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高台の街で、戦争のない世を想う。 こうようえん(甲陽線/西宮市) 2023.5.18

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 阪急夙川駅を発車した電車は、夙川沿いをゆるやかにカーブしながら甲山(かぶとやま)に向かってのんびり走り、たった5分で終点の甲陽園駅へ到着する。西宮市北部のこのエリアは、大阪で財を成した経営者たちが大正時代から邸宅を構えた「西宮七園(ななえん)」の一つでもある。ちなみに、残り六園は、甲子園・甲風園・甲東園・苦楽園・香櫨園・昭和園だ。

 高級住宅街のイメージとはいい意味で違った、簡素な駅舎を出て右へ1分ほど歩くと[ケーキハウス ツマガリ甲陽園本店]がある。喜ばれるおつかい物として阪神間で不動の人気を誇る洋菓子店。周囲にいくつもツマガリの工房があり、さながら“ツマガリ村”といった様子。オーナーシェフ・津曲孝氏の厳選した素材と丁寧な手作りへのこだわりから、梅田と神戸の大丸にある店舗では生菓子を扱っておらず、ケーキやシュークリームが購入できるのは、ここ甲陽園本店だけなのだ。

 少し歩き、TOKKで取材した蕎麦処[甲陽園 喜庵(よろこびあん)]を左折して、閑静な住宅街の急坂を10分ほど「アンネのバラの教会」目指して上ってゆく。綱本さんは軽快に歩いていくが、私は息が切れてしまう。汗をかき、もうダメだ、休憩したいと思ったその時に、レンガ造りのバラ園と可愛らしい教会が現れた。

 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れ、隠れ家で『アンネの日記』を書き続けたアンネ・フランク(1929-45)。わずか15歳で命を落とした少女の平和を求めるメッセージは、父親であるオットー・フランク氏(1889-1980)によって1947年に出版され、世界中で読まれるようになった。遠く離れた日本の西宮にあるこの教会とアンネには、どんなゆかりがあるのか紐解いてみることにした。

バトンを受けたのは自分かもしれない

 1971年のある日、イスラエルを演奏旅行中の「聖イエス会 しののめ合唱団」の一員だった大槻道子さんが、オットー氏と偶然出会ったことから物語は始まる。

 聖イエス会は、大槻道子さんの父・大槻武二氏(1906-2004)が、戦後間もない1946年に創立。1971年に平和事業の一環として、嵯峨野教会の聖歌隊を母体に、各地の聖歌隊から選抜された「しののめ合唱団」を創設した。平和を願う歌を届けるため、世界各国へ何度も演奏旅行に赴いたが、その初年度に、オットー氏との出会いがあったのだ。イスラエル・ナタニアのレストランで食事を取っていた合唱団に、一人の紳士が「私は世界で最も平和を愛する者の一人。アンネ・フランクの父です」と話しかけたという。合唱団はとても驚いたが、割れんばかりの拍手でその出会いを祝福した。

 アンネと同年代であり、『アンネの日記』を愛読していた大槻道子さんが代表として手紙を書いたことで、オットー氏との交流が始まった。すると、1972年のクリスマスに、オットー氏から「アンネ・フランクの形見」という名のバラの苗木が届けられた。その苗木を大切に育てて増やし、平和を願って全国へと届けるうちに、その心を次世代にも受け継ごうという機運が高まり、アンネの生誕50年を記念して「聖イエス会 アンネのバラの教会」の建築が決まった。

 高台から穏やかに街を見晴らすこの地が選ばれ、1980年に献堂。教会の完成をとても喜んだオットー氏からは、貴重なアンネの遺品や写真などが贈られた。今も併設する資料館で大切に保管され、見学することができる(要予約)。そして、アンネの形見のバラは、バラ園で毎年きれいなサーモンピンクの花を咲かせ、そっと平和を伝え続けている。

 一人の少女が綴った文字が世界に平和を訴え、友情で結ばれた手紙が、この場所を作った。文字の持つ力は、時も距離も超える。なんて強いんだろう。世界で戦争はいまだ終わらず、もしアンネの日記が続いていたら、何を綴ったであろうか。オットー氏が「最もアンネらしい」と語ったという、バラ園に佇むアンネ像は、心なしか物憂げな表情に見えた。

◯参考資料