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笠置シヅ子さんが卒業した小学校を訪ねた

担当/中島 淳

元日の能登半島地震で被災された方に、心からお見舞い申し上げます。

29年前に東灘区の自宅で被災して(損壊なし)ケガもなかった人間でさえ、電気も水道もガスもない真っ暗な家で真冬に寝泊まりするのはホンマに堪忍してほしいと感じ、翌日には堺に避難しました。

だから避難所の惨状を知るにつけ、「予算の使い方間違うてるで」と思います。猛省してすぐに改善してください。

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」の主人公・福来スズ子(趣里)のモデル、笠置シヅ子(1914-85)が通っていた、大阪市大正区南部の南恩加島(みなみおかじま)小学校にお邪魔した。

大正区は自分の中では「なじみ」の場所である。

大正駅前の酒場には好きな店がいくつかあるし、シンボルの昭和山(標高33m)には何度となく登って、「大阪八低山」の中では最高の眺めや!とお気に入りだし、南端の新木津川大橋の上から見える、川と港、巨大工場、高架道路、そして遠くの山が織りなす景観は、「歩くの大変やけど値打ちあるわ〜」と実感できる大スペクタクルであった。

新木津川大橋の歩道からもこれだけの眺め! 奥は住之江区と和泉山脈

好きな作家、柴崎友香さんの出身地がここ大正区というのもポイントが高い。とくに短編集『ビリジアン』は潮の香りにアスファルやコンクリート、鉄の匂いが混じり、湿気までが伝わってくる。大正区入門編としてお薦めである。

……ということもあって、笠置シヅ子が卒業した小学校が大正区にある、と知って図々しくもお邪魔させていただいた。

朝ドラ「ブギウギ」では、少女時代の舞台は父の花田梅吉(柳葉敏郎)と母のツヤ(水川あさみ)が営む[はな湯]で場所は「福島」という設定だったが、笠置シヅ子の実家「亀井家」は福島だけでなく、大阪市内各地で転居を繰り返し、引っ越した先で銭湯を開いていた。

私は亀井志津子の名を手拭や鞄に書き付けて下福島尋常小学校に入学しました。二年生になると自宅が引越したので中津警察署の傍の曽根崎尋常小学校に転校し、更に三年生の時、十三へ引越し神津尋常小学校に転校、四年生で川口に移って本田尋常小学校に転校、五年生で南恩加島小学校に移り、ここで卒業までを送りました。」(『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』〈宝島社〉より)

南恩加島小学校の創立は大正13年(1924)。笠置シヅ子は開校して間がない当地の小学校に大正14年(1925)に転校、昭和2年(1927)に卒業した。同書の年表によれば同じ年に宝塚音楽学校を受験するも不合格、その後、松竹楽劇部生徒養成所に入り、8月には「三笠静子」の芸名でさっそく初舞台を踏んでいる。早くも13歳からエンターテイナーの道を歩んでいた。

大正通から少し東へ入ったところにある大阪市立南恩加島小学校。生徒数は約220人

小学校を出てすぐに社会人、という人生も当時はあったのである。でも勉強ができない訳ではなかった。

読み方、書き方なんていうのは駄目で唱歌と算術が甲でしたが、受け持ちの先生に『あんたには無理に上の学校を勧めない』。器用だから芸をみっちり仕込むのもいいし、記憶がよいから看護婦になるのもよかろうと言われて」(同)

両親は「看護婦」と聞いて苦笑していたらしいが、先生は彼女の歌唱力だけでなくコミュニケーションスキルの高さを見抜いていたのである。

大正区(当時は西区)の南部は、大正初期はまだ地図にも載らないエリアであったが、昭和3年(1928)の地図を見ると現在の全域が掲載され、奥の鶴町まで市電が開通しているのが分かる。笠置シヅ子は、現在はバス停になっている「大運橋通」あるいは「南恩加島」から市電に乗って、仕事場である大阪松竹座(1923年竣工)に通っていたのだろう。

大正5年の地図。「この先、産業発展のために用意された土地」ということだけ分かる。「南恩加島」はこの下で、掲載されていない(1916年『大阪市街全圖:實地踏測』国際日本文化研究センター所蔵)

街が急速に整備された昭和3年の地図。オレンジ色の矢印が「南恩加島小学校」の位置。学校を表す「文」という記号が載っている(1928年『最新大大阪市街全圖』国際日本文化研究センター所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

南恩加島の南隣の船町では、大正11年(1922)には日立造船(当時は大阪鉄工所)が、翌年には中山製鋼所が操業を始めた。昭和4年(1929)には東京・羽田に先駆けて日本初の本格的な民間飛行場である「大阪(木津川)飛行場」が開港して、名古屋や福岡、高松、白浜を結ぶ定期旅客便が飛んだ。西隣の鶴町には、笠置シヅ子が小学校を卒業した昭和2年(1927)に米ゼネラル・モーターズ(GM)が操業を開始し、シボレーなどがここで生産された(1941年に撤退)。そして昭和7年(1932)には、西区から独立して「大正区」が発足する。

木津川大橋から見える中山製鋼所。ここは松田優作の遺作となったリドリー・スコットの『ブラック・レイン』のロケ地にもなった。奥は南港の高層ビルと港大橋、六甲山系

南恩加島小学校の周辺は急激に人口が増加し、住宅が増え、居酒屋や映画館、ダンスホールなども出来てちょっとした歓楽街となっていた。そんな時期に亀井家がここで銭湯を開いていたのである。

南恩加島小学校校長の樋口和弘先生が地元の人から聞いた話では、笠置シヅ子の実家の銭湯は、大正通を挟んだ西側、大正西中学校(1955年創立)の辺りにあったそうである。客の大半は工場労働者。売上が増えることはあっても減ることはない時節柄、きっと儲かったはずであろうが……。

南恩加島町を最後に五カ所を転々としてきた風呂屋をやめ、その権利を売ったいくばくかの金で居喰いしていました。住居も南田辺へ引越しましたが、まだ浴客の来ない朝風呂にゆったりとつかり、いい気持で歌のひとくさりも歌ってから少女歌劇に通うのを日課としていた私は、暫くの間、これが出来ないのが物足りなくて仕様がありませんでした。風呂屋をやめたわけはよくわかりませんが、ひょっとしたら父の道楽から経済が手づまりとなり、借金の抵当にでも取られたのではないでしょうか。」(同)と、淡々と記している。

笠置シヅ子の実家兼銭湯があった(らしい)大正西中学校前から。道は彼女の通学路であり通勤路だった

ドラマでもスズ子は実家の[はな湯]で何度も歌を披露していたが、銭湯は幅広い客層が好き勝手に歌う唄で常に「ごった煮」の状態だったはずである。彼女が銭湯の娘でなかったら歌手にはなっていなかったのではないだろうか。

1月30日(火)のナカノシマ大学で講師を務める輪島裕介さんは、著書『昭和ブギウギ〜笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)でこのように書いている。

大都市の銭湯は、多様な人々が日常的に行き来する場であり、出身地も生業も異なる人が行き交う中で、さまざまな音曲の交換が起こっていただろう。さらにいえば、笠置は小学校卒業前後の時期を沖縄系移住者のコミュニティの中心となった大正区・南恩加島で過ごしており、そこで何らかの音楽的な交流が起こっていたら、という妄想を禁じえない(ちなみに沖縄音楽を専門に扱う最初のレコード会社マルフクレコードは、笠置が小学校を卒業した一九二七年に大阪で設立されている)

ドラマの劇中でスズ子が歌う「アイレ可愛や」を聴くと、その感を強くする。

地元の酒場で一杯飲んでバスで帰った。麦焼酎のソーダ割り、白菜とタコのピリ辛、ポテサラで1,000円からお釣りが来ました

「南恩加島は三代にわたって住んでいるというお家が多くて、地元の結びつきが強いまちなんです。笠置シヅ子さんのことでも『校長先生、この際だしもっと宣伝したら』と言われるんですよね(笑)」(南恩加島小学校・樋口校長)

南恩加島小学校はこの11月に「創立100周年」が祝われる。ええタイミングでナカノシマ大学を開催できてうれしい。

いよいよ1月30日(火)です。お早めに!