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「服の話」で思い出す江弘毅との会話 in 1987

8月31日(木)のナカノシマ大学には弊社の看板編集者で文筆家の江弘毅が登壇するが、お題は彼の生家(岸和田の洋装店)にも関係ある服の話である。

江は2006年の『「街的」ということ〜お好み焼き屋は街の学校だ』(講談社現代新書)をはじめ、京阪神の「店」や「街」について数多くの著書を残しているほか、「岸和田だんじり祭」についても著書が2冊ある。けれど服についての本は初めてだ。

『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』2023年6月発売(亜紀書房)。ナカノシマ大学当日も会場で販売

本の中身については詳しく書かないが、「服を着ていく場所」について、「寿司屋」「鰻屋」などについての考察はこの人ならではの視点だし、ドラマ「孤独のグルメ」の松重豊さん(井之頭五郎役)の背広姿がまことに理にかなっている、という指摘もその通りだと思う。服を着るというのはとことん「社会的」な行為なので、周りにいる人が「うっとおしぃなあ」と思わないことが前提、というのも腑に落ちる。

しかしコミュニケーション旺盛な江弘毅がナカノシマ大学で「周囲から合格点をもらえる着こなし」なんて話をするわけないので(会場からの質問次第でするかもしれないが)、当日はコロナで大きく変わった、服の「社会性」についてもう少し深く、おもろい、かつアホな話に着地するのではないかと思う。だからみなさん、この本を読んでいようといまいと関係なく楽しめること請け合いです。

当日は東京から、この本の編集者である亜紀書房の斉藤典貴さんも登壇し、江にファッションの本を書いてもらおうと思ったきっかけ(同社のブログ「『お洒落』考」に2019.12〜2022.5月連載)や、東京ネイティブの斉藤さんが江の原稿や服に感じた「新鮮な驚き」についても話してもらいたいし、会場からの質問なども取り込みながらわいわいと進めていきたい。

最近は「あさイチ!」にもよく登場するライターの永江朗さんがこの本のことを『Meets Regional』9月号の書評に書いていた。

「この本も『へえ』とか『なるほど』がいっぱいある。もっとも、だからといって『そうか、これは取り入れよう』とか『真似しよう』とならないのは、こちらも初老になったからで、いまさら自分の服装のルールは変えたくない。ぼくはジーンズの裾をロールアップしてはくし、アメリカン・トラッド風のスーツでもタイはウィンザーノットにする。ポロシャツは着ない。とりわけ無印良品についての考え方は、江さんとぼくとでは正反対だ。……てなことがあれこれ浮かんでくるのがこの本のいいところだと思う。何をどう着るかについての思考を促す」

……たしかにこの本を読んでいたら、持っていた服のことや、その服にちなんだことを思い出した。

デカい声で電話をかけまくっていた編集者

 

私が江弘毅に初めて会ったのは、堂島2丁目「堂北ビル」に京阪神エルマガジン社があった昭和の頃。

筆者は月刊誌『Lmagazine』(1977〜2008)の編集部にいた。江はそのLマガの別冊で、勢いのある「シティマニュアル」シリーズの編集長をしていた。

Lマガは「エンタテインメント情報誌」で、先行していた『プレイガイドジャーナル』(1971年創刊)を3年目ぐらいに抜き去り、当時大学生だった関西の若者に圧倒的に支持があったように思う。とくに学園祭特集は部数を増やしてもすぐに完売するような人気だった。

しかし、東京にはエンタテインメント情報誌ですでにブランドを確立している『ぴあ』があり、予想通り1985年に関西に上陸。Lマガの部数は少しずつ減っていった。

会社はそれに対して食べたり飲んだり買ったりの店を通じた「街のおもしろさ」を伝えるLmagazineの別冊「シティマニュアル」シリーズを年に1〜2回出すようになり、Lマガの部数減に反比例するように右肩上がりの伸びを示した。「ひと月で古くなる映画やコンサート情報」よりも、「一度行ってみたい街の店」のほうが、Lマガを卒業した社会人読者には刺さったのだと思う。

持ってる人もきっといるでしょう。藤原ヒロユキの表紙イラストがバシッときいたLmagazine別冊『京都・大阪・神戸シティ・マニュアル』1984年2月

その「シティマニュアル」の指揮官が、神戸新聞マーケティングセンターから出向してきた江弘毅だった。

筆者が在籍していたLmagazineは、「興行元がどんなイベントをするか」によって誌面が左右される媒体だったので、8割方のネタ(上映・上演スケジュールなど)は主催者や劇場、ライブハウス、そして出演者などから入ってはくるが、編集者のセンスが入る余地は「扱いの大小」や「順番」以外にはあまりなかった。Lマガは自らの見本とした『ぴあ』のジャンル分けを流用し、親会社(新聞社)の「政治面」「経済面」「社会面」「海外面」「文化面」「家庭面」「地方面」などのシステムを踏襲していたと思う。

ところが江たちが作る「シティマニュアル」シリーズは、「こんな切り口でこんな特集をしたら当たる」ありきの媒体で、「自分たちがネタを作り出す」ところが生命線だった。「特集の切り口」がどれほど新鮮かつおもしろそうかで取材先や読者の食いつきも変わってくる。江は最初は神戸を拠点に仕事をしていたが、「シティマニュアル」の刊行頻度が高まるにつれて来阪することが多くなり、その仕事ぶりを間近に見られるようになった(やがて1988年に京阪神エルマガジン社に移籍、1989年にMeets Regionalが江を中心としたチームで創刊される)。

江が午前中に編集部に入ってきたら、お昼までは延々といろんな人間に電話をかけ続けていた。あの声なので内容はまる聞こえである。

「注目したい若いバーテンダーってページ作ろう思ってんねんけど、〇〇くん最近行ったバーでええとこ知らんか?」

「きのうポートピアランド行ったんやけど、ババリアンマウンテンレールロードに4回も乗ってふらっふらやわ(ようやるわ)。あんなマシンでおもろいページでけへんかな?」

「2ページ増えたんや。それで一人ずつお気に入りのLPを持ってコメントするなんてどやろ?」

当時のLmagazine編集部にはおとなしい人間が多かったが、電話がまる聞こえなので、そんなネタなら……と江が電話を切った瞬間に「江さ〜ん、〇〇やったら✕✕があるやん」「あ〜そやな、✕✕があったわ」みたいな形で近くの席の人間からもネタが入ってくる。お昼になると特集の企画がいくつか出来上がり、それをライターやカメラマンに伝え、一方ではグラフィックデザイナーに手描きのラフをfax.(当時はメールなどない)で送ってイメージを共有し、ずんずん仕事を進めていた。

「手離れの早い人」「会話によるコミュニケーションで仕事をどんどん進める人」というのが江弘毅という編集者の印象だったが(声がデカいのは「だんじり」だというのも後に知った)、机が離れていたし、媒体が違っていたので接点はほとんどなかった。

唯一、当時のLマガ副編集長Мさんが、江が作る「シティマニュアル」のデスクでもあったので、彼の席で話をしていたら顔を合わせることがあった。ある時、着ていた元町高架下の[ミスターボンド]で買ったボタンダウンシャツを見て、話をしたことのない江がいきなり言った。

「色見本帳みたいなシャツ着てはりますね!」

ブランケットやウールのゴツいシャツなどでおなじみPENDLETONに、Pen Westというセカンドブランドがおました

派手な柄のアロハシャツを着た(と記憶する)男にそう言われて「はは……(苦笑)」としかよう返さんかったが、確かにシアンとマゼンタがそれぞれ濃くなっていくとこんな感じかいな。

ウマいこと言うなぁ。ホメてんのかイケズなんかよう分からんけど(きっと後者や)。

もちろんその時、「36年後に、この男が服のことを話すナカノシマ大学で、主催者として司会をする」なんてことは知る由もない。このシャツはもう売ってはいないけどたまに着るし、[ミスターボンド]は初代・岡保典さんの孫、幸雄さんがモトコーで続けている。人の縁は不思議である。