• その13

古くて新しい仕事と地名の話(河内編)【前編】 ―地名との関係、古墳と木綿、ワインの場合― 2022年8月19日

loading

16市2町1村の河内

①道明寺天満宮周辺マップ(道明寺駅前の案内板)

 連載の第5回は大阪市中、第6回は泉州を訪ねて仕事にまつわる地名の話をしました。今回訪ねるのは河内。ひとくちに河内といっても広いです。北から順に、枚方市・交野市・寝屋川市・守口市・門真市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市・藤井寺市・松原市・羽曳野市・大阪狭山市・富田林市・河内長野市の16市、さらに太子町・河南町・千早赤阪村の2町1村が連なって、それぞれに歴史あり。大阪府の東部一帯を占め、あまりに広いので北河内・中河内・南河内の3つに分けて語られることも多い河内は、ひとくくりにできない多様さを抱えたエリアです。
 さて、河内の歴史と地理の網の目から、どんな地名と仕事のイメージがあらわれてくるでしょうか。まずは藤井寺市の道明寺天満宮①を訪ねます。

古墳を造るという仕事

②道明寺天満宮の山門前に土師窯跡の碑、土師氏の起源を記した石板が建つ③境内の一角にひっそりと元宮土師社がある

 最初の話題は古墳です。令和元年(2019)百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されて以来、古墳はブームになりました。百舌鳥エリアは堺市で泉州、古市エリアは藤井寺市と羽曳野市で河内。この一帯は古代の王朝が繁栄と権威を示した地でした。大きい古墳はどれか、どの古墳に誰が埋葬されたのかなど話題は豊富ですが、それらの古墳を造った人々についてはどれだけ知られているでしょう。どこに住み、どんな人たちが造ったのかには、案外と目が向けられていない気がします。
 古墳の築造には最先端の土木技術が必要でした。土師(はじ)氏という技術者集団がいたのです。居住地は、現在の藤井寺市道明寺のあたり。土師氏は菅原道真の先祖にあたる一族で、古墳や埴輪をつくるために朝廷に仕えていました。そのはじまりについて『日本書紀』には、土師氏の始祖にあたる野見宿禰(のみのすくね)が、垂仁天皇の皇后の葬儀に際して埴輪の作成と墓の築造を進言したのがきっかけと記されています。それまで貴人が亡くなると、お付きの人々が殉死といって生き埋めされる風習があったのを、改めようとしたのですね。
 野見宿禰のアイデアは喜ばれ、土部(はじ)の職に任命されました。これが土師氏の名の起こりです。土部の名のとおり埴輪も古墳も土からつくられ、土師氏の名は土に眠る魂に関わる仕事師の証明で、土師氏が住む里は土師郷(はじのごう)と呼ばれるようになりました。そこに土師氏ゆかりの土師社、土師寺も建ちました。今の町名でいうと道明寺が建立地②③です。近鉄南大阪線には土師ノ里駅、道明寺駅があり、以上の出来事はこの2つの駅の周辺で起きたのでした。

道明寺1丁目ミュージアム

④敷地に復元された5世紀の窯跡 ⑤境内に建つ土師里天満宮の碑 ⑥道明寺天満宮の立派な本殿

 話はまだ続きます。時は流れて平安時代。埴輪や古墳を造っていたのは昔の話になり、土師氏は政界に進出し、一族出身の菅原道真が華々しい成功をおさめます。道真が没すると、土師郷に天満宮が建ちました。もとからあった土師寺は道真の号をとって道明寺と改名。天満宮は今、道明寺天満宮の名で知られ、もとの土師社も元宮土師社として境内に鎮座しています④⑤⑥。土師寺だった道明寺も近くに健在で、道明寺天満宮・元宮土師社・道明寺が今でも勢揃いして建つ藤井寺市道明寺1丁目は、埴輪と古墳をつくった仕事師一族とその居住地である土師郷のいわば生きた歴史ミュージアムです。人と仕事、地名の交わりが、こんなに凝縮された場所はなかなかお目にかかれません。
 おまけの話もひとつ。道明寺天満宮の北側には、旧石器時代から中世までの遺物が発掘された国府(こう)遺跡もあります。飛鳥時代の寺院跡も発見され、裁縫技術を持った工人集団の長である衣縫造(いぬいのみやつこ)が建てた衣縫寺の跡とされます。衣を縫う人々の氏寺ですね。道明寺と国府遺跡はおよそ500メートルの近さです。

河内木綿と久宝寺木綿

⑦久宝寺(中央上)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 衣を縫う一族の話が出たところで、次は衣の材料になる綿の登場です。話は江戸時代につながっていきまます。
 キーワードは河内木綿です。河内という広域地名と木綿がくっついた、この呼び名。読者は聞いたことがありますか。かつてそれは、上等の木綿の代名詞でした。綿の衣類はもちろん、きれいな模様を染め上げた綿布団は婚礼用として喜ばれたそうです。
 久宝寺木綿という名称もありました。八尾市の久宝寺⑦が、河内木綿を代表する産地だったのです。久宝寺は聖徳太子建立の久宝寺があったのにちなむ地名で、戦国時代には本願寺門前の寺内町として栄え、江戸時代初期には木綿の生産で有名になりました。旧大和川の長瀬川の水運を利用した綿の流通拡大が、久宝寺木綿の成長と、商業の発展をうながします。流れは波及し、河内の各地で木綿づくりが盛んになり、それらを総称した河内木綿がもてはやされるにつれ、久宝寺木綿もますます名声を高めていきました。
 河内木綿も久宝寺木綿も、地名が物に冠されて広まった名前です。連載第6回泉州編に登場した谷川瓦の話と似ていますが、今回のケースは久宝寺だけでなく河内という広域地名を巻き込んだのが大きな特徴です。
 平和が続き、経済成長が続いた江戸時代の中頃は、それまでとは比べものにならないほど商業が発達しました。商都大阪に隣接する河内はエリアごと、商業隆盛の大波に乗ったといえます。木綿の市場は、久宝寺木綿がリードし、河内木綿が拡大しました。産物が広域地名、地域の地名と次々に結ばれていく時代の躍動です。そんな歴史のステージに綿の花はひらきました。そこで仕事をする人々の意識も変わり、視野も大きく広がったことでしょう。

三宅木綿と中心を持たない河内

⑧三宅(中央上)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 ここで、「そういえばミヤケモメンって、祖父母が言ってた」という声が届きました。国道309号線の三宅(みやけ)インターを降りてきたドライバーの方からです。三宅⑧は松原市の地名ですね。北に大和川、西に近鉄南大阪線の河内松原駅を控え、江戸時代の三宅は河内木綿の産地で、三宅木綿が知られていました。
 三宅と久宝寺木綿の久宝寺との間はおよそ5キロ。お隣さんと呼べる近さで、それぞれのご当地木綿が張り合いつつ、河内木綿のブランドを共有し、共栄したわけです。時代とともに地名と物の関係も流動的かつ複雑になりました。木綿に携わる人たちも、ある時は三宅(久宝寺)、ある時は河内を意識して、日々の仕事と向き合ったことでしょう。
 仕事地名について大阪市(第5回)、堺市(第6回)で述べた話を振り返ると、違いが見えてきます。大きな都市では、職種や産物の名が地名になるケースが目立ちました。都市が生まれる過程で、同じ仕事に携わる商人・職人の集住地に職種や産物にちなむ地名がつけられたのです。
 河内は違います。「広大な農村地帯に根ざしていたこと」「商業の発展にともなう新たな作物の開発が望まれたこと」この2つの条件がはたらいて、大きな中心を持たず、いくつもの有力な地域がそれぞれの発展を持ち寄り、全体として河内の繁栄を築いていった。そんな経緯が河内の仕事地名からは見えてきます。
 三宅という地名はもともと古代の屯倉(みやけ)に由来し、皇族直轄の倉庫、領地の意味でした。古い地名が近世の新産業だった綿と結びつき、綿は昭和の初めに至るまで、三宅の大事な産物であり続けました。綿がすたれたあとも、その織物技術は地域の新産業となった金網製造に継がれていきました。さっきのドライバーの方は、そんな河内の三宅木綿のたどった道のりを祖父母から聞いたのでしょうか。

河内ワインと飛鳥ワインの里で

⑨駒ヶ谷・飛鳥(中央)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 羽曳野市もかつては綿作が盛んでしたが、明治以後はいち早く新分野の開拓に向かいます。八尾市、松原市とは別の道を歩んだわけです。河内はひとまとまりのエリアであると同時に、多様性も抱えています。
 羽曳野市が最初に挑戦したのは、桃の栽培でした。大正期には堅下村(かたしもむら)の堅下ブドウの移植に成功し、昭和10年代にはブドウの名産地として知られるようになりました。堅下村は羽曳野市と同じ南河内の柏原市柏原町の旧地名で、柏原市は羽曳野市と境界を接する街のひとつ。この後に続く話のキーワードはブドウです。
 近鉄南大阪線に乗ると、羽曳野市の駒ヶ谷駅(こまがだに)から上ノ太子駅にかけて、丘に広がるブドウ畑が車窓から見えます。沿線の風物詩です。町名でいうと駒ケ谷、飛鳥⑨のあたり。このふたつの町は、堅下ブドウの移植から100年を経た今、それぞれ河内ワイン、飛鳥ワインで有名になりました。
 河内ワインと飛鳥ワインは、ご当地ワインの呼び名です。ワイン製造の企業名でもあり、ワイナリーやブドウ畑の見学もできる観光スポットの名称としても認知され、話題を広げています。地名が物に冠されて広まったのは、かつての河内木綿と似ていますが、企業活動や町おこしと連結して進んでいる点で、とても現代的です。今には今の流儀が、地名と仕事の結びつき方にもあるというわけです。第6回【泉州編】で訪ねた陶邑(すえむら)とスエムラの話を思い出します。
 駒ケ谷は聖徳太子がここで馬を停めた故事が地名由来といわれ、飛鳥はこの一帯が古くから近つ飛鳥と呼ばれたのを示す地名です。木綿からブドウ、ワインへの変遷も、古代から続く長い時の流れの一幕。そう思うと、沿線のブドウ畑の風景も少し違って見えてくるでしょう。

ブランドネームになった堅下という地名

⑩堅下村(中央)明治18年(1885)大演習枢要地図・中村鐘美堂

 ここで届いたのは「堅下ブドウのその後は?」との疑問の声。柏原市にお住いのブドウ好きさんからです。先ほどの話に出てきた堅下は今どうなっているのか、気になるとのこと。
 ご心配なく。羽曳野市に移植されて河内ワイン、飛鳥ワインを生んだ堅下ブドウは、柏原ブドウとして今は世界に売り出し中! 平成29年(2017)と翌年の2度にわたってアジア最大級の食品見本市「香港フードエキスポ」に出品したのを機に、海外のフルーツショップで柏原ブドウが並ぶようになりました。
 昔をふりかえれば、江戸時代の柏原はやはり河内木綿が名産品でした。ブドウを育てる農家もあったそうですが、堅下村⑩で本格的なブドウ栽培がスタートしたのは、明治初めに甲州ブドウが移植されて以後のこと。そこからの普及がめざましく、昭和初めの一時期はブドウ栽培面積の全国1位を大阪府が占めました。
 ワインも地場産業になりました。大正3年(1914)創業の現存するカタシモワイナリーというワイン製造会社をはじめ、戦前には柏原市内だけで50件以上のワイン醸造所があったとか。現在も柏原市は全国屈指のブドウ産地で、「観光ぶどうセンター」「ぶどう狩園」などの施設も揃って、呼び物になっています。ブドウ栽培、ワインづくりの仕事の苦心がこもった「柏原」「堅下(カタシモ)」の地名はブランドネームに育ちました。

半田木綿から大野ブドウへ、地名は語り部

⑪夏の街角の風物詩・大野ブドウの直売店の一軒、西尾さんのブドウ店

 もうひとつ、河内での「むかし綿作・いまブドウ栽培」の実例を見てみましょう。南河内の大阪狭山市にも半田木綿、大野ブドウの名があります。半田も大野も地元の地名で、地名が産物に冠される命名は、ここまで紹介してきた他の河内の街々と同様です。
 大阪狭山市のブドウは明治後期から栽培がはじまり、土質の良い丘陵地に恵まれたのと発酵肥料の工夫などで、糖度23~24の甘い大野ブドウを生みました。平成21年(2009)には「大阪ミュージアム食生活部門ベストセレクション果物」にも選ばれ、夏には市中各所に幟をたてた直売所が出て街角の風物詩にもなっています⑪。市名より産地名の大野が前に出ているところに地域の頑張りがうかがえます。大野ブドウは地産地消をベースに、ただいま売り出し中です。
 ブドウを例に羽曳野、柏原、大阪狭山の3市を訪ね、地名と物産名の関り方を見てきました。人口は羽曳野市が12万人、柏原市が7万人、大阪狭山市が5万5千人。それぞれの街の規模にあった発展の仕方をしてきたように思います。仕事地名は人の営みの語り部なのですね。

天野産だから天野酒

⑫天野村・天野山(左下)明治18年(1885)大演習枢要地図・中村鐘美堂

 河内には日本酒を名産した街もあります。大阪狭山市の南隣りの河内長野市は、天野酒が名産。天野町(あまのちょう)⑫にある金剛寺の坊舎で醸造されたのが起源とされる天野酒。大阪で最初に酒造りを始めたのは金剛寺といわれ、美酒として名高く、戦国時代には織田信長・豊臣秀吉にも献上されたとのこと。創業300年の老舗をはじめ複数の地元酒造が健在で、それぞれ天野酒として売り出しています。銘柄の名前はそれぞれ別ですが、どれも同じく天野産の天野酒。地名を冠した産物が時代を越えて継がれた例のひとつです。
 金剛寺は行基が創建した古寺で、南北朝期には南朝の後村上天皇が6年間ここで政務を執るなど、歴史の舞台にもなりました。金剛寺の山号も天野山⑫。大阪狭山市と天野をつなぐ道は天野街道で、その名は高野山参詣の道である西高野街道よりも古くからあったとされています。

 【前編】はここまで。古墳の話ではじまったあとは、河内で地名が物産名の上に乗って広まっていく話が続きました。明治以後に河内木綿からの転換をそれぞれのやり方で試みた地域に、地名と仕事の関係のひとつのモデルが見られるように思います。個々の地域をばらばらに見ていると、よくある地場産業の話に思われるかもしれませんが、並べてみると違う景色が浮かんできます。
 地名が産物に冠される例は、大阪市中で見られた物産や職種の名前が地名になっていく現象とは成り立ちが異なります。大阪市中は豊臣時代に生まれた新しい街区が起源で、地名も新たに付けなおすことができたのでしょう。どの地域も古い歴史を持つ河内の地名は、あとから生まれた新しいものの上に乗って生き続けたのでしょう。
 紹介したのは地名との関わりが見える物産、業種だけですので、全体像ではないことをお断りしておきます。藤井寺市では古墳をとりあげ、他の地域と趣の違う話になったのは、このエリアが明治以後もかなり長い間、農村として生きつづけたことと関係があるかもしれません。ひとくちに河内といってもいろいろです。
 ここまで登場したのは河内の中でも南部のエリアの街々です。後編はどんな話が出てくるでしょうか。