第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンクの
貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをええことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰いするようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うように
なった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピアットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパンチは絶対
にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山
峰定寺の参拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんですが、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さんが持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンド
グラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用にジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまか
ら飲みくる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐
ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F
第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンクの
貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをええことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰いするようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うように
なった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピアットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパンチは絶対
にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山
峰定寺の参拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんですが、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さんが持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンド
グラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用にジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまから飲み
くる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐
ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F
第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンクの
貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをええことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰いするようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うように
なった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピアットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパンチは絶対
にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山
峰定寺の参拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんですが、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さんが持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンド
グラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用にジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまから飲み
くる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐
ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F
第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンク
の貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをええことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰いするようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うよ
うになった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピアットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパ
ンチは絶対にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山
峰定寺の参拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんですが、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さん
が持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンドグラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用にジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口
さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまから飲みくる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど
買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F
第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ
端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンクの貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをええことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰い
するようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うようになった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピアットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権
はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパンチは絶対にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫
画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山峰定寺の参拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料
亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんですが、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家
が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さんが持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンドグラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用にジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまから飲みくる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・
ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F
第04回
「来た!見た!喰った!」
毎回が真剣勝負。澤口さんの店で喰うゆう行為は戦いに近かった。いや正味、戦いやった。それは出会いからおしまいまで変わらしませんでした。本格的にロンドンに行ってもて、90年代の後半からは二年にいっぺんとかのペースになってもたけど、
澤口知之。イタリアンシェフ。六本木に『ラ・ゴーラ』『リストランテ・アモーレ』という名店を開き、常連セレブが引きも切らず。とりわけ文壇関係者が溜まってはった。リリー・フランキーとの共作の『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は単行本にまとまってます。
『料理の鉄人』だの(負けはったけど)テレビCMだのに登場したはったんは存じてましたけど知らん間ぁにイタリア料理の普及に貢献したイタリア国外の人物に授けられるグイドアルチャーティ国際褒章とかいうもんまで貰ろてはった。まあ、日本を代表するイタリアンの
けど、ウィキペディアを見たら、よーもまあこんだけ端折ってあるなあゆうくらい情報が中途半端。そこにリンクの貼ったぁった「晩年の澤口さんを描いたブログ」も、大変に読ませる内容で写真もかっこよかったけど、このスリックな雰囲気は彼の一面を象徴するもんでしかないように感じました。
本人的には、ああいう文章や世界観が気持ちよかったはずでっけど、三十年以上戦ってきた相手としては、そやないプロフィールも紹介しとかんとアカンやろ、帳面合わへんやろと思い記す次第です。
掛け替えない友だっちゃった吉野朔実さん。彼女と澤口さんのふたりに儂は同じ日ぃ「はじめまして」しとります。吉野さんのアシスタントをしてはった女性が儂の大学時代の知人で、澤口さんがシェフに就任しはった大阪のレストランでの食事会に
儂らはまだ二十代前半。吉野さんが儂のいっこ上、澤口さんはそのまたいっこ上やったけど同い年みたいなもんでっさかい、やってることはばらばらやけどすぐに仲ようなりました。「おいしいもんが好き」という共通項は強い絆に結ばれやすいですが、そのおいしいもんの傾向が似てると結束はいよいよ固と固となります。
アパレル企業に勤めてて頻繁に東京出張してたんをえ
えことに、じき吉野さんとは会うては喰い会うては喰いするようになりました。同時に澤口さんの店にも頻繁に通うようになった。回数という意味ではこのころが一等よう彼の料理を食べてたと思います。なにしろ量がいけましたから、それで気にいってくれはったんやろな。性格は真反対やったんやけど。
なんちゅうたらええんやろ。途中から儂は客やのうなりました。かといって友達とも違う。最初にゆうたように好敵手ゆうのが近い関係といえるんちゃうやろか。少年漫画で
ゆうてもやってることは「阿呆」以外のなんでもおへんわ。イタリアンやのに満貫全席みたいなコースで挑んできはったり、アンティパストを一尺五寸(約45センチ)はあろうかという大皿に盛ってきたり、プリモピ
アットがわんこそば状態で運ばれてきたり。大食い選手権はただの山盛りメガ盛りですが、澤口さんの必殺技に力任せの単純なパンチは絶対にあらしませんでした。
いっぺん鶏のマレンゴ風(ニンニクたっぷりのトマト煮込み)がメインやったときは深いココット鍋がやってきて、そっからついでくれはんのかなと見てたら鶏がまるごと入ってて、切り分けてくれはんのかなとどきどきしてたらそのまんま皿に乗せられて、さすがにあのときは負けると思いました(笑)。肉の部位ごとに異なるハーブが効かせたあって、ぜんぜん飽きがきいひんくて、ほぼ食べ切ったときは我ながら笑えてきました。
吉野さんにはさすがに勝負してきはらへんかったけど、澤口さんが二度目のイタリア武者修行から帰ってきはったときに開かはった五反田の店にご一緒したときはバーニャカウダ(熱いアンチョビソースに生野菜を浸して食べる前菜)がワインクーラーにフラワーアレンジメントみたいに活かって供されました。
え? もちろん残さず平らげましたよ。食べ切ったあと、吉野さんはすっごい真剣な顔で「勝った!」と勝利宣言。いまでもあのときの瞳の輝きを忘れません。
けど三人での思い出といえば、やはり京の奥山、花背にある摘草料理の『美山荘』さんに泊りがけでいったときの想い出やろか。もうひとり、親しくしていた女性漫画家さんも誘って四人で訪ねました。大悲山峰定寺の参
拝者のための宿坊を三代目の中東吉次さん(『草喰なかひがし』の大将のお兄さんです)が料理旅館に改築され白洲正子さんらにも愛された名料亭。オーベルジュ的な和やかさがあって、ほんま好きでした。
使われている素材はもちろん山の幸が多いんやけど、いわゆる山菜料理とはまったく異なる文法で調理された純然たる会席料理。もちろん旨いのも旨いんやけど、まるで
さて、ふだんやったら、どんなにお腹がくちても「どこぞで一杯」となるメンバーやったし、ゆうたら寝酒は用意してくれはったやろけど、そのときはとてもそんな気になれず大人しゅう寝床に就くことにしました。女性軍が自分らの部屋に引き上げはったあと、儂らも枕を並べ経験したばかりの
お、やっぱり飲み足りひんのかいな――と思たんです
が、ラベルを目にして驚きました。げ、シャトー・ムートン・ロートシルト。コクトーやシャガールなど大画家が毎年ラベルを描くボルドーの「偉大なるワイン」。澤口さんが持ってはったんは幾何学模様の中に赤い鳥が閉じ込められたステンドグラスめく軽やかなデザインでした。
「これ、ジャック・ヴィヨン」
「マルセル・デュシャンのお兄さんでしたっけ」
「おう。これ吉野さんの生まれ年よ。俺、吉野さんと出かけるときは必ず持って歩くのよ。よしんば〝そういうこと〟になったらこれで一緒に乾杯したくてよ」
吉野さんも澤口さんも彼岸に渡ってしまはったさかい書けることですけど、澤口さんは「めーん!」とか「こてー!」とかやったはったころから吉野さんに惚れてはったんですわ。告白して振られたそのあとも、二度目に告白して振られたそのあとも、三度目(以下略)。吉野さん曰く「きっと幸せにしてくれるだろうし、わたしも好きよ。でも、どうしてもだめ。外見が恋愛の対象にならない。〝そういうこと〟抜きならいいけど、そういうわけにはいかないでしょう?」
儂は澤口さんに「それを抜いてくれはるんやったら喜んでお付き合いさしてもらいまっけどどないです」と訊くと、やけに
「こんど入江さんと〝そういうこと〟になったとき用に
ジョルジュ・マチューのラベル買っといてやるよ。ヴィンテージ悪りいから吉野さんのよりずっと安いし」
のちに飲み歩いたとき、新宿三丁目のレコードバー『BAR rpm』の止まり木でその話題を振って「ほんで澤口さんは61年のロートシルト、儂のために買うてくれはったんですか?」と訊くと「買ったに決まってんじゃん。いまから飲みくる?」と豪快に笑ったはったんを覚えてます。残念ながら翌日仕事があったんで「ほな、こんどよばれに行きまっさ」と夜明けの靖国通りで手を振ったんですが、まさかそれきりになるとはなあ。
近年、澤口さんが体調を崩してはるゆうんは、それこそ吉野さんから聞いてました。それでもちょっとずつようなってきて、このごろは若手に料理を
澤口さんがあっちへ行っしもたんは、その一年と数ヶ月後。一周忌を待って、お盆に帰ってきはった吉野さんと一緒に戻らはったんやと儂は考えてます。
澤口さんの訃報が届いて最初に頭に浮かんだんはシャトー・ムートン・ロートシルトの瓶でした。ジャック・ヴィヨンのほうは誰ぞ仲ようにしたはった人がふたりの供養に飲んでくれたはったらええなと願っておりますが、問題は儂のジョルジュ・マチューですわ。賭けてもええけど買ーたらへんと思いまっけどな(笑)。
ちなみにそんな話をした夜に作ってもろたんが最後の晩餐ちゅうことになりますが白アスパラのリゾットでした。デザートまで喰い終わったあとに出してきて「入江さんなら、まだ平気でしょ」とかって不敵な笑いを口の端に漂わせたはる。この顔、知ってるわ。
戦いに明け暮れてたころの顔や。そうゆうたら勝負時代の幕開けもデザート明けのリゾット違うかったっけ。
たいがい胃の腑に収めきって儂は「勝った!」と腹さすってたけど、ほんまに勝ってたんは澤口さんやったんやなあといまになって気がつかしてもろたわ。
『美山荘』
京都市左京区花脊原地町375
『BAR rpm』
東京都新宿区新宿3ー6ー3 ISビル2F