• その11

街・人・物・神シームレス(泉州)【前編】 ―つながり、とけあう仕事地名― 2022年7月7日

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もうひとつの江戸時代の瓦産地

 今回は大阪府域の仕事、なりわいに関わる地名の話です。前回の大阪市中の話と何か違いが出てくるでしょうか。
 まずは、前回紹介した中央区の東横堀川に架かる瓦屋橋に再度登場してもらいましょう。近くで瓦の材料になる良質の土が採れ、瓦製造の燃料には炭屋町(現在の西心斎橋)から炭が供給され、橋詰が瓦の出荷で賑わったという話。
 同様の場所が、大阪府南部の泉州にもあります。江戸時代の有名な瓦の産地で、その地の呼び名を冠した瓦は明治期には類似品が現れるほど、もてはやされたといいます。

瓦のつく地名、地名のつく瓦

①②谷川(上)多奈川(中央)大阪府近郊地図・昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 その名は谷川瓦です。瓦で一時代を築いた谷川①という村が、大阪府の最南端で最西端、岬町にありました。江戸時代には都市化が進んだ街々で火災が大きな脅威になり、幕府は板葺き、藁葺きが一般的だった町屋の瓦葺きへの転換を奨励しました。大阪湾と和泉山脈にはさまれた谷川村は良い土がとれ、燃料となる薪や松葉も豊富。村には海運の拠点となる良港もあり、需要増大に応えて谷川瓦は諸国に出荷されました。
 大阪市中の瓦生産が幕府の御用に応える官需で潤ったのに対し、谷川瓦は民需で栄えたのです。明治期には皇居造営時に宮内省から御達しがあり、高まる名声に便乗して「谷川」の名を刻印した粗製の瓦を売る業者が出没する事態に。谷川村では対策として、谷川瓦製造会社を組織し、加盟業者のみ「谷川」の刻印が使えるようにしたとのこと。明治末頃には村内に14もの瓦製造工場があり、谷川は泉州瓦の代名詞になりました。その後、時代は移り、瓦需要が減少。谷川、瓦屋橋の風景も変わっていきます。現在、谷川産の鬼瓦や道具は地元の廃校をミュージアムに再生した「岬の歴史館」の谷川瓦展示室で公開されています。
 瓦は同時代の産業として、大阪市中と大阪府の南西端で繁栄しました。谷川では、瓦屋橋のような仕事と直結した地名が生まれず、代わりに、品物に地名を冠した谷川瓦の名が広まりました。仕事と地名の関り方もいろいろです。
 谷川の現在の地名は多奈川②です。連載第2回に登場した犬飼村の伝承地でもあります。

地名がブランド名になる

③堺市役所は堺市堺区南瓦町にある(堺東駅前の案内板) ④堺市役所21階展望ロビーからは市街も古墳群も見下ろせる

 瓦屋橋と谷川瓦のような地名のあり方の違いは、どこから来るのでしょう。思案していると、堺市の方から「ここの住所は瓦がそのまま地名やけど!」とメッセージが届きました。堺市役所の写真③④が添えてあります。
 なるほど、堺市役所が建っているのは南瓦町。そこから南海高野線の堺東駅まで続く中瓦町・北瓦町のエリアは昔、瓦職人の集住地だったとのこと。堺は中世から続く旧市街を中心に繁栄し、戦火の経験もあって、瓦作りは街の維持に不可欠でした。瓦町という呼び名はそこが瓦職人の町と示しつつ、火の脅威という都市が抱える問題もあらわしているようです。
 一方、谷川瓦は地名を瓦に冠した商品名です。地元消費よりも諸国向けの出荷品として出回った谷川瓦が有名になり、村の名が広く知られたことに谷川の人々は誇りを感じたことでしょう。地名が瓦のブランドになり、広報役を務めてくれたわけです。今回は仕事由来の地名がテーマですが、地名がひと仕事するケースもあるのですね。

仕事地名は旧市街とともに

⑤⑥材木町(上)櫛屋町(中)昭和31年(1956)堺市詳細図・産経新聞社

 堺市は現在、人口80万人を抱える政令指定都市です。その起源となった旧市街は南海本線の堺駅と高野線の堺東駅の間に位置し、かつては環濠と呼ばれる堀で囲まれた自治都市でした。住人が自ら街を治め、富を築くなかで、都市生活を支える品を扱う人々の居住地が品名や職種名で呼ばれる仕事地名を生んだのです。
 今も残る北旅籠町と南旅籠町は旧市街の入口にあたる町で、文字通り旅籠(はたご)が多く、宿屋町(しゅくやちょう)は街道を往来する旅人の宿が並んでいました。材木商が多かったのが名の由来の材木町⑤は、四国や九州の材木の集散地。櫛屋町(くしやちょう)⑥は名産の和泉櫛の問屋が多かった町。いずれも泉州の交通と流通の中心地らしい町名です。
 綾之町(あやのちょう)と錦之町(にしきのちょう)は応仁の乱の兵火を逃れて京都から移住した織物師たちが、綾織り、錦織りの技術を伝えたのが町の起こり。鉄砲町は名前のとおり鉄砲の生産地で、堺砲術発祥之地の碑が建っています。鉄砲鍛冶射的場跡の碑もあり、試射場で鉄砲師が射撃の技を教えていたとのこと。堺の旧市街は文化、文物の入口でもありました。

須恵器の誕生とともに

⑦陶器ノ庄・東陶器・西陶器(左)大阪府地図・大正7年(1918)駸々堂旅行案内部 ⑧窯跡遺跡を貫く陶器山トンネルを覗き見る ⑨陶村窯跡群跡に続く陶器山通りはこの道

 「歴史を言うなら、こっちの方が古い!」という声は、同じ堺市の泉北方面からです。「なんといっても日本の須恵器の発祥地やから」と聞いて、思い出しました。1960年代の大規模都市開発のモデルとなった泉北ニュータウンの造成時、おびただしい数の窯跡と須恵器が発見されたこと。調査の結果、一帯は日本の須恵器発祥で日本最大級の須恵器生産地だったと判明。大きな話題となったのでした。遺跡は『日本書紀』に記された「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」の地名にちなんで陶村窯跡群(すえむらようせきぐん)と名づけられました。窯業に適した粘土がとれ、燃料となる雑木や松は周囲の丘陵から調達できた泉北では、ろくろの技を持つ工人集団が永年にわたって活躍。縄文、弥生の土器から進化した須恵器は、丈夫で艶やかな陶器の時代のはじまりを告げ、人々の暮らしを一新したのです。
 泉北ニュータウンに隣接する大阪狭山市との境にある標高153メートルの陶器山の一帯が、陶村窯跡群の跡で、茅渟県陶邑の故地。現在は宅地と緑地に覆われたエリアですが、須恵器の記憶が刻まれた地名も点々と残っています⑦。
 泉北高速鉄道泉ヶ丘駅近くの高倉台のもとの地名は高蔵寺(たかくらじ)で、蔵は須恵器の貯蔵庫のこと。行基建立の高蔵寺があり、その別称は大修(須)恵院で、やはり須恵器にちなんだもの。周辺には片蔵、富蔵の地名も残り、崇神天王によって紀元前に創建されたとされ、陶器大宮の異名を持つ陶荒田(すえあらた)神社も鎮座しています。東陶器村、西陶器村があったエリアの現在の地名は堺市中区陶器北。そこから陶器山トンネル⑧を抜けると大阪狭山市の陶器山通り⑨へと格好の散策路が続きます。陶器山の尾根道は「大阪の道99選」になった天野街道の一部です。

最古の「陶村」から最新の「SUEMURA」へ

⑩旧資料館の地下1階を再生したspace.SUEMURAは緑の木陰に囲まれて ⑪イベントゾーンの名称はLip Zone(公園の案内板参照) ⑫OHASU PARAK(大蓮公園)の案内板は横文字が多い

 陶器山通りを歩いていると、「おいでよ、space.SUEMURAへ」と、風が横文字の名前をささやきました。スペース・スエムラとはいったい何?
 『日本書紀』に出てくる陶邑を「すえむら」と読むのは、須恵器が陶器のはじまりという歴史のあらわれです。昭和45年(1970)、陶村窯跡群の跡に建った「泉北考古資料館」が平成22年(2010)年「泉北すえむら資料館」として再生したのも、須恵器の古里らしい改名でした。6年後に閉館したものの、「すえむら」の火は消えず、現在は資料館の須恵器保管庫をリニューアルしたモノづくり拠点「space.SUEMURA」⑩が活動しています。地域に根ざして、ここで好きなこと、得意なことを仕事にする人たちは「スエビト」と呼ばれるとのこと。須恵器生産のはじまりとされる古墳時代後期からおよそ1500年後に登場したSUEMURA、スエビト。呼び名の変遷は、仕事をする、働くということの意味を再発見する時代の到来を物語っているようです。
 「space.SUEMURA」は泉ヶ丘駅から歩いて行ける大蓮公園の中にあります。訪れた日は、公園内のイベントゾーン⑪⑫に手作りのアクセサリーやお菓子の出店のテントがずらり。黒地にくっきり白抜きの「LIFE is PARK」の文字が並んでいました。

スター絵師・巨勢金岡を知っていますか

⑬金岡・金田・金岡社(中央)大阪府地図・大正7年(1918)駸々堂旅行案内部 ⑭金岡神社の境内にある案内板には巨勢金岡の肖像が載っている ⑮金岡神社で堂々たる存在感を示す樹齢900年の楠の神木

 泉北エリアからほど近い著者の住まいの周辺にも、岩室(いわむろ)、釜室(かまむら)の地名があります。「室」は蔵で須恵器の保管場所だったともいわれ、「釜」は須恵器の窯をさすとの説もあるそうで、陶器との縁を感じたところに、またも声が届きました。「河内絵師の巨勢金岡を知っていますか……」と彼方から、かすかに聞こえます。
 巨勢金岡(こせのかなおか)といえば、平安時代の宮廷画家で菅原道真にも重用され、日本画独自の様式を追求して大和絵の祖となった美術史上のビッグネーム。明治時代まで続く巨勢派の祖とも仰がれた巨勢金岡は、堺市北区金岡町の出身でした。金岡町には巨勢金岡を祀る金岡神社があり、巨勢金岡が筆を洗ったとされる金岡淵が史跡として残っています。
 なるほど、このケースは人名が先で地名は後。それでさっきの声は、地名の話に人名で割り込んできたのですね。
 歴史をたどると、地名の金岡のもとは金田(かなた)⑬で、地元には住吉三神(住吉神社に祀られる三つの神の総称)を祀る金田三所宮がありました。巨勢金岡⑬の没後、金田三所宮はその遺徳を讃えて祭神に加え、金岡神社⑬と名を変え、地名も金岡になったと伝えられます。抜きん出た仕事をすると神になり、地名にもなるという話。先ほどの彼方からの声は、人・地・神が近しいものだった遠い過去からのものだったようです。
 後日、金岡神社⑭を訪れました。樹齢900年という楠の神木⑮を見上げていると「金岡の由来には異説もありましてなあ……」とつぶやく声。振り返ると、涼しげな目でこちらを見ているお年寄りがいます。「このへんは昔、鋳物をなりわいとした人々が住んでいて、金物のクズが田んぼから出て金田(かなた)と呼ばれた。金岡いうんは、その金田がなまったんやな」ふふふと笑みを残し、お年寄りは風とともに去っていきました。

 第6回【前編】はここまで。前回とりあげた大阪市中の地名では、街と仕事の関りの話が中心でした。今回の近郊編・泉州エリアの話とは少し印象が違います。大阪市中の歴史が中世から近世の都市誕生と直結し、地名も都市の歩みとともにありました。一方、古代からの蓄積の上にゆるやかに発展してきた近郊では、街、物、人、地、神の混然とした関係が今でも垣間見え、それが地名のあり方にも反映しているように思えます。
 堺の旧市街のように都市的性格の濃い場所もありますが、地名が物について広まり、人名が地名になって神にもなる泉州……。さて、【後編】では、どんな地名をめぐるストーリーが展開されるでしょうか。