「街的」が見えない人は「かなしい」が足りないのだ。

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顔に自信なし

桃知と江前回の「おーむちゃん」の写真はよかった。それは「40歳を越えたら男は自分の顔に責任を持て」とはいうけれど、あたしゃ責任持てませんでしかないのですが。(笑)

顔は店のようなものなのか。門松くぐれば必ず古くなる。けれど、その都度に深みを増していくものなのでしょう。

しかし勘違いした改築・改装や、田圃の中にぼつんとできたジャスコのように、表面いじって新しくなろうとする顔もあるわけで、目が節穴のあたしは、そういう女性にコロッと騙されていたりもするのです。(写真提供:ねぇさん

街が顔をつくるのか

あたしは改築どころか小規模改装さえする気はありません。ただ、だらだらと年輪を刻むだけなのですが、店が客をつくり、また客が店をつるように、あたしの顔は、「」によってつくられるとは思っています。なので「」の素である「われわれ」を、あたしは護持しようとします。

私が「」になれるのは、ある「われわれ」に属しているからこそなのです。「」も「われわれ」も個になっていくプロセスなのです…(ベルナール・スティグレール:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』:p25)

その「われわれ」のひとつが、他ならぬ「街的」とか「パトリ」なのだと言い切るあたしは、何故にあんたは「パトリ」や「街的」にこだわり、何故に「パトリ」や「街的」を護持するのか、の答えも簡単であって、それはわざわざ愛国心などというヘタレな語彙を使う必要もなく、なによりもあたしゃいい顔して年をとりたいからだ、と。それはスティグレールの言葉だと「個体化」(自分が自分になること)ですね(たぶん)。

しかし「」も「われわれ」も、そしてそれらがつくりあげた「街的」も、浅草に「遅れてきた者」でしかないあたしには、あたしの「外」にしかないものであって、あたしゃ浅草的作法なんざなにも知らないし、ただ棲んでいるだけで浅草的なら簡単なのですが、そんなんで浅草を、「」とか「われわれ」と呼ぶのはいささかナイーブです。つまり、あたしが浅草の人であるには何かが欠如していた(それを存在しないものとしていた内実はなんだ)、と。

あたしが(たまたま)浅草に住んだ、ということはそういうことの始まりであって、それはとにかくも「かなしい」。あたしの40年の人生(つまり浅草に棲む前)に、こんな挫折感はなかったのに、これはなんなんだ、と。なのでホッピー通りアジールと書いたバカやローなのです、あたしは。

そしてこの通りは、浅草の誇る公界(アジール)であることで、ちょっとだけ敷居が高い。つまり(例えば居酒屋浩司に入るにしても)お金で解決できない壁のようなもの(それを私は「結界」と呼んでいる)があるわけで、それがまたこの通りが人をひきつけてやまない理由でもあるだろう。〈牛筋煮込。(浅草煮込み通り:居酒屋浩司)〉

つまり「お金で解決できない結界」を破る方法(それが明文化されない「街的」なのでしょうが)が、あたしには決定的に欠如していることはヒシヒシとわかる。しかし、だからどうしていいのかがわからない。それでアジールであるはずの居酒屋浩司の結界を切るのにさえ2年かかりました。すべてがそんな案配で(どんな案配だ)、少しでもこの街で生活を営もうとするならば、(あたしの)「外」にしかないモノとの対話(浅草の街で食べること、飲むこと、かかわること、そしてそれを書くこと)を繰り返すしかなかったわけです。

あたしの中にいる〈他者〉
あたしの中にいまだにない「

そんなことばかりしていれば、否が応でも生じるのは、あたしの中にいる〈他者〉(もうひとりのあたし)との会話です(自分の「外」との会話であってもそうなります)。たとえばそれは、浅草を「書くこと」であって、「書くことは」あたしの中にいる〈他者〉との会話ですわ。ある店で教えてもらったことを書こうとすると、それは簡単なようで簡単じゃない。なぜならそれは「語り得ぬもの」でしかないからで、いってみれば、あたしの中にいまだにない「」だからです。

つまり所謂グルメ本が使うありていの語彙(共通言語)など何の役にも立たないという挫折感。それは目には見えないかもしれないけれどもたしかににある、けれど書けない、というモノですね。その表現しきれないモノを書こうとすればするほど、あたしの中にいる〈他者〉は顔を出します。そしてあたしの中にいる〈他者〉との共同作業のように、それをなんとか「書こう」とするプロセス、それが〈他者〉との会話です。そのことを「書くこと」で知ったわけです。(こういうことに興味のない人には、だからどうした、なのでしょうが)。

あたしの中にいる〈他者〉との会話はのたうち回りだ。

つまりそれは、欠如を埋めようと手探りで向かうプロセスなのでしょうが、そのプロセスが個体化(自分になること)なのだろうなと。そしてそれはいつものたうち回りなのですよ(なにせ語彙がない)。江が、のたうち回りながら、苦しみながら 『「街的」ということ』を書いたように、あたしものたうち回っていたりします。書いてる本人が悶絶しています。(この往復書簡もですね)。

それが「」や「われわれ」、つまりあたしの棲んでいる街の「街的」に、少しでも近づこうとするプロセスとしての「」なんだろうとは思うのですが、こうして自分の中に居る〈他者〉との会話を繰り返すことで、あたしは、信念を維持したり、時間とともに変化する自分を感じることもできているな、とも思うのです。

つまりあたしが「変化する」というのは、自分の中の〈他者〉が「変化する」のであって、その〈他者〉とは「われわれ」としての「」であり、個体化しようとするあたしなんでしょう。そのことで、あたしは未来予持が可能かも、なんて思うのですが、つまり過去にも将来にも責任がとれるのかもしれないな、と。それを「希望」だと言い換えても罰はあたんないでしょうし、つまりあたしは(浅草の)「街的」から希望をもらっているのだ、と。

街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」には泣ける

ある人達にとって、街は、「今-ここにある」もの(局所性)かもしれませんし、ともすれば、人為的に、補綴物によってしか構成されないものかもしれません。とすれば、江が言った《下町テーマパーク・アイテム》でも「街的」のようなものは再現可能なんでしょう(シミュラークルとしてね)。しかしそれには、「われわれ」がないし、アウラもないことで、そして生活がないことで、あたしの欠如を埋めてはくれません。つまりあたしの〈欲望〉の対象じゃない、と。

浅草の「街的」だけじゃなく、先日お邪魔した際に行った、大阪の「街的」を、京都の「街的」を、あたしは「われわれ」のものだと感じます。それは当然にルールの違う「街的」ですが、そこにある「媒体」にあたしの触角はビリビリと反応するわけで、その「媒体」こそが都会と対比したときの(もしくは「いなかもの」と対比したときの)「街的」なんだろうと思うのです。つまり種的「街的」の(類としての)「本質直感」ですね。それは欠如をもった者が感じる得る欠如の織物です。しかし問題は、

街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」

ということでしょうか。それはまず第一に、あたしの〈欲望〉の対象である街が、あたしがたどり着く前に消えてしまうという不安です。あたしは街がジャスコ化していく様を、シミュラークルで埋め尽くされる様を危惧しています。しかしこうも思うのです。《街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」》というフレーズがある限り、街はどんなにテーマパーク的になろうとも、テーマパークを飲み込んで「街的」であるだろう、と。

浅草のテーマパーク性を揶揄するむきもあるけれど、揶揄されて結構、浅草は確信犯なのである。浅草は世界一くいもののうまいテーマパークなのである。それも生活と見世物の区別がつかないべらぼうさをもって。テーマパークをなめちゃいけません―まえ田(前田食堂)のたんめんとやきめしでランチ。(奥山おまいりまち:浅草2丁目) from モモログ

《生活と見世物の区別がつかないべらぼうさ》とは、生きなくてはならない人間のかなしさです。江は、

かなしいというのは、痛いとか苦しいとかそういうものでなく、それは「誰かと別れること」や「何かをあきらめること」の必然的で根源的なかなしさです。そのかなしさが、わたしら街的人間をタフにするのでしょう。

と書いてくれましたが、「かなしい」とは「欠如」のことですね。それを「根源的欠如」などというつもりはありませんし、それはただ「かなしい」のだと思います。自分の過去の記憶と関わっている、すぐ身近にある過去を振り返つた瞬間に涙が出てくような「かなしい」でしょう。

だから、その欠如(かなしい)故の〈欲望〉の対象が「街的」なのだ、とあたしは言いたい。そしてその欠如(かなしい)を織り成すことで見える「媒体」が「街的」でもあるのだ、と。つまり、あたしたちが欠如(かなしい)を織り成す力(心)さえ持ち合わせることができるなら、「街的」は消えやしないのではないだろうか、と。(たぶん) 

「街的」が見えない人

しかし、この欠如を感じる触覚が働かないのなら「かなしい」は足りません。「媒体」は、「今-ここにある」ものとして、水棲生物の水のように身近すぎるのか、もしくはマーケティングやメディアによってただ与えられるモノとしての環境でしかなくなるのでしょう。であれば、その根源的欠乏は、つまりは〈欲望〉は萎えていくしかありません。

そこでの「街的」は、〈欲望〉の対象でもなく、《下町テーマパーク・アイテム》としてタダ消費されるモノでしかなくなってしまいます。魚が他の魚が水に濡れていることに気付かないように、魚には欲望がないように、あたしらは根源的に「かなしい」ものであることにすら気付かない。

」というものは、欲望が生み出すフィクションとしての根源的欠陥/起源の欠如だ。しかしこのフィクション(虚構)が成立するには、象徴すなわち自体愛的なフェティッシュ(欲望の対象となる「モノ」)が必要なので、消費(交換の原理)に慣らされているあたしは、「じゃがポックル」を瞬間的にフェティッシュにしているのである。じゃがポックルを手に入れたあたしは「私」なのか「われわれ」なのかそれとも「みんな」なのか。(北海道限定:カルビー) from モモログ

なので、欠如の穴埋めが、マーケティングやメディアによってただ与えられるモノでしかない人達は、「街的」という媒体を感じないのかもしれません。欠如は常に消費が穴埋めしてくれるものであり、水槽の中の熱帯魚のように、常につくられた環境で、「かなしさ」さえも常に(機能代替え的に)与えらるモノ(消費の対象)でしかないのななら、そこに〈欲望〉は生まれないことで、生活は、かなしさを売り物にしたの映画のキャッチコピーに取り込まれてしまうのでしょう。

もっと「かなしい」が足りない。

しかし今という時代の問題は、そんなことさえ超越してしまっているように思える今日この頃なのです。 それも「かなしい」が足りないには違いないのですが、しかしそれはマーケティングやメディアによって充足させられているから「かなしさ」が足りないのではなく、マーケティングやメディアのいうことの虚構を知りつつも、ただどうにもならない生活の諦めの帰結としての《「かなしい」が足りない》があるのではないか、ということです。

江は《「あらかじめ失われてそこにある」街の哀しさがあるわけです》と書きましたが、自分の生活というもが、あらかじめ失われたものとしてではなく、ただ「見捨てられたもの」としてあるのなら、自らの生活に起こるすべてのことに喜怒哀楽(感情)は付随しようもないのではないか。

あたしは、バロックの館破れかぶれのような無差別殺人事件のことを言っています。それは特別驚いてみせる必要もないのかもしれないのですが、ついさっきまでの、自分の生活をリセットするかのように、他者を傷つけ死刑になりたい、と。それをキチガイと言ってしまえばそれまでなのですが、あたしはそこに、とてつもなく孤独な個人の心象を感じます。 

日本の近代化の歴史は浅いですが、こと個をつくることにおいては、西欧のそれをはるかにしのいで孤独な個をつくってしまったのではないだろうか、と。しかしそれはバロックの館でいえば、1階のない2階だけの宙ぶらりんな(根っ子のない)個ではないのだろうか、と。

この宙ぶらりんの個は、饒舌すぎるぐらいに饒舌に〈他者〉との会話は試みてはいるけれど(想像界的接続の試みですわ)、いかんせん「」と「われわれ」がありません。だからそれは〈他者〉がいないことと同じであって、つまりは、自分の中にいる〈他者〉との会話でもありません。たぶん独り言なんでしょう。それはあたしがウェブを観察していて感じる気持ち悪さだったりしています。

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2008年06月29日 18:17

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