• その24

ここは水惑星サンズイ圏【後編】 ―その角を曲がれば水地名― 2023年1月11日

loading

つぶらな津村

⑬圓江(円江)はどこ? 図は露天神境内(図中の現在地)のシャッターに描かれた「大阪之古図」

 津のつく地名のバリエーションに、中央区の北御堂(西本願寺)があります。南御堂(東本願寺)と並んで御堂筋の名の由来になった有名寺院です。「どこに津がつくの」と言われそうですが、北御堂の別称は津村別院。「つむら」とは近隣一帯がかつては円江(つぶらえ)と呼ばれた入江だったのにちなみます。
 「えっ、御堂筋もビーチやったん」と、驚かれた方は海に浮かぶ島々を描いた古い大阪図をご覧ください⑬。福島、中ノ島(中之島)、船場などといっしょに圓江(円江)が載っています。池の形になっているのは、淀川の流れが運ぶ土砂で陸地化が進み、入江が閉じたのでしょう。
 円江の記憶を伝える場所は他にもあります。津村御堂の近くにある御霊神社は、別称が円江神社。つぶらな瞳のような入江がそこにあったと、神社名が伝えています。

すみえの津守

⑭津守町東・津守町西(中上・中下) 南海汐見橋線津守駅・大阪市詳図・昭和30年代後半・人文社 ⑮津守廃寺解説板を掲げた住吉区墨江の墨江小学校

 津のつく地名をもうひとつ。西成区の町名の津守は、かつての海辺の呼び名だった津守の浦にちなみます。「津守1丁目の南海汐見橋線津守駅⑭」と書いただけでサンズイの字が続々あらわれ、橋の字のおまけもついて、水辺をアピールしています。難波津を守るとの意味で津守との地名由来をきけば納得。汐見橋線は道頓堀川に架かる汐見橋にちなむ名で、始発の駅名も汐見橋駅です。
 古い地名にも津守郷、豪族の名に津守氏があります。一族は津守連(つもりのむらじ)の称号を得て、後には住吉大社の神職を代々務めるようになりました。津の水脈は地名だけでなく人名にも及んでいます。 「そういう話こそ、こっちに来てやって」と、手招きするのはランドセル姿の児童です。住吉区の墨江(すみえ)にある墨江小学校に掲げられた「津守廃寺」の解説板を指さして⑮、「津守さんの寺が今はうちらの学校や」と教えてくれました。解説板を見ると、白鳳時代(7世紀後半)の古寺の存在を示す丸瓦や土器が当地で発掘されたと書かれ、古寺は古代氏族の津守氏にちなんで津守廃寺と呼ばれたとあります。さらには、古寺の後身と推定される延喜元年(901)創建の津守寺が明治元年(1868)まであり、その跡地に墨江小学校が建っているとのこと。解説の文章に、津守さんの二つの寺をめぐる1300年余の時の流れがぎゅっと詰まっています。

そこは入江の入江

⑯野江水神社には水流地蔵も祀られている ⑰テレビ出演もあったという野江水神社の御由緒 ⑱野江東之町・野江中之町・野江西之町・京阪野江駅(中上) 大阪市詳図・昭和30年代後半・人文社

 墨江、円江と江のつく地名が出ました。「江」もまたサンズイつきで、水地名のしるし。ここからは、江に話を移します。まずは大阪メトロ谷町線野江内代駅近くの野江水(のえすい)神社から⑯⑰。祭神は乙女の姿の水の神とされる水波女大神(ミズハノメノオオカミ)。この地域に多かった水害に備えて、三好政長という戦国武将が祀りました。
 神社は後に羽柴秀吉に崇敬され、江戸時代には度々の洪水にも被害を免れるなど霊験を示したと、由来書に記されています。神社がある野江は現在の城東区の町名⑱で、かつての難波江(なにわのえ)から転じたとされる呼び名です。難波江が古代の大阪の入江をあらわすのは、もうおわかりでしょう。野江の一帯は、難波江の奥の淀川河口に広がっていました。
 三好政長の榎並城があった榎並(えなみ)という旧地名も入江の南を意味する江南(えなみ)から転じたとする説があります。榎並は現在の町名に残っていませんが、榎並城は野江神社と同じ場所とする説が有力。城と神社が都島区内代町と城東区野江の境界エリアに建てられたのは、一帯が周囲よりやや高台になっていたためと思われます。そんな地の利の裏づけが、水害に強い野江水神社にはありました。

難波堀江が堀江になるまで

⑲堀江川跡の碑は南堀江の堀江公園にある ⑳巨大池の堀江(架空地名)は四天王寺の隣り。露天神境内のシャッターに描かれた大阪之古図 ㉑家具の町ニューバージョン、近年の堀江立花通り界隈

 江のつく地名では、ミナミの一角を占める堀江(西区)も見逃せません。そのはじまりは、河村瑞賢による元禄11年(1699)の堀江川の開削です。新しい川沿いに店ができ相撲興業が行われ、堀江新地ができました。若者に人気の今の堀江は、江戸時代の新地の転生した姿です。堀江は通称で、エリアは南北を長堀通と道頓堀川、東西を阪神高速道路と新なにわ筋で囲まれた四角い区域。町名は北堀江と南堀江です。エリアの中心を東西に流れた堀江川は昭和の高度成長期に埋め立てられ、すでにありません。
 堀江川の命名由来は不詳ですが、堀江といえば思い出されるのは『日本書紀』に記された難波堀江(なにわのほりえ)です。仁徳天皇が治水のために掘った運河、河内と大阪湾をつなぐ画期的な大工事として江戸時代にもその名は知られていました。新しい運河は、難波堀江にあやかって堀江川と呼ばれたのではないでしょうか。
 ちなみに、中世以前の大阪を描いたとされる古絵図には、四天王寺の近くに巨大池の堀江があるものが多いです。それらの古絵図は江戸時代後期に広まりました。実際にはない巨大池が描かれたのは難波堀江の伝承によると思われます。河村瑞賢の堀江川も同じ伝承が背景でした。 「私の頃は、難波堀江が堀江にあったと小学校で習いました」との声は誰でしょう。「山根と申します」と名乗るあなたは、古代の都の難波宮の発掘で名高い山根徳太郎博士(1889~1973)でしたか。子供時代を堀江で過ごされたんですね。地元の小学校の授業でそのように教えられ、中学校に上るまで信じていたと著書『難波の宮』に書かれていたのを読みました。出てきていただき、光栄です。
 少年山根徳太郎は堀江が難波堀江ではないと知り、歴史の謎に挑む考古学者になりました。「難波堀江は今の大川で、難波宮は大川を見下ろす高台に築かれた頂上の都でした」と、山根博士。大川は中之島東端から毛馬までの流域名。大極殿(だいごくでん)の発掘で難波宮の存在が証明され、古代史が書きかえられたのは昭和36年(1961)でした。
 さて、難波堀江は大川、難波宮は史跡公園になり、今やおなじみ。堀江の街も由来から独り歩きし、アメリカ村の西でもうひとつの賑わいをみせています。来年(2023年)は山根徳太郎没後50年です。

堀江川はなぜ江がつくのか

㉒墨江・墨江小学校(中左)沢之町(中下)住吉神社(左上) 大阪市詳図・昭和30年代後半・人文社 ㉓浅沢神社の池の杜若が咲くのは初夏 ㉔石碑の後ろの細江川のせせらぎは冬涸れしていた

 「なんで堀江に江の字がつくの」と不思議そうな声は、津守の話に出てきた墨江小学校からです。なるほど、江は入江の江ですが、ルーツとなった堀江川は入江とはいえません。難波堀江がルーツだからと答えるのは簡単ですが、「その難波堀江にも江がつくのはなんで」と、問いが続きそう。ここは、大阪湾にそそぐ木津川の流れを街なかに掘り入れた堀江川は海からずっとぐっと深くて深い入江だねと、答えてみましょう。
 第11回では島が山と呼ばれた話も出ました。ひとつの風景を川とも入江とも呼ぶ自在さが、地名世界の面白さです。「そっか、それで墨江小学校の墨江も江がつくんだ」と声が返ってきました。
 つけ加えるなら、町名の墨江(すみえ)のルーツは「すみのえ」です。住吉というおなじみの呼び名もそこから転じました。つまり、住吉大社も住吉区も江の地名のファミリーというわけです。
 墨江小学校㉒のまわりには、住吉大社㉒があり、その摂社で杜若(かきつばた)の花咲く池に鎮座する浅沢神社㉓があって、南海高野線の沢ノ町駅、町名の沢之町㉒があります。沢ノ町駅の東には古代の港の住吉津につながる川筋の一部を整備した「細江川のせせらぎ」があり、由来を記した石碑が建っています㉔。碑の前でたたずんでいると、「みんなサンズイのなかまやん」小学校から元気のいい声が届きました。

江口、浦江、大江の街角で

㉕江口・江口橋・江口町(右上)大阪市案内図・昭和15年(1940)大阪市観光局 ㉖浦江聖天境内の杜若池畔の句碑「杜若語るも旅のひとつ哉」。芭蕉が若き弟子の杜国を想って詠んだ句 ㉗オフィス街のざわめきが嘘みたいな北大江公園の昼下がり

 江のつく地名としては東淀川区の江口も逸話が豊富です。一帯は古代の淀川の河口にあたり、ここから難波江(なにわのえ)が海に面して広がっていました。『日本書紀』には推古天皇の時代、難波津に到着した隋からの使者を飾船に乗せ、江口に迎えたと記されています。江口は国際交流の玄関口でした。平安から鎌倉期にかけては諸国に名高い水辺の遊興地。一夜の宿をめぐって西行と歌を交わした遊女の妙(たえ)ゆかりとされる江口君堂(えぐちのきみどう)も地元の寂光寺に残っています。大阪メトロ今里筋線井高野駅周辺の北江口㉒、南江口の町名、淀川との分岐点近くの神崎川に架かる江口橋㉒も名残りの地名です。
 江口の場所については近年、福島区福島だったとする説が浮上しているそうですが、福島区の江のつく地名としては浦江があります。もとは海辺で中世は荘園名。江戸時代は村名。昭和の一時期は町名の浦江がありました。今の町名は鷺洲ですが、浦江公園にその名が残り、浦江聖天の通称で知られる真言宗寺院の了徳院も健在です㉖。かつて了徳院の境内は周辺の水路が集まり杜若(かきつばた)の花咲く池があって、涼やかな名所になっていました。
 市内の中心、中央区にも江のつく地名はあります。大阪メトロ谷町線天満橋駅のほど近く、北大江公園にやって来ました。大江の岸という古い地名を伝える公園は、昼下がりのオフィス街のオアシスでした㉗。くつろぐ人たちの姿が浮かぶベンチが、岸辺に泊る小船に見えます。浦江も大江も江口と同じく難波の江に連なる水辺の風景なのでした。

川辺の北浜、海辺の粉浜

㉘北浜(中央)大阪市詳図・昭和30年代後半・人文社 ㉙石碑は粉浜駅前が万葉の古里だったと語りかける

 水地名のキーワードに浜があります。なかでも知られた中央区の北浜㉘は、土佐堀川沿いの北方の浜をさす名といわれます。「北方」とは船場の中心部からの目線で、元和~寛永(1615~45)頃は、仮葺の小屋があるだけのだだっ広い浜辺だったとのこと。異説では、土佐堀川を前にして店がすべて北向きだったことから北浜と呼んだといいます。この「北向き」は店の正面が川の方を向いていたとの意味なので、浜辺が船で賑わいはじめた頃の話でしょう。後に井原西鶴が『日本永代蔵』(1688年刊)で北浜の米市は日本一の港と書き、商都の繁栄をうたいあげたのは有名な話です。 「海浜の歌のロマンをしらずや」とは、また古風な響きが聞こえてきました。川辺の浜とは異なる風情が海辺の浜にはあるのでしょうか。声は、かつての住吉浦の粉洲(こはま)から。南海本線住吉大社駅の隣りが粉浜駅で、その駅前に粉浜万葉の歌碑が建っています㉙。
 住吉乃粉濱之四時美開藻不見隠耳哉恋渡南
 歌碑には漢字19字でつづった万葉仮名の歌が刻まれています。文字は万葉学の第一人者といわれた故・犬養孝の筆によるもの。読みは次のとおり。
 住吉の粉浜のしじみ開けも見ず隠りてのみや恋ひわたりなむ
 住吉の粉浜のしじみがじっと蓋(ふた)を閉じているように、私は心の内をうちあけず、秘めて想い続けるでしょう……。このせつない恋歌の作者は名前も伝えられていません。
 そういえば住吉大社の神は、航海の神で和歌の神でした。
 住吉区の隣りの住之江区には、浜口西・浜口東という町名もあります。ルーツは江戸時代から明治にかけての浜口村で、住吉大社の西の細江川が流れるエリアでした。浜口とは、浜辺と川口の両方の風景を愛でた地名です。

古代の大規模人造池、狭山池と依網池

㉚狭山池の堤の桜は早咲きのコシノヒガンが多く、3月下旬から見頃を迎える ㉛狭山池は2023年5月末まで工事中 ㉜ここに依網池という古代の大池があった

 「池を忘れていませんか」という声で目が覚めました。粉浜からの帰りの電車でうたた寝していたようです。声の言うとおり、池は水の地名の重要キーワード。瀬戸内気候に属し、雨の少ない大阪は全国有数のため池密集地で、府下のため池は軽く1万箇所を超えるそうです。水地名のフィナーレは池で飾ってもらいましょう。
 というわけで、この池地名の出番です。
 それは、日本最古のダム式ため池、狭山池です!
 著者の地元の大阪狭山市にあり、築造は1400年前の推古天皇の時代。奈良期、鎌倉期、江戸初期にも改修を重ね、最盛期は府下南部から大阪市域までの広域に灌漑用水を供給していました。昭和16年(1941)に大阪府の史蹟名勝第1号となり、平成27年(2015)には国史跡に指定され、現在も貯水量280万トンを誇る治水ダムの役割を果たしています。平成の大改修後は、池畔の狭山池博物館、堤の桜が名物になりました㉚㉛。
 狭山池とともに『日本書紀』に記された古代のため池として、住吉区の大和川畔にあった依網池(よさみいけ)にも触れておきます。江戸時代の大和川付替えで消滅したのは残念ですが、依網池跡を門前とする大依羅(おおよさみ)神社が創建1800年を誇り、一帯の水の神として崇敬されてきました㉜。当地は古代豪族の我孫子(あびこ)一族の本拠地ともいわれます。

伝説の万代池と河底池

㉝桜咲く万代池。この橋は池の中の龍王の島に続く ㉞万代池に住んでいた古池龍王の碑 ㉟河底池の午後。噴水の向こうの赤い橋は和気清麻呂にちなむ和気橋

 実は、今回が連載の最終回でした! お別れの前にもうひとつ、住吉区の万代池を訪ねましょう。今では万代池公園が整備され、住吉エリアの人々の散歩道になっています㉝㉞。明治の初めまで灌漑用の池でしたが、もとは古墳を囲む濠だったという説もあります。名の由来には、聖徳太子が池の魔物を鎮めるために曼陀羅経(まんだらきょう)をあげさせたので曼陀羅池と呼んだのが万代池になったといわれ、話題は豊富です。
 もうひとつ、これが最後の最後です!
 天王寺区の河底池は、延暦7年(788)に和気清麻呂(わけのきよまろ)が茶臼山古墳の濠を利用して、旧大和川の川筋を変える開削工事を行った名残りといわれます。開削工事は途中で断念されたと伝えますが、現在の河底池は大阪市立美術館の目の前に横たわる街なかの静かなオアシスに生まれ変わっています㉟。眺めのよいベンチもあって、水辺はやはり和みます。

 『大阪の地名に聞いてみた』第12回水地名編、いかがでしたか。ほとんど大阪市内の話題になり、府下の地名には少ししか触れられませんでした。市内にも、紹介できなかった水地名が残っています。追いかけてくる声も聞こえてきますが、連載はこれにていったんひと区切りといたします。
 お別れに、【後編】粉浜の話に出てきた犬養孝(1907~98)の逸話をひとつ。著者が犬養先生宅を訪ねた時、ご本人から「これが私のいちばん好きな大阪の万葉歌です」と、お聞きした一首を紹介します。遣唐使として大陸に渡った山上憶良(やまのうえのおくら)が帰国の時、船の上で大阪の津のつく地名を詠んだ歌です。
 いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おおとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ
 さあ、みんな。早く故郷に帰ろう。あの大伴の浜辺の美しい松も、恋こがれて私たちを待っているよ……。恋こがれているのは、故郷はまだかと身を乗り出す船上の人々の方なのですが、ここで歌われているのは人と松が海をへだてて恋文を投げ交わし、ひとつになった輝きの一瞬です。「好きです。いい歌ですねえ」という犬養さんの声が、天国から聞こえてきたでしょうか。大伴の御津とは、古代の大阪の港のひとつですね。

 最後に水地名編の集計発表です。最多は中央区で13箇所。次いで住吉区と浪速区が12箇所、さらに北区7箇所、城東区6箇所、港区5箇所と続きます。いずれも大阪市内で、複数の区域にまたがる地名はカウントされていません。府域の地名は今回少ししかとりあげられず、集計には入りませんでした。数の比較でわかることもありますが、数では語り切れないものが地名にはあります。いつかまた地名の世界の豊かさを語る機会が持てればと思います。
 一年間のおつきあい、ありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう。