『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。
これはほんとはあたしのブログ用に書こうとしたのものですが、その内容からして大阪に届けた方がいいと勝手に思い、変則的に二回続けてあたしからの書簡となります。
週刊文春4月30日号
『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。
元「ミーツ・リジョーナル」編集長 江弘毅というクレジットは、(140Bの江弘毅しか知らない)あたし的にはなにか違和感がありますし、掲載されたものは江が最初に書いたものよりも、ずいぶんとカットされたんだろうなー感がありますが、今までの反ミシュランテクストとはちょっと違ったテイストは、ナイスフレーズが光っていました。
それは京都の料理人さんのことばの凄さなんだと思うのですが、特に「菊之井」店主・村田吉弘さんと、それに続く「瓢亭」の高橋英一さんのことばは、あたしの想像を遙かに超えたものであって、よくぞこんな言の端を拾ってきてくれましたと感謝なのでした。
「京都の料理屋というのは、それこそ十代、二十代もかけて茶屋からやってきて、料理を通じてお客や街と良好な関係性築いてきて、やっとわたしらがあるわけですわ。それは間口を狭くして代を継ぐことで、三百年、四百年と何代ものあいだに、法事や祝いや子供のおまんまと、お世話させてもろてきた。だからわたしらはこれからの日本料理というものを伝えて行かなあかん責任がある。ずっと何代もやってきた店が、たまたまその息子の代になり、出来が悪かったとしても、それをお客も店の回りもみんなで支えて守ってきた。でないと街(の人々)が困るからです。京都はそういう文化であり、そういう街なんです。だからうちのおばあちゃん曰く、百年ええもんやってたら、もう百年後はある。心配せんでもエエ」
そいう共同体的な街にミシュランが入ってきている。村田氏が続ける。
「そういうけれど、今年は一つ星とると、人間は助平なところがあって次は二つ星、さらに三つ星というふうになる。逆になったら店は潰れますな。その年、二、三年の評価で、星を増やしたり落としたりすることで、店が左右されること自体、そんなんで京都はええのんか、これからもずっと日本料理を伝えていけるのかという心配なんです」
村田氏は、掲載問題について、「瓢亭」の高橋英一氏に相談した。
(略)
高橋氏は、「ミシュランが来てなぁ、かんじのええ人やったわ。うちもどこにも組合とか一料理店としての立場もいろいろあるし、出る出ないはよういわんけど、まあ出えへん方がええわなあ」
と述べたそうだ。
その頃、すでに京料理店七、八件の店に承諾書が渡されていて、村田氏はおのおの相談されていた。その返答はどうするべきかを高橋氏に聞いたところ、
「ずっと持っといたらええんちゃう」
と答えたという。
痺れました。※1
こんなことはちょっとやそっとでは云えるものではありません。時間と手間が育てた人(職人)のことばです。贈与でしかない自分という個を孕む「店」という「作品」、その自信に裏付けされた閉じの強烈さ、けれど「作品」をハブにしてネットワークを構築できる開き。※2 こういう共同体性は、今は批判の対象でしかないのかもしれませんが(曰く、古くさい)、しかし個がたっているだけに強い。これにはあたしも降参です。参りました。
ミシュランは「まれびと」です。
あたし的には「ミシュラン東京版」をあんまし否定してはいないのです。
それはまず、浅草を完全に無視してくれたことに敬意を表してです。浅草に棲んでいますと、今回のミシュランの調査対象地域なんていうのは外国みたいなもんでして余所事なわけです。濱田家で飯を食うなんていうのは5年に1度の外国旅行です。非日常でしかありません。生活社会というか、(あたしの棲んでいる)浅草の日常とはルールが違う処です。
そんな外国と(あたしの日常である)浅草はライバルでもなんでもない。外国は外国、浅草は浅草です。外国と同じ土俵(グローバルスタンダード)に引っ張り込まれたらいけませんが、無視していただける分には文句はありません。
グローバルスタンダード、世界はひとつ、などと言う能天気な奴らが居ますが、そんなことはありません。(あたしの日常としての)浅草には結界があります。その結界を切れた方だけが浅草を楽しめていいのです。浅草のライバルは、同じく結界が張ってある東京ディズニーランドです。こっちにも生きのいいねずみは沢山います。最もあっちのねずみの王国はお金で結界破れますが、こっちはそうはいきません。
フランス版であろうが東京版であろうが、ミシュランは、あたしには、たいしてかわらない余所事なのです。なので好きにやっていただければ宜しい、と思っています。とは言え、そのうちミシュランも浅草へ不法入国してくるのでしょうが、そんときは「よろしくお願いしますよ、旦那さん」、と媚を売るのです。(笑) ※3
あたしはこんな塩梅でありまして、ミシュランはどうでもいいと云ってしまっています。それは「京都・大阪版」が出版されると聞いても同じであって、なぜなら京都も大阪も(そして浅草も)、ミシュランがやってこようが、テポドンが飛んでこようが、町内会がしっかりしていれば大丈夫だからです。
それは(日本における)ミシュランは、少々行儀の悪い「まれびと」でしかないということであり、ボジョレ・ヌーボーのようなものであり、最初は華やかなれどやがて悲しき、ホッピーよりも不味い酒がこの世にあるなんて、年に一度TV村が取り上げてくれなかったら、今頃みんな忘れています。
「まれびと」とは、あらかじめ予測される逸脱のことだ。
それは、システム理論的にいうならば、社会システムが、外側と内側の差異を、システム内に構築しているということであって、これはニクラス・ルーマンなんだわね。
つまり共同体は、クローズド・システムであることを意味しているのではなくて、社会システムは外部からくるもの(社会変化)を、内部にあらかじめ準備されている形式の中で捉え、その衝撃を吸収することができるようにしなくては、共同体としては機能しない(というよりも、存続不可能)だろう、と。
そのような共同体とは、江弘毅のことばなら「街的」であり、あたしのことばなら「町内会」である(たぶん)。※4
グルメポータルサイトとミシュラン
世間と象徴
今、インターネットには、ミシュランもかなわない読者数を誇るグルメポータルが沢山あって、あたしはそこからブログパーツ(店のデータ部分、住所とか地図とか)を借用するために(データの無限複製はデジタルであることの定義です)、嫌々ながらも店を評価しなくてはならない場合があります。星をつけるのです、ミシュランスタイルで。
星は五つが多いのですが、あたしはほとんど四つか五つをつけていますがそれは出鱈目です(そんなものまじめにやってられません)。
つまりグルメポータルサイトで店に星をつけ、評価のコメントを書いているのは覆面調査員なんてものじゃなく市中のフツーの人々、オーディナリー・ピープルでしかないわけで、その評価はカオスです。辛辣なものから店の回し者じゃないのかと思うようなヨイショまで玉石入り乱れ。しかしそんなことは本筋とは関係なく、これらのサイトを特色づける、つまりミシュランとの決定的な差異は、権威は存在しない、ということでしょう。
つまりは口コミ、どうでもいいような世間話なのです。しかしこの出鱈目も数の力は強烈に機能していて※5 それは自発的に形成されてきた感情でしかない強み、無償の行為だけがもつ無敵感(無責任とも云う)を纏います。これは「あらかじめ予測される逸脱」を超える可能性があり、ある意味恐い存在です。
しかしミシュランはフランス産だからか、スティグレールいうところの「象徴」※6 になりたい臭がプンプンします。それを嗅覚のいい方は本能的に、体質的に、嫌うのでしょが、けれどミシュランにとっての敵とは、象徴界には「世間」しかないという現実です。つまり象徴になりたくても象徴になれない現実がある。そこ(象徴界)には既に「世間」居座っている。それをミシュランは、グルメポータルとは違った手段を使って「世間」になりすますことで回避しようとしているように思えますが、それが幼稚なので笑えるのです。覆面調査という「顔なし」です。しかしそれは「あらかじめ予測される逸脱」でしかありません。
新聞のテクストが読むに値しないのは「私は、思う」がないからで、それは公正な言論という装いためなのだろうが、ほんとは「私は、思う」でしかない言葉(思想)を、「私は、思う」を棚に上げてしまうことで、テクストを「顔なし」にしようとする。
「顔なし」とは、ルネ・マグリットが 『夢の解釈』で表徴してみせた、万人のシニフィアンへの欲望である。
それが世間であり「みんな」であることで、マスコミは世論を動かせる力を持つのだけれども、「私は」と書く人は、自らを語ることで、言葉(思想)を〈他者〉(読者)に届けるしかなく、しかしそれは「私は、思う」だけ(の文体)ではできない。※7
ミシュランは予測できない逸脱になれるのか。
危惧といえば、ミシュランが予測できない逸脱になることでしかありませんが、それはミシュランの問題ではなく、共同体性の内側に起こる変化でしょう。いってみれば個人の心的システムで起こる助平心です。 「そういうけれど、今年は一つ星とると、人間は助平なところがあって次は二つ星、さらに三つ星というふうになる。逆になったら店は潰れますな。」これです。
こういう店ばかりになってしまったら、京料理も京都の共同体性も危ないでしょうが、あたしは今回の記事で確信させていただきましたよ。京都の「街的」はそんな個人の助平心まで織り込み済みであることを。
この助平心は誰にでもあるものです。否定しようったって出来やしません。ここに共同体(種)と個の葛藤が生まれる。「種の論理」(@田邊元)です。だからこそ自生的秩序(@ハイエク)としての共同体性はある。それは助平心に邁進するよりも有利に働くことになっている。助平心だけで破綻したのが金融資本主義ですから。
ではそれは何故か。
橋下知事はミシュラン歓迎のようですが
その「何故か」に行く前に、今回の週刊文春の記事は京都のことばかりだったのですが、大阪はどうなんでしょうか。橋下知事は無邪気に喜んでいたようですが、気になるところです。そして聞くところによれば、お好み焼きやたこ焼きも評価の対象になるとかならないとか。
それをやるのなら浅草にも来てほしいものです。内の近所に来て欲しい。ホッピー通りに来てほしい。牛すじ煮込みを覆面調査員に食わせたい。ホッピーをアジール的に飲んでほしい。なにしろ浅草も外国人ばかりなのですから、ガイドブックの対象としての資格はありますよ > ミシュランさん、と。
浅草的にはミシュランは大歓迎のはずです(たぶん)。それはミシュランと闘う一番の方法は対立しないことだからでしかなく、というよりもミシュランは闘う相手じゃないからです。※8 けれどミシュランは(本能的に)浅草には来ないでしょうね。と同じようにたこ焼きはやらないでしょう。
アジールだもの
ミシュランは権威、象徴になりたい(ついでにお金も儲けたい)欲動です。けれどお好み焼きやたこ焼きに権威も象徴もない。もちろんホッピー通りにもそんなものはありません。なぜなら「街的」はアジールだからで、ただ組合の原理で動いているだけの磁場だからです。
- 組合は非農業的、縁の作り出す社会的束縛からの自由の空間。平等。アジール。同一性をもたないトポス。
- 非農業民。非定着、無縁。「原始・未開以来の自由の伝統を生きるもの」。
- 「数の原理」で組織される。年齢階梯性(年齢や年次や受けたイニシェーションの回数など)。
- 「同一性」にかわっての差異を尊重。個性の重視。共同体との断絶
and etc.
アジールとしての街場は、その空間に迷い込んだ(逃げ込んだ)人々の、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証するために、むしろ共同体性を強めます。
保証するために結界を張らないといけない。
結界を張ることによって、人々の〈欲望〉の対象である、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証する。
これは客商売の究極のかたちだとあたしは思っています。
そして煮込み通り(ホッピー通り)が、こうして実際に人々を惹き付けているのは、この街の持つシステムが、「みんな」の〈欲望〉の対象になっているからでしかなく、商売が、人間の〈欲望〉の対象としての「商品」を提供することなら、煮込み通り(ホッピー通り)に限らず、浅草という「街」には、今までのビジネスモデルが生み出せなかった「商品」があるってことだろう。※9
つまりお客の〈欲望〉の対象である自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証することが、アジールである「街的」のメシのタネだということであって、だからこそアジールをつくりだすことができる共同体性を守らなくてはならない。それはなによりも自分のためにですから個人の助平心に邁進するよりも結果的に有利に働くから共同体性は優先させなくちゃいけないということです。これがDNAにすり込まれているのが京都の街場であって、「ずっと持っといたらええんちゃう」でしょう(たぶん)。
もちろんお客の自由の尊厳とはいっても、なんでも自由にさせるはずもなく、よそのお客様のご迷惑になりますからどうぞおひきとりくださいは、アジールの基本中の基本です。それらの自生的な明文化されないルールの集積が「街的」です。
ミシュランは「象徴」になりたい。
けれどそれがミシュランの限界です。
ミシュランは「象徴」になりたい。しかしそれはなんとも古くさいビジネスモデルで、このビジネスモデルは広義の「東京」(つまり田舎者のあいだ)ではかろうじて通用しますが、狭義の大阪や京都、そして浅草でやろうとするなら、ミシュランは自滅することでしょう。
なにしろ「象徴」は機能しないのに、象徴のふりをしたものが、あたしらと同じ地面に降りてこなくてはならないのです。ミシュランは高見からあたしらを見下ろしているから象徴(のようにみえる)のであって、悔しかったら食ってみろ、貧乏人!、これです。だからあたしは五年かけて金をためて、くってやるぞ!なのですが、これを自分で否定したらミシュランはミシュランじゃなくなるしかないのです。
あたしはミシュランが、お好み焼きやたこ焼きもやるかもしれないと聞いて笑ってしまいました。フツーの神経ならやらないでしょうね。ただの自殺行為かやけっぱちかポーズです。あかんではないか、です。しかしもしやるのなら、どんな方法でやるのかをみたい気持ちもあり、そんなもので、ミシュランがお好み焼きやたこ焼きに来てくれるなら(もちろん浅草もですが)大歓迎でよろしいと思うのです。ミシュランが来たところで「街的」は「街的」のままでしょう。
というわけで、あたし的にはミシュランはほっといていいのですが、今回の記事のおかげで、あたしは値千金のフレーズに巡り会えたのですから、江にはミシュランをもっとかまってほしかったりしています。できれば「大阪版」も読みたいのですよ。勝手な希望ですが。
PS.デュカスのいかしたフレーズ
ところで、今回の記事のなかで一番いかしたフレーズは、アラン・デュカスさんのものでした。
〈日本の文化についてじぶんが感じているのは(略)「地方にある」ということです。「地方にある」ことによって、歴史が深く保たれていて、動かない。人間がいて、歴史があって、ストーリーがあって、言い伝えがあって、習慣がある。そういった中で、料理は生まれてくるものだと思います〉
あたしは浅草に棲んででいながら地方を考えることを生業にしていますが、今、こんなことをいえる日本人が何人いるのかと思うと、気分は限りなく真っ黒に近いブルーです。
地方を壊せば、都市部も壊れる。これは開発主義の定理です。デュカスさんのフレーズをそのまま使えば、〈都市の文化についてじぶんが感じているのは(略)「地方にある」ということです。「地方にある」ことによって、歴史が深く保たれていて、動かない。人間がいて、歴史があって、ストーリーがあって、言い伝えがあって、習慣がある。そういった中で、都市は生まれてくるものだと思います〉
これに比べればミシュランなんかどうでもいい問題でしかなく、なのでデュカスさんにとってもミシュランはどうでもいいのだと思いますが、これが云える料理人であるデュカスさんの料理は、きっといけてると思います(食べたことがないのでお金を貯めて食べにいきたく思います)。
ブノワとしては歓迎いたしますが、我々にとって重要な課題ではありません
痺れました。
※注記
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ここにあるのはあたしの〈欲望〉の対象ですが、〈欲望〉しようとも(入りたくとも)絶対に叶わない(入れない)共同体性と時間と個です。 この閉じ具合は(想像はしていたとはいえ)浅草もかなわない。「うちもどこにも組合とか一料理店としての立場もいろいろあるし、出る出ないはよういわんけど、まあ出えへん方がええわなあ」なんて、ほとんど絶滅危惧種でしかない地方(の建設業界)にかつてはあったけれども今はない――あたしが〈欲望〉しつづけているものです。
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建設業界になかったのは、「作品」への自信です。だから「作品」に裏付けされた閉じの強烈さ、けれど「店」という「作品」をハブにしてネットワークを構築してきたという強かな開きがありません。
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『古代から来た未来人折口信夫』 中沢新一を読む。 from モモログ 参照
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ロングテールの集合のようなもの。この強力さはインターネットで検索すればすぐにわかります。あたしのサイトのグルメ部門は、この「世間」=「みんな」に対する、あたし個人の闘い(それもインターネット=「世間」=「みんな」を味方につけること)の可能性の検証としてはじまりました。
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象徴の貧困。(ベルナール・スティグレール) from ももち ど ぶろぐ 参照
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『経済成長という病―退化に生きる、我ら』 平川克美を読む。 from モモログ 参照
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喧嘩しない戦略、若しくは口喧嘩世界最強という話。 from モモログ 参照
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「昼間から飲める店のある街というのがいい街なんだよ。」の簡単な解説。 from モモログ 参照
2009年04月22日 14:03
コメント
ももちさん
連日コメントさせていただきます。恐れ入ります。(汗
ミシェランなんか、わたしにとっては完全に無縁の存在ですから、かつて意識したこともなかったのに、こうやって取り上げられるとなかなかに面白い現象ですね。
わたし自身は「下克上」という言葉を思い浮かべました。(笑)
文春あたりに取り上げられ、「一見お断り」という記事を書かれるということは、もはやミシェランの格付けにはかつてほどの権威や力はなく衰退傾向であるということでしょうね。
一方、本国では飛ぶ鳥の勢いだったアラン・デュカスは日本人を舐めたのか、日本の店では手抜きのし放題で客から総スカンを食らい、ミシェランからは星ひとつしかもらえず、舞浜、銀座、青山と次々に閉店のうきめにあった。しかしこれは「ブノワ」が悪い。少なくとも「ブノワ」に関してはミシェランの評価は正しかったというのが大勢のようです。
ここへきてアラン・デュカスがミシェラン批判に江氏をかつぎ出したわけでもあるまいが、関係はあるみたいだし、ミシェランの株が落ちれば相対的にアラン・デュカスの票が上がるのでしょうか。
わたし的にはどちらもどうでもいいわけですが。この記事の数ヶ月ほどまえから「ブノワ」が急にマスコミに頻出し、グルメ雑誌で取り上げられるようになったのはなにか関係があるのかなあと思いまして。
いやはや、うざい世界です。
でもわたしは桃知さんの意見に賛成で、「田舎者」の「夢」を取り上げる権利はだれにもない。一生懸命汗水たらして働いて小金を貯めた「田舎者」が結婚式や銀婚式にミシェランの三ツ星レストランで一生に一度の食事をしようね、ってのはべつに悪くはない。むしろそのように機能するならミシェラン結構、毛だらけです。
わたしはいかないけど。(笑)
投稿者 イカフライ : 2009年04月22日 22:51
前記事 語彙訂正:
ミシェラン→ミシュラン
投稿者 イカフライ : 2009年04月22日 23:09
非常に重要だと思いますので、参考までに一読いただければと思います。
『ミシュランガイド京都・大阪』衝撃事実発覚!
名店「京都吉兆」「菊乃井」が……
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20090604/1026731/
投稿者 momo : 2009年06月16日 19:54
桃知さんが書かれていることもわかりますが、それ以前の問題として、大阪京都版に関してはミシュランですらない、ミシュランもどきとしか呼べないという笑うしか無い事実があります、或いは
東京権威主義者がミシュランを担ぎだしてまでして
「東京には美味いものなし、美味い料理は上方、大阪京都にあり」という一般的なイメージを覆し、美食都市東京!東京は素晴らしい!偉い!さすが東京!!とそのナルシシズムに酔うというギャグシーンを演じる為にのみ(あの姿を見ていると、今までよほど鬱屈した感情があったのだろうなと不憫にさえ思えますが)ミシュランの名前を借り出したという事実だけ。
其処にあるのは真摯に受け止められ味あわれた料理ではなく、料理人も素材もすべてを無視して予定調和的に設えられた東京賛美だけであり、そんなモノに、公平さの欠片も無く引っ張り出され無理やり付き合わされたあげく、東京より星が劣ると勝手に決め付けられた上方としては、呆れるしか無いのですが。
まずこの茶番自体の滑稽さにこそ、言及していただきたいと呟く通りすがりです。
失礼いたしました。
投稿者 通りすがり : 2010年02月02日 17:42
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