第7回 笹かまぼこはダテじゃない

東日本大震災の津波跡に初めて立ったのは2011年のちょうど今頃のことだ。西岡研介氏に引きずられるようにして行ったのだが、われわれおっさん記者2人は出足が鈍く──阪神・淡路の震災をなまじ取材した経験が足かせとなって──発生直後の悲惨と混乱極まる現場は見ていない。1カ月あまり経った被災地は、押し流された家や車があちこちに放置され、海水やヘドロの臭いが漂ってはいたものの、広い道路に出ればがれきや泥が道の端に寄せられ、人びとは避難所からぽつぽつとわが家の片付けに向かう、といったふうに小康状態に(今思えば、であるが)入りつつあった。

4月20日、宮城県石巻市の大街道地区へTさんというお宅を訪ねた。70歳過ぎと60代半ばの、とても親切なご夫婦だった。海から1kmほど離れたその家も、津波の日は1階が完全に浸水し、車や大木が濁流にさらわれていくのを2階から2人で呆然と眺めたという。日が落ちると隣近所の家々と懐中電灯の光で無事を確認し合い、翌朝少し水の引いた中を小学校へ避難した。3日ほど過ごして自宅へ戻り、今は2階で救援物資を頼りになんとか日々しのいでいる──と、そんな話を聞いた。

自分たちが不自由な生活をしているのに、夫婦は「遠くからよくいらっしゃって」と迎えてくれ、奥さんはお茶と、お茶請けまで出してくれた。「石巻に白謙という笹かまぼこの店がありましてね、店が再開したってニュースを見て、嬉しくなって昨日買ってきたんですよ」という。へえ笹かまか、懐かしいな。宮城ではお茶請けになるのか。さすが名物。でも、しらけん? 知らんな。30年前の仙台では聞かなかった。

と、落ち着いていられたのは、そこまでだった。食べた瞬間、「ああっ」と思わず声が出るうまさだったのである。なんというか、白身魚のすり身をそのまま食べているように新鮮なのだ。ふわっとやわらかな食感と自然な甘み。加工品には違いないのだけど、「製品」ではなく「生もの」な感じ。これ、ほんとにかまぼこなのか……と、思わず紙の小袋を裏返して眺めたのを覚えている。

翌日、石巻を離れる前に立町商店街にある本店へ買いに行くと、地元の人たちでごった返していた。あの極上笹かまと揚げかまだけの限定販売ながら、みんなどっさり買い込んでいく。Tさんの奥さんのように心待ちにしていた人がたくさんいるのだろう。「震災お見舞いをいただいたお礼に贈られる方も多いようです」と店の人は言っていた。

神戸や大阪で土産に配り、「石巻に白謙というのがあってな。宮城へ行ったらぜひ食ってくれ」と触れ回っていると、関西人からも続々と絶賛の声が届いた。「今まで食べた笹かまはなんやったんや」「これはかまぼこやない。ほぼ魚や」。私は自分がほめられたように鼻を高くしたものだ。

白謙は、本店と主力の門脇工場が大きく浸水し、「直後は暖簾を下ろすことも考えた」と伝えられる。本店の製造設備をなんとか動かし、営業再開したのは、私たちがTさん宅を訪れる3日前の4月17日。取材の出足が鈍かったゆえに、思いがけず出会えた口福であった。

ふわっと裂ける質感がたまらない白謙の極上笹かま

●群雄割拠の笹かまメーカー

笹かまぼこは、仙台藩主だった伊達家の家紋「竹に雀」(通称・仙台笹)に形が似ているところから、そう呼ばれるようになった。てっきり伊達政宗が作らせたとかいう話かと思ったら、そうではなく、意外と歴史は新しい。

明治の頃、閖上浜(現在の名取市)から金華山沖(現在の石巻市)あたりでヒラメなどの白身魚が大量に獲れた時期があった。保存のため、すり身にして平べったく形を整え、竹串を挿して焼いていたのを、当初は「ベロかまぼこ」「手のひらかまぼこ」などいろんな名前で呼んでいたが、昭和の初めに創業した仙台の阿部蒲鉾店が笹かまぼこと名付けると、それが広まり、次第に統一されていった、という。もちろん、かまぼこ自体はもっと古くからあるが(今年は「かまぼこ900年」なんだそうです)、宮城県人の心をとらえ、名物となっていったのは「伊達の家紋に似た形」が大きかったのであろう。

「かまぼこを作っている会社は県内に60社あまりあって、そのうち笹かまをやってるのは30社ぐらいです。かまぼこの市場は、全国的に見れば大手5社ぐらいでほとんどを占め、価格競争や大量生産ができない小さい会社には厳しい状況なんですが、笹かまは宮城名物ということで健闘してます。贈答品需要が多いのもあって、かまぼこの消費量はうちの県が圧倒的に全国一なんですよ」

とは、宮城県水産業振興課の小林徳光課長による解説。仙台土産の定番になっている「阿部蒲鉾店」と「かまぼこの鐘崎」が長年笹かまの2大メーカーだったが、この10数年ほど、先の白謙が石巻から勢力を伸ばし、今や百貨店の中元・歳暮では全品目の中で一番人気なんだという。

「笹かまは仙台、石巻、名取、それからうちの県で最もかまぼこ作りが盛んな塩釜など、地域ごとに小さな会社がたくさんあって、食べるほうもそれぞれの家庭ごとに定番の味があるんです。おかずにも、酒の肴にも、おやつにもなりますしね。

原料は、主にロシア海域で獲れるスケトウダラ。そこにイトヨリダイ、グチ、タチウオ、それから吉次(キンキ)やヒラメといった高級魚を混ぜて各社ごとに特徴を出しています」

というから、地酒の蔵が群雄割拠し、それぞれの味を追求しているのと似た構図であろうか。ちなみに、宮城県が作っている「サカナップみやぎ」という水産加工データベースを見れば、笹かまのメーカーや買える場所が調べられる。

●「おだづなよ津波!」の精神で

もう一つ、忘れられない笹かまがある。女川町の「髙政」。震災の3カ月後に取材に行き、取締役企画部長(当時)として現場を指揮する高橋正樹さんに聞いた話をこんなふうに書いた。

震災約3カ月後の2011年6月13日、高橋さんに案内してもらった高政の工場〈高橋さんによると、女川に約40社あった水産加工会社のうち、津波の後も稼働できたのは高政を含め4社だけだったという。高政は、3月11日に出荷予定だったかまぼこを当日夜から車中泊の人に配り、翌朝からは避難所へ届けた。在庫は1週間でなくなったが、一部破損した製造ラインを応急処置して、3月20日から生産を再開。再び避難所を回った。

会社の会長だった祖父は津波で亡くなった。津波は高台の家まで達し、祖父は、一緒にいた祖母と高橋さんの母を2階へ逃がした後、波に飲まれたという。

「女川の男衆はみんなそうですよ。自分のことは後回しで、まわりを助ける。僕の兄貴分だった人は、中国人の女性社員を全員逃がして、残ってる人がいないか最終確認に行ったら流されちゃったんです」〉

高橋さんは横浜にいた学生時代、阪神・淡路の被災地へボランティアに通った経験がある。津波に奪われ尽くした女川の光景に、神戸の長田区の焼け跡が重なったというが、「僕らがここで見捨てたら女川は終わりなんです」と町と会社の再建のために踏ん張っていた。

工場を案内してもらい、1階にあった売り場で何種類かの笹かまを買い込んだ。お土産に「おだづなよ津波!」と力強い筆文字で書いたステッカーをもらった。「おだづ」とは、「調子に乗る、いい気になる」みたいな意味だ。津波という災厄と性根を入れて闘っていく決意が、彼の言葉や表情の端々から伝わった。

高橋さんの神戸との縁は、ひとつの歌にもなった。阪神・淡路の被災地で、あの名曲『満月の夕』を作ったソウル・フラワー・ユニオンの中川敬さんが、女川の瓦礫の中から偶然見つけたレコードプレーヤー。それは高橋さんのもので、しかも彼は、阪神・淡路の被災地でソウルフラワーのライブを見て以来のファンだった。2人の縁や津波跡から生まれた『キセキの渚』という歌については、阪神・淡路の20年に書かれたこの記事や、中川さんのインタビューに綴られている。

笹かまぼこは伊達藩にちなんだ宮城県名物だが、こうして一つ一つの町とそこで暮らす一人一人の物語を背負っている。その味に込められた思いはダテじゃないのである。

松本創(まつもと・はじむ)

1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。
著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著/講談社)。その続編を『現代ビジネス』で随時連載(→こちら