• その23

ここは水惑星サンズイ圏【前編】 ―水市町と水区町と津のつく話― 2023年1月11日

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水都であり、水府もある

①摂津・河内・和泉【江戸時代初期の近畿】『日本歴史地図』昭和4年(1929)冨山房

 大阪市は水都です。「いつからですか」と問われて、「江戸時代には八百八橋が名物でした」と答える方が多いです。「いやいや、はじまりは古代から」と言う方もいます。前回の話に出た大阪湾に浮かぶ島々を見渡す高台に、古代の都の難波宮がありました。高台の名は上町台地。現町名の上町から南に続く市内でいちばん標高の高いエリアで、かつては眼前に海が迫っていました。難波宮は水辺に浮かぶ都です。
 以後、上町台地のまわりは陸地化が進みましたが、淀川に抱かれ、堀川が多い大阪市は今も水都です。
 では、次。「大阪府は水府ですか」と問われたら、どう答えますか。ここで、前回の冒頭で2府4県にまたがる淀川水系の流域面積は大阪府が3つ入ってまだ余るという話を思い出された方は、大阪府も「文句なし、水府でしょ」と頷かれるかもしれません。
 地名の世界にも、摂河泉(せっかせん)という呼び名があります。旧国名の摂津・河内・和泉の各1文字をとった広域地名で、現在の大阪府に相当し、兵庫県東部もエリアに含みます①。摂河泉と水との関係をみれば、摂津は「津」(港)をおさめる地、河内は淀川(河)より此方(大和から見て河の内側)の地、和泉は清い「泉」が湧く地の意味。津と河はサンズイつきで、泉は水つき。青い地球の表面は7割が海といわれますが、摂河泉の3文字には水惑星サンズイ圏のエッセンスが詰まっていたわけです。

水府の水市町

②大正時代開業の小顔な高師浜駅。2021年から高架工事のため3年間の休眠中 ③高師浜近くの護岸プレートに『百人一首』の高師の浜のあだ波の歌。近くの川に新仇波(あだなみ)橋が架かる ④高師浜周辺の水辺。空は高く、波は静か。

 「なるほど、それでうちも水地名なんや」という声が、摂津市と河内長野市と和泉市と泉佐野市と泉南市と泉大津市と池田市と寝屋川市と貝塚市と岸和田市と河南町と岬町と島本町から返ってきました。早速の反応、ありがとうございます。サンズイや水の字がついている市町はもちろん、貝や岸や岬や島の字がつく市町も水をアピールしていますね。大阪府には33の市と9つの町と1つの村、合わせて43の自治体があり、そのうち13の市と町が 水にまつわる命名でした。
 「ここは隠れた水地名かも……」と、その声は高石市からです。なるほど、市名の由来となった高師浜(たかしのはま)は浜の字がサンズイつき②。高石市を加えると、大阪府の自治体のほぼ3分の1にあたる14市町が水地名になりました。ここで一首。
 音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ③
 あなたの言葉はうわさに聞く高師の浜のあだ波のようです④。私はかかりませんよ。涙で袖を濡らすのはごめんです……。
 水地名には昔から男女のさまざまな心の機微が詠みこまれてきました。女が男の誘いをふって、あっさりと波に返してしまうクールな恋歌の作者は、祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)。『小倉百人一首』より。

水都の水区町

⑤住吉では街角マップに古代の磯歯津道が載っている!

 さて、話を大阪市にうつすと、水の区名がまず目につきます。名前がそのまま淀川沿いのロケーションを物語る淀川区、東淀川区、西淀川区の3区はその代表格。続いて、3区の対岸から北区大淀北・大淀中・大淀南の3町も名乗りをあげます。大淀の名は、今は北区の一部になった旧大淀区から受け継いだバトンです。
 大正橋が命名由来の大正区は、四方を川に囲まれた島の姿を大正アイランドとも呼ばれ、橋と島の両面から水の区名です。前回の島地名の話に出た福島区、都島区も水にまつわる区名。第1回動物地名に登場の鶴見区は水鳥の区名で、同区の町名にも福島、都島、鶴見があります。
 住之江区の「江」は入江の江で、水との深い関りを示す区名。昔の海岸線は今よりもぐっと東に入り組み、古代の港の住吉津(すみのえのつ)が住吉大社の門前に今も流れる細江川にあったとされます。古くは住吉を「すみのえ」と読みました。
 住吉津と大和を結ぶ日本初の官道は磯歯津道(しはつみち)と呼ばれました⑤。住吉津に船で到着した大陸からの使者は、そこから陸路で河内、大和へと向かったのです。磯歯津道のルートはセレッソ大阪のホームスタジアムがある長居公園南側の通りと重なるとされます。

津のバトンはここへ

⑥明治の難波津を守護した築港高野山 ⑦築港高野山の旧境内図。中央にあるのが弘法大師の入唐解纜遺跡

 「港の話はこれを見てからにして」と、港区から声が届きました。大阪の古代の津(港)といえば難波津。今の港は明治生まれの大阪港で、地元に「津」から「港」へのバトンタッチの跡があるというのです。声に導かれ、大阪メトロ大阪港駅近くの寺院、築港高野山を訪ねました。築港高野山⑥は明治末期創建。築港とは人が築いた港の意味。自然地形を流用した江戸時代の川口の港とは一線を画す近代港だった大阪港の別称でもあり、港区の命名由来にもなりました。築港高野山の所在地の町名も築港1丁目です。
 さて、築港高野山で見つけた旧境内案内図の中に「津」から「港」へのバトンタッチのしるしがありました⑦。その名は「弘法大師入唐解纜(にゅうとうかいらん)遺跡」。弘法大師が難波津から遣唐使の船で唐に渡ったのを記念する碑が、かつての境内に建っていました。解纜(かいらん)とは船をつなぎとめていた纜(ともづな)を解き、出港すること。解纜の碑は海外交流史のシンボルで、大阪港とは再び海外に船出した明治日本の新たな難波津でした。大阪港は難波津と同じ場所ではないのですが、近代技術が生んだ新時代の津として未来をひらいたのです。
 残念なことに、その後の歴史は戦争に向かい、解纜の碑は寺とともに空襲で焼失しました。案内板の解説によれば、創建当初の築港高野山は7,800坪の広大な境内に多くの堂塔を持ち、東の四天王寺、西の築港高野山と讃えられたとのこと。海の向こうを見ていた時代の空気を感じます。ここで名の出た四天王寺が、難波津に出入する船のランドマークだったという逸話もあわせてお伝えしておきましょう。

難波津もあれば浪速津も

⑧船出町(中央)大阪市詳図・昭和30年代後半・人文社 ⑨この橋の名は大浪橋。「大」正区と「浪」速区をつないで架かる

 「港のルーツなら、こっちが元祖」と、続いて飛びこんできた声は浪速区からですね。浪速は「浪」の字がすでにサンズイつき、かつ『日本書紀』以来の由緒ある呼び名ですが、区名は古代の港の浪速津にちなむとのこと。浪速区エリアはかつての海辺で、出船入船の港があったとされます。先述の難波津も浪速津も読み方は「なにわづ」で、どちらも古代史を彩る港の名称。大阪の古代の港は一箇所だったのではなく、複雑に入り汲んだ大阪湾に散りばめられた波静かな船の停泊地としてあったわけです。
 第2回【後編】では、浪速区の浪速郵便局前に建つ古代のくり船発掘碑が登場しました。かつては海辺だった大阪メトロ・南海・近鉄難波駅、JRなんば駅のまわり一帯を丸太のくり抜き船が行き交う風景を想像してください。地元にあった船出町(現在の難波中及び敷津東)という町名⑧は、明治11年(1878)のくり船発掘を記念した命名でした。いつかまた水にまつわるどこかの地で、古代の港や船の遺物が新たに発掘され、ニュースになる日が来るかもしれません。
 以上、大阪市は淀川区、東淀川区、西淀川区、大正区、福島区、都島区、鶴見区、住之江区、港区、浪速区が水区名で、番外の旧大淀区を加えた計11区のラインアップとなりました。

津のつく地名

⑩高津神社は坂の上の高い津だったという ⑪三津寺は2023年春オープン予定のビル1階へ(工事現場に掲げられた図面の1階に注目) ⑫これ全部ワンにゃん絵馬。かわいい御津八幡宮

 津は港。港の記憶を語ります。
 大阪市中の津のつく地名、その1。浪速区の敷津(しきづ)は奈良時代からあった地名で、上町台地南西部の広々とした海浜を敷津浦と呼んだのがはじまりとされます。今の町名は敷津西・敷津東です。
 舟ながら今宵ばかりは旅寝せむ敷津の浪に夢はさむとも
 いっそ今宵は旅寝しよう。船の上のひと夜の夢が、敷津の浦の波音に覚めてしまうとしても……。
 『新古今和歌集』の歌が、敷津浦での一夜の船遊びの情感を伝えています。清少納言をはじめ数々の女性と浮き名を流したといわれる貴公子、藤原実方(ふじわらのさねかた)が詠みました。敷津の地名由来は不詳ですが、平安時代には歌のとおりの貴族たちがはねをのばす浜辺だったのでしょう。
 その2。東住吉区の桑津はかつて養蚕のための「桑」が植えられ、平野川の「津頭」(しんとう)にあったのが地名の由来。津頭とは船の渡し場です。地元の桑津天神社に養蚕を広めた髪長媛(かみながひめ)が祀られ、境内の八幡宮は髪長媛が住んだ館の跡とされます。『日本書紀』によれば、髪長媛は応神天皇に日向(今の宮崎県)から呼び寄せられ、仁徳天皇の后になったとのこと。九州から桑津へは、船でやってきたのでしょう。髪長媛の到着地を現在の伊丹市西桑津(兵庫県)を中心とする古代の桑津郷とする説もあるそうです。
 その3。中央区の町名には高津(こうづ)があります。高い津とは何でしょう。高津という地名はかつて岸の上に船が着く港があったのにちなむと『古事記伝』に書いたのは、国学者の本居宣長です。江戸時代の人、宣長は上町台地の周囲が海辺だった古代の風景を知っていたのです。地元の高津神社を訪ねると、鳥居から本殿に向かう長い坂、境内裏の急な坂に台地の高さを実感します⑩。
 「その4は三津寺でどうでしょう」という声が心斎橋方面から届きました。なるほど、中央区の三津寺町は、第10回【後編】に登場した大福院三津寺にちなむ町名でした。古代には門前の西側が海浜で、難波(なにわ)の御津(みつ)と呼ばれたエリアです。その三津寺は2022年12月現在、工事中。新ビルの胎内に本堂がそのまま再誕するプロジェクトが来春の完成をめざして進行中です⑪。
 御津といえば心斎橋一帯の産土(うぶすな)神社の御津八幡宮が、三津寺町の西のアメリカ村に鎮座しています。産土とはその土地とそこに住む人々の守り神。創建は仁徳天皇時代と古い由緒を誇りますが、境内の犬と猫の絵馬にペットも家族という今の時代を感じます⑫。

 【前編】はここまで。【後編】に入る前に、梅田の北でもうひとつの賑わいを見せる街、中津(北区)の話をしておきましょう。前身は明治半ばに生まれた中津村で、その名は村の北を流れた中津川にちなみます。中津川は明治末の淀川大改修でできた新淀川に飲みこまれ、中津村も北側が川床になったといいます。北区中津になる前は東淀川区、大淀区と淀川由来の名の区に所属したのも、中津という町名のルーツを物語っています。津のつく地名のおまけでした。
 では、引き続き【後編】をお楽しみください。