大阪・京都・神戸 街をよく知るからこそできる出版物&オリジナルメディアづくり
『大阪キタと中之島 歴史の現場 読み歩き。』の著者・松井宏員(ひろかず)さんがナカノシマ大学に登壇します

教科書や大河ドラマでは分からない大阪の歴史を知って、歩くことのおもしろさを伝えてくれる松井宏員さんの新刊『大阪キタと中之島 歴史の現場 読み歩き。』の発売にちなんで、6月30日(木)18時半から、大阪府立中之島図書館3階にてナカノシマ大学を開催します。

お題は「天満堀川・蜆川……消えた川と橋」の話。

艶っぽい花街(かがい)のシンボルだった川

曽根崎川(蜆川)跡の碑

国道2号から南に入った「北新地中央河庄筋」にある曽根崎川(蜆川)跡の碑の前で。「河庄」とは『心中天網島』で治兵衛が小春と手を切る決意をする「河庄の場」の舞台となった茶屋[河庄]のこと。背中は松井宏員さん(2020年7月1日撮影)

大阪市北区のど真ん中には、ほんの100年前まで北新地の北側(曽根崎新地)と南側(堂島新地)を隔てる蜆川(しじみがわ)という情趣満点の川が流れていました。大江橋の近くで堂島川から分かれ、中之島の西側あたりでふたたび堂島川に合流する細い川です。

文楽や歌舞伎でおなじみ近松門左衛門の名作『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』(享保5年〈1720〉)はこの川なしには生まれませんでした。いまやだだっ広い交差点でしかない「桜橋」かいわいも、当時の絵が示すような艶っぽい風景でしたが、現在はアバンザ堂島の北側に石碑が残るのみです。

その桜橋からもう少し東に行った、御堂筋沿いの滋賀銀行梅田支店の場所には、蜆橋(しじみばし)が架かっていました。新撰組の芹沢鴨や沖田総司らが大坂相撲の力士らと衝突し、流血の惨事が繰り広げられたのはこの橋の上。

そういう事件もありましたが、昔の旦那方が小舟で北新地の料亭に乗りつけていたとは、夢のような話ですね。しかし明治42年(1909)の大火災「北の大火」によってこの川は瓦礫の捨て場となり、やがては埋め立てられてしまいます。

240年の歳月をかけて完成した「扇」の形

太平橋の親柱

太平橋の親柱はしばらく放置されていたが、大阪府が堂島川沿いを整備した際に小さな公園が造られ、親柱もそこに設置。すぐ横にある乾物問屋[北村商店]には古い土蔵や家屋が残る。左は松井宏員さん(2020年7月15日撮影)

もう一つの天満堀川(てんまほりかわ)は、豊臣秀吉の時代(慶長3年〈1598〉)に、天神橋の北詰を西へ300メートルほど行った場所からいまの扇町公園の辺りまで開削されました。

天満堀川の河口にある太平橋(たいへいばし)を少し北に行くと、道路脇に樽屋橋(たるやばし)の親柱があります。酒樽や醤油樽の材料となる材木商が軒を並べていた樽屋町に架かった橋で、井原西鶴の名作『好色五人女』(1686年)の一つ「樽屋おせん」はここで生まれた話。浪曲師・春野恵子の十八番でもあります。

その後、幕末の天保9年(1838)に、大塩平八郎の乱を鎮圧した幕府が天満堀川を北東に延伸させて大川と繋ぎ、大川をショートカットする「バイパス」となります。同時に、天神橋筋にかかる扇橋(おうぎばし)を「要」にして見事な扇形が完成されました。

扇橋の周辺に「扇町」という地名が生まれたのは、この川が水をたたえていた大正13年(1924)のこと。けれど天満堀川も、水運の衰退と共に用済みとなって昭和47年(1972)に埋め立てられてしまいます。川は道路となり、さらにその上に阪神高速道路守口線が建設されました。

實地踏測 大阪市街全圖

明治44年(1911)の『實地踏測 大阪市街全圖』(国際日本文化研究センター所蔵)には、蜆川・天満堀川の両方が記されている。◯印は扇橋

蜆川も天満堀川も、「川」であった面影は年々少なくなってきていますが、それでも北区内を歩くとかつての「名残」を思わぬ場所で見ることができます。

いつもの「都会」の風景をガラリと変え、知らない大阪の歴史に連れて行ってくれる「消えた川と橋の話」、どうぞご期待くださいませ。

受講申込はこちらから

https://nakanoshima-daigaku.net/site/seminar/article/p20220630