第8回 ベイビー・プリーズ・どんこ

ちょうどひと月前、岩手県の宮古市に行ってきた。JR山田線と三陸鉄道(三鉄)の宮古駅の傍にある「BIG WAVE」という名のビジネスホテル──津波被災地取材の宿としては気が利いてるのか、不謹慎なのかわからんが、安くて交通至便なのでよく使う──に泊まり、地元の青年と居酒屋で晩めしを食った。酒は地元の「千両男山」。互いに小瓶を一本ずつ抱え込み、手酌でやりながら何本分か、あれこれ話し込んだ。愉快な宴であった。

が、一つ心残りがあった。宮古に行くと必ず食う「どんこ」にその晩はありつけなかったのである。どんこ。ご存知でしょうか。あのへんでは当たり前に食卓に並ぶ地魚だが、私は2011年11月に宮古へ行って初めて知った。BIG WAVEのすぐそばの居酒屋にぶらっと一人で入って飲んでたら、「どんこのたたき肝あえ」というのが目に止まった。350円だか400円だか、とにかく安かった。これは何かときっぷのよい店主に尋ねてみれば、

「あれ、知らねえかな。ここらへんじゃどこでもとれるんだけどね。あっさりした白身だけど肝がうめえんだ。でも顔がグロテスクだから、知らねえ人が見たら敬遠するかな」

彷徨の翌日、「魚元」という店でようやくありついたどんこのたたき肝あえ。ほんのり味噌が入ってうまいという。なるほど、アンコウみたいなものかなと思って試したら、これがちょっと今まで食ったことのないうまさだったのである。酒のアテの味わいというのは形容しがたいが、あえてたとえるなら、冬場のいちばんうまいタラの身とカワハギの肝をいいとこ取りしたのを、包丁でよくたたいて渾然一体に混ぜ合わせたような感じ。あん肝ほどの濃厚さはなく、より洗練されているのがたまらない。「なんすか、このうまさ。サイコーっす、サイコー」と、アホの子のように興奮しながら、もう一つお代わりして千両男山をぐいぐい飲んだ。

以来、宮古へ行くたび、いろんな店で「どんこのたたき肝あえで千両男山を飲む」ことを繰り返してきたのだが、今回は日曜の晩だったせいで定休の居酒屋が多かった。数少ない営業中の店は満員。ようやく入れそうな店を見つけても「今日はどんこ入ってないんですよ」と振られ続け、どんこ難民となったわれわれは駅の裏手の飲み屋街で途方に暮れた。

時季もよくなかったのだろう。どんこは年中とれることはとれるのだが、旬は晩秋から春先。特に私の目当てのたたき肝あえとなれば、寒さに備えて栄養分を貯め込み、肝が大きく肥え太る11月から2月頃までがいちばんいいらしい。魚介の宝庫である三陸の居酒屋では、やはり旬が過ぎると格落ちして、扱う店も減ってしまうのかもしれない。

おお、どんこの季節は過ぎ去ってしまった。愛しの肝あえ、いまいずこ。どんこよ、どんこにも行かないで。ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー。若い頃、ライトニン・ホプキンスやジョン・リー・フッカーで耳に馴染んだ古いブルースをうなる気分で私は春の宵をしばしさまよい、結局のところ断念したのであった。

●外の人に「発見された」地元の魚

どんこは、正式名称をエゾイソアイナメという。アイナメとは言うが、タラの仲間らしい。岩手県から宮城県北部にかけての三陸沿岸で、刺身やたたきのほか、鍋や汁物に入れたり、味噌煮やフライにしたり、そのまま焼いたりして常食されている。宮古周辺には食べられる店がいくつもあるが、盛岡駅にはどんこの握りを食わせる回転寿司があるそうなので、新幹線で岩手入りの折には食ってみたい。

居酒屋の店主が語っていたとおり、見た目はイカツい。水から揚げると、その大きな口から浮き袋のようなものを吐き出すのが、また奇怪さを増すらしい。

「小学校でも高校でも、どんことあだ名を付けられるやつが必ずいました。このへんではよく釣れますし、家庭でもふつうに食べるので、そんなにありがたみがないんですよ。地元の人間は特になんとも思ってなかったのが、震災後、外の人によって『発見された』感じですね。自分たちが食べてたものがそんなに喜んでもらえるのか、と」

どんこ彷徨に付き合ってくれた青年、加藤洋一郎さんの話である。

彼は30代半ば。宮古市街から車で20分ほどの田老町に生まれ育った。巨大防潮堤で知られる人口4000人あまりの町である。たびたび大津波に遭い、「津波太郎(田老)」とも呼ばれた小さな町は、津波への常なる備えと、それでも防ぎきれない被害から何度も立ち上がることを宿命づけられてきた。加藤さんは国際政治の研究者を志しているが──大学院生時代は京都にいたから関西とも縁がある──あの震災をきっかけに故郷へ戻り、今は学問への志を胸に秘めつつ、「僻地からの地方再生」を考える日々だ。

阪神・淡路でもそうだったが、こういう〝出戻り〟の人というのは面白い。ずっとそこに住んでいる人には気づきにくい地元のよさ、掘るべき場所、問題点も客観的に見つめることができる。地元の生活や思考や人間関係……さまざまな事情を踏まえたうえでの「半外部」の視点と言おうか、そういう見方ができる人というのは貴重で、町を動かす力になり得る。

私を含め、震災後訪れるようになったよそ者が、地元民には珍しくもないどんこを「発見」したように、いや、それとは比べ物にならない深い視点と当事者意識を持って、加藤さんも「知っているようで知らなかった地元」を日々再発見しているんだろうな、と思う。

●津波を生き延びた唐揚げ丼

どんこを食いそびれた日の昼間の話である。私は三鉄の田老駅で加藤さんと落ち合い、山あいの仮設住宅群の一角に建つ「たろちゃんハウス」へ向かった。プレハブの仮設商店街。中に「善助屋食堂」という店がある。創業68年。津波までは防潮堤のすぐ近くにあって、漁師や役場の職員たちが集まる食堂兼居酒屋だった。

善助屋食堂の看板、どんこの唐揚げ丼。7、8割の人がこれを注文する看板メニューは、どんこの唐揚げ丼。震災の直前、店主の赤沼秋子さんが考案した一品は、三鉄が「地元の食材を使った名物を」と沿線の店に呼びかけた「駅-1(エキイチ)グルメ」の一つ。つまり、「田老を代表するメニュー」として誕生した。

「魚嫌いの子供でも食べられるように唐揚げにして、甘辛いソースを絡めたの。半熟卵を崩しながら食べたら、濃い味がまろやかになって、ご飯ともよく合うかなって」

その新名物誕生を告げるパンフレットが発行されたのが2011年1月末。震災1カ月半前のことだった。さあこれからという時に町ごと店が流され、危うく幻のメニューとなるところだった唐揚げ丼は、しかし仮設で復活し、今やそれを食いたいがために田老を訪ねてくる人もいる。『あまちゃん』で有名になった三鉄が全線再開した昨春には、わかめラーメンとの記念セットメニューにした。若い人の注文が多く、1年経った今も続いている。

野菜たっぷりの汁の中からこんにちはカリカリに揚げた衣にホクホクの白身が包まれたどんこの唐揚げは、なるほどたたきの肝あえのような酒のアテとはまた全然印象が違う。丼らしいボリュームもあって、若い人たちを引きつけそうだ。実際、私が加藤さんと食べていたら、震災後に宮古に来てNPOを立ち上げたという若者が、出身地の九州から遊びに来た女性の友人を連れてやってきて、二人で仲睦まじく唐揚げ丼を食べていた。

ずっと昔から宮古や田老にあったどんこが、津波を経て「発見」され、あるいは新しい名物料理となって、外から人を呼ぶ。津波は多くのものを奪ったが、生き延び、生まれ変わったものもまた多いということだ。加藤さんのように、やむにやまれず戻ってきた人だっている。一つ一つは小さなことでも、再生というのは、そういうものが集まって動いてゆくのかもしれない。

たたきの肝あえには結局、翌日の昼にありついた。「昼でも出してくれる店がある」と聞き、酒は抜きで、どんこ汁の定食とともに食べた。汁椀から顔を出したどんこは、やはりイカツかった。イカツいけれど、なんとなく愛おしく思えてくるのだった。


松本創(まつもと・はじむ)

1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。
著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著/講談社)。その続編を『現代ビジネス』で随時連載(→こちら