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鷺珠江さんから河井寛次郎と民藝、リーチバーの話を聞く

担当/中島 淳

2週間後の4月23日(水)に迫ったナカノシマ大学「炎の人、言葉の人。生誕135年、陶工・河井寛次郎と大阪」に登壇される河井寛次郎記念館学芸員の鷺珠江さん(寛次郎の孫)に、ゆかりの地の一つ、リーガロイヤルホテル1階の[リーチバー]でお話を聞きました。こちらをご覧ください。https://www.theroyal.rihga.com/story/2025_butai-kawai-kanjiro/

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筆者は京阪七条から東大路通を歩いて訪ねることが多く、その場合は「馬町」交差点から西に入り、最初の角(市川屋珈琲)を右折するとこの外観が見える

筆者の「河井寛次郎」のとっかかりはご本人ではなく(亡くなったのは小学校2年の時だったし)、15年以上前に京都の雑誌『キョースマ!』(淡交社)を編集していた関係で記念館にお邪魔した際に案内してくださった鷺さんがはじまりだった。

仕事で毎日のように京都のいろんな人と会うことがあり、勉強になることは実に多かったがその反面、「あ〜、ここに住んでなくてよかったわ〜(京のみなさんすみません)」と感じていた自分にとって、上機嫌な空気を振りまいていた鷺さんとの出会いはとても新鮮だった。

そのときか(あるいは次のとき)、鷺さんが「よろしかったら母とお話ししませんか」とおっしゃってくださり、離れにおられたお母さまの須也子さん(故人・寛次郎の一人娘)宅に図々しくホイホイとお邪魔し、記念館となる前の河井寛次郎宅を建てた当時のお話などを聞いた。

須也子さん的には、寛次郎の図面に従って現場で奮闘していた大工さん(寛次郎の兄)がとてもカッコよく、まだ子ども心にも「色気のある人」だったと楽しそうに語っておられたのが忘れられない。

「鷺さんに輪をかけて上機嫌オーラがスゴい」

もうすっかりリラックスして、その時から「この母娘を育てた河井寛次郎という人は知る価値のある人だ」と思った次第で、大作家には申し訳ないが陶芸作品から入った訳では決してなかった。そんなアプローチもたぶん寛次郎さんは許してくれるかと思う。

誕生から105年。大正9年(1920)に寛次郎が開いた「鐘溪窯(しょうけいよう)」。記念館の敷地奥

筆者は作品も好きになったが、それ以上に河井寛次郎の「言葉」のファンになった。世界のどこの国の、どんな仕事をしている人間の心も射抜く言葉が実にたくさんあると思う。例えばこちら。

「新しい自分が見たいのだ−−仕事する」

 

「自分探し」の旅なんかしなくても、日々の仕事の中に好きな自分も嫌いな自分も古い自分も新しい自分もぜ〜んぶ出てくるのだなぁと、短いが強いこの言葉にいつも感じ入っている。

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河井寛次郎記念館にも似た、このリーチバーの空気に改めて浸りたいと、昨日、大阪中之島美術館の帰りにお邪魔したら、なんと火曜日だけ定休日でした(涙)。みなさまどうぞお気をつけられたし。

リーチバーにて鷺珠江さん。視線の先には祖父の作品がある(撮影/川隅知明)

ちなみに、ナカノシマ大学の申込状況は85%を超えているので、みなさんどうぞお早めに。

こちらからアクセスしてください。https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250423