0回「終喰」

 長らくご愛顧いただきました『喰いしん坊漫才』ですが、こたび単行本(今秋発売予定)にまとめていただくことになりました。いろいろ相談したんですけど、いったんここで連載を終わろうやないかという話になりました。
 まず、それに伴いこちらの一連のエッセイを閉じることにしました。一ヶ月後あたりが目途。
 単行本を買ってもらいとうてケチくさい真似するんと違いまっせ。なにしろ長期間に亘って書かせてもろてますんで最初のほうの文章と現在のんとでは感じがかなり異なるんですよ。Web上で読んでもらう分には差し支えないんやけど本にしたら違和感がすごい。そもそも連載一回あたりの文字数からして倍になってます。
 というわけで単行本は半分以上が書き下ろし。いや、正確には書下ろしやないんですが連載を追ってくださってた皆さんにも別もんとして書下ろしを読む感覚で楽しんでいただけるように工夫しましてん。
 えっとですね、なにをしたかと申しますと、もとのエッセイを解体して〝ええとこどり〟したうえで新しいエッセイを足して再構築するという曲芸をさせてもろたんですわ。本邦初の分子ガストロノミーエッセイ。判り難い比喩ですんまへん。
 けど、終わった尻から入江は班女はんじょのごとく戻ってまいり

ます(はい。こういう判り難い比喩もそのまんま)。続けざまに新連載開始。京言葉もこのまんま。そして内容も、似たような喰いもん話。ほたらなんも仕切り直す必要ないやんか、そのまま行きなはれと御尤ごもっともなご意見が聞こえてまいります。が、今回の連載には一本筋を通したいなあ思うてますのや。

 #歳を喰う
 代り映えのせん喰いしん坊の戯言ではあるけれど、その根底に年寄りの世迷言が流れる。そんな連続エッセイにするつもり。餓鬼と老人の二重唱デュエット。なんか縁起悪そやけど、おまけに辛気臭そやけど、あなた、お願いよ。席を立たないで……。
 もしかしたら、もう「あれ?」と気づいてはる人がいはるかもしれませんね。そうなんです、『喰いしん坊漫才』の最終回(第62回)のタイトルが『歳を喰う』やったんですよ。あれ、けっこうな好評いただけたんですよね。そいで儂自身もあれを書いたことで触発されたもんがかなりあった。それも仕切り直しの動機のひとつでした。
 そやから前の最終回が新連載の一回目に当たるというヘンなことになってます。単行本にも意識的に収録しませんでした。Web上にも、あれはあのまま残します。書いてるもんが地続きやて分かっといてもろたほうがええような気もしますんで。

 触発たらゆうたら大層やけど『歳を喰う』を書きながら儂がずーうと考えてたんは「死ぬまでにあと何回ごはんが食べられんにゃろ」ということでした。
 まあ昔から、それはよう考えてたんですわ。子供のころから計算してた。365×3×予想余生で、ああ、まだン万回も喰えるんやと思って安心してた。ところがです、ふと気がつくと、もう、死ぬまでに桜の花が30回も見られるかどうか? みたいな歳になってるやないですか! ちゅうことはその季節にしか食べられんようなもんは、おんなじくらいしか楽しめんわけ!? はっきりゆうてパニックでした。
 ましてや儂はロンドン暮らし。日本にしかないような旬は2年、3年にいっぺんがええとこ。現実的に鑑みれば、大好物の筍かてもう10回も食べられるか食べられへんかやおまへんか。まあ、その時分に帰ったら10回や20回は喰うやろし、まだ100回、200回は味わえるチャンスがあるかもしれんけど(笑)。
 そやけど例えばもうちょっとハードルの高いもん。鮎とか松茸とか千枚漬けとかは正味十数回でも甘く見積もりすぎかもしれません。

 日本では【終活】てな言葉が流行ってるようですけど、そこで儂が儂なりに真剣に考え始めたんが【終食生活】【終喰】ということでした。【終喰】は【シュウショク】とでも読んでください。

 すなわち、どんなふうに食べて死んでゆくか。いかに幸福な食卓を人生の玄冬に用意できるか。いわゆる老人食ではない老後における食の〝お愉しみ〟はあるのか。あるならば、それはいかなものか。そんなことを気楽に論考するんが【終喰】です。
 喰うという行為は、まさに生の象徴。生きるには喰わなあかんし、喰うために人は生きている。それは「生きようとする意志」そのもんや。
 フロイトはエロスという多面性のある概念で人間の心理の構造を解き明かしましたが、たぶん【性】と【喰】をパラフレーズしても論は成り立つんやないかと儂は常々思うております。フロイト自身が『フロイトの料理読本』(青土社)で、その可能性を示唆してはります。
 これめっちゃ面白い本なんで興味ある方はぜひ読んでいただきたいんですが、少なくとも【性】の原初形態である口唇性愛とは【喰】のエロティシズムであると博士は断定してはります。儂は深く頷きながら、エロスの対極としてフロイトが設定したタナトスという概念/衝動を理解するにも【喰】を媒介させたほうが多分ええんやないかと推測してます。
  儂にとって死とは=食べられなくなること。です。ほなら【終喰】することによって死に囚われることなく、安らかに終わりを迎えられるんやないか?
 死は最も個人的なもんでっさかい【終喰】もまたそうでしょう。けどそれが言葉で綴られることによって、これから

儂と同じように人生の中盤を越した皆さんの助けになるんやないか? と期待してますねわ。もちろん、そんなことするにはまだまだ早い人らにも面白く読んでもらえるもんになる気がしまっせ。たぶん身の回りのお年寄りを見る目が変わるん違うやろか。
 連載タイトルを『年寄りの冷や飯』に改めさせてもろたんは、これまた相変わらずの駄洒落ではあるんやけどそこいらへんの理由もあります。テーマ性が加わったゆうても大差ない与太話でっし、題名も前のままでPart2とか続をつけてサブタイに #歳を喰う でいきまひょかゆう話も実際あったんやけどね。
 『年寄りの冷や飯』にはいくつかの意味を含ませたあります。これも元ネタが「年寄りの冷や水」なんはどなたさんもご存知でしょうが、具体的に【終喰】てなんなのさ? と問うたとき「冷や水を飲まんようにすること」やとゆう暗示になってるんです。さらには、でも、もし冷や水が大好物やったらどうしたらええか? という論も展開してけたらええなあという希望もあります。
 もうひとつ。炊きたての熱々でない冷ごはんにも五分の魂、冷や飯にしかない美味さがあるちゅうことを知っていただけるようなもんを書きたい。
 題名は『年寄りの冷や飯』やけど『年寄りは冷や飯』でもあるさかい。

 ここでいっちょ儂の冷や飯愛を語らせてもらいます。
 世の中には単純に好き嫌いで冷や飯は受けつけんちゅう方もおられます。それはしゃあない。けど、そういうひとでも生ぬるい酢飯のお寿司なんか食べとうないでしょう。おむすびかて湯気の起ってんのより予めむすんどいたんをあとでかぶりつくほうが美味しいと思わはりませんかね。
 視点を変えて嗜好から離れてみると冷や飯の美質がさらに見えてまいります。焼きめしは炊きたてより冷めたごはんを炒めるほうが断然よろしい。保存するんかて電子ジャーで偽の炊きたてを維持するより、ちゃんと冷凍したんを蒸すなりチンするなりしたほうがずっと美味い。そして、そういった発想の転換も【終喰】の大切な一部やと儂は信じてます。
 だいたいやねえ、炊飯器の中で勝手に冷えたごはんや、適当な器に移しただけでラップもかけずにほっといたら、そら不味うもなりまっさ。それは冷や飯やない。残飯や。「美味しい冷や飯を作る工夫をする」ていう思考法を持たんと。この国にはおひつという美しい冷や飯を拵えるための素晴らしい道具かて何百年も前からあるんやから日本人なら忘れたらアカン。
 ほんでやね、そうして美味しゅうなってなーゆう気持ちのこもった冷や飯は、もはやそれだけでも充分に、熱ごはんに負けんくらい喰うて嬉しいもんやとゆう主張を儂はしていきたいねんよ。
 チャンスがあるごとに書いてまっけど、冷や飯茶漬けの

魅力を知らん人が多すぎる。旨味を秘そめた冷や飯が淹れたての煎茶の爽やかな苦みと熱に出会って、啜るごとに、噛むごとに舌の上で化学変化を起こすみたいに本来の甘さを取り戻してゆく過程が儂はほんま好き。梅干しとか奈良漬けの強烈な個性もぐっと生きる。夏場はアイスの緑茶で冷え冷え茶漬けも乙でっせ。胡瓜のどぼ漬けといっしょにかっこむと夏バテでもするっと胃ぃに納まります。試してほしい。
 この話をすると存外賛同者が多くて驚くんがカレー。冷や飯に温めなおした翌日の朝カレーこそ至高。それから精進揚げの余りを次の日ぃに甘辛うにたいたんをおかずに食べる冷や飯もよろしんえ。これは朝よりランチ。なんでて、ちょい飲みたいし。ワンカップとかよーない?
 もっとも昼から一杯きこしめすなんて定年してからの年寄りだけの特権かもね。そういうふうに見方を変えると【終喰】も悪いことばっかしやないて想像でけはりませんか。なんにも悲観することあらへんのや。
 あんなあ、へえ。冷や飯への偏見も、年寄りへの偏見も、歳を喰うことそのものへの偏見も、できるなら【終喰】で打破したいくらいの胸算用を儂はしとります。

WEB連載「喰いしん坊漫才」が本になる。
入江敦彦(いりえ・あつひこ)
1961年京都市上京区の西陣に生まれる。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。エッセイスト。『イケズの構造』『怖いこわい京都』(ともに新潮文庫)、『英国のOFF』(新潮社)、『テ・鉄輪』(光文社文庫)、「京都人だけが」シリーズ、など京都、英国に関する著作が多数ある。近年は『ベストセラーなんかこわくない』『読む京都』(ともに本の雑誌社)など書評集も執筆。2018年に『京都喰らい』(140B)を刊行。2020年1月に『京都でお買いもの』(新潮社)を上梓。