「みんな」のためのパブリックなんて、あるかいな。

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「昼間から営業している居酒屋」。それをもてるのは、自分の時間を自分で決められる人々の住む街だけだ。]は、とてもいい文章ですね。いやテキストか。

錦・市場の漬物屋の井上の街や店についての記事の凄みは、彼が毎朝漬物を漬けそれを客に売り、時には昼から酒を飲み、夕には近所の魚屋で剰りを貰ってきたシマアジのカマをカンテキの炭火で焼いて喰っている、街的実生活者としてのリアリティにあることです。その軸足でしかものを書かない。

「客」とはだれのことか。京都の場合。

井上が居る「師走を迎えた全国各地からのニュース」でいっつも取り上げられる京都・錦市場の「客」には、2種類の客がいてます。

「客その1」は、もちろん観光客でそれは東京などからうまい京漬物を買いに来る人です。客その1には「隣の隣の街」から来た「大阪の人」も含まれてます。

彼らは「消費者」ですね。おいしいもの、うまいもの、良いものを求めて錦市場にやってくるわけですが、これは観光やとか遊びにとかで都に来た人が多いですね。

消費者は商品経済システムに貫徹された交換原則、つまり漬物を買うときに「いつまでもちますか?」とかを聞くひとです。

これについては、書いているから引用することにします。ちょっと長いけど。

「いつまでもちますか?」

と漬物に賞味期限みたいなことを訊く客が増えて、年々ストレスが溜まっている、ということを京都・錦の漬物屋バッキー井上がぼやく。

漬物はいつ(までに)食べるとおいしいかということは、確かに難しい。それは漬物の種類、つまり野菜や漬け方などによるからだ。だから地元のお年寄りたちは「これ、漬かり過ぎちゃうな」とか、沢庵の皺の深さなどなどを確認したりして好みのもの、好みの具合を買っていく。

生まれ育った泉州・岸和田には「水ナスの浅漬け」という漬物がある。水ナスというのは泉南地方、とくに貝塚や泉佐野の山手あたりでしかよく育たない地元野菜で、その名の通り絞ると汁がしたたるほど水分が豊富な丸いナスで、用途としてはほとんどぬか漬けのみに使われる伝統野菜である。

その浅漬けは、ナスの紫の皮の色が、ほんの茶色に変わるか変わらないかの具合が好まれていて、それは実際おいしいのだが、結構漬かりすぎのヤツもなかなか好きで、酒をたらふく飲んだあとの茶漬けには絶好だと思うのだが、そういう具合を「いつまでもちますか?」で訊くのは、まるでちぐはぐなのである。さらに古漬けになってしまったヤツは、ジャコエビと炊いてもうまいが、うちの家ではめんどくさいので塩抜きしてしょっぱさを辛抱して食べていた、と記憶する。

「いつまでもちますか?」という問いは、賞味期限というふうにバッキーは考えている。賞味期限は消費期限などとともにこのところ添加物みたいな文脈でよく出てくる単語だが、さらに「持って帰りたいのだが大丈夫か?」「帰りの車中、匂わないのか」といった質問も必須に加えられるとのことで、バッキーは「3つとも、好きやない質問や」と静かに嘆いている。なかなか京都らしさを売る商いも大変だと思うのである。

ちなみに彼の店の漬物についての「賞味期限」は、添加物などと同様に表記しなくてはならない袋詰めのものについては、試験を何度かしてから「自分が決めている」とのことだが、小さな声で「短めにしてる」と言っていた。そういう配慮を「そんなこと、わざわざしてるなら、知ってる者だけに売ったらエエんとちゃうの」ということにするのは、ただイヤミなだけの店なのだ。

「しば漬け」についてのこの話もある。あるしば漬けがメインの漬物屋が、時代の要請もあって赤色×号添加物を避け、野菜色素を使ったところ、売り上げはどうなったか。予想に反して、見事に落ちたそうである。インパクトがない、つまり「そらそうや、しば漬けはやっぱり舌が真っ赤っかにして、おいしいもんや」であり、その漬物屋ではまた元の着色料を使うようになったとのことだ。

そういう意味では京都は食べ物に関して、なかなか保守的なのであった。

この2つの話はおもしろい。今の人つまり消費者は、食べ物に関して賞味期限や添加物といったデータ表記を気にし、「スローフード」などと旧いことを新しく言ったりして、どんどん賢く敏感になっているが、漬物がどういうものかや野菜が腐る匂いがどうなのかがわからないので、バッキーのつけた賞味期限が過ぎると味も見ずに捨ててしまう。そこが辛いと言う。

わたしの育った近所の居酒屋や地元料理屋では、ちょうどいいくらいに漬かった「浅い水ナス」には、いつも味の素と醤油が当たり前のようにかけられていて、そうすることがおいしい食べ方だと今も思っているのだが、大人になってミナミの街でその頃はまだ他所では珍しいはずの水ナスがちょうどよい漬け具合で出てきたので、「おお、水ナスかいな」と醤油をかけて「味の素、ないですか」といったら、あからさまに顔をしかめられた。

それは少し人をバカにしたような感じだったので、オレは悲しくなると同時にちょっと腹が立って、「七味おくれ、いうてんちゃいますやん」と言ったが、その冗談めいた話は通じなかった。漬物にしろ何にしろ、人は「おいしく」食べたいと思うから、醤油や味の素をかけているのであって、それと腐った食べ物や毒になるものを食べるというのは別の話だ。だれだって身体に悪いものは食べたくない。しかし賞味期限や添加物の人々は、「そうすることが、正しい食べ方なんだよ」といちいちうるさい。けれども水ナスのぬか漬けの賞味期限といったものは、データによる情報化が不可能なので、どこにも載っていない。

オレにしてみたら、おたくらそんなこと分からんのか、分からんかったらどうでもええやないか、と思うのであるが、実際彼らはマーケットなので、メーカーであるバッキー井上も漬物を正味愛するがゆえに「京都の漬物は、いったいどこへ行くのだろう」とストレスを溜めまくるわけである。

賞味期限や添加物に敏感な人々は、京野菜や和食が好きな、スローフードの流れの人でもある。スローフードは、イタリアにおいての食文化の伝統を守れということで、実際ローマにマクドナルドが出来る際にその運動が始まった。

食べ物の地産地消は素晴らしいことだし、オレも生まれ育った泉州の水ナスやガッチョを地元の昔からのやり方で食べ続けたいと思うし、そういうことをよく書き編集してきた。けれどもそれは、「これ、どうや」とおいしいものを人に薦める、ということであって、こう食べるのが正しいという軸足の置き方にはどうもひっかかるところがあった。

食べ物の話は、ナニがおいしいコレもおいしいという具合に話を転がしていくのが関の山で、それはダメだろうそういう食べ方は許せないというスタンスが少しでも入ると、険が立つ。だからこのところ、地元・大阪新進のフランス料理やイタリア料理店で、水ナスを使った料理がよく出るようになったが、それは邪道だとか秋の水ナスは本来ダメだなどと、文句をつけることは、どんどん食というものをつまらなくする。

逆に食べる方は、消費者として「なんでも知っている」あるいは「もっとよく知る権利がある」という意識を振り回すこそが、どんなに街をつまらなくしているかを分かるべきだ。「食べ物に関しては、オレらはアホのままでいた方がしあわせやったかもしれん」とバッキーは言うが、本当にその通りだと彼の漬けたいいように漬かり過ぎの「どぼ漬け」を食ってそう思う。(ミーツ07年6月:「江弘毅の街語り」)

また井上は「京都店特撰」の1回目でこう書いています。

京都にはたくさんお客さんが来る。これはとてもありがたいことなのだけれど、案内したり一緒に食事をすることになるとチョットヘビーだ。

親しい人や仲間なら普段俺が飲み食いしているようなところへ誘うのでまったく苦にならないが、知人が他の人を連れてきていて「京都らしいところ」という条件がリクエストに入るととてもつらいので、店だけ教えて俺は出来るだけ一緒に行かないようにしている。

例えその店がいい店であってもおいしい店であっても「京都らしいところ」を求める人と食事をするのは疲れるし、「京都らしい」と喜ばれた時にどんな表情をしたらいいのかと俺はいつも悩んでいる。というか「京都らしいところに連れて行ってあげて」という状況が始まった段階で、ゲストと俺の負けが確定している。勝った気になっているのは仲介した人間だけだ。

俺がニューヨークに行って「ニューヨークらしいとこ連れてってくれよ」などとは絶対に言わないし、勝手にニューヨークらしいところに連れて行こうとする人間を好きになれないと思う。気遣いがないからだ。「京都に来た人だから京都を味わいたいはずだし、京都を与えてあげれば喜ぶだろうという」根性は最も京都らしくない。

ゲストの性質や好き嫌いなどを身なりや表情や会話や仕草などから、「この季節の今日の今夜のこのメンバーでゴキゲンになるには何か」ということを常日頃から必死で考えているのが京都だと思いたいし、それを知る術や実践するカードを揃えることに力を注いできたのが京都だと思う。

京都の商売人は客を家に上げない。なぜか、いやほんまか。

何が言いたいのかというと、次に書く「客その2」の人は、「消費者」であるとともに「生活者」であるということです。それはおなじガソリンを「知り合いやから」といってわざわざ1リットル5円高いところへクルマを走らせて買いに行く地元の人です。

京都の街衆は客を「家」に上げません。それは寺や神社を見に来る観光客(客その1)に彼らが売っているのが「京の生活」の一部であるからで、それは実生活を消費されてどないすんねん、ということで徹底的に拒みますね。商品は消費されてしまうと、必ず客は「ほか」のものを買うために「よそ」の店に行きます。しかし店側はその生活自体を「08年春夏コレクション」みたいに変えてしまうと、生活なんてやってられない。だから生活の「ちら見せ」はしますが、生活を見せるようなことはしない。

しかし客その2も通常は家に上げない。それは家を仕事場にしている人間にとって、客を「仕事の舞台裏」に連れて行くのは失礼なことだし、作りかけの商品が置いてあるようなとこをお客さんに見せるわけにもいかんわなあ。それは知り合いだろうがなんだろうが、仕事人としての誇りのようなものです。

けれども客その2は、その店において消費と生活ははっきりとした境界を設けない。だから祇園のお茶屋に出入りすることも消費であって生活である。だからこそ店はその客とその生活を任侠的に守ろうとするし、客は旦那として舞妓を揚げたりすると、そこの置屋やお茶屋の面倒はもちろん墓の面倒まで見さされるということをする。

こういう話は、京都のやくざの親分の息子だった宮崎学さんが「突破者」で痛快に書いてますが、パトロネージみたいな言葉一言でかたづけることはできません。

「街に守られるがゆえに、人が人を守る」です。そして時として「客その2」は簡単に家に上がっていくし、親戚になったりもする。

たぶん日本人の習慣として、栄養ドリンクのように(昼間から)酒を飲む、というのはあったのだと思う。つまり酔うために飲むのではなく、力づけとして飲む。それはいってみれば、凛とした飲み方であり、自分で時間を決められる人々の飲み方である。つまりそれができる人々とは広義の自営業者でしかない。

という人たちがまさにそうで、良いテキストなので続けることにしますが、

そんな人々のために、昼間から酒を出す店はずっと昔からあったのだと思うし、江戸の蕎麦屋文化(腹を満たすためではなく、昼下がりにに、ちょっと一杯、というときに使うという習慣)もできあがってきたのだと思う。かつてはそれを都会的と呼んだはずなのに、いまや都会的の意味さえ違ってきている。

だからパブリックな居酒屋は必然的に営業時間も長くなる(そういう店はたいてい早い時間からやっている)。また、昼から営業することができる居酒屋は並大抵ではない。その街に優れた素質を持ちながらそれを維持する続けることの出来る酒飲みが多くなければ成り立たないし、その素質を持った酒飲みの人達の、店とその瞬間の空気を読む選球眼は非常に鋭いのでちょこざいなサービスメニューやトピックな内装などでは見向きもされないはずだ。

「昼間から飲んでいる」。「その街に優れた素質を持ちながらそれを維持する続けることの出来る酒飲み」。それは自分の時間を自分で決められる人々でしかない。

自分の時間を自分で決められる人々を広義の自営業者とあたしは呼ぶけれども、そういう人々の住む街だけが、「昼から営業することができる居酒屋」をもつのである。

それはいってみれば公共財なのであって、つまりはパブリックpublic である。パブリック public の概念をもつことは街的文化(センス)である。そういう文化のない街には「昼から営業することができる居酒屋」はない。

江戸の昔は(広義)の自営業者ばかりだった。昭和の時代もまだ自営業者が多かった。しかしバブルがはじけたあたりから、自営業者は生き辛くなり、昼間から飲める質のよい店も減ってしまった。(と同時に喫茶店も減った)。

ビジネスマンが働く街や、ビジネスマンが住む街ばかりになれば、昼から飲める質のいい店はなくなってしまう。ユンケルか、24時間働けますか、でも飲んでればよいのである。

ビジネスマンが昼間から酒を飲めないのは、自分の時間を自分で管理できないからであり、そんな街に、昼間から飲めるいい店がないのは当然のことでしかない。

さすれば、パブリック publicのセンスはなくなり、街のもつ自由の貧困は深まり、街的文化の貧困が始まる。それを江弘毅は「いなかもの」と呼んだのだ。

そして運転をする人々は、時間を自分で決められるとしても、昼間から酒を飲む、という自由を失っている。だから郊外化した、ファストフード化した街にも、昼間から飲める店がないのである。そこは車の街でしかなく、そこで守るべきは交通法規という「われわれ」の外にある掟であって、街的なパブリックのセンスなんぞ、生まれるはずもないのである。

街的パブリックは「われわれ」のためにある。

この「街的なパブリック」は、京都の言う「一見お断り」ですね。この一見お断りは、街的でない人はしばしば「閉鎖的」といった言葉でかたづけますが、これはひどく的外れですね。

その閉鎖性は「みんな」にとって閉じているということで、「われわれ」のためのものですから「われわれ」には大いに開いている広がっている。

高度に発達した情報化社会は、つまり経済至上主義であって、何回も言うけど代替可能なものですね。だからマクドナルドのスマイルは0円で、祇園のそれは底が知れない。そこが「みんな」は怖い。

損をするとか、元が取れないとか、コストパフォーマンスのことを気にする。だいたいエスクァイアとかの「祇園の遊び方」が田舎くさいのは、何でもかんでも情報化してそのサービスすらメニュー化してしまう、いなかもん=アメリカ的というよりこれはアホですね。

そしてその情報はいつも公開されていなければならず、だからメディア的でテレビ村の住人ならだれもがアクセスできるし、その祇園の情報をあらかじめインプットしておいてそのメニューに応じた対価さえ払えばだれもが楽しめる。40分いくらのキャバクラとか入場料いくらのディズニーランドやあれへんのですから。

これが「パブリックその1」ですね。だからパブリックその1は、「差異」が消費の楽しさだから、必然的に「みんな」は「会員制」にいってしまう。基本的に年齢や職業や金の多寡で「だれも」つまり「みんな」が会員になれる。その反面、一旦会員になればそこで警察に逮捕されるとかがない限り、基本的に何をやってもオッケー。だれもが専制君主です。会員制のうっとうしさはここにあります。

しかし「パブリックその2」は「会員制」でなく街的つまり「会員制的」ですわ。「会員制的」は徹底的にパブリックですから、昼からやっている居酒屋で飲みすぎると「出入り禁止」になる。あるいはホステスに触ると叱られてママに外につまみ出されてしまう。これは桃知も経験してるやろ。しかしそれ以上のことも必ず必然的にあるわけで、だから真に街的な街はおもろい、とまあそういうことになるわけですわ。

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2008年02月26日 14:51

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