第4回 牡蠣食えば腹が張るなり石巻(前編)

牡蠣といえば広島、と関西人は即答する。いや関西人でなくてもそうであろう。なにしろ全国の養殖牡蠣の6割強が広島産だ(年間出荷量2万t弱)。岡山、兵庫を加えた瀬戸内連合となれば、実に8割。酢牡蠣や蒸し焼き、カキフライやみぞれ煮といった定番メニューから、土手鍋、お好み焼き、牡蠣めしといった、ちょっと郷土色漂う料理まで、「西」のにおい濃厚な冬場のごちそうである。

しかし実は、宮城、岩手の三陸リアス組もなかなかの存在感だ。特に宮城は、震災前まで全国2位の年間4500tの出荷量を誇っていた。しかも、牡蠣の種苗である「種ガキ」で言えば、全国7~8割のシェアを占めていた、という。北海道から九州まで、牡蠣の産地は宮城からそれを仕入れ、大きく肥え太らせて売るという、和牛で言うところの繁殖農家と肥育農家のような仕組みになっているらしい。この2月、宮城県庁が主催した「食材王国みやぎ」取材ツアーに参加して聞いた話である。

宮城の牡蠣の産地といえば、まず石巻市、東松島市といった石巻湾周辺。北は、岩手に隣接する気仙沼市の唐桑半島まで。つまり、リアス式海岸のある中北部で、その地形を活かして養殖が盛んに行われている。取材ツアーでは、とりわけ種ガキで名高い石巻の万石浦へ養殖場を訪ねた。牡鹿半島の付け根の、狭い海峡に閉ざされた内海。女川町へ行く時などによく通るが(先日、万石浦沿いを走るJR石巻線が女川駅まで全線再開しましたね)、養殖の現場は初めてだ。しかも宮城県漁協石巻湾支所の漁師さんたちの案内で。さすが県主催のツアーである。

●津波を生き延びた「強い」種ガキ

朝8時半。万石浦の岸壁から小さな船に乗る。まずは外湾に出て、身牡蠣(われわれが通常目にするもの)の養殖場へ。10分弱とはいえ、真冬の朝、三陸の海の上だ。寒い。分厚いコートの上に、配られたドカジャンを羽織り、さらに救命胴衣。異様に着ぶくれした関西おっさん記者団(ほんま見事におっさんばっかりだった)が到着すると、さっそく牡蠣の巻き上げ作業が始まった。

巻き上げ作業。牡蠣の付くロープを垂下綱というガラガラガラ……固い音を立てて、ゴツゴツの牡蠣が続々と海中から巻き上げられ、船上の機械を通って土台のホタテ貝から剥がされていく。ものの数分で一抱えもあるカゴが満杯になる。「おおー」と声を上げながら、写真を撮りまくるおっさん記者団。あろうことか、私は船上でカメラの故障に気づいた。乗船の際、どっかにぶつけたらしい……(というわけで、ボロスマホの写真です)。

「ここでやってるのは延べ縄式養殖と言って、種ガキを付着させたホタテの貝殻にロープを通し、海中に垂らして育てます。水深は8mほど。1本のロープにホタテが24枚、そこに300~400個の牡蠣が付きます。そのロープを、延べ縄1本につき200~300本垂らしてある。むき身にして約1tの量です」

「このあたりは北上川の河口なので、植物プランクトンが豊富で成長が早いんです。種ガキから出荷サイズになるまで通常2年かかるのが、ここでは『一年子』と言って、1年で育ちます」

昔、巨人にいた槙原投手似の支所長さんが、やたらとデータを聞きたがる記者たちの質問に立板に水で答えてゆく。男前である。が、その男前の顔が一瞬曇ったのは「震災でどれぐらい生産量が減ったんですか」という質問だった。

「この石巻支所では年間400tあったのが、震災後は半分以下になりました。今年は300tぐらいになる見込みで、まあなんとか8割近くまでは回復してきたんですが……」

あれほどの災害にしては、復旧は早いと言えるのかもしれない。しかし県全体の被害はさらに深刻で、震災翌年は出荷量が10分の1になった。今年度でようやく3分の1に届くか、というぐらいだという。

ただ、宮城の牡蠣養殖にとっても、われわれ関西人にとっても不幸中の幸いだったのは、万石浦の種ガキが津波を生き延びてくれたことである。あれがなくなれば、全国の牡蠣養殖業が大打撃を受けたはずなのだ。実際、震災直後にはそういう報道もあった(→こちら)。その種ガキの養殖場がある万石浦の浅瀬へ移動して、当時の話を聞く。

「津波の直後はわれわれみんな全滅を覚悟したんです。2カ月ほどは捜索と瓦礫撤去を優先して操業を停止したので海の状況がわからなかった。ところが、5月半ばになって海に潜ってみると、一部の種ガキが海底に沈んで残っていた。流されなかったんです。地形がよかったんでしょう、ザブンと押し寄せる波でなく、ぐっと水位が上がる波だったのが幸いした。すぐに拾い集めて、養殖を再開することができました」

万石浦の種ガキはもともと生命力が強いそうである。伊達政宗が干拓地にしようとしたぐらいの浅瀬だから干潮時間が長い。あえて海上に出して餌の量を制限し、日光や風にさらす。そうして丈夫な種苗を作る。「抑制をかける」と言うそうだ。「ここらのはスパルタでやってっからな、強えんだ」と別の漁師さんが笑って言った。その強さで宮城の種ガキは名を轟かせたという。「おらが子供の頃、40年ぐれえ前までは、アメリカのシアトルとかフランスなんかにも輸出してたぐれえだからな」。

先のリンク記事にもあるとおり、ウイルスで全滅しかけたフランスの牡蠣を宮城の種ガキが救った話は今も語り草だ。アメリカには「オリンピック・ミヤギ」「ロイヤル・ミヤギ」という品種もある。現地の育成技術が向上して輸出はなくなったが、海外では「牡蠣と言えばミヤギ」の記憶が生きているのだ。

種ガキとは稚貝のこと。こんな感じでホタテの貝殻に付着させる

●岸壁の牡蠣パーティー

岸壁へ戻ると、なんとありがたいことに牡蠣パーティーの準備が整っていた。炭火で温めた鉄板の上に、立派な牡蠣がゴロゴロと無造作に転がしてある。傍らにはカゴに山盛りの牡蠣。おお、絵に描いたような漁師料理。まるで日本酒のCMではないか。頃合いに焼けたものを漁師さんたちが手に取り、ナイフで次々と殻を開けていく。「熱いうちに食え。いくらでもあっからな」。おっさん記者団、感涙である。

牡蠣を剥く漁師たち。ナイフ使いには高度な技がいる取れたて、焼きたて、剥きたての牡蠣だ。塩もレモンも何もいらない。自然な潮の味、殻にしみ出る香り高い汁、よく肥えてむっちりした食感。味わいは濃厚なのに後味はべとつかない。焦げたら焦げたで、香ばしくてうまい。

もう一つ、鍋があった。牡蠣と生海苔の汁。牡蠣処理場で剥き子をやっているお母さんたちが作ってくれた醤油ベースの吸い物……なのだが、汁よりも具の存在感がすごい。海苔で一面覆われ、目の前の海と同じ色になったお椀の中に、かまぼこか!という勢いで白い牡蠣がいくつも浮いている。食感もふわふわのかまぼこっぽい。こんなに惜しげもなく、牡蠣を一気食いしたのは初めてだ。たった20分ほどの間に1シーズン分を食った気がする。

「いや、めちゃくちゃうまいです。いつもこれ食べてはるんですか」と漁師さんに感謝を込めて聞いてみると、「食わねえよ!こんなの特別な時だけだ」と一笑に付された。そうか。そうだな。船に乗る前に魚市場の食堂で、これまた豪勢な刺身の朝食をいただいたのだが、「市場に来る人たちは食べ飽きてっから、そばやカレーのほうがよく出るね」とのことだった。なるほど、日常の食とはそんなものかもしれない。

しかし、これでまだ朝10時前のことである。この後、さらなる牡蠣との出会いがあることも知らず、おっさん記者団はたらふく食い続けるのであった。

(続く)

松本創(まつもと・はじむ)

1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。
著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著/講談社)。その続編を『現代ビジネス』で随時連載(→こちら