深夜番組のCMでお馴染み、赤と青のネオンサイン
今や味園の外観を特徴付けるトロピカルな螺旋のスロープも、実は後から増築されたもの。
赤いタイルの外壁も後年の改修による。プランターに植えられた樹木のような装飾は、ホテルの客室のプライバシーを守る役目を果たす。
「ユニバース」とネオンが輝く塔状のサインは、ロシアアバンギャルドのようでかっこいい。
高度経済成長期は日本のキャバレー全盛期だった。東京や大阪を中心に、日本の各都市に巨大なキャバレーが設けられ、あまり語られることはないが、既成概念に囚われない、独自のデザインや建築空間がうみだされていった。千日前に偉容を誇る味園ビルは1955年、まさに高度経済成長期へ突入する時代に建てられた。当時味園のキャバレー「ユニバース」は2階にあり、3層吹抜の大空間で、その迫力の空間をアメリカの『LIFE』誌(1962)が、「360のテーブルに1000人の客、3つのジャズバンドに1000人のホステス」とレポートしている。当時のユニバースのインテリアは圧巻で、天井は色とりどりのアクリルによって星空のように輝き、衛星をかたどったボール状の照明が回転し、周囲にはロケット状のシャンデリアが吊り下げられた。まさに「ユニバース=宇宙」。ダンサーやミュージシャンがパフォーマンスを繰り広げる舞台には様々な仕掛けが施され、円形のステージに乗って、ダンサーが天井から下りてきた。昭和30年代、ユニバースは海外の観光ガイドにも掲載され、毎夜観光バスが味園に乗り付け、多くの外国人観光客が日本の夜を満喫していった。
この「宇宙」を実現したのは、味園の創業者である志井銀次郎。実業家であった志井はデザインや建築を専門に学んだことはなかったが、味園ビルは全て自分でデザインしたという。志井は部屋に籠もって次々とアイデアをスケッチしていき、優秀なスタッフや手練れの職人たちが彼のイメージを実現していった。味園ビルは直営というかたちで建設されており、照明や家具、サインのデザインなど、自分たちでできることは、全て社内でつくっていった。前述したユニバースの煌びやかな照明や舞台装置も、自動車のフォグランプなどを工夫したりして、全て社内の電気部がつくったのだ。そうやって生まれた空間は、建築家やデザイナーには決して真似できない、他に比べるもののないオリジナルなものとなった。
右肩上がりの経済成長が終わりを告げる頃、キャバレー人気にも陰りが見えはじめる。その後の80年代90年代、味園ビルは改変を続けながら、志井銀次郎の夢を守るかのようにして営業してきた。しかし地下に場所を移して続けてきたユニバースも、遂に2011年に閉店。今後味園はどうなるのかと心配されたが、最近になって、再びスポットが当たるようになってきた。キャバレーのインテリアを残した地下の大空間では著名なミュージシャンによるライブや有名なクラブイベントが開催され、2階に設けられていた旧スナック街には、若い世代が独自の感性でユニークなバーやギャラリーなどを出し始め、ミナミの新しいカルチャースポットになりつつある。店を出す人も集まる客も、多くはキャバレーの全盛期を知らない若者たちだ。皆、他にはない味園独特の魅力に惹かれて集まってきた。「どや建築」は時代を超える。味園ビル2.0のはじまりだ。