第12回 あたりまえ田の米作り

『家路』という映画がある。東日本大震災から3年の昨年3月に公開された(→公式サイト)。その直前のベルリン国際映画祭に正式出品されたそうだが、それがどれぐらいすごいことなのか、国内でも話題やヒット作になったのか、超絶映画オンチの私はまったく知らない。しかしそんなことに関係なく、傑作だと思う。自信を持っておすすめする(と、オンチが太鼓判を押すと逆効果かもしれないが)。

舞台は、福島第一原発の事故で人が住めなくなった、つまり原発20km圏内の警戒区域となった農村。20年前、ある事情で村を出て音信不通だった青年(松山ケンイチ)が誰もいなくなった村にふらりと帰ってくる。打ち捨てられた実家で独り寝起きしながら、放置されて死んだ牛を土に埋め、荒れ果てた田んぼを起こし、田植えの準備を始める。

一方、田んぼをずっと守ってきた兄(内野聖陽)は村を離れ、妻と娘と、弟の生みの親である継母(田中裕子)と4人、仮設住宅で息の詰まる暮らしを強いられている。故郷は目の前にあるのに、戻れない。ただ元どおり百姓がしたいだけなのに、できない。鬱々としていたある日、弟が実家に帰っているらしいと耳にする。過去のわだかまりとそれぞれの葛藤を抱え、20年ぶりに再会する兄弟──。

川内村の山から見下ろす田園風景。今は電気の走っていない鉄塔が向こうに
私がこの作品を知ったのは昨年6月のことだ。映画のロケ地である双葉郡川内村の小学校で開かれた上映会に西岡研介氏と出かけた。原発20~30km圏内に当たり、事故から1年近く全村避難していた川内村は、3年3カ月経たその時点で、せいぜい半数の住民しか戻っていなかった。小学校には、いわき市や広野町の仮設住宅から村民を運んできたマイクロバスが何台か停まっていた。体育館の入りは約7割、300人ほどだったか。

上映が始まると、自分には珍しく、すぐスクリーンに入り込んだ。こじれにこじれた糸のような重苦しい現実と葛藤を描きながら、村の風景や百姓仕事の描写はいきいきとして美しかった。

田起こし、種籾の選別、苗床への種まき、苗作り、田んぼの水はり、そして田植え。農作業のシーンになるたび、「ほー」「おおー」と会場が低くどよめく。それから飯の場面で、米を研ぎ、かまどで炊き、ぬか床から漬物を取り出す、一つ一つの手つき。失われてしまった農家の営みが細かく、慈しむように描かれる。そのリアリティに、村の人たちは「かつての自分たちだ」と郷愁を呼び起こされたのだろう。

●「反骨の人」は静かに笑う

自宅前の田んぼで。背後の杉の木は樹齢1200年それは、秋山美誉さん(72)による農業指導のたまものだった。川内村で50年以上にわたって米を作り、原発事故後もひとり村にとどまって百姓仕事を続けた反骨の人。その経験と思いが映画に吹き込まれている。村のシーンはほとんどが秋元さんの自宅や田畑や山で撮影され、農機具類もそのまま使われた。

「うちはここでずっと15代ぐらい続いてっから、俺も生まれながらに百姓なの。この土地を守って生きてくのがあたりまえなんだ」

上映会の夜、映画の中で松ケンが暮らしていた堂々たる構えのお宅を訪ねると、秋元さんは言った。ちゃぶ台には発泡酒と、奥さんが出してくれた手料理の数々。シイタケ、ニンジン、ジャガイモ、サヤインゲンなどがたっぷり入った煮物。トマトとレタスのサラダ。キュウリのぬか漬け。ご飯。柏もち。素材はすべて自家製。それが秋元家の、いやおそらくこのあたりの農家のあたりまえなのである。

秋元さん宅でいただいた奥さんの手料理と「福幸米」。うまかった…
反骨の人、と少々紋切り型で書いた。多くのメディアで紹介されてきたように、原発事故後の秋元さんを形容すればそうなる。国が30km圏内での米の作付を禁止した最初の年も、村が慎重姿勢を崩さなかった次の年も、自分の田んぼで米を作った。誰にも食べられないまま廃棄されるのは覚悟のうえで、それでも自分の作る米の安全を証明しようとした。そして、実際にやって見せ──検査に回した秋元さんのひとめぼれから放射性セシウムは検出されなかった──行政を動かす一つのきっかけになった。

「実際に俺の作った米からセシウムがなんぼ出たってんならわかるけれども、根拠もデータもなしに、とにかく30km圏内はダメだって上から言われても、それじゃ納得できねえべって、なあ。俺はずーっとここで米を作ってきて、これからも農業で生きていくわけだから」

役所と闘っていた当時の心境をそんなふうに語っていた。『家路』のDVDに収められているメイキング編では監督や俳優に種籾のまき方を実演して見せた後、こんなことを話している。

「年に1回しかできねえのよ、こういうものは。んだから失敗は許されねえし、だからほんと真剣になんのよ、特に苗作りは。『苗は半作』つって、苗が稲の半分なんだ。俺は50回もやってんだけど──ハタチからやったって、いま70だから50年だっぺ。だからあんな原発事故で……ふざけんなって。俺の……なあ。俺はこれで生活してっから、ほんとに大切だと思ってっからな。粗末にせられっと、なんだコノヤロって」

文字にすれば、「怒れる反骨農家」に見えるかもしれない。でも、こんな言葉を口にしながらも、秋元さんは微笑んでいる。おそらく思いが強まる部分に差しかかるほど、言葉を濁し、笑いに置き換える。声を上げて、目を細めて。

宮沢賢治が理想としたところの「いつも静かに笑っている」ような人といえばいいか。たしかに「反骨」ではあるのだけども、それだけでは語れない気がした。とある本に収めるルポを書くために訪ねた私は、そこをなんとかすくい取りたいと思った。

●土にもカモにも愛情と手間をかけて

大切なパートナーのアイガモたち。この年は90羽を雛から馴らした翌朝、一緒に田畑を歩いた。青々とした若い田んぼをアイガモの群れが泳いでいる。秋元さんは15年ほど前、孫が生まれたのをきっかけに有機農法へ転換し、一から土づくりを始めた。たどり着いたのがアイガモ農法。フンが肥料になり、泳ぐ足の動きで土が攪拌される。泥が混ざって雑草が生えにくくなり、稲の根が刺激されて養分の吸収がよくなる、という。

「孫の口に入るものを作ってんだから、土から愛情持って、手間かけてやらねえとな。カモだって世話は大変だけど、馴れるとまあ可愛いもんだ」

秋元さんの姿を見つけて遠くからよちよち集まってきた群れに「ピヨピヨピヨ、ピーヨピヨピヨ」と口にしながらエサをまく。カモたちは明らかに人を見ていて、私や西岡さんが代わろうとすると警戒して遠ざかっていく(西岡さん、無類の鳥好きなのに……)。

原発事故後にすべて手放さざるを得なかった仔牛の小屋には銘板だけが残っていた。一頭一頭に孫たちの名前を付けていたという。牛舎の裏にはクリの木が並んで7本。孫たちが植樹したものだ。こちらは元気に育っている。

「俺があと孫たちに残せるものは何だって考えたら、健康しかねえべ。だから精いっぱい、誰よりも安全な米を作ろうと思ってんだ」

うまい米を作って人様に食べてもらう。安全な米を作って孫たち世代の健康を守る。自分の仕事をそう思い定めて、長年コツコツと積み上げてきた「あたりまえ」を原発事故に奪われた。大切に守ってきた土地や先祖とのつながりを理不尽に断ち切られた。だから闘った。抵抗した。結果的に「反骨」と呼ばれるようになったけれど、彼をほんとうに突き動かしていたのは怒りではなく、守るべきものへの愛情と愛着だった、と思う。

取材が終わると、秋元さんが小さな紙袋に入った米をくれた。「福幸米」とある。村が米の作付を認めた2013年から、アイガモ農法でつくったひとめぼれをそう名づけて売り出している。秋元さん夫婦の笑顔の写真があり、「いっぺん食わっしょ!」と添えてあった。家で炊くと、甘みと香りのよさが際立つご飯になった。映画の中の松ケンほどうまく炊けてはいないだろうけど、彼と同じように漬物だけで黙々と食べた。

◇◇◇

1年前の取材がようやく今月末に本になることが決まり、久しぶりに秋元さん宅へ電話した。昨年の秋に脳梗塞で倒れられたことは聞いていた(→こちら参照)。様子を尋ねると奥さんが言った。

「前みたいにはいきませんけど、やっぱり田んぼに出るのが好きな人だから。無理しない程度にちょっとずつね、なんとかやってます」

今年の秋、新米が収穫される頃にまた川内村へ行ければいいな、と思っている(ちょうどその時季、役目を終えたアイガモが鴨鍋になるのです)。


※秋元さんをはじめ7人の「ふつうの日本人」の生き方を描いた人物ルポ集が7月29日に刊行されます(→こちら)。こんなタイトルですが、「日本すごい」系のネトウヨ本ではありません、念のため。


松本創(まつもと・はじむ)

1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。
著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著/講談社)。その続編を『現代ビジネス』で随時連載(→こちら