コリント式のオーダーは、アカンサスの葉をモチーフにした柱頭の装飾が特徴
張り出しの大きな立派なペディメント(破風)
玄関扉の上部には、竣工時の施設名である「大阪図書館」が刻まれている。
正面玄関の扉は普段閉鎖されている。いつか、ここから図書館に入ってみたい。
大階段の両脇に設けられた照明柱のデザインも特徴的。
1922年、図書館が手狭になったため、やはり住友家の寄付によって両翼が増築された。設計したのは本館設計時に野口をサポートした日高胖(ゆたか)。
引きがないため、正面からは中央のドーム屋根をみることが難しい。
ドームの頂部から、色ガラスを通してやわらかい自然光が注ぐ。
階段正面の壁に飾られた額は、寄付するにあたっての住友吉左衛門の思いをつづったもの。最初の竣工時のものと、両翼増築時の2つある。
階段の両脇に立つ二つの彫像は、「文神像」と「野神像」。それぞれ「知性」と「野性」を表現しているといわれている。
3階のギャラリーとドーム屋根の間には、八聖殿になぞらえて、階段正面から右回りに菅原道真、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェイクスピア、カント、ゲーテ、ダーウィンの八哲の名が記されている。
末広がりにカーブを描くダイナミックな階段。
円形にホールを取り巻く木製のギャラリーは、イオニア式の円柱で支えられている。
明治に入って大阪の近代化が進み、公立図書館設立の機運が高まるなか、住友家第15代当主住友吉左衛門友純(ともいと)の寄付によって、1904年に大阪図書館が開館した。友純は完成した建築を引き渡すかたちを取り、その設計を住友内に設置した本店臨時建築部の技師長、野口孫市に託した。そもそもこの組織は住友が銀行業を始めるにあたり、本店建設や各地の支店のために設けたもので、野口は本店設計のための欧州調査から帰国後、すぐにこの図書館の設計に取りかかることとなった。
日本の建築界は明治以降、必死になって西洋建築の受容に努めてきた。造幣局の泉布観のように、初期は外国人建築家によって国家の重要な建築が建てられたが、明治20年代になると辰野金吾を筆頭とする日本人建築家の第一世代が育ち、東京の日本銀行本店などが建てられていく。しかしこの頃はまだ様式をなぞるのに精一杯で、どことなくぎこちなさが残った。しかし30年代になってようやく、西洋のスタイルを十分に消化した建築が現れはじめる。野口が設計した中之島図書館はそのような時代の建築で、古典様式の非常に完成度の高い作品として、日本の近代建築史的にも高い評価が与えられている。
増築が繰り返されてわかりにくくなっているが、建設当初の中之島図書館は十字型プランの求心性の高いシンボリックなもので、まさにギリシア神殿の佇まいを思わせるものであった。現在は正面のすぐ前に大阪市役所が建っていて、写真を撮ろうとしても引きがなくて多くのカメラファンが苦労していると思うが、現在の市役所が建つ前ここには豊臣秀吉を奉る豊国神社があり、図書館の正面には広々とした空間が広がっていた。実に象徴的な景観だったことだろう。
正面の大階段の先に設けられたポルティコには、コリント式のオーダー(列柱)が並び、立派な三角形のペディメントを支えている。その奥の壁面に設けられた特徴的なアーチ窓の先には、普段は公開されていない記念室がある。
現在は正面玄関からではなく、大階段の両脇から入館するアプローチになっているが、現在の受付部分には、かつて下足預所があったという。内部の見どころは何といってもドーム屋根の下に広がる
吹抜の円形ホールだ。ドームから自然光が取り入れられ、中央には優雅なカーブを描いて広がる舞台装置のような階段が設けられている。普段図書館を利用する人はあまり意識しないかもしれないが、これほど密度の高い充実した空間は、日本国内ではなかなかお目にかかれない。
現在、中之島図書館は耐震補強工事が行われていて、残念ながら外観は囲いに覆われている。現在この建築の今後の活用方法が議論されているが、工事が完了する予定の2014年末までには、この名作の行く末は決まっているのだろうか。