名実ともに阪急の顔である大阪梅田駅から神戸線の普通に乗って、次の駅が中津駅。十三側の駅ホーム端では、両側の点字ブロックがくっついていて、「黄色い線の内側」がないほど、ホームが狭い。改札を出ると目の前に、昭和32年(1957)創業の大衆酒場[いこい食堂]が健在だった。隣の洋菓子店[ファーストコンフェクト]との並びは、昭和ムード満点だ。大阪梅田駅から直線距離で650mほどしか離れていないのに、どうしてこんなに違うのだろう。
中津駅付近を地図で見てみると、川と線路と道路の輪で、他のエリアから切り離された街だということがよく分かる。北と西は淀川、東は梅田貨物線(現・JRおおさか東線)が走り、南は国道176号。こうした地理的な特性に加え、駅北側が大阪の戦災を免れた地域であることが重なり、昔から変わらぬ街並みが残されているのだろう。大都市・梅田のそばにありながら、人に対する寛容さと、ゆるやかな時間が流れる中津は、自由を愛する人たちを惹きつけ、伝説のインドカフェ[カンテ・グランデ]や、フリーダムなカフェレストラン[中津芸術文化村ピエロハーバー]を生み、最近では「スパイスカレーの聖地」とも呼ばれている。
高架をくぐって、南側へ出る。細くて長い階段が見え、高架の上に出られそうだったので、上ってみる。たどり着いたのは、目の前を車がビュンビュン通る国道176号の歩道で、すぐ脇には阪急の線路。道路沿いにビルが立ち並び、階下の街並みとの激しいギャップに、どっちが現実か一瞬戸惑ってしまう。さらに、国道の向こうに望むのは、最先端のうめきた地区。大阪の数十年を一気に早送り体験できるこの階段は、うめきたエリアが完成した暁には、名もなき街の名所になるかもしれない。
「北梅田」ではなく、ここは「中津」だけど……
駅へと戻って、北側を探検する。お目当ては、[カンテ・グランデ中津本店]のカレーとチャイ、[Gallery Yamaguchi kunst-bau(ギャラリー ヤマグチ クンストバウ)]だ。まずは、中津中央公園を抜けて「中津商店街」を進むと、あれ? アーケードの屋根が開いて空が見える。商店街は既に商いをやめたお店もあるが、ネパール料理店や美容院、設計事務所、駄菓子店など、中津に愛着を感じた人が新たに開いたおしゃれなお店もぽつぽつと誕生している。
そういえば、本連載の前身・TOKK「阪急沿線ちょい駅散歩」(2008〜16)のディレクターが、商店街にある設計事務所に中古マンションをリノベーションしてもらい、中津で暮らしていた。社内には同世代で子育てをしている人がいなかった私にとって、彼女は1年違いで最初の子どもを産んだ貴重なワーママ同士。よく仕事のやりとりのメールの最後に、保育園情報やお出かけ情報を書いて交換していた。子どもの発熱で取材の代役を同僚に頼む申し訳なさや、仕事が好きでそちらを優先したくなってしまう母としての葛藤……。会えばそんな話をポロリとこぼしつつ、働きながら子育てする怒濤の日々を共に過ごしてきた。
「必要なときだけ都会に行けばいい、という程よい距離感が気に入っていた」と、彼女は中津の暮らしを話してくれた。アーティストやデザイナーといったクリエイティブな職業の人が多く、ユニークな個人経営の店があちこちにあり、イベントに行けば知人と会うなんてこともしょっちゅう。地元のつながりが楽しい街だという。だが、住んで10年のうちに、中津の“梅田化”は進み、家賃が上がり、新築の建物名には「北梅田」と冠されることが多くなった。「この流れは止められないだろうな」という彼女の言葉通り、中津はいま過渡期にある。
佐伯祐三もウルフルズも中津から出た
[カンテ・グランデ中津本店]は、マンションの地下にある。外からは生い茂る緑に囲まれて、お店があるかどうかすら分からない。手書きの小さな看板に誘われて階段を降りると、あっと驚くほどの開放的なエントランス。鮮やかな緑の窓枠のガラス張りの店内は、席と席がゆったり配置され、インドの雑貨やアート作品がのびのびと飾られている。色彩にとぼしかった中津の街から、鮮やかで生命力ある世界へ旅した気分! ロックバンド、ウルフルズのトータス松本が、系列の大阪マルビル店で働いていたウルフルケイスケとジョン・Bに出会ったという「伝説のバイト先」としても知られている。1995年に発売された彼らの曲「大阪ストラット・パートⅡ」の「カンテGでやっぱチャイとケーキ」という歌詞は、このお店のことなのだ。
[カンテG]は1972年にオープンしてから、本場・インドの紅茶を大阪に広め、特に「炊き込みミルク茶」として出したチャイが評判に。音楽やアート、料理人など、夢を追いかけながらアルバイトをする若者が集うカルチャー濃いめな空気は、半世紀変わらずここを満たしている。
カンテを出て、淀川の方へぶらぶらと歩く。綱本さんの知人の美術家・北𡌛(きたの)吉彦氏が個展をしているということで[Gallery Yamaguchi kunst-bau]へお邪魔した。オーナーの山口孝さんは、関西のアートシーンに欠かせない一人。現代美術のアートフェア「ART OSAKA」の前身「Art in CASO」を2002年に立ち上げ、良質なギャラリーがきちんと選んだ現代美術作家を紹介する場として、「売れたら良い」のアートフェアとは一線を画したコンセプトが、美術関係者から熱く支持されている。20年の歴史の中で堂島ホテルを会場にするという、今も人気のアートホテル型の展示にもチャレンジし、全国へと広がった。代表を2012年に交代した後も、理事として継続的に関わっている。自身のギャラリーは、堂島、大阪港、曽根崎と移ってきたが、コロナ禍に、倉庫のつもりで借りていたここへ移転したという。
北𡌛さんの作品は、日本の古色を塗った板が、ギャラリーの壁に等間隔に掛けられたもの。よく見ると、その板は廃棄されたノートパソコンのディスプレイ。思いもよらない素材に驚いていると、綱本さんが「大量に廃棄される電子機器への批判とも取れますね」とつぶやいた。作家のメッセージに思いを巡らせ、作品を鑑賞する。現代美術ってよく分からなかったけれど、初めて面白いなぁと思った。ギャラリー自体は予約制だが、21時まで照明がついており、大きなガラス戸から、中の展示が楽しめるようになっている。街を歩いていて偶然アートに触れられるなんて、素敵な仕掛けだ。
そこからほんの3分ほど歩いたところにある光徳寺は、30歳で夭逝した洋画家・佐伯祐三(1898-1928)の生家。あまり寺には見えない外観の建物だが、敷地内には生誕の碑と墓所があり、今もファンが訪れる。パリを躍動感ある筆致で描いた佐伯氏の絵に魅了された、実業家で美術収集家の山本發次郎(はつじろう/1887-1951)は、佐伯作品を熱心に買い集めた。最大で150点ほどあったコレクションは、戦火で大半が焼失してしまったが、山本の強い使命感をもって、疎開により守られた33点が、1983年に遺族から大阪市に寄贈された。この山本コレクションが核となり、約40年の時を経て、大阪中之島美術館の開館へと結実。大阪が誇る近代美術館の源流が、まさか中津にあったとは。取材を終え、地図を再び見てみれば、四方を囲まれたような中津の街が、アートやカルチャーを育むゆりかごに見えた。