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中之島図書館が揺れた8.9マーキー・ナイト!

担当/中島 淳

去る8月9日(金)、FM COCOLO「MARK’E MUSIC MODE(月〜木曜17:00〜20:00)」のDJ、マーキー(MARK’E)さんを講師にお迎えしてナカノシマ大学8月講座を開催した。

座学の講座にもかかわらず、40年来のファンをはじめ、小学生から70代まで多彩な年齢層の受講者のみなさんが大阪府立中之島図書館の3階多目的スペースをぎっしりと埋め、超満員の熱気の中で始まった。

ふだんは別席にいるが、この日は講師の隣で超緊張しつつ、話したりプロジェクターを操作したりする筆者

当日の最高気温は37.0℃。いつもは「冷やしすぎやで」という3階の巨大クーラーもこの日はあんまり効かず(すみません)、みなさんパタパタとあおぎながらの受講だったが、その団扇にも「マーキーさん❤️」という文字がドーンと入っているものもあって、最初からピースフルでグルーヴ感満点な空気が満ち満ちている。

筆者が初めて生でマーキーさんを見たのは京阪神エルマガジン社にいた1990年。雑誌『SAVVY』の関係者たちを招待するパーティーで司会をするはずだった同僚が、なんと会場で骨折してしまった。その時に飛び入りで司会を引き受けてくれたのがマーキーさんだった。

「マーキー、すまん、頼む!」と上司の編集部長N氏が彼に頭を下げると、その場の状況を瞬時に理解したマーキーさんは「パーティーに遊びに来た」モードが一瞬にして切り替わり、5秒後にはそこにいるのが当然という顔でステージに立って、「さ、みんなええかな〜」と観客に笑いかけてパーティーが始まった。

そのサービス精神に呆気にとられつつ、シビれていたのはもう34年も前のことだ。

マーキーさんに取材で話を聞くようになったのはMeets Regionalに移動して、アメリカ村の「ママ」と呼ばれた日限萬里子さん(ひぎり・まりこ/1942-2005)の連載「ママいるぅ?」(1997.4〜2000.12)の担当になったことがきっかけだった。

日限さんのエピソードはとても面白くて興味深かったが、それを補完する「街の証言者」の話が聞きたい。マーキーさんからは日限さんが1969年に三角公園前に開いたカフェ[LOOP]や、77年に誕生したカフェ&クラブ[パームス]、そしてアメリカ村ユニオンで取り組んだ1983年の「アメリカ村カーニバル」のことで何度かお話を聞いた。

『Meets Regional』1998 年 11 月号 日限萬里子連載「ママいるぅ?」より

一つ質問すると、当時の情景が彷彿としてくるような表現をフル稼働させて、聞く側を楽しませながら答えてくれる。[LOOP]も[パームス]も知らず、初期のアメリカ村に縁のない人間である筆者にとっても、この取材は楽しいひとときだった。

その日限萬里子さんが2005年に62歳で亡くなってしまったことで、アメ村や1960〜80年代のミナミの歴史が語り継がれることが少なくなったように思う。

そんな話を人に「届けられる言葉」で届けてくれる人は、やっぱり現役のDJとしてリスナーを楽しませてくれる人でないといけない。

マーキーさんは「自分で遊び場(仕事場でもある)を作ってきた人」で、かつ「街の当事者で歴史の語り部」でもある人。改めてお話をぜひ聞いてみたいし、受講者のみなさんにも聞いてほしい、ということで講師にお願いした。

お忙しいのに、よくぞ引き受けていただいたことだとほんまに感謝しております。

8月講座は18時にスタート。MARK’Eさんの歴史が70分。10分間の休憩を挟んで、会場からいただいた質問に答えていただく時間が20分。

前半では「堺の家から近大附高に通うはずが、布施の友人宅に居候してそこから高校やミナミの喫茶店に通い、商店街の人たちに可愛がられて連れていってもらった志賀高原のスキー場で衝撃を受けた」ことや

「信州のスキー宿で住み込みバイト中に、地下のディスコを盛り上げようと“DJ”を任された」こと

いつもは長机とセットだが、この日は椅子だけでぎっしり

「フリースタイルスキー競技のDJを社長から“ディスコで盛り上げとったやろ。あの感じや”と無茶振りされ、見よう見まねではじめた」こと

などなど、「谷口雅之青年がマーキーになるまで」の話がとても興味深く、振られた「お題」を試行錯誤しながら自分の中で消化させていったからこそ「その後」があったのだなぁと改めて感じ入った。

質問は、なんと受講者の半数近い42人から寄せられた。

たくさんの質問をお寄せいただいたことにまずお礼を申し上げると共に、時間の都合上4人の方しか採り上げられず、ほんまにご容赦ください。

とくにマーキーさんの類まれなポジティブ志向の理由や、健康を維持して見事な滑舌を保つ秘訣、「生まれ変わったら何をやっていますか?」とか「どこで服を買っているんですか?」などの多彩な質問が寄せられた。

印象的だったのは、マーキーさんと同世代の方からの質問。

「私も70カラット(歳)になりまして、向こうの岸に行く準備のことなど考えてしまいます。向こうの岸にいる両親に誇れる人生でありたいなどと思っています。マーキーさんは、向こう岸に行くことを考えてはりますか?」

こちらの質問に対してマーキーさんは、ほんの数ミリを削ることで格段に性能を増すサーフボード職人の技と、その職人の言葉を紹介した。確かこんな内容だったと思う(違っていたらすみません)。

「この技は先人が長い年月をかけて会得したもので、自分はその歴史の中に少しいるだけだが、それは光栄なこと。自分の人生に限りがあると知ることは、残り少ない人生を豊かにするものだと思います」

この言葉が会場内に静かな感動を引き起こし、ナカノシマ大学8月講座はあっという間の1時間45分を終了した。

そのあと、みなさんマーキーさんにプレゼントを渡したりサインをしてもらったりでそれが長蛇の列になっていて、20時までに全員に退出してもらわねばならない中之島図書館の係員のみなさんと我々はやきもきしたが(裏口から出ていただきました)、こんなに多くの受講者の笑顔を見ることができたのはラッキーこの上なしでありました。

毎日放送・山川徳久さん(左)、フェニーチェ堺の柴坂哲也さん(中)と一緒に。ええ表情です

 

次回は、大阪の船場が生んだ大作家・山崎豊子の「最後の編集者」がお江戸から登壇してくれる

マーキーさんも山崎豊子も「語り継いでいきたい大阪の街の宝」。来月もまた中之島図書館でお会いしましょう。

もちろん、マーキーさんの「続編」もぜひ改めて開催したいと思っています。その時はまた、よろしくお願いします。