担当/中島 淳
天王寺駅前から阪堺電車に乗って帝塚山三丁目で降りる。
11月7日(木)にナカノシマ大学に登壇する陸奥賢さんの講座「不思議な『阪堺沿線文化』を知る1〜天王寺駅前から我孫子道まで」に登場する現場をもうちょい歩きたくなったので現地へ。
パークサイドのパン屋カフェに出会ってラッキーでした
帝塚山三丁目停留場は阪堺上町線が走り始めた明治33年(1900)からこの地にあって、かつては「帝塚山駅」という名称だった。
そこから西へ5分ほど歩いたところにある帝塚山学院のそばの「南海高野線帝塚山駅」は昭和9年(1934)の開業だから、両者には30年以上の隔たりがある。
この停留場から、帝塚山のシンボル「万代池公園」はすぐ。公園のど真ん中に池があって、その周囲を歩くだけでなく、浮島づたいに池を縦断する構造になっていて、福岡市にある「大濠公園」のスモールサイズのようだ。
紅葉はこれからという感じで、だんだん秋の色になっていくのが楽しみだ。
池を縦断して南側に出たところに、カフェの付いたパン屋さんがあった。小腹が空いていたので入る。
「トーストセット」は焼き立ての分厚いトーストに、挽きたての熱いコーヒー、ゆで玉子が付いて380円。パン屋さん併設のカフェとはいえ、「ええっ!?」という良心価格である。
窓際の椅子に座って、公園内や外周の道路を歩く人、自転車をのんびり眺める。美味そうにトーストを頬張っていると、道ゆく人と目が合い、店の中を覗いたり、中には入ってくる人もいる。バターが溶けた熱いトーストはそれだけでたまらん。
「帝塚山に住んでたら、ぜったい通うやろなここ」と思っていたら、お店には意外な貼り紙が出ていた。
この11月27日(水)をもって閉店されるそうである。2017年から7年、公園に面した場所で筆者のような小腹を空かせた人間に美味しいトーストとコーヒーを振る舞い、パンを販売してきた。一緒に食べたチキンと玉子のサンドイッチも美味かったな。
こんな洒落た店がなくなるのはほんまに残念だが、逆に「まだ11月27日まで時間があるし、ナカノシマ大学受講者の方々にもアナウンスできるし……」とお店の方に断りを入れ、自己紹介し、ナカノシマ大学のチラシを渡した。
「え、ウチのこと講座で話してくれるんですか!? もう少し早かったらもっとうれしいけど……でもいいですよ。ありがとうございます!」
[もんあたっしぇ]店主の大森千枝さんはそう言って快諾してくれた。おおきにです。
日本ウイスキー発祥の地なんで、もう少し盛り上げよう
そこから南へ下り、上町線と南海高野線が交差する東側に、市営住宅に挟まれただだっ広い公園があって、その一角に「摂津酒造跡」という表示があった。大阪市教育委員会が作った碑文にはこう記してある。
今や世界5大ウイスキーのひとつに数えられる「ジャパニーズウイスキー」。その誕生の歴史に深く関わった人物こそが、この地にあった「摂津酒造」の二代目・阿部喜兵衛である。明治39年(1906)、喜兵衛は摂津酒精醸造所を創立し、大正期には国内三大アルコール製造業者となった。ウイスキー製造技術を導入するため、社員である竹鶴政孝をスコットランドに留学させ、日本でウイスキー製造を計画するも、第一次世界大戦後の不況により頓挫。失意のなか同社を退社した竹鶴は、大正12年(1923)、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎に山崎蒸留所の初代工場長として迎え入れられ、昭和4年(1929)に国産初のウイスキーを世に送り出すことになる。
意外なところに、「国産初のウイスキー発祥の地」があった。もう少し歩いたところには「摂津酒造の井戸の跡」もある。
そんなウイスキー造りにかけた近代史の人間ドラマをこんな公園の片隅で知ることができたのはラッキーだったが……。
鳥井信治郎の「サントリー」を書くなら、竹鶴政孝の「ニッカウヰスキー」も書かなアカンのやないの? そらちょっとフェアやないで、と毒づきたくなったが、それはさておき。
大作家も映画監督も刺激した神ノ木停留所
そこから南海高野線の踏切を渡り、神ノ木停留場へ。私鉄と立体交差する路面電車が土手の上を走る、全国でも珍しい構造の停留場は19世紀末、明治33年(1900)11月29日に誕生した。この時の駅名は「上住吉」。やがて現在の名称に変わる。
この神ノ木停留場は、山崎豊子作品の中でも最も多く「映画化・ドラマ化・舞台化」がなされた『女系家族』に登場している。
婿養子だった父親の遺産相続で骨肉の争いをする三姉妹に、もう一人「邪魔者」が現れる。それが父親が生前「懇意になって世話をしていた」という浜田文乃。おまけに父の子供を身籠もっているという。
互いに仲は悪いが「邪魔者」には結束して情け容赦ない三姉妹を、映画では京マチ子(長女・藤代)、鳳八千代(次女・千寿)、高田美和(三女・雛子)が演じ、父の愛人だった文乃を、若尾文子が演じている。物語の筋はあえて言いませんが、山崎豊子作品の中でも珍しく、「最後にガッツポーズ」したくなる結末が待っているので、新潮文庫を読んでもDVDを買って観ても損はありません。
都合の悪い時にはすべて耳が遠くなる海千山千の番頭・大野宇市を先々代の中村鴈治郎が演じていて(小説を読んだ鴈治郎が「ぜひ宇市を私に」と山崎豊子に直訴したらしい)、宇市が文乃の様子を見に行くシーンでこの神ノ木停留場が登場する。
駅舎や電車、看板などは今とは違うが、基本的な構造は全く変わっていない。
山崎豊子の小説で「手練れやなぁ」と思うのは、船場のど真ん中(中央区)とか堂島川沿いの大学病院(北区)とかの「メインステージ」の設定もスゴいけど、白い巨塔で3回登場する「間近に製鉄所が見える木津川河口(大正区)」や、この神ノ木停留場(住吉区)などの「サブステージ」の設定であろう。
土手の上に電車と小さなホームだけの映像を見ても、文乃が「ひっそりと暮らしている」感がよく出ている。
小説でも映画でもその後、文乃を追い込んで流産させたい三姉妹が宇市を連れて神ノ木を訪れ、嫌がらせの限りを尽くすのだが(このエゲツなさもさすが豊子さんである)、彼らは路地を塞ぐような高級車でやって来る。あのドロドロの争いと阪堺上町線の電車は似合いませんわな。
住吉詣りが終わったら90年洋食店へ
神ノ木の一つ向こうは住吉。住吉停留場そばには、「阪堺沿線文化」が大きく花開いていた昭和10年(1935)からレストランを営んでいる[洋食やろく]がある。
暖簾には、作家の藤澤桓夫(1904〜89)、石浜恒夫(1923〜2004)、将棋の升田幸三名人(1918〜91)が連名で暖簾を寄贈していて、ここが「阪堺沿線文化人」たちのサロンであったことが分かる。
そういうことを知らなくても、ここの玉子コロッケを食べたらファンになると思う。BGMの選曲もインテリアも、「街場の洋食店」とは一線を画す洒落た感じを保っている。
3代目の店主は多田義景さん。
ある時、通りがかりでたまたま暖簾を見た升田幸三の親類がお店を訪れ、「なぜこの暖簾がお店にかかっているのですか?」とその経緯を多田さんに聞いたそうである。
確かに升田幸三は広島出身で戦後は10年ほど関西にいたが、昭和30年(1955)以降はずっと東京暮らし。親戚からすれば「何でこんなところに?」だったことだろう。
店内レジのそばには升田幸三名人の色紙もある(下の写真左手)。
人生の 休みどころに やろくあり
昭和48年(1973)、15年ぶりに店を訪れた名人が、見た目(筆者の印象は長髪で髭ぼうぼう)同様の豪快な筆跡で書いておられる。
そんな「文化人のたまり場」だったのであるが、「歴史」や「文化」を押しつけたりせず、美味いものを食べて楽しく過ごしてくれたらそれでよし、という店の無言のメッセージが伝わってくる。
「いい店」には「客層」とか「年齢層」とか「所得層」などという言葉は存在しない。
話好きの地元の20代男女グループの隣では老夫婦がゆっくり食事しているし、がっつり大好き営業サラリーマン、外国人観光客、私のようなオッサンひとりなどいろんな人たちが来店して楽しそうに過ごしている。
こういう「祝福の交差点」のようなお店が90年続いているところに、「阪堺電車はダテに125年もこのあたりを走ってへんな」という底力を感じる。もちろん、住吉さんのご威光も含めて。
なので、[やろく]さんだけでなくこのエリアに遊びに行くときは、取り回しの悪い「高級車」に乗ってふんぞり返ってたらあきまへん。
上町線に乗って、路地をぶらぶら歩かんとアカン。でもお出かけの前に、11月7日(木)の、陸奥賢さんの講座に行くと、よりこの不思議なエリアにハマると思います。
お申し込みはぜひこちらで