• その12

街・人・物・神シームレス(泉州)【後編】 ―つながり、とけあう仕事地名― 2022年7月7日

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泉州と河内をつなぐ鋳物師のルーツ

⑯美原(左下)新日本分県地図大阪府・昭和36年(1961)和楽路屋

 金岡町のもとの名の金田が、鋳物師の居住地だったのは史実です。堺市内には浅香山や鳳(おおとり)にも金屋(鋳造所)があり、その技術が戦国時代の堺の鉄砲製造につながったといわれます。【前編】の最後にあらわれた謎のお年寄りが語った異説には、そんな背景がありました。
 大阪府域の鋳物のルーツは、堺市美原区を中心に松原市、大阪狭山市にまたがる旧丹南郡で活躍した鋳物師集団です。丹南郡は河内国に属することから、河内鋳物師(かわちいもじ)とも呼ばれます。日本各地の梵鐘(寺院の鐘)を多数生産したことで有名ですが、河内の話は次回に譲って、ここでは泉州エリアの話題をとりあげます。河内鋳物師が集住し、一大鋳物産地となった堺市美原区⑯の話です。

日本御鋳物師発祥の地

⑰日本御鋳物師発祥地の碑の右後ろに小さく見えるのは、河内鋳物師の古里、大保千軒之碑 ⑱鍋宮大明神の跡地を示す大きな石碑

 美原区はもともと河内国の所属ですが、堺市が政令指定都市になった平成18年(2006)に河内郡美原町から堺市美原区に移行しました。河内鋳物師の本拠地・美原は現在、泉州エリアに所属。河内と泉州をつないだ河内鋳物師のメモリアルともいえる碑が、大阪市中と南河内を結ぶ国道309号の沿道に建っています。
 碑には「日本御鋳物師発祥地」と文字が刻まれています⑰。後ろには、当地が鋳物師集団の居住地で、大保千軒と呼ばれたのにちなむ碑が建っています。河内鋳物師の始祖とされる石凝姥命(いしこりどめのみこと)を祀る鍋宮大明神があったのを示す石碑⑱も同じ敷地にあります。大保(だいほ)は堺市美原区の地名で、今は泉州エリアですが、かつての美原は河内国に属していました。

広国神社と「金」の地名の関係は……

⑲鍋宮大明神は近くの広国神社に合祀されて今も健在 ⑳広国神社境内の名物、巨大な鍋。子供が並んで立つと背丈を測れる

 東大寺の大仏再建や鎌倉大仏の建造にも貢献したと伝えられる河内鋳物師の神は今、鍋宮大明神跡地にほど近い広国神社に合祀されています。広国神社の祭神は広国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)で、その名は安閑天皇の死後に贈られたもの。つまり、ここは安閑天皇を祀る神社なのです。もとは修験道の蔵王権現を祀る社でしたが、後世に安閑天皇が蔵王権現と同体との説が広まり、広国神社の主祭神になりました。広国押武金日命の中に金の1文字が入っているのが、金属を扱う鋳物師との縁を思わせます。
 安閑天皇は即位の翌年に亡くなっていますが、その経緯は不詳とのこと。時代は6世紀前半。王朝内に争いがあったといわれる動乱期でした。
 鍋宮大明神の石碑を見た後、広国神社を訪れました。境内に、合祀された鍋宮大明神の祠⑲があり、鋳物の神にちなんだ巨大な鍋⑳も出迎えてくれました。鍋の大きさがわかる目盛りがかたわらにあって、親子連れで楽しめそう。鋳物師の歴史が急に身近なものに思えてきます。

鍛冶と魚と舞の地名

㉑舞[阪南市](中央)明治18年(1885)大演習枢要地図・中村鐘美堂

 さて、ここまで、「お仕事地名・大阪府近郊編」として泉州エリアを訪ねてきました。瓦、鋳物のほかに旅籠、材木商、織物、鉄砲鍛冶などの職業名が出てきましたが、その他のなりわいにまつわる地名はどうなっているのでしょう。
 例えば和泉市の鍛冶屋町は、中世以後に鍛冶業が行われていた地域だったのに由来する町名。貝塚市の大字地名として残る加治は、垂仁天皇に剣を鍛造、献上して鍛冶村の名を賜ったのが起源とされます。岸和田市には大工町の町名があり、第2回【後編】では魚屋が、堺市の魚ノ店東半町とともに登場しました。
 和泉市に今も残る舞町(まいちょう)㉑は、かつて陰陽師が活躍した地だったのにちなみ、暦を作成して売っていたとのこと。当地には聖武天皇が立ち寄った仮宮があったと『続日本紀』には記されています。阪南市にも舞という旧地名があり、芸能者集団が居住していました。舞の名は現地の小学校の名に残っています。
 堺市の日置荘(ひきしょう)は鋳物師集団の日置氏の居住地だったのが地名由来とされますが、日置とは古代の太陽祭祀の役目を担った人々を示すとの説もあります。この説をめぐる古代史の謎は40年ほど前にNHKスペシャル「知られざる古代」で紹介され、番組と同名の書籍も2冊刊行されて話題になりました。

近郊で賑わう市の地名

㉒市場[泉南市](中央右)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 近郊では「市」の地名も目につきます。「市」は市場ですね。堺市の旧町名の市之町(いちのちょう)、市之浜は青物市と関係が深く、市之町浜には町内の筋に海老屋町、穀物町などの別称がついていました。堺市には他にも旧町名の市之町寺町、市之町中浜があり、現役の町名に市之町東、市之町西があります。
 泉南市にはかつての市場という村名㉒が今も大字名として残っていて、高石市の綾井も古くは市場村でした。市の1字には、市場に並ぶさまざまな品と、それらを扱う人々のなりわいが凝縮されています。

石と箱をめぐる地名

㉓箱作(中央上)大阪府近郊地図・昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 今回は【前編】から【後編】にかけて土(瓦)と金(鋳物)の話がいくつか出てきました。エンディングは石の話で締めたいと思います。古代の石作連(いしつくりむらじ)と江戸時代の石匠(せきしょう)へとつながる話です。
 日本地質学会認定の「都道府県の石」に、大阪府では和泉石が選ばれました。和泉山脈は美しい青石の産地で、江戸時代の『和泉名所図会』に「和泉石はその性、細密にして、物を作るに自在なり」と記されて、石灯篭や石臼、石仏などの細工で有名でした。
 紹介文は「箱作(はこつくり)に石匠多し」と続きます。箱作は今の阪南市の地名で、京都の加茂神社の神体を納めていた古い箱が淀川に流され、大阪湾に出て当地に漂着した逸話が名の由来。もとは「箱着里(はこつくり)」と書いたのが、「箱作」になった背景には、泉州の石作りの歴史があります。古代の泉州には石像や石棺を作る石作連(いしつくりむらじ)、石作部(いしつくりべ)の人々がいました。
 そんな神と石のイメージが重なる石匠の里……。
 それが、箱作㉓でした!
 さて、エンディングにおまけをひとつ。近郊と市中の仕事地名を最後にもういちど比べてみたいと思います。箱作に引き寄せられて登場する大阪市中の地名とは……
 その名は、箱屋町です!
 現在の大阪市西区阿波座上通にあたる箱屋町は、江戸時代から明治の初めまでの町名。通称の戸屋町は戸大工が多く住んだため。戸大工とは、戸や窓を作る職人。江戸時代の中頃には、大工の職能もいろいろに細分化し、それぞれが技術を磨いていました。街の暮らしの向上と専門職の増加は歩調を合わせていたのです。
 同じ箱の1文字が、泉州は石工、大阪市中は戸屋という職業と結びついて、それぞれの地名になりました。西区の箱屋町は消えてからおよそ150年が経っています。阪南市の箱作は海水浴が楽しめる砂浜の名前になりました。愛称は、ぴちぴちビーチです。

 第6回【後編】はこれにておしまい。お仕事地名の近郊編その1は、泉州がテーマでした。次回は河内、次々回は北摂を訪ねる予定です。泉州では街・人・物・神がシームレスにつながり、とけあう仕事地名のあり方に気づかされることが多々ありました。そのうえで大阪市中を再訪すれば、第5回で書いた内容も、また違った目で見なおせるような気がします。しかし、今は前を向いて連載を続けましょう。次回の河内、次々回の北摂ではどんな地名が待っているでしょう。

 さて、今回の登場地名の集計報告は、堺市が25箇所で最多になりました。2か所以上が阪南市、和泉市、大阪狭山市、岸和田市の4市。1箇所が岬町、泉南市、貝塚市、高石市との結果でした。人口の多い大都市で、歴史の厚みも持つ堺市が多くなったのは頷けるとしても、泉州の各エリアの発信が控えめだったのが影響しているかもしれません。地名の話を通じて、知られていない歴史や文化の豊かな彩りの一端が共有できたらと思います。