはった?

 歳を喰うてきた副作用を受け入れ、歳を喰うてきたからこそ知ることができた美味を味わい尽くして死ぬまで生きるには、若さのために食事を無駄にせんことですわ。とりわけ日常のごはんを大事にしたい。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」芭蕉の『奥の細道』に出てくる台詞です。儂、この言葉と、この言葉を使いたがる連中が大嫌いでした。それがねえ、ある食材が年齢を重ねて初めて好物になるんと同様、じじいになってから味わい深こう感じるようになってきた。人生が旅やというのは年寄りにしか理解でけん感覚やないやろか(そういう意味では、これを口にするような若ゾーはいまでも嫌いやけど)。

 つまり先のほーにかもしれんけど、なんとのう終わりが見えてきて初めて人は人生が旅やったんやて認識するようになるんかも。

 旅の楽しみてなんやろと考えたとき、もちろん観光やったり土地の名物を買った喰うたりやったりするわけやけど、それ以上に行き帰りや移動の列車で頬張る駅弁やないかと儂は考えてます。百貨店の地方物産展には駅弁フェアがつきもんやけど、それくらいメジャーな娯楽ゆうことでしょう。弁当のために旅するわけやないが弁当がなければ旅の愉悦は半減です。
 人生の旅も一緒。そやから儂は今日も呟きます。毎日の食事は冥土の旅のお弁当。
 車中でいただくお弁当て、どんだけ贅沢でも知れてるでしょ。てゆうか山海珍味を期待するひとはいてへんはず。季節のもん、作り置いたもん、単純やけど丁寧に作られたもん、その土地で穫れたもん、昔ながらの味、ちょっとした工夫、目先の変化、味のしゅんだごはんのおかず、そういうのが塩梅よう無駄なく収まってる。

 そこには華美な装飾や無駄な贅沢は入り込む余地がありません。もちろん「いつまでも若くありたい」も。
 人生が旅で、日常の食事が駅弁なら自ずと食生活の見方は変わってきます。毎日の食卓がつまらんくなったら人生の旅もしょうもなくなる。これが身に染みただけでも歳を喰うてきた甲斐があります。どっちみち旅には終わりがあるんやし、それまでは楽しまんと損ですやん。

入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『京都人だけ知っている』シリーズ、『京都人だけが食べている』シリーズ、『KYOのお言葉』『秘密の京都』『秘密のロンドン』など京都、英国に関する著作が多数ある。現在、本の雑誌で「読む京都」連載中。2015年9月に『ベストセラーなんかこわくない』(本の雑誌社)を刊行。