有川浩の『阪急電車』。阪急今津線の宝塚を出発した電車が一駅ずつ進んで、西宮北口で折り返す。その流れの中で、たまたま乗り合わせた人たちが交錯する物語がミリオンセラーとなり2011年に映画化もされ、実際に阪急今津線の各所でロケも行われた。阪急挙げてのキャンペーンが張られて、当時私が仕事していた阪急沿線情報紙『TOKK』でも特集することになった。
撮影現場を取材して、遠くから見た中谷美紀と戸田恵梨香の美しさに、別次元だと驚いた覚えがある。作中の小林駅は、ツバメの巣立ちを見守る優しい駅として登場し、物語の後半には愛に裏切られた翔子(中谷美紀)が再出発し、新たな友情が始まる駅として描かれる。エレガントで華やかな印象のある阪急今津線にありつつも、人のあったかさを感じさせる小林駅の雰囲気が、作品に上手に生かされている。
ちなみに、小林は「こばやし」ではなく、「おばやし」。十三や夙川、売布(めふ)神社などと並ぶ、阪急難読駅名の一つだ。その由来は、古代この地に渡来人の林 史(はやしのふひと)一族が住んでいて、美称の「御林」が転じて「小林」となったという。
今日の取材は、綱本さんだけでなく、デザイナーの山﨑慎太郎さんと140Bの青木雅幸さんが一緒に来てくれた。山﨑さんは、綱本さんが誌面で「橋の話をしよう」(Vol.1~20)と「駅前オーライ」(Vol.21~26)を連載していた中之島発のフリーマガジン『月刊島民』(2008〜21年/リンク先からバックナンバーが読めます)のデザイナーであり、綱本さんの著書『大阪名所図解』のデザインも担当された方。出版社の青木さんも含めた3人は旧知の仲であり、そこに私が交ぜてもらったという格好になった。
総勢4人で駅東側を少し歩くと、酒販店や青果店、理容店など生活の香りがする店が並び、地元の人から聞いた「小林は下町だよ」という言葉に納得。それでも、神戸の春日野道や新長田、阪神尼崎あたりの猥雑さとは違う、下町といえども静かで品を保った雰囲気が、やはり宝塚らしいのである。
少女たちの青春を見守る、緑の坂道
一度駅へ戻り、小林駅で一番有名なスポットを目指す。「塔の町(とうのちょう)」という地名の由来にもなっている、真っ白な鐘塔がシンボルの[小林聖心女子学院]だ。カトリック女子修道会の流れをくみ、大正12年(1923)に神戸・岡本に創立。同15年(1926)に、小林に移転した歴史ある私立学校である。小学校・中学校・高等学校があり、特に中学校のある本館は、アントニン・レーモンド(1888〜1976)が手掛けた建築だ。
レーモンドは、帝国ホテルの新本館の設計をするフランク・ロイド・ライトの助手として、大正8年(1919)に来日。後に独立し、東京女子大学の礼拝堂など7つの建築物やカトリック軽井沢教会など、教会やキリスト教系学校の建築を数多く手掛けた。小林聖心女子学院本館は、建具や階段の手すりなどは建築当時のものが残り、1999年に国の登録有形文化財にも指定されている。
小林駅の東改札から線路沿いの石畳の道を南へ向かい、低い高架橋をくぐるとそのまま坂道が正門まで約400m続く。昭和62年(1987)から平成5年(1993)まで、中学・高校と通ったTさんは、四季折々の坂道の景色が強く心に残っているという。 「春から夏の緑の美しさは、嵐山にも負けない緑のトンネルだと思うほど。秋は紅葉が錦絵のようだけど、おそろしく臭う銀杏坂が辛くて。冬は冷え込むと凍結するので、歩くのが怖かったです。そして急な勾配は、マラソン大会のときには地獄の坂に……。それでもやっぱり、私たちはこの坂が大好きでした」
取材で歩いたのは夕方だったので、森の坂道はひっそりしていた。登下校の時間には、小林聖心の制服姿の女子たちで、さぞかしにぎやかだろう。夏はファミリア製の水色のワンピース、冬は襟元が狭めの明るい紺色基調のブレザーに、紺色ジャンパースカートとグレーのハイソックスというスタイルだったが、今はスラックスも選べるようになっている。
創立100周年を機に、生徒たちの間で制服検討委員会が立ち上がり、2025年からデザインを新しくするという。ブレザーの柄がストライプから千鳥格子になったり、襟元の校章ブローチが刺繍になったりする。この変化を聞いてTさんは「卒業生の愛着も大事にしながら、在校生が丁寧に進めてくれたようで、どんな風に変わろうと、信じてお任せしたいと思います」と語ってくれた。
坂を上りきり、小林聖心女子学院を後にする。少し北へ向かってから、小林駅西口を目指して歩く。右手に地域のごみ収集ボックスのある四つ角に来て、並木のある下り坂を右手へ折れると、落ち着いた住宅街に時折、変わった形の家がちらほら。家の1階は断崖の下にあり、玄関が2階や3階にある構造。道路と玄関をつなぐ“我が家専用”の橋は、むき出しの鉄骨美で支えられている。
特に、小林駅西口へとつながる、宝塚の山並みまで見晴らす道沿いに何軒もあり、建物に詳しい綱本さんは興味津々だった。「あの家の橋には、車も停まってますよ」「こういう住宅は珍しいですね」と言いながら歩いていると、「千種2丁目住宅案内図」に目が留まった。戸建ての全住戸に住民の姓が入った地図を見て、昔はなんとも思わなかったが、今は安心安全な地域の象徴のように感じてしまった。
小林駅の西改札が見えてくると、道は細く入り組み、坂も階段もあって、ダンジョン(迷路)感が半端ない。ちょうど[ちぐさ薬局]の辺りだ。西改札は自動改札機が2つあるだけの小さな改札口。しかし、平成7年(1995)にこの改札ができるまで、駅西側の住民は、一旦東改札から出て跨線橋をわたってぐるっと回るしかなかった。阪急電鉄に問い合わせると、設置の経緯までは記録が残っていないとのことだったが、西改札の形状や立地から、地域の要望に応えて、苦労して設置したことが偲ばれる。
焼鳥ロードで、至福のつくねに出合う
昭和48年(1973)に、駅の東側にイズミヤ小林店がオープンすると、その周りにお店が集まり、街が出来て、品揃えの良い書店やCD店、カレースパゲッティが食べられる喫茶店などがあった(いずれも現在は閉店)。イズミヤ小林店は、『阪急電車』で、裏切られた元恋人の披露宴に白いドレス姿で出席した翔子が、「討ち入り」を果たした後、着替えを求めて訪れたスーパーとして登場する。怨念のこもったドレスをゴミ箱に放り込み、翔子はすっきりとイズミヤを後にする。武装解除して、普段着の自分に戻れる小林の下町らしさたっぷりの名シーンだ。
今、駅からイズミヤへ向かって東へのびる道には、なぜか焼鳥店が多く、さながら「焼鳥ロード」だ。その道を自家焙煎のコーヒーで有名な[百合珈琲]まで行き、変わらぬ佇まいを確認。道すがらチェックしていた何軒かの焼鳥店から、渋い店構えの[鳥富]へ入った。
ご主人が焼鳥を焼く台を囲むコの字型のカウンター。一番客だった私たちは、4人並んで陣取った。お肌ツヤツヤのおかみさんに「何食べる?」と聞かれ、迷っていた私たちの様子を見て「おまかせで出したげよか」と上手に引き取ってくれた。聞けば、富永文男さん・順子さんご夫婦が、昭和52年(1977)に開業。焼鳥ロードでは最古参だという。最初に出されたハツを食べ、「当たりだ!」と確信した。取材先でも旅先でも、こういう所謂“当たりの店”を引く、隠れた特技が私にはある。
料理の仕込みをしながら、ドリンクを出し、皿を片付ける。おかみさんは手を休めず、常に動き続けながら、お客さんの話し相手も華麗に務める。その間、ずっとご主人は焼きに集中。ささみのたたきの柔らかさに驚き、甘めのタレのネギ身(ネギはタマネギだった)も絶妙だったが、続いて出された「つくね」に瞠目した。
もしこれが夕飯に出たら、大人も子どもも10個、20個と箸が止まらないだろう。小さめのハンバーグのような形のつくねは、おかみさんが鶏モモ肉を皮ごとフードプロセッサーにかけて、ほどよく食感を残した挽き肉を味付けして、「過呼吸になるかと思うほど」手間をかけた仕込みの賜物だ。ビールをいただきつつ、「ここは宝塚市内の学校の先生がよく来てね。みんな校長や教育長になったけど、若い頃は2階の座敷で、よく密談してたわよ〜」なんて話を聞くのも楽しい。心もほろ酔いに、小林の宵が過ぎていく。