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今日も汽笛が聴こえる こう三宮さんのみや(神戸線/神戸市中央区) 2024.1.17

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 「三宮を書くなら、やはり震災の日に歩いて、翌年の1月にWEB公開しよう」
そう決めて、取材したのが2023年1月17日。阪神・淡路大震災の後、28回繰り返された、尊く平穏な1月17日だった。

 そして、早々に絵を描き上げた綱本さんに心の中で謝りつつ、結局1年原稿を寝かせてしまい、ようやく書こうとした2024年1月1日。能登半島で震災が起きてしまった。まさか……言葉を失う状況に、頭の奥が緊張する。テレビやスマホで、倒れた建物や家屋を見るたび、「液状化」「断水」という単語を聞くたび、29年前にポートアイランドの実家で被災した当時が生々しく蘇る。

1995年の真冬から初夏まで

 高校2年生だった私は、朝5時46分、マンションが崩れた!と感じるほどの衝撃で目を覚ました。母と妹の3人暮らしだったので、すぐさま妹のベッドに集まって、明るくなるのをひたすら待った。幸いマンションは倒れていなかったが、家の中のあらゆるものが散乱し、母が寝ていた布団には、父の仏壇が覆いかぶさっていて、その上にタンスが倒れていた。ただの偶然だけど、母も妹も私も「父が守ってくれたに違いない」と思った。冷蔵庫の奥で忘れ去られていた「酢大豆(昔健康にいいと流行って母が作ったもの)」の瓶が割れて、強烈な酢の匂いが部屋中に漂っていたのが忘れられない。

 2週間ほど経った1月31日、新聞で「南京町で中止した春節祭の代わりに炊き出しがある」と見て、妹と震災後初めて三宮へ出た。見知った街並みが、傾き、生気がない。人は歩いているが、そこは街ではなかった。北側が大きく崩れたそごう神戸店に衝撃を受けつつ、なんとか南京町まで来ると、人だかりができ、声がして、湯気が見える。炊き出しは遠慮して、温かい水餃子を売るお店に吸い込まれ、妹と夢中で食べた。「神戸は死んでない。街は、まだ生きている」お腹の底からそう感じて、元気が出た。

 阪急神戸線も甚大な被害を受け、中でも阪急三宮駅(当時の駅名)は、駅ビルが大きく損壊。上層階から崩落した瓦礫(がれき)が、北側の通称「おっぱい山(現・サンキタ広場)」を埋め尽くし、直前に出発した電車がフラワーロードをまたぐ高架橋の上で脱線したが、奇跡的に道路上への落下は免れた。

 かつて「阪急会館」と呼ばれた、円柱形の塔のある地上4階・地下1階建ての素敵なビルは、東側の壁面に大きなアーチが2つ並んでいて、その1つはガラス張り、もう1つはトンネルで線路がビル2階のホームへとつながるという唯一無二の構造。薄緑色のタイル貼りのビルに、マルーン色(小豆色)の阪急電車が出たり入ったりする様子はとても色彩豊かで、華やかな神戸のランドマークだった。

 しかし、鉄道の復旧を急ぐため、建物の取り壊しが速やかに決まり、2月には解体工事が完了。12月に建った仮設のビルは、白の鋼板貼りの3階建てで「こんな姿に……」とせつなくなったものだ。こういったビルの再建、商業施設の再開、線路や道路の復旧など、震災後に毎日もたらされるニュースは、決して震災で失ったものを埋められるわけではなかったが、被災者たちは震災前の生活を一つずつ取り戻せる喜びを感じ、「がんばろう神戸」「WE LOVE KOBE」の合言葉と共に、前に進んでいく一体感があったように思う。

 阪急神戸線が6月12日に全線開通するまで、再開した学校へは、新聞のライフライン復旧欄を見て「今日は王子公園〜御影間が開通したね」と通学ルートをチェックし、代替バスと阪急・阪神・JRの開通区間を乗り継いで通った。最大で片道4時間かかったこともある。今から思えば、そんなに無理して学校へ行かなくても良かったのだが、あのときは無性に友達に会いたかった。私立だったので、大阪方面から通っている子もいて、その子たちはスカートにタイツ、神戸方面の子はズボンにスニーカーにリュックで「被災者」とひと目で分かるのが、いい気分ではなかった。

 阪急神戸線は、西宮北口駅〜夙川駅間と、岡本駅〜御影駅間、三宮駅の損傷が激しく、当初は復旧まで年単位の日数がかかるとされていたが、実際には約5カ月で全線開通にこぎつけた。阪急電鉄は、そろばんを度外視した物量を投入して工事に当たり、沿線住民も昼夜土日を問わずの工事に協力したからこその驚異的なスピード復旧だった。その原動力は、沿線住民の足を止めてはいけない――公共交通としての使命感だった――という記録が残る。

 阪急神戸線が全線開通した6月12日のことはよく覚えている。三宮駅から特急に乗り、西宮北口駅に着くまで、たった15分。渋滞もバスの行列もなく、スムーズに私たちを運んでくれるこの15分間に感謝しかなく、友達とおしゃべりしたり、試験勉強をしたりしながら、時間通りに移動できる、いつもの通学が戻ってきた。

「三災」を乗り越えて

 阪急神戸三宮駅の東改札口を出て、まっすぐ南へフラワーロードを下る。今日は東遊園地で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われている。犠牲者の追悼と震災の記憶を引き継ぐことを目的に、約4,000本の竹灯籠や紙灯籠に火を灯す。

 私は学生時代に、震災で親をなくした震災遺児のサポートをする活動に携わっていた。理由は違えど親をなくした一人として、少しでも寄り添いたいと思い、2歳から高校生まで、一緒にキャンプに行ったり遊んだりしていた。でも、突然家族も家も思い出も奪われた震災遺児の痛みは、病気で亡くなった父との別れ方が、ある程度予想のつくものだった自分の痛みとは異質なものであり、想像を絶するものだった。その活動で出会ったSさん(仮名)からは、「『1.17のつどい』に足を運ぶと、約束をしなくても同じ震災遺児と会える同窓会のような場になっている」と聞かされた。

 綱本さんと会場に着くと、報道各局の中継車がずらり。まだまだ在阪各局では、忘れず報道されていることにどこかでホッとしてしまう。その後、2023年5月にリニューアルが完了した東遊園地は、芝生が敷き詰められ、植栽の雰囲気もナチュラルになって、以前より“憩いたくなる”公園になった。新しい東遊園地になってからの「1.17のつどい」は、どんな雰囲気になるのだろう。

 東遊園地を後にして、メリケンパークを目指す。途中の神戸市立博物館前で、三宮の知られざる戦争遺構を綱本さんと探した。機銃掃射の弾痕が、正面玄関の右手の壁に残されているのだ。ちょうど車いす用のスロープの手すりの下辺りがよく分かる。丸い傷跡がパテで埋められている。

 三宮は、水災・戦災・震災の「三災」に見舞われたまちだ。昭和13年(1938)7月3日から5日に発生した阪神大水害、昭和20年(1945)6月5日の神戸大空襲と、阪神・淡路大震災。つまり、三宮・元町近辺で90年以上続く老舗は、この三災を乗り越えたお店だということ。たとえば[欧風料理 もん][グリル十字屋][老祥記][神仙閣][森井本店][赤のれん][伊藤グリル]など、お客に愛される名店ばかりだ。

旅立つ者と降り立った者の150年

 綱本さんと話しながら南西に歩いて、メリケンパークに到着。阪神・淡路大震災で被害を受けた状態のまま、[神戸港震災メモリアルパーク]として保存されている一角があり、傾いた電灯や割れた岸壁に、地震のエネルギーの大きさを見せつけられる。修学旅行生の一団が見学していて、この日に神戸を訪れることを選んでくれた学校に、「来てくれてありがとう」と心の中で手を合わせた。

 メリケンパークの南端には、全国的な“地名モニュメント”ブームの火付け役となった「BE KOBE」像がある。海を背景に白い文字が映え、2017年に設置されるや、SNSの盛り上がりの波に乗り、あっという間に人気観光スポットとなった。今も休日には撮影待ちの行列でにぎわっている。

 「BE KOBE」像からほんの少し離れたところに、海を指差す子どもと両親の銅像がひっそりと立っている。「神戸から世界へ」「希望の船出」と刻まれ、脇に「神戸港移民船乗船記念碑」とある。

 そう、神戸港は約25万人もの日本人をブラジル移住へ送り出した港なのだ。親子は希望に満ちた表情をしている。「移民」という言葉には、やむにやまれぬ事情を感じさせる響きがあるので、その高揚した表情には違和感があった。彼らが日本を発つ前の最後の時を過ごした国立移民収容所が、現在も[神戸市立海外移住と文化の交流センター]として残されていると分かり、行ってみることにした。

 鯉川筋を一気に北上すると、昭和3年(1928)築の5階建ての学校かホテルのような建物が、静かに迎えてくれた。戦災・震災を乗り越えて日本に現存する唯一の移民関連施設である、旧・国立移民収容所(神戸移住センター)だ。入口近くの展示を見ていると、ボランティアガイドの女性が親切に声を掛けてくださった。

 「移住者はブラジルへ出発する前の1週間から10日前後をここで過ごし、渡航手続きや予防接種、買い出しを済ませ、語学や現地の基礎知識を学んだんです。農家の次男・三男といった、継ぐ土地がない男性が、家族を伴って渡航することが多かったようですよ。強制とか、イヤイヤではなく、新天地を求めて、夢と希望を抱いて移民船に乗りました。何十年も経って帰国された方が、『六甲山が、変わっていなくてよかった』と仰ってましてね。見ず知らずの国で生きていくと決めた遠い昔、甲板から目に焼き付けた六甲山の姿は、祖国の象徴だったんでしょう」

 綱本さんと鯉川筋を今度はゆっくり下る。ブラジルへと旅立つ人々もこの坂を下って、港へ向かったという。当時はきっともっと海が見えただろう。たくさんのビルに阻まれて、神戸の山と海は遠くなった気がする。

 1995年末にできた阪急三宮駅の駅ビルは仮設と言われつつ、約20年そのまま使用され、『TOKK』で三宮駅を取材した時もこのビルだった。しかしようやく、2021年4月に29階建ての「神戸三宮阪急ビル」として建て替えが完了。復元された震災前のビル東側のアーチや、東改札口のコンコースの雰囲気など、往時の優雅な雰囲気をオマージュした空間となった。

 高架下の商業施設も「EKIZO神戸三宮」としてオープン。路面店の多い神戸らしさ、駅裏の雑然とした感じも上手に残した、飲み食いの楽しいエリアとなった。この神戸三宮阪急ビルを皮切りに、駅周辺では大規模な再開発プロジェクトが始まっており、ウォーターフロントエリアにはアリーナ施設が開業するなど、10年後の三宮は激変しているに違いない。それでも時折聴こえる汽笛の音が、このまちが変わらず港町であることを教えてくれるはずだ。