幸福なジジババはお互いに似通ったものであるが不幸なジジババはどこもその不幸のおもむきが異なっている。
幸福な家庭はお互いに似通ったものであるが不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている(トルストイ:『アンナ・カレーニナ』)
その何が幸福なのかを |
今回の[「おじい」の不在が、街をミシュラン化してしまいよった。]を読んで、最初に頭に浮かんだのが、冒頭のトルストイの警句でした。そして[50代になった長塚京三の父親と祖父が出てくる「遺言」のCM]に振り回されたことは別途書きましたが、
はたしてどういうベクトルがはたらいて、「豪華客船の船旅」とか「田舎の別荘」とか「資産運用」というのが、現在の年寄りの欲望であるかのように語られているか
という江弘毅の疑問、問題提起はもっともなものです。あたしが感じる違和感は、幸福っていうのはそんなふうに一様なものなのかね、というものですが、トルストイが似通っていると言うのなら、まあ一様なのでしょう。
しかし何がどう一様なのかがわからないので、そういう幸福(それが幻想かどうかはともかくとして)を絵で描いてやって物語として示してあげないと、幸せ(自分の成功)をイメージできないのが、これからの年寄り(団塊の世代)なのじゃないのかな、とも思うのです。それはまるで、あるOSで動くアプリケーションのようなもので、今や希少種になった右肩上がりのOSでさえ、そのOSが部分限定ででも機能しているのなら、彼らの人生に破綻はないでしょう。お互いに似通った幸福な家庭として。
憧れの対象としての「ジジババ」
ぎりぎりで「団塊の世代」でもなく、運悪くオタクにもなれなかった超中途半端な時代に生まれ育ったあたしは、「チロルチョコの大人買い」が欲望であるようなプアなアプリケーションでしかありませんが、〈右肩上がり/右肩下がり〉というOSの断層も経験してしまい、よい時代も悪い時代も一応は知っているつもりであることで、特定のOSにしがみつくことのない宙ぶらりんです。
ただ、50歳になったら、早々に隠居でもしてやろうかと目論んでいたりします。(年が明ければもうその齢なのですよ、江もですね)。ただそれは、人生の諦めなどではなくて、うちの近所(浅草)の年寄りへの強烈な憧れであって、その憧れというのは、浅草の「ジジババ」はOS対応だろうが非対応だろうが(ほとんどの「ジジババ」は非対応ですが)、そんなことには関係なくただ生きている、ということに対する憧れなんだろうな、と思うのです。
古い年寄りと新しい年寄り
その「ジジババ」は、言ってみれば、みんな古い「ジジババ」です。ここで年寄りを大雑把に二分類できるとすれば、戦前生まれの古い年寄りと、戦後生まれの新しい年寄り(団塊の世代)の二種類の「ジジババ」がいると思うのですが、もちろんあたしの憧れの対象は古い年寄りです。
棺桶に片足突っ込んで、自分でも生きているんだか死んでいるんだかよくわからないまま生きている。生きていても死んでいてもたいしたかわりがないだろうから生きている。不幸だろうが幸せだろうがただ生きている。なんだかよくわからないけれども、生きているのだから、毎日店に出ていたりもするし、町会の行事にも出てくる。
そういう〈自/他〉どころか〈生/死〉の境界もあやふやな、と言うか境目そのもので生きている。かと言ってけっして利他的であるわけでもなく、基本的には利己的で世界の中心には自分がいる。好きなように生きているけれども街のこともちゃんとやっていたりする。そんな年寄りを、かっこいいな、と(あたしは)思うのですよ。つまり
おじいはおじいゆえんに、「若者に受けたい」などという欲望がない。つまり尊敬されたいという下心こそなかったので、そこがかえって立派がられ敬愛されました。
なんでしょうね。
そしてそういう(古い)「ジジババ」の生き様は一様でないことで面白いし――だからたぶん不幸も経験したんでしょうが、彼(女)らは、〈不幸/幸福〉の境界にいることで、いまさらそんなことはどうでもいいのでございましょう――、言っていることも、玄妙で、わかる奴にはわかるけれども、わからない奴には絶対にわからないし、一理ありそうでなかったり、まったくの灰色なのです。
しかしそれが面白れえなぁ、と(あたしは)思うわけです。あたしも早めにそういう〈世界〉に行ってしまいたいな、と。そこで認められたいな、と。それがあたしの欲望と言えば欲望なんでしょうな。浅草という街に遅れてやってきた者として。
おばあちゃん仮説
しかし現実っていうのは面倒なもので、そう易々とは問屋が卸してくれません。曰く、子供が一人前になるまでは、であり、孫ができるまでは、でございます。まあ、それは親としての義務、遺伝子とミーム、つまり自己複製子の相互作用としてもやらなきゃいけないこと(プログラミングされていること)なので本能的に嫌じゃありあません。しかし、鬱陶しいのは、その自己複製子的(進化論的)にやらなきゃいけないことの強調なのですよ。それは別名「おばあちゃん仮説」とか言うやつですね。
「おばあちゃん仮説」って言うのは、人間のメスは、生殖力を失ったあとも長いこと生き続けるのですが、それは生物学的には例外的な存在だ、というものです。
なるほど言われてみればもっともな話なわけで、遺伝子 gene にしてみれば、(遺伝子の乗り物=ビークルとしての)躰は、生殖能力を失ったらお役御免です。世に存在する意味がありません。鮭だって卵産んで精子振りまいたら死にますもの。しかしなぜか人間は生殖能力を失っても総じて長生きしたりする。最近は(メスには少し負けてますが)オスだって生殖的に無役にもかかわらずしっかり生きしている。(あたしも近々、と言うかほとんどそんなものですわ)。(笑)
それはなんでだろうな、と考える暇な人たちがいて、その仮説のひとつが、ESS(進化的に安定な戦略)として有利だからだろうね、と。
「女性が自らの出産・育児を終えたあと その知恵と経験を生かして 自分の娘や血縁者の子育てを援助することにより 結局は繁殖成功度を 上昇させることができたのでは?」[ほぼ日刊イトイ新聞-主婦と科学。]
たしかに人間は、生物としては非常に未熟な状態(ネオテニー)で生まれてきて、例外なく、おっぱい飲みながら、うんことおしっこ垂れ流しの極楽状態(鏡像段階)を経ないといけない。つまり誰かの世話にならないと一人前になれない、というプロセス(負債)を背負った弱い生き物です。しかし並居る生物のなかで、人類がここまで大量に繁殖できた(進化的に成功した)のも、この「おばあちゃん戦略」が功を奏したからかな、と思えないこともない。
それで、俗物的な進化論のアナロジー(弱肉強食)が、社会(特に経済システム)で乱用されている昨今、強調されるのは、年寄り、「ジジババ」の役割なんでしょう。「ジジババ」は、ただのほほんと自分勝手に生きているわけにもいかなくなってきているのだろうな、と。
つまり、あんたは進化論的に死ぬまで頑張らないといけないのよ、と。ダーウィン先生もそう言っているわよ、と。そこで、ああ、ダーウィンの野郎余計なことしやがって、と思うわけですが、かと言って、あたしゃ神様がつくってくれたんだ!と改宗しようとしてもいまさら遅いのでございますね。
今は、「ジジババ」の役割は進化論的に強調されている、そういう時代なんでしょう。それは、孫を〈他者〉よりも有利に育てる(自分と同じ遺伝子を乗せたビークルを有利に育てる)ってことであって、[50代になった長塚京三の父親と祖父が出てくる「遺言」のCM]は、うまいこと、そういう遺伝子的なところをついているな、と思うし、そこにはあなたの言われる「ユニット」があったりします。 つまり家族です。
家、つまり配偶者とその子どもによる「核家族」が「消費のユニット」
ジジババは共有地である
その「消費のユニット」に、比較的裕福な「ジジババ」が進化論的にからむ。つまり今風の「おばあちゃん仮説」では、子育てには口出ししなくていいから(別居でいいから)遺産だけはちゃんと残しておいてよ、なのかな、と。「おばあちゃん仮説」は子供の重要な生き残り戦略でもあるんでしょうな。「おじいさん、おばあさんは大切に」です。ニコニコしながら擦り寄ります。「ジジババ」は〈私〉のもんだと私有を主張します。それで、あたしの愛おしい「ジジババ」は「家族」の中に埋もれてしまうわけですね。「ジジババ」カムバック!です。
あたしは、「ジジババ」というのは、共有地(コモンズ)なんだと思うのです。それも「街場」のはね。街場の「ジジババ」はあたしらの共有財です。「ジジババ」の多く、特に戦前生まれの「ジジババ」は、「恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」(福沢諭吉)を体現した方々で、OSがハイブリッド=バイロジックなんですよ(団塊の世代にはこの二重OSがないのでいけません)。しかしそれ故に時間軸(贈与・共同体性)を知っているのだろうな、と。
しかしそういう古い「ジジババ」も絶滅危惧種であって、今は、その共有地を私有地だと教え込んでいる〈最悪の父〉がいて、その上〈最悪の父〉の書いたシナリオをトレースするしかない新しい「ジジババ」が大量生産されている。これを「共有地の悲劇」といわずなんと言う、なのだと思うのです。
家族
しかしですね、ここんところが面倒くさいのですが、だからこそ、あたしは「家族」を否定できないのです。たとえ郊外化された核家族であっても、それがモナドとは無縁のものだとしてもです。
チャーチルめいた言い回しで恐縮だが、私は「家族」について、「諸悪の根源ではあるが、ほかのいかなる人間関係よるもマシな形態」として理解している。人間が存在していくうえで、あるいは子供を養育していくうえで、あるいは相互扶助し合う大儀名分として、これほど機能的で一般性が高い形態はほかにない。(斉藤環:『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』:p216)
たしかに「核家族」は諸悪の根源でしょうし、その形態が破綻するとなれば、あたしはもろ手を挙げて喜びまくるかもしれない。けれども「家族」という形態だけはどうしようもないな、と。
人間が地面から生えてくるならともかくも、そんなふうに人間はできていない。例外なくお母ちゃんから生まれてくる。それだってお母ちゃんの単独作業であるわけもなく、永遠と繰り返されてきた生物的な営み。かと思えば、「ことば」を持ったあたしらは、鏡像段階から〈父〉による去勢も受けなくちゃいけない。
そのことで「家族」は、あたしらの〈欲望〉の根源的な場でもあるし、教育の場でもる。であれば形態はどうあれ(未婚でも非同居でもという意味で)父・母・子というエディプス三角対は解体することもなく、お父ちゃんは「仕事」で忙しくて家にはいないけれども〈最悪の父〉はテレビの中にちゃんといたりします。
「家族」が否定できないものとしてあるのなら、(だからこそ)「家族」に「ジジババ」はどんどん接続すべきだろうな、と身勝手に思うのです。長塚京三の「遺言」のCMに乗せられてもいいし、自分で自分のシナリオが書けなくともいい。「ジジババ」は今や私有地だと先に書きましたが、それは誰の私有地かと言えば「ジジババ」のものではない。子供の孫のつまりは血で繋がった者の私有地であることで共有地なわけですよ。
つまり長塚京三の「遺言」CMと「豪華客船の船旅」は違うもんじゃないのかとあたしゃ思うのです。主流のOSは、「ジジババ」の財産は「ジジババ」個人のものだ、とテレビの中から語りかけてきます。そいうリバタリアニズム的発想であれば「豪華客船の船旅」とか「田舎の別荘」とか「資産運用」というのが、現在の年寄りの欲望であるかのように語られるしかないのでしょうし、それはますます加速するのだろうな、とも思います。
でも(だからこそ)、あたしら諦めだけは悪くて、どこかでOSの上書きをしてやろうと企んでいたりします。バイロジックを「ジジババ」に知ってもらおうとごちゃごちゃやっている。それも享楽としてですね。さすれば新しい年寄りにも街場の共有地性をもっていただけるのではないか、と。そしてそういう「ジジババ」が「家族」と繋がる。そのことで、すこしだけ大きな家族(拡大家族=イエ)はつくれるのかもしれないな、というのが「こっちの世界」の「呼び込み」でしかないあたしのささやかな企みなのでございます。そのために、あたしらは「街的」の再発見をしながら、こっちの水は甘いぞ、と情報を発信しているのでございましょうね。
2007年12月15日 09:19
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