東北の食べ物の話を書こうと思う。タイトルは「みちのくフード記」。まあ駄洒落ではあるが、結果的に「みちのく風土記」みたいなものになればいいと思っている。
なんで神戸に住んでいる私が、大阪の会社のサイトで、東北の話なんか書くのか。それをまず説明しておかねばならない。
ひとことで言えば、私は東北に縁のある人間だ。特に最近は自分でも尋常ではないと思うぐらい、東北の人びととの縁がまったく意図せぬまま、思いもかけない形で浮かび上がってくる。私は曽祖父母の代まで遡っても広島の因島とか四国の香川とか、関西人としてはごくありふれたルーツしか持たないそうなのだが、前世あたりでみちのくの民となにか友好的な関係にあったのではないかと、あらぬことを考えてしまう。それほどに縁の深さを感じている。
なぜか。説明しようと思うと、しばし自分の話をしなければならない。45歳でフリーライターなぞやっている自意識こじらせたおっさんの自分語りが鬱陶しいことは重々承知している。だから、この先と次の回は読み飛ばしてもらっても構わない。本格的に食べ物の話が始まったら、また読んでください。ガマンしてやってもいいという方は、鼻をつまみながらお付き合いくだされば幸いです。
●薄い大阪から広瀬川流れる岸辺へ
私には故郷と呼べるところがない。
生まれたのは大阪万博の1970年。その万博をにらんで開発された千里ニュータウン……に近いけれどもニュータウンからは外れた吹田市の小さな、たぶん民間開発の新興住宅地だった。最寄り駅は阪急千里線の関大前。住所は関西大学と同じ「山手町3丁目」である。3、4歳頃まで家の前には竹林が広がっていて、タケノコ採りに入った写真が残っている。要は、万博景気によって関大の裏手の竹林に切り拓かれたニュータウンもどきの宅地だったのだろう。
そこで9歳まで育った私の遊び場は、関大のキャンパスや関大前通りだった。乗馬部の馬が道に落としていく馬糞を紙でつかんで正門前にばらまいたり、地下秘密基地を作ると言ってはグラウンド脇の植え込みに大穴を掘ったりして、大学職員さんに目ん玉が飛び出るぐらい怒られたのを覚えている(すいませんでした)。少年野球の監督のおっちゃんに連れられて、学生たちでにぎわう餃子の王将に行ったことや、今でも愛してやまない阪急そばを、父親にくっついて入った関大前駅の店で初めて食ったことは、よき思い出である。
けれども、それらは同時代に郊外で育った者なら誰もが持っている幼少の記憶であって、今の自分につながる要素は(阪急そば以外)あまり感じられない。あのへんの風景に郷愁を覚えることもない。まず幼すぎたこと、それに、江さんの言う「街的」な──その街にしかない店や人びとの暮らしに紐づいた──経験ではないからだろう。泉州や河内の人たちからは「あんなとこ大阪やない」と悪し様に言われるような大阪色の薄い北摂の、さらに土着臭を薄めた新興住宅地なのだから、思い入れようもないのである。
うちは両親とも梅田にほど近い中崎町の天五中崎商店街という比較的古い地域で生まれ育っているので、そこにそのままいてくれれば、私ももう少し「街的」な経験ができたかもしれないが、それはまあしょうがない。郊外の新興住宅地に住み、電車で1時間かけて会社へ通勤することが、あの時代、あの世代の求めた豊かさであり、進歩的生活だったのであろう。
しかし、その高度成長期のサラリーマンをまんま体現した家庭環境のおかげで、私は突如、東北へ飛ぶことになった。父の転勤、行き先は仙台である。吹田から豊中に移っていた小5の夏だったから1980年のこと。私は10歳だった。
当時、関西に入ってくる東北の情報など皆無だった。ましてや子供だ。寒い・雪深いというイメージだけが漠然とあった。両親とて同じようなものだったろう。指折り数えれば、父はその頃40歳。生まれ育った大阪を離れ、東京どころか、見ず知らずの北の地へ赴くのは、今生の別れとは言わぬまでも、悲愴な覚悟だったに違いない。
引っ越しの日、伊丹空港へ着くと、父の同僚たちが集まっていて、「松本くん、バンザーイ!」とかなんとか大声で万歳三唱し、胴上げもしていたと思う。通りかかる空港の客からは奇異の目で見られたが(母が後に「あれは嬉しかったけど恥ずかしかった」と言っていた)、当時の関西人から見た東北の遠さというのは、まるで戦地へ赴くようなものだったのかもしれない。
東北の情報は何もなかったと書いたが、仙台に関してだけは一つあったのを思い出した。さとう宗幸の『青葉城恋唄』。78年、全国的にヒットした仙台のご当地ソングで、この歌により「杜の都」の美しいイメージが広まったそうである。父の転勤が決まった頃から、母が自分を鼓舞するかのように、鼻歌に口ずさむようになったこの「ニューミュージック」(そんなジャンルありましたよね)だけが、私の知る東北だった。
そして、まさにその歌い出しにある〈広瀬川流れる岸辺〉から東北との縁をつむぎ始めた私は、以後、青森~函館と北上しながら10代の大半を過ごすことになる。
●80年代前半の大阪はイカツかった
右も左もわからない土地だったが、そこは子供だ。私はわりとすぐ馴染んだ。青葉城(仙台城)の城下に広がる仙台の街は開放的で、緑があふれ、空気が澄んでいた。
小学校は、『荒城の月』の作詞者である土井晩翠が校歌を作詞したような古い学校で、赤痢菌を発見した細菌学者の志賀潔や、地元紙「河北新報」創設者の一力健治郎といった卒業生がいたそうである。大人になって東北通いをするようになってから、仙台で通った小中学校の名を告げると、地元の人に「名門ですね!」と言われるのは、このためらしい。名門もなにも、私はただ父の会社が社宅に借り上げたマンションから最寄りの公立校に通っただけである。
小学生だから成績の良し悪しも関係ない。気を付けたのは「大阪弁で笑われないこと」だけだった。こちらが東北に対して無知だったように、向こうでも大阪・関西人といえば「がめつく、厚かましく、ガラ悪い」というステレオタイプが定着していたのである。
大阪の人は気分を害するだろうか。でも、考えてみてほしい。あの当時、1980年前後の大阪というのは、外から見ると強烈にイカツかった。多少は大阪を知っていた私ですら、「なんちゅうガラの悪い、怖いところや」と思ったものだ。
まず、私が移り住んだ80年は怒涛のマンザイブームだった。上方勢でいちばん勢いがあったのは、やすきよである。それから紳助・竜介、のりお・よしお、サブロー・シロー、ザ・ぼんち……。大阪弁というのは、横山やっさん的破天荒さで、二言目には「怒るで、しかし」と怒鳴り上げるような人が使う言葉だと思われていた。
ついでに言えば、81年には阪神の投手だった江本孟紀の「ベンチがアホやから野球でけへん」発言が世を賑わせ、その怒っているのにどこかとぼけた味わいが友達の間でも笑いの種になった(ちなみにこの人、豊中でごく近所に住んでいた)。
事件も多かった。それも、全国を驚愕・震撼させるえげつないのが。三菱銀行立てこもり事件(79年)、グリコ・森永事件(84~85年)、山一抗争(84年。山口組四代目射殺事件は私のいた吹田で起きた)、豊田商事会長刺殺事件(85年。この〝公開殺人劇〟の現場も、私に馴染みある天神橋筋だった)。以前、作家の高村薫さんにインタビューした際、「大阪では日常のすぐ隣に境目なく暴力が存在する」と言っておられたが、まさにそんな感じに見えていた。
これまたついでに言えば、85年の阪神優勝でトラキチが街を乱舞し、道頓堀川に飛び込む光景は、サンテレビの阪神戦中継を見て育った私から見ても「微笑ましい」を通り越して、異様だった。
そういうわけで、私は大阪・関西の出身であるということを、隠しはしないが、おおっぴらにすることは控えて東北ティーンライフを送った。いや、大阪がどうこうよりも、単純に楽しくて染まっちゃったのである。言葉は、仙台にいる時は「~だっちゃ」をおっかなびっくり使っていたが、青森に行けば「~だっきゃ」に変わり、「んだんだ」「どさ行ぐ」「おめ、なにやっちゅんずな」みたいな正調津軽弁(なのか?)が自然と出るようになった。
関西人の中には、別の地へ移っても自己のアイデンティティを誇示するようにバリバリの関西弁を変えない人がいるが、私にそんなこだわりはなかった。誇るようなこととも思えなかったし、関西に帰りたいとも思わなかった。周りのみんなと同じように、断然東京に出たいといつしか思うようになっていた。
ちょうど私が青森で中二だった頃、吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』が狂い咲きヒットして(今では日本語ラップの元祖と言われているらしい)、面白いような悲しいような、複雑な気分になったものだが、あそこで徹底的に戯画化された都会への憧れというのは、実際あった。クラスのヤンキー女子が「原宿☆ホコテン」と蛍光マーカーの丸文字で書いたペチャンコのカバンを得意げに提げているのを、私は哀れみ半分、同調半分で見つめていた。おめ、そらねえべ。まあわがるけどもさ……。
こうして、もともと薄かった私の大阪・関西人意識は、10代前半の東北暮らしでほとんど無になった。故郷喪失である。
(続く)