• その14

古くて新しい仕事と地名の話(河内編)【後編】 ―地名との関係、織物と星とみくりやの場合― 2022年8月19日

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機織りという仕事、秦者という地名

⑬倉治(中央)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 前編では南河内から中河内にかけてめぐりました。市でいうと、河内長野市・大阪狭山市・藤井寺市・羽曳野市・松原市・柏原市・八尾市。古墳の築造、綿作、ブドウ栽培、ワイン製造と地名にまつわる話をしつつ、古代から中世、近世から近代へと時代もめぐってきました。
 後編の舞台は中河内の残りの地域と北河内です。まずは、北河内の交野(かたの)市の話からはじめましょう。時代は古代に戻ります。交野市は枚方市の南隣りの街で、7世紀の推古天皇の時代には皇族の領地で、早くからひらけた土地でした。街を見下ろす交野山の麓に倉治(くらじ)⑬という町があり、現地の機物神社(はたものじんじゃ)には次の話が伝えられています。
 倉治の昔の呼び名は秦者(はたもの)でした。機物神社の本来の呼び名も秦者社(はたもののやしろ)で、秦者の人々が祀る神社を意味したとのこと。後に、秦者から機物へと文字が変わり、現在の神社名になったというのです。
 秦者とは秦氏という古代の交易商人の名前でした。地名と神社名の変遷の背景には、秦氏が養蚕と布織の技術者集団を連れて大陸から渡来し、交野山麓に住んだという歴史があります。機織りを広めた人々は、交野山を機織りの御神体として祀りました。今でも冬至前後の数日間、交野山の背後に白い光の帯が走り、山を浮き立たせる現象が見られるとのこと。山の自然も機織り仕事の人々を見守ってくれているようです。

「星のまち」を仕事地名として考える

⑭昭和初期の交野沿線案内(個人蔵)。七夕祭り・天の川(天野川)・星田妙見の解説に注目。

 交野山麓の一帯はかつて三宅荘と呼ばれた荘園で、機織りと稲作で発展します。中世以後も交野は、京都と大阪の中間点の交通の要所として存在感を示していきます。
 鐡道開通以後の交野市は北河内の観光地⑭になり、近年は「星のまち」の呼び名でも知られています。交野市のケースには、現代の仕事地名を考えるヒントがあるようです。
 交野市と星の関りは長いです。かつて空海が秘宝を修し、星が降臨したとの伝承を持つ星田妙見宮が古くからの名所で、星田という地名があり、市内を走る京阪交野線の星ヶ丘駅、学研都市線にほしだ駅があり、近くには天野川という七夕を思わせる名の川も。さらに自然公園のほしだ園地には、日本最大級の吊り木橋があり、星空の夜にゆらゆら渡るのにぴったりの「星のブランコ」という愛称がついています。まさに「星のまち」と呼ばれるにふさわしい星づくしです。
 昭和54年(1979)には機物神社の七夕祭が復活し、夏の夜を大いに盛り上げています。機物神社に祀られている天棚機比売(あまのたなばたひめ)は機織りの神なのですが、平安時代に交野が貴族の遊楽地になるにつれ、織姫伝説と結びついて七夕の神として語られるようになったのです。
 「星のまち」は交野市民の間にも浸透しています。
 織姫まつる機物神社
 とは「交野郷土史かるた」の「お」の札の言葉。地元では昭和59年(1984)から毎年1月に、地域色豊かなかるた大会が催され、世代を越えて参加があるそうです。
 機織りから七夕への転換は、今の人々の心もとらえました。
 現在も交野市は北河内屈指の観光地で、交野市星のまち観光協会が情報を発信中。歴史、自然、人々の遊び心の交わるところに生まれた愛称「星のまち」は、観光による町おこしの仕事をしています。愛称は広まれば広まるほど、大きなはたらきをするでしょう。これは現代的な仕事地名のあり方の一例かもしれません。

ひらパーと香里園の場合

⑮ひらパーは昔、ひらかた遊園だった(昭和5年の案内図・個人蔵)

 枚方市は北河内の中でもいちばん北の街。交野市とは境を接し、牽牛を祀る彦星の神社があることから、マスコットキャラクターはひこぼしくんです。交野市は織姫ゆかりの機物神社にちなんで、おりひめちゃんがマスコットキャラクター。天野川がふたつの市をまたいで流れています。枚方市の禁野(きんや)は平安時代の貴族の遊興地だったという点でも、交野市と共通した歴史の背景を持っています。
 枚方市は「ひらパー」の愛称でおなじみの遊園地・枚方パークの所在地です⑮。「星のまち」交野が現代的な仕事地名の一例であるのなら、地名を冠した遊園地も仕事地名のバリエーションなのかもしれません。それはさておき、前身の香里遊園地誕生から1世紀以上の歴史を持つひらパーが、地域の名を広める役目を大いに果たしたのは確かです。
 香里遊園地があったのは寝屋川市で、開園の年に菊人形展も催されました。遊園地が枚方市に移ると、跡地に千葉県成田市成田から交通安全祈願で有名な成田不動尊が勧請されて、成田不動尊大阪別院と呼ばれる新名所が生まれました。
 遊園地開設と成田不動尊勧請を行ったのは京阪電鉄です。成田不動尊大阪別院の建立地の町名も成田で、周辺は成田遺跡の発掘地。枚方市には先述の禁野がかつての遊興地で、それぞれ由来のある土地を選びつつ、沿線に人を呼ぶための事業を展開したわけです。
 地名は名を上げることで、観光という仕事を生みます。枚方市、交野市、寝屋川市の地名をつなぐ沿線の名所めぐりという楽しみをもたらしたのは、電鉄という現代のインフラでした。街の営みと地名の関係は、こうしてさまざまな時代の動きを反映しつつ姿を変えてきたのです。

東大阪市の足代と衣摺

⑯西足代(中央)衣摺(右下)明治18年(1885)大演習枢要地図・中村鐘美堂

 さて、第6回【河内編】もいよいよ大詰め。中河内の東大阪市の登場です。
 東大阪市の人口は約50万人。大阪市、堺市に次ぐ府下3番目の大きな街です。馬場川遺跡、鬼虎川遺跡、西之辻遺跡の埋蔵文化財があり、国史跡の日下貝塚、河内廃寺跡など古い歴史を物語る史跡も多く、さまざまな仕事にまつわる地名も残っています。
 近鉄布施駅前の足代(あじろ)⑯は古くは網代と書いた町名。細く削った竹で編んだ網代笠の産地だったのが地名由来とする説のほか、漁獲のための網代木(あじろぎ)にちなむとする説もあるとのこと。2番目の説は、魚の獲れる水辺があったのを示します。
 衣摺(きずり)⑯は八尾市、平野区との境近くの町名で、かつては染色の職能集団が摺衣(すりごろも)を作っていた地。草木の汁で布に文様を染め出す技術を持った人々が住んでいたのです。江戸時代には綿作、明治初めには撚糸業が盛んでしたが、後に繊維・金属・機械工業が興ります。
 綿作は河内木綿の名で江戸時代の東大阪市エリア各所に広まりました。大和川が付替えられた後は旧川筋の跡地が綿作に適した地になり、河内木綿は地域を代表する産物に成長。明治以後はすたれ、技術力を他の分野に向けていったのは他のエリアの街々と同じです。そんな中で伝統的な製法を受け継ぐ「河内木綿はたおり工房」(東石切町)がかつての風合いを今に伝える活動を行っているのはユニーク。同工房では見学・体験もできるそうです。

枚岡神社ゆかりの水走氏とは

⑰枚岡神社の鳥居をくぐって静かな参道をまっすぐ歩く ⑱枚岡神社の社殿から続く山道は暗峠、生駒山へ

 東大阪市は古い寺社の多い街でもあります。訪ねたのは近鉄奈良線枚岡駅近くの枚岡神社⑰⑱です。河内第1位の神社を意味する河内国一之宮の称号にふさわしく、創建は初代天皇の神武以前にさかのぼると伝えられる古社。社格も官幣大社で最上位。駅前から続く参道は静かで、森の中にたたずむ社殿も風格を漂わせています。東大阪市のかつての有力土豪・水走(みずはい)氏は枚岡神社の神官を輩出した一族であり、社領を守る武士団でもありました。水走氏については東大阪市の仕事地名と深い関係があります。足代、衣摺に続いてとりあげる重要な仕事地名が、今回のトリの話題を提供してくれるでしょう。

地域の歴史と仕事地名、御厨の場合

⑲御厨交差点のすぐ近くに新御厨橋 ⑳御厨行者堂と大峯登山三十三度供養碑

 さて、今回の最後に登場するのは、東大阪市の歴史を彩る地名です。
 近鉄八戸ノ里駅を降りて北へまっすぐ一本道を歩きます。東大阪市文化創造館を通り過ぎると、やがて見えてくる交差点。
 その名は御厨(みくりや)交差点です!
 北側の町名は御厨! 南側は御厨中! 交差点の西には新御厨橋が……!⑲
 御厨とは平安時代の延喜式(えんぎしき)という文書に「大江の御厨」の名で載っていて、皇族に献上する魚貝を得る土地のこと。大江とは、河内国の主な池、河を総称する呼び名。大江の御厨で獲れた淡水魚・水鳥・水草などは船で淀川を上がって京の都に運ばれました。皇室領でもあった大江の御厨を管理し、収穫物を運ぶ役目を担っていたのが先述の水走氏です。
 石切神社の1キロほど西にある町名の水走が、水走氏の出身地。水走のエリアは広く、北部を古水走、南部を町水走と呼び分ける通称名もあるそうです。ドライバーには国道13号線の水走インターのあるところと言った方がわかりやすいかもしれません。
 御厨交差点から少し足を延ばすと、御厨行者堂と昭和9年(1934)に建てられた大峯登山三十三度供養碑があります⑳。御厨では15歳から18歳の男子が8月に先達の引率で大峯登山をする風習があったとのこと。古い地名の御厨に、古い風習が昭和のある時期まで残っていたのがわかります。

天然記念物の木の下で河内の仕事地名を振り返る

㉑東大阪市・御厨の天神社境内、歴史の道・案内板解説文 ㉒御厨の天神社境内に繁る天然記念物の楠

 御厨にある天神社に足をのばしてみました。天神社はかつて御厨神社と呼ばれ、枚岡神社から移築された能舞台があり、村相撲が盛んに行われた場所でもあったと、案内板に記されていました㉑。境内には市の天然記念物の楠が、太い幹に太い枝を張っていました㉒。樹齢900年の巨木です。
 かつて、はたらくということ、仕事をするということは、地域の歴史とつながっていました。現代は場所のイメージが、場所を離れて拡大し、仕事の仕方を変えていく時代です。河内には新旧の仕事地名がそれぞれの顔を見せて、共存しています。河内は古くて新しい。御厨の天神社で、そんなことを思いました。

 第7回仕事地名【河内編】はこれでおしまい。古い話と新しい話が入り混じりながら出てくる、河内の土地柄に包容力を感じました。一方で、大阪市中編、泉州編では触れなかったけれども、今なら語れそうな話題があったことも気づかされました。第5回・第6回そして今回と、仕事に関わる連載を進める中で考えをめぐらせているうちに感じたことです。いつか今はまだ書けなかったことを言葉にして書き添えたいと思います。

 最後に今回の集計報告です。最も登場地名が多かったのは東大阪市で11箇所。2位が交野市9箇所、3位が藤井寺市8箇所、羽曳野市6箇所でした。登場した地名の総数は47箇所です。【河内編】に出てこなかった河内の市町村がいくつかあります。それらの場所にも仕事の営みはもちろんあり、ただ地名と結びつけて紹介できる例が見当たらなかったということなのですが、その理由についてはまだ考えがまとまりません、地名の世界はまだまだわからないことが多いです。
 というわけで、次回は仕事地名【北摂編】です。また、お会いしましょう。