ミシュランの三ツ星に連れて行ったからといって、やらしてもらえるわけもなく。

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キアスム

人生は

  線形であるわけもなく

      ぐるぐると 反転を

  繰り返している

ああ、目が回る

キアスム
Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
キアスム交差図式、若しくは神話のアルゴリズム
クロード・レヴィ=ストロース



灰色がないのだわ

ボーっとして暮らしていても、地元に限らず、仕事の上でも、人付合いというのは避けられないものですが、人付合いそのものが鬱陶しいという話は別として、ああ、この人と関係を続けるのは難しいな(と言うか嫌だな)、と思う時がありますね。

あたしの場合それは、灰色の読めない人です。つまり〈白/黒〉(好き嫌い)だけは、はっきりとしている。それで、けっこう男(女)っぷりがよかったり、決断力があったりするので、一見よさげで、言っていることもわかりやすかったりもする。

しかし、灰色の読めない人というのは、取り付く島もないというか、聞く耳を持たない。聞く耳を持たない人というのは、白と黒の間にある灰色の濃淡、中間の情報を読む力がありませんから、あなたの言う

そこの店にはそこの言語体系みたいなものがあり、初めは全然分からないのだけれど、子どもが言葉を覚えるようにしてその店の「世界」につながってくる。

というのが欠如していたりするので、全てにおいて奥行き、余裕がない。なので最初は、面白いな、と思うときもあるのですが、やがて疲れるわけで、長い付き合いというのはなかなか難しいものです。

まあ、逆に、そういう方から見れば、あたしなんかは「ど灰色」。鬱陶しいったらありゃしない。あたしがさよならする前に、皆さん勝手に消えてくれます。あんたなんかと付き合っていても何の得もありゃしない、と。

それじゃ、その「得」というの何なのか、と言えば、それが人徳ではなくて、お金の得なんであって、灰色のない人にとってはそれが絶対の価値基準なんでしょうな。つまり〈交換の原理〉。一銭にもなりゃしない、それも直ぐに金にならない、となると、〈白/黒〉の方は逃げ足だけは速いのですよ。あっという間に三行半なのでございます。

〈交換〉にしろ〈贈与〉にしろ、見返りを求めるのは一緒ですけど、〈交換の原理〉が価値基準である方には、時間軸がありません。”やがて”とか”そのうち”がない。直ぐに等価な見返りが欲しい。しかし世の中は〈交換〉だけで動いているわけもなく、一番大事な男と女の関係が〈交換〉であれば即お縄です。〈交換〉は即時性を求められるけれど、〈贈与〉は即時じゃ笑われます。2月14日にもらったチョコレートのお返しは3月14日と決まっているわけです。

交換の原理

  1. 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾情などは、含まれていないのが原則である。
  2. ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される。商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
  3. モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなけれぽならない。

贈与の原理

  1. 贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。

上記引用:中沢新一:『愛と経済のロゴス

〈贈与〉では、お返しに時間がかかる(お返しは適当な間隔をおいておこなわれる)、という理解は大切ですね。これは内田樹先生が、『下流志向』で書いておられた

知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中において、自分自身の変化を勘定に入れることです。/ですからそれを逆にすると「無知」の定義も得られます。/無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。/僕が今日ずっと申し上げているのはこのことです。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。(p:153-154)

ということでね、学習は自分(という自然=純粋贈与)に対する〈贈与〉です。その見返りは時間を置いて我が身に還ってくる。

しかし今は、世間の思考が〈交換〉の原理に傾いている。くいものも、店も、学習も、仕事も、男と女の仲もね。今は、自分自身が時間の経過とともに変化していく、という〈贈与〉の軸が消えているんでしょうね。そういう〈贈与〉が機能する〈場〉が贈与共同体であり、パトリであり、バロックの館の一階(つまりは「地元」)なのにそれが機能していない。そんなところに〈私〉はあるわけはないよね、と前回書きましたけれど、そのことでまた、

解釈(アンテルプレレタシオン)は貸借(アンテルプレ)を満たすために快速(ブレスト)でなければなりません。(ジャック・ラカン『テレヴィジョン』P114)

は機能しないのだと、わたしゃ思うのです。それは、貸借を満たすための勘定に自分自身の変化が入ってないから、びっこなのですよ。なので勘定はいつも貸借があいません。ミシュランの三ツ星に連れて行ったからといって、直ぐにはやらして貰えませんわ。気持ちは逸るけれども、いつも「わたしは、あらかじめ遅れて来た人」からはじめなくちゃいけません。キメは街場の焼肉屋と相場は決まっている。でも最初から焼肉ではいけません。(笑)

欲望と欲求

ついでなので

純粋欠損によって永続するものから、最悪の父によってしか賭けることのないものに向けて

ボロメオの結び目ですが、あたしなりの非常に身勝手な、そして超現代風の解釈を(あたしゃそもそもラカンはまともに読んでいませんので)。

ということでボロメオの結び目(右図)を。まず純粋欠損っていうのは対象a 〈欲望〉でありましょうね。ぽっかりと私の心に空いた埋めがたい欠損。現実界。

そして父というのは象徴(界)ですが、最悪の父っていうのは、今はここに〈交換の原理〉が居座っている、と。

となると、〈欲望〉は〈交換の原理〉によって即時性に向かいますからね、それは〈欲望〉ならぬ〈欲求〉になってしまうんでございましょう。つまり即時性のある等価交換。〈欲求〉であれば、ガイドブックで万々歳なのですよ。腹減ったらとりあえず食えばよいと。金があるから高いもの食おう、と。

  • 欲求 動物的なもの。自然と調和する。特定の対象を持ちそれとの関係で満たされる単純な渇望。たとえば、空腹を覚える→食物を食べる→満足、欠乏?満足の回路。
  • 欲望 人間的なもの。自然と調和しない。望む対象が与えられ欠乏が満たされても消えることがない。たとえば 男性の女性に対する性的な欲望→他者の欲望を欲望する→欲望は尽きない。

動物か !\(-_-)若しくは郊外化問題

しかし前回も書きましたけれども、あたしゃそういう人たちを、動物化 !\(-_-)  と言って責めるつもりはありません(というかできません)。こういう学校では教えてくれないことを、教えてくれる機能がないのですから。それは不幸ではありますがその不幸は〈私〉の故(せい)だけでもない。だからと言って、それは社会が悪い、などと言っても何も始まらない。

この問題は、特に地方において顕著であった郊外化の問題ともラップしています。今は東京都心もほとんど郊外化していますし、まあ、岸和田とか浅草とかは別としてですが、「街の学校」は絶滅危惧種です。しかしデニーズで家族で飯食って、ジャスコで買い物して、それでみんな幸せだと思っているなら、それはそれで、ようございましたね、と言うしかないわけです。

呼び込み

つまり、あたしらのやっていることと言ったら、今や個人の気付きに頼るしかない、というなんとも細々とした営業なんですよ。そこで、「兄さん、こっちにもっと面白い〈世界〉がありませ!」と呼び込みをしている怪しげな男が江弘毅なんです。つまりあたしらのできること、やっていること、と言うのは、こっちの〈世界〉の「呼び込み」なんでしょうね。

今〈私〉が生きている世界とは別の〈世界〉がある、ということ。そしてその別の〈世界〉っていうのは即時性は無いけれども、一度浸ってしまえば意外と面白いぞ、と。けれどもその別の〈世界〉(こっちの〈世界〉)というのは、売っているわけでも、金でなんとかなるものでもなくて、それを作りだすのも育むのも、他ならぬ〈私〉であること。

そういうことの、一銭にもならない「呼び込み」を嬉々としてやっている。これはどうみても世間さまからは馬鹿だとしか言われないのですが、そういう冷たい視線をエネルギーにして、この往復書簡は続くのでございますよね。

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2007年12月08日 09:21

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ミシュランの三ツ星に連れて行ったからといって、やらしてもらえるわけもなく。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

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午前7時起床。浅草は曇り。 起床後直ぐに一仕事。140B劇場-... ...

コメント

貸借を満たすとはどのようなことなのか、ご教授願えませんでしょうか。

投稿者 PECK : 2007年12月09日 05:06

「クリトン、われわれはアスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。それを返しておいてくれ。忘れないように」
というのが、「ソクラテスの弁明」の最後の言葉にあります。
プラトンの『パイドン』でしたか、ソクラテスが毒を飲んでもはや下半身が冷たくなった臨終の時の言葉です。


投稿者 : 2007年12月09日 21:44

>PECKさま

ご購読、コメントありがとうございます。

私はラカンの熱心な読者ではありませんので、以下私の身勝手な解釈としてお読みいただければと思います。

つまりはこれは解釈(わかる・理解)ということの差異、さらに云えるのなら、解釈の結果としての行動(結果)までも含んでの差異のことだと思います。

貸借とは、ある対象(もしくは事象)についての、知っている程度の差異とも云えましょうが、その貸借の差異の程度はどうであれ、人間の解釈はいつでも最速なのだと思います。

それは人間の脳(無意識層)の構造のようなものであって、解釈は常にショートサーキットです。

私たちは、いつでも、すべてを、論理的に考えて答えをだしている(行動している)わけではなくて、云ってみればあんまり考えないで行動(対応)しています。この考えなくとも身体が動く、対応できる程度によっては、(その結果として)うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあります。

それは最近の言葉だと「ヒューリスティック」なのですが、対象についてよく知っている(経験を積んできた)人はそれなりに最速であり、知らない人もそれなりに最速です。

例えば、身体で覚える、というのもそうで、鍛錬を積んだ人はそれなりに最速であり(作業スピードが早い、技が切れる)、積んでいない人でも、それなりに最速に対応します。しかしその逆もまたありで、突然の変化にはうまく対応できなかったり、変化することを拒んだりもします。

理解とか対応というのはいつでも(ほっておいても)最速なのですがが、それ故に〈私〉が成長する環境は重要なのだと思います。そこでは学習(経験の蓄積)が行われます。→解釈の基体となる過去把持装置となります。

だからこそ、純粋欠損(つまり欲望−−欲求ではありません。欲求はいつでも動物的に貸借を満たすために最速です−ー)が向かう方向というか、欲望をあきらめないことこそが大切なのだと(私は)思います。欲望という貸借は決して満たされることのないものであることで、私たちは知らないことを知ろうとし、できない技を使えるようにしようとし、努力もし学習もするのだと思います。(欲求と欲望の違いは本文をご参照いただければ、と思います)。

ということで、以上私の勝手な解釈で申し訳ございませんが、(私は)こんな理解をしています。

今後ともごひいきにお願い申し上げます。

投稿者 ももち : 2007年12月09日 22:58

ももち様
懇切なご回答、ありがとうございます。
「解釈は常にショートサーキット」、このフレーズは私の☆お気に入りに登録しておきます。ラカンの言う「解釈は短いものであるべき」ということですね。
さて、そこでもう一点だけご教授をお願いします。
貸借が、「解釈の基体となる過去把持装置」であり、欲望の原因にぶつかるための無意識の形成物を生み出すものというのは、なんとなく理解できたのですが、「満たす」というのが、いまひとつ理解できません。
満足させるということなでしょうか。それは、差異のバランスを明白にするということなでしょうか。それとも、負債(父からの?)が如何ほどかを知る、江さんの言うところの返済をするということなのでしょうか。

投稿者 PECK : 2007年12月10日 10:55

>PECKさん

コメントありがとうございます。今回は、複式簿記のアナロジーで考えてみたいと思います。

貸借対照表(B/S)の左側(借方)には〈現実の私〉という資産があります。この資産は「最悪の父によってしか賭けることのないものに向けて」(つまり〈象徴界〉の去勢)によって形成されてきた〈私〉です。

一方、右側(貸方)には、〈本当の私=なにものでもない私〉という負債があります。私はこれをお母ちゃんのおっぱいのみながらうんことおしっこ垂れ流しの幸せな〈私〉と呼んでいます。
参照:[ボロメオの結び目]
http://www.momoti.com/blog/2006/12/post_365.html

B/Sは貸借を満たすために資産=負債+純資産という形に(快速で)なりますが、〈私〉においても同じです。「解釈は貸借を満たすために快速なのです」。

しかしこのB/Sはいつでも資産<負債なのでしょう。〈現実の私〉(資産)は、いつでも、〈何者でもない私〉(負債)に比べると、(去勢されている分)不足がおきているわけです。

もちろんこれらは、会計上のB/Sとは違って、数値化できないし、はっきり言ってなんだかわからないものでしかありません。しかし私たちはそのなんだかわからないものに後押しされるように生きています。

〈私〉の純資産は、いつでも赤字なのです。その貸借を満たすために、その赤字を埋めるために、わたしたちは意識的にしろ、無意識的にしろ、毎日あくせく、なにかしらやって生きています(それも赤字を生み出した最悪の父に向かって)。しかしその赤字は埋まることはありません。なぜなら赤字の正体(つまりはほんとうの〈私〉なのですが)が〈私〉にはわからないからです。

つまり、その赤字とは「ボロメオの結び目」で云う、去勢によってぽっかりと〈私〉の中に空いた〈現実界〉、つまりは欲望の根源だと考えています。

そして仮に、そのB/Sを数値化して見ることができるなら(現実には不可能ですが)、その赤字(差異)の大きさは、負債ではなく、資産を形成するプロセス(資産の大きさでありません。B/Sは一時的、ある時間の断面です)で決まってくるのではないか、と(私は)考えています。

それはこの往復書簡で私(そしてたぶん江弘毅も)が訴えようとしていることですが、この資産形成のプロセスこそが、「街場の学校」(種・パトリ・バロックの館)にあるのではないだろうか、ということなのです。(今からこんな種明かししてよいのだろうか)(笑)

なぜなら負債は、母から生まれざるを得ない私たちにとっては、どうしようもないものとして「ある」からなのですね。

ん〜、こんなのでよろしいでしょうか?

投稿者 ももち : 2007年12月10日 12:57

ももち様
まさに、明快なご回答をありがとうございます。
貸借を満たすとは、赤字(父による詐欺的な負債)の埋め合わせ、および純資産(現実の私)の形成ということですね。
最初、この「解釈は貸借を満たすために快速なのです」を読んだとき、「解釈」を「でっちあげ」、「貸借」を「帳尻あわせ」、「快速」を「素早く」と読み替えて、「帳尻合わせのために、でっちあげは素早く」などと、真意とは懸離れた、それこそでっちあげの解釈をしそうになったもので、ご教授を請いました。まさに、解釈は無意識の形成物を生み出す、といったところですね。猛省、猛省。

投稿者 PECK : 2007年12月10日 15:17

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